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2.私は社長のなんですか

2-2.幼馴染み、婚約者、必然

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「いらっしゃいませ、『グレイス』へようこそ。はじめてのご来店ですか?」
「はい、はじめてです」

 受付嬢のにこやかな微笑みに、雪生ゆきなもぎこちない笑みを返しながらうなずいてみせた。

 女性用マッサージ店『グレイス』。静かなクラシックが響く店内は豪華さが際立っており、どこか特別感を匂わせる。時折出入りする客は、見る限り年齢が高めだ。『プロタゴニスタ』はどちらかというと若い層に人気がある。客層は被っていない。

「では、こちらの方に、必要事項を記入していただいてもよろしいでしょうか?」
「わかりました」

 受付嬢に言われ、手のひらで指し示された椅子に腰かける。手には渡された書類が数枚。これはどちらの店でも変わらないんだな、と思いながら、ポニーテールにした黒髪をかき上げた。

 『グレイス』に来る客質がわからなくて、結局格好はスーツだ。ちょっとした堅さを出すために、紺色のパンツルックを選んだ。アクセサリーはいつものようにつけていない。

 名前は偽名で、わかりやすい適当なものを書いた。住所や電話番号は正直に記したけれど。アレルギーの有無、妊娠しているかどうか、大抵のチェック項目は『プロタゴニスタ』と変わらない。好きな香りのところに、軽く迷って不明と書いたのは、慣れていない感じを出すためだ。

 書類を書き終え、受付嬢の元へ持っていく。お待ち下さい、そう言われて、また椅子に座る。開放感のある内装に、薄赤を基調とした壁紙がまぶしい。飾られた花も豪奢だ。同じマッサージ店でも『プロタゴニスタ』とはかなり違うことに、内心で驚く。

「小林様。本日、施術を担当させていただきます木場きばと申します」

 受付嬢に見つからないよう、こっそりと辺りを見回していた雪生の前に、一人の女性が現れる。きっちりと結い上げられた茶髪、長い睫に彩られた鳶色の瞳が艶やかな美人だ。化粧も完璧に、丁寧にされていて、華やかさの中に清潔感もあった。

「よ、よろしくお願いします」

 女性の胸プレートに、木場紅子べにこと書かれていたものだから、一瞬慌てた。

 紅子といえば、美土里みどりが口にしていた女性ではないか。まさか自分の胸を疼かせた女性と対面することになるなんて、と自分の不幸を嘆く。

「それではお部屋の方へご案内します。どうぞこちらへ」
「はい」

 簡易なストレートパンツに施術用のジャケットという格好でありながら、紅子の放つ雰囲気は気圧されるに十分なほどだ。かと言って、嫌味がない。背筋もしっかりしており、浮かべている微笑みも美しい。

(……社長とどういう関係なんだろう)

 考えてしまえば、体に力がこもる。いけない、と緊張を解きほぐすように二の腕を擦りながら、案内された部屋に入る。

 『プロタゴニスタ』とは違い、やはり高級感が強い。薄明かりのランプも洒落ている。

「紙ショーツとブラジャーはそちらにご用意しております。用意ができましたら、うつ伏せになってお待ち下さいませ」
「わかりました」

 紅子が一礼し、外に出て行く。早速着替えはじめながら、興味深く室内を見渡した。シャンデリアっぽい飾りや紫の壁紙を見て、やはり年齢層を高めにした作りだと思う。場違いかな、そんな風にも感じたが、今のところ怪しまれている様子はなくて安心した。

 伸ばした腕や足には未だ、美土里がつけたキスの跡がある。赤痣は完全に消えてないようだ。家に帰った後、半身を映せる鏡で確認したが、首筋にも強く吸われた跡が残っていた。

 それが恥ずかしく、夕方にこの店へ訪れたのだが、無駄だったようだ。仕方ない、と諦めて施術用のベッドに寝そべりながら、流れてくるクラシックに耳を傾ける。

(どんなマッサージなのかな……紅子さんがいい、って社長は言ってたけど)

 もしかしたら、マッサージ界隈では有名な人なのかもしれない。とはいえ、美土里との関係性を聞くには、あまりにも自分は中途半端な位置にいる気がした。

 緊張と、若干不安にも似た感覚で体が固まるのを、また自覚する。リラックスして、と美土里の声が脳裏で再生された。無理です、と心の中で反論した。

「小林様、失礼します。準備はできましたか?」
「あ、は、はい。どうぞ」

 ともかく今は、施術のやり方を確認するのが先だ。心を落ち着かせるため、深呼吸する。

「それでは、足の裏からやらせていただきますね。痛かったり、不快だと感じましたら遠慮なくおっしゃって下さい」
「はい、お願いします」

 スモーキーな香りに、甘い果実が混じったような匂いがする。落ち着く香りだ。

 紅子の施術は、驚くほど心地よかった。痛気持ちいい程度の強さで、痒いところにまで手が届くやり方。原にも負けず劣らずの動きは巧みで、いつしか雪生は緊張を忘れ、まどろむ感覚に身を委ねていた。

「いかがでしょう、当店のマッサージは。……みやこさん」
「はい、気持ちいいで」

 す、と語尾を飲みこんだ。一気に目が覚め、上体を起こして振り返る。艶美に微笑む紅子と目が合った。

「ふふ、随分素直なのね」
「どうして私の名前……」
「顔。美土里から写真、見せてもらったことがあるのよ。あなたが婚約者だっていうのも知ってるわ」
「え、ええと」

 突然のことに頭の中が真っ白になる。この紅子という女性、美土里とは一体どんな関わりがあるのか。少なくとも、自分が美土里の婚約者だと知っているのだ。深い関係であることに違いはないだろう。

「その、ここに来たのは、ですね」
「店の偵察でしょ? さ、寝そべってリラックスして。気にしないから、あたし」

 笑みを深める紅子は、自信に溢れている。はあ、とかまあ、とか生返事をし、言われた通り再び寝そべる。正体がバレてしまっては、もうまな板の鯉になるしかない。

 マッサージをする手を休めず、紅子は微かな笑い声を漏らした。

「でも、まさかあなたと会えるなんて思わなかったわ。スタッフが来ると思ってたから。美土里の指示かしらね?」
「一応、秘密ということで……」
「そうしておいてあげる。美土里のお気に入りが来たんですもの、精一杯施術するわね」
「……お気に入りだなんて、そんなことありません」
「でも、婚約者なんでしょう?」

 紅