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第二幕:化身との契約

2-3:歪んだ独占欲

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 エンファニオ=アーベ=ベルカスター。

 そう告げ、歌うシュトリカの声を、エンファニオは自室のソファに座りながら聞いていた。どこか悲しげな歌は、恋で死した女性を主題にしたものらしい。そういえば、と朧気な記憶を思い返す。花枯はながらしで歌われるものは、どれもが悲しい歌だ。

 意識の奥底で眠る呪いが落ち着いてくることを感じながら、頬を擦り、紋様の疼きがないか確かめる。浮かび上がる様子も、蠢く様子もない。

 悲しい歌はより、シュトリカの儚さを濃くする。哀愁に満ちた顔立ちが、どこか大人びて見えるからなのかもしれない。

 自室の扉も窓も閉め切っている。ディーンやサミーに、疑われないようにするためだ。花枯らしの歌をなぜまた聞くのか、そう問われれば、念のためとはぐらかせばいいだけなのだが。

 もしかしたら、と頬杖をついて小さく苦笑する。歌声すらも己のものだけにしたいのかもしれないな――そんなことまで考える始末だ。全く、度しがたい。

 浅ましい考えに浸るうちに、シュトリカの歌声が余韻を残して、静かに消えていく。

「……終わりました。ど、どうでしょう、体の具合は……」
「うん、大丈夫だよ。ありがとう、シュトリカ」

 だが、その独占欲すらおくびにも出さず、笑ってみせた。明らかにほっとしたように、シュトリカは胸に手を当てる。歌っていたときとは違い、はにかんで顔をうつむかせている姿は、可憐極まりない。

 時刻は夕暮れ。空には紫がかった雲がたなびいており、この様子だと夜には雨が降るかもしれない。昼のうちに、二人で過ごせてよかったと思う。

 温室での一件の後、ぎこちないながらも二人だけの茶会は平穏に終わった。ありがたいことに、と言えば変だが、シュトリカは怯えた顔を見せなかった。ただ少し、視線を逸らされてしまうくらいで。

「当然だろうけれどね」
「陛下? 何か……」
「いや、なんでもない。君はこれから、何か予定があるのかな?」
「お、お夕飯までは自由にしていいと……なので、本を借りてみようかなと思ってます」
「なんの本を借りようとしていたんだい」       
「処女神フェレネのことを書いてある本を、少し……」
「ああ、ご母堂の形見にはフェレネの紋様が刻まれていたね。それを調べようと?」

 シュトリカはうなずいた。小難しい本が若干多いが、子供向けの本もここにはある。

「私も執務室に戻ろうと思っていたんだ。仕事をしないとディーンにどやされるからね。途中まで、一緒に行こう」

 図書室は執務室の近く、一階にある。エンファニオはソファから立ち、扉を開けた。後ろからついてこようとするシュトリカの方を振り返り、静かに手を差し伸べる。

「……手を貸して、シュトリカ」

 シュトリカの顔が、林檎のように赤くなった。おずおずとフリルに隠れた手を、差し出した手のひらに重ねてくる。逃がさない、その一心で指を絡め、強く握りしめた。

「は、恥ずかしいです、陛下。誰かに見られたら……」
「構わない。睦まじいと思われるだけだろうし」

 ディーンに忠告はされたが、シュトリカを手放す気などこれっぽっちもない。むしろ、周りに仲の良さを見せつけることで、既成事実になるのではないかと思うくらいだ。扉を片手で閉め、シュトリカの歩幅に合わせて歩き出す。

 歩いている途中、何人かの使用人や親衛隊に会った。こちらを見る視線は、どこか優しい。シュトリカのことを、己が見初めた令嬢と誰もが信じて疑わない。シュトリカの穏やかな気性も評判がいいと聞いている。多少、恥じらいすぎる傾向も美徳としか思えない。

「あ、陛下だ。シュトリカ嬢も」

 つい緩んでしまう顔を引き締めたとき、通路の角からコルが現れるのを見た。軽く一礼するだけの飄々とした様子に、思わず苦笑が漏れる。

「やあ、コル。仕事はちゃんとしているかい?」
「してますよ。今日は館の見回りなんです。改めてこんにちは、シュトリカ嬢」
「こ、こんにちは、コル」
「私に挨拶はないのかな?」
「陛下もご機嫌麗しゅう……これでいいですか?」

 同い年だとは思えぬ態度に、隠れてため息をついた。だが、これでもコルは剣技の腕はよく、魔術の扱いにも長けている。ディーンが、シュトリカの護衛として推薦するのも納得できる程度には。

「そういや陛下、執務室でディーン様が待ってますよ。大事な話があるとかで」
「わかった、すぐに向かうことにする」
「シュトリカ嬢は僕がお守りしますから、安心して行ってきて下さい」
「……そうだね。お願いしよう」

