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6.反撃開始

6-4.婚約、指輪、プロポーズ

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 季節は、本格的な夏。ライトアップされた日本庭園が美しい。今、雪生ゆきな広宮ひろみや家近くにある旅館にいた。

 美土里みどり野々宮ののみや専務に叩きつけた証拠が決め手となり、彼は職を辞任することになった。『プロタゴニスタ』に対し、執拗な嫌がらせをしていたのはやはり息子である貴江たかえを、本家の跡継ぎにしたかったからというものだったらしい。

 代わりに、貴江が『グレイス』の社長より野々宮グループの専務になることが決まった。

 ――悔しかっただろうな、野々宮社長。美土里さんと競いたがってたし。

 窓の外の景色を見つつ、雪生は思う。『グレイス』は結局、美土里の傘下になった。コンセプトや名前はそのままだが。勝負ではいいところまでいっていたというから、余計、貴江の悔しさが伝わるようだ。

 名実共に、広宮家の跡を継ぐこととなった美土里も、少し複雑な心境だと知っている。男同士の勝負に入るなんて、と愚痴をぼやいていたから。

 仕事も傘下に収められた『グレイス』の分、倍に増えた。美土里が入れた事務員たちがいなければ、雪生たちもとうに倒れていたかもしれない。それほど忙しくなった。将来、副社長を置く予定だとは聞いている。信頼の置ける人物のようだ。

 原と浅川あさかわの仲は、幸いにもあの事件のおかげで深まったらしい。本格的に付き合いはじめたと聞いたときには、心から喜びを覚えた。

 自分だけではなく、周りの人にも幸せになってほしい。そう願うばかりだ。

「姉さん、いるか? ちょっと話したいんだけど」

 ぼんやり考えていたさなか、氷雨ひさめの声がして我に返る。障子とドアを開ければ、そこには真剣な顔をした弟が立っていた。パーカーとジーンズ姿の氷雨に、雪生はうなずく。中に招き入れ、座椅子に座った氷雨へと茶を入れた。

「緊張してるの? 顔が強張ってるわよ」
「いや、緊張もするって。明日広宮さんちと顔合わせだろ。しかもこんなでっけぇ旅館、修学旅行でも来たことねーわ」
「そうよね、私も少し、緊張してたりするの。美土里さんのご両親には会ったけど……」
「姉さんが遠くの住人になってなくてよかったわー。これで『このくらいのことでビビるなんてお子様だわ、わたくし会長夫人でしてよ』とか言われたら、オレ、立ち直れない」
「何それ。そう簡単に慣れっこないわよ。美土里さんだって、すぐに会長にはなったりしないみたいだもの。それに私は私。変わりないわ」
「そっか。広宮さんにはお世話になったし、一応男として認めてるし。姉さんを任せるにはふさわしい、って理解してるんだけどさ」

 目の前に座った自分を氷雨が、微苦笑を浮かべて見つめてくる。

「やっぱり少し寂しいなって」
「氷雨……」

 たった一人の弟、氷雨の言葉に胸が疼いた。

 今までは二人で協力し、人生を共に歩いてきた。自分はその道から少し、外れる。次に共に行くのは、美土里との新しい第二の人生だ。

「でもそろそろ、オレも姉離れしないといけないんだろうなぁ」
「安心して、氷雨。私はどんなことになっても、あなたの味方をするから」

 力強く言うと、一転して氷雨が笑う。

「それなら父さんの代わりにオレ、広宮さんのこと殴ろうかな」
「いつの時代の話よ。喧嘩はいけません」
「冗談だって。特待生の話だって本格的に持ち上がってるのに、人生棒に振らねーよ」

 氷雨はまた苦笑し、茶をすすった。

 真面目に、立派に育った弟だと雪生は思う。どこに出しても決して恥ずかしくはない、自慢の弟。美土里と付き合っていること、婚約していることなどを含め全てを話した際も、氷雨は慌てず、穏やかに受け止めてくれた。

「……幸せになれよ、姉さん」
「ありがとう、氷雨」
「そんじゃあオレは外、散歩してくる。緊張解いておかないとな」
「気をつけてね」

 おう、と快活な笑みを残し、氷雨は外に出ていった。それからほんの少し経った直後だ、スーツ姿の美土里が部屋に戻ってきたのは。端正な顔が、かなり惚けている。

「お帰りなさい、美土里さん。どうかしましたか?」
「……今、氷雨くんと会ったんだけど」
「ええ」
「……義兄にいさん、って、呼んでくれた」

 美土里の相好が崩れた。心から嬉しそうな面に雪生は驚いたが、胸が熱くなる。

「そうですか、氷雨が……」
「認めてくれたって気がするよ、僕のこと」
「氷雨は全て受け入れて、納得した上でそう呼んだんだと思います。でも……よかった」

 微笑んで、胸元に手を当てる。ありがとう、ともう一度、心の中で氷雨に礼を述べながら。

「雪生くん」
「はい」
「ちょっと立ってくれるかい?」

 真摯な眼差しと顔つきに、言われるがままその場に立ち上がる。美土里がゆっくり近付いて、雪生の側に来るとうやうやしく跪いた。

「み、美土里さん?」
「……みやこ、雪生さん。この僕と、病めるときも健やかなるときも、共に喜びを分かち合い、生涯を共にしていただけますか?」

 胸を高鳴らせた雪生を置き、美土里が懐から取り出したのは指輪のケースだ。蓋が開く。ダイヤを中心にエメラルドを左右に配した、フルオーダーの婚約指輪。

 激しくなる鼓動に身を任せながら、雪生は笑みを深める。

「……いいえ」
「え……」
「喜びだけではなくて、苦しみも。それを私は一生、美土里さんと分かち合いたいです」

 一瞬こわばった美土里の顔が、雪生の言葉によって安堵したものへと変わった。美土里は雪生の左手をとり、そっと指輪をはめる。外からのライトに輝く指輪は、怖いくらいに綺麗だ、と雪生は思った。