 名残惜しいが、シュトリカの手を離す。守れるならば、本当は己の手で彼女を守りたい。だが、獣のような気性が、彼女をまた傷付けてしまうかもしれないという恐れもある。

「シュトリカは図書室に行くようだからね。コル、仕事を放り出さないように」
「了解しました。一緒に行きましょうか、シュトリカ嬢。お供します」
「……はい。よろしくお願いします」

 一瞬だけ、シュトリカが寂しげな表情を浮かべたのは、見間違いではないと思いたい。コルに連れられ、去って行くシュトリカの背中を少し見つめたあと、執務室の方へと向かう。王という顔を作り直し、一人で執務室に入った。

 ディーンは相変わらず険しい顔をしながら、書類の整理をしている。

「ご苦労、ディーン。すまないね、仕事をやらせてしまって」
「そうお思いなら、早速執務に取りかかって頂きたい」
「手厳しいな、全く。ところで、私に何か話があるのでは?」

 ソファで羊皮紙を確認していたディーンはようやく面を上げ、深く眉間の皺を寄せた。

「手紙が来ております。カイルヴェン伯爵、もとい反主流派貴族たちより」
「へえ、カイルヴェン伯爵たちから、ね」
「正確に言えば伯爵が反主流派の筆頭として、まとめて代理の手紙を、でしょうな」
「なるほど、手紙は机に?」

 首を縦に振るディーンを横目に、椅子に腰かけた。机には蝋で封をされた手紙がある。

 手紙を開けてみれば、皮肉もなくエンファニオの体調を心配しているということ、気分がよければ、早々に、簡易的な議会をこの館で開いてほしいことなどが綴られていた。率直で、明け透けがない書き方はあの伯爵らしい、と苦笑が漏れる。

 カイルヴェン伯爵は、反主流派の筆頭として舌戦を繰り広げている相手だ。無論、裏工作もしかけはするが、どちらかというと正々堂々、真っ正面から正論を叩きこんでくる。未だ妻を持たず、子もいない初老の伯爵にとっては、政に精を出すしかないのだろう。

「何が書かれておりましたかな、陛下。カイルヴェン伯爵のことだ、嫌味などはないのでしょうが」
「うん、脅しすらない。伯爵らしい手紙だよ。ただ、私の体調がよければ、とあるけれど、議会をここで開きたがっている連中はあまりにも多いらしい」
「なるほど。やはり先王の抑えが効かなくなって参りましたな。しかしこの館で議会を、とは……大広間は確かにありますが」
「カイルヴェン伯爵もそうだけれど、この避暑地の区画には他にも貴族の館があるからね。こちら側の主力、主流派も集めることは、できる」
「まだ、王都にお戻りになる気はないのでしょう、陛下は」
「ディーンはなんでもお見通しだ。転移の術を使えるか、まだ少し不安があってね」

 手紙を片づけ、考える。ディーンは知らないが、まだ呪いは完全に解けてはいない。あの忌まわしいもう一人の顔――アーベが議会の最中に表に出たなら、それこそ一大事だ。シュトリカがディーンに誹謗ひぼうされるのは、目に見えてわかる。彼女を追い出すことも。

 だが、今のところ、呪いは眠るように鳴りを潜めている。今のままなら、ごまかすこともきっと可能だ。そろそろ王として動くしかないだろう。

「あまり大事にはしたくないけれど、いい加減、私が健在だということを知らしめてもいい。ここで議会を開こう。場所は大広間の円卓で構わないだろうし」
「よろしいのですかな、陛下。準備に一週間ほどかかりますが」
「それで構わないよ。議員全員を呼べる空間ではないから、代表を数人、呼ぶ形で。カイルヴェン伯爵も来るだろう。彼を一時的にでも抑えることができるなら、万々歳だ」
「承知。使用人たちに急ぎ、通達致しましょう。……シュトリカ嬢のことはなんと?」
「離れに隠す。シュトリカには申し訳ないけれど。夕食のときに私から言うよ」
「それがよろしいでしょうな」

 うなずいてペンを取る。万が一、と手紙の返事を書きながら、ほの暗い思考に囚われる。

 どこかの男がシュトリカを見初めたら? そして、その男にシュトリカも惹かれたら。その恐れがシュトリカを離れに隠すことを選ばせた。たった一日と半日で、よくもここまで彼女に執着できるなと思う。

 だが、実際に彼女に囚われたのは春の祭りからだろう。あの花は密やかに、己の手元だけに置いておきたい。歪んだ独占欲だ。わかっている。そんなことは、己が一番よく知っているのだ。しかし偏執的な感情が、留まることを知らずに膨らみ続けている。

 だからこそ、アーベが憎い。彼女を汚した己の半身――呪いの化身を憎み、どこかで羨む醜さを振り切るように、手紙を書くことに専念した。
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