「雪生、もう逃がさない。一生かけて、僕の全てで君を愛する」

 跪いたまま、美土里が手の甲や指へ丁寧に口付けしてくる。唇の感触は心地よく、甘い痺れを雪生の背筋にもたらした。

「私も……美土里さんの全てを愛します。私の全部を使って」
「これからもっと幸せになろう。僕と一緒に。誰よりも君を笑顔にさせるよ」
「はい、美土里さん……」

 雪生は愛の言葉にはにかむ。手をとったまま、美土里が立ち上がった。

「もっとこっちにおいで、雪生」

 柔らかい命令が何を意味するのか、もう雪生にはわかっている。つい、時間を確認した。夜の七時過ぎ。食事はもう済ませてある。少し迷ったが、自分を待つ美土里の側へ、寄り添うように近付いた。

 頬を撫でられ、首筋までも愛撫されて吐息が漏れた。優しい感触に頤が上がる。途端、かぶりつくように荒々しく口付けされた。

 貪欲なまでに自分を求められていることが、嬉しい。美土里の全力に応えるように、雪生も唇を押しつけた。触れ合う口同士が熱く、キスだけで心臓が跳ね上がる。

 最初は不埒な命令だった。でも今は違う。身も心も思いも、全てが美土里と一つになった。それが嬉しくて、幸せで、涙がこぼれる。

「苦しい? 雪生」
「大丈夫です……美土里さんのこと、もっと、感じさせて下さい」

 指で涙を拭いてくれる美土里のその手に、頬擦りした。温かい。誰よりも愛しい温もり。離したくない、離れたくないと心の底から感じた。

 手を引かれて寝室の方へと移動する。美土里が買ってくれたドレスは、彼の手によって丁寧に脱がされ、静かな音を立てて落ちた。

 二人、ベッドの上で愛を交わす。たくましい胸板、自分を翻弄する熱や指、唇。どれもが貴重なもののように思え、愛おしくてたまらなかった。思いを一つに、何度愛の言葉を囁きあっただろう。ベッドサイトランプだけが光る寝室で、美土里の微笑みが眩しい。

「ごめん。少し無理をさせたね。どうしても我慢できなくて」
「い、いえ……」

 頭に口づけを落とされ、優しく謝罪されれば、文句なんて出てこない。下着も完全に脱がされ、スーツやシャツと共にベッド近くに散らばっている。

「足りないんだ。僕の愛情全部ぶつけても。だから君に無理をさせてしまうんだろうね」
「美土里さん……」

 切なげな表情に、胸が高鳴る。

 それは自分だって同じだ。気持ちが通じ合っていることに喜びが駆けめぐる。

 どれだけの思いを与えても、美土里からもたらされる愛に応えることができているのか、不安で仕方ない。こうして自分を求めてくれているからこそ、まだわかりやすいのではないか。そうも思う。

「私だって足りてません。その、どうすればいいのかわからないときだって、まだありますし」
「なら、もっと僕を求めて。甘えて頼ってくれないかな。わがままもほしい」
「私、かなりわがままだと思うんですけど……」
「まだまだ足りないよ。遠慮なんてしなくていいんだ。これからはずっとそうしてね」
「……はい」

 美土里の裸体に手を添えながら、微笑んでうなずいた。美土里が額にキスをしてくれ、その甘さに陶酔する。雪生もお返しとばかりに、勇気を出して頬へ口付けした。

「でも、無理に変わろうとしなくていい。僕にだけ甘えて、頼ってくれればそれで充分」

 美土里の言葉はどこまでも優しい。不器用な自分だけれど、それを含めて自分を愛してくれていることがわかる。これ以上なく幸せで、目が熱くなった。

「美土里さんも、私に頼って下さいね。支えたいんです、美土里さんのこと」
「ありがとう、雪生。誰よりも心強いよ。君がいてくれるから、僕は頑張れるんだ」

 外から聞こえる、静かな鹿威ししおどしの音が抱き合う二人の間に浸透する。

 最初は切なく、夢の中で一人抱いた行き場のない思い。けれど今は、現実という場所で二人、身も心も一つになっている。それに多大な喜びと幸せを感じながら、雪生は誰よりも愛しい男の胸板に身を寄せる。

「愛してる、雪生。この世の誰より。君に注ぐ愛は、永久に変わらない」

 真摯な声音はどこまでも情熱的で、思いが同じということもあって嬉しくなる。

「はい……私も美土里さんのこと、ずっと愛し続けます」

 喜びも幸せも共に育み、分かち合いたい。苦しみすら、二人なら乗り越えられるだろう。思いをこめて、唇へキスする。唇から、抱きしめてくれている腕から伝わる温もりは、どこまでも熱かった。

 幸せという名の海に溺れながら、雪生は静かに瞼を閉じる。

 髪を撫でられ、少しずつ眠りへと落ちていく。そこに苦しさは存在せず、春の訪れのような優しいまどろみに身を任せた。

 もう、切ない夢は必要ない。
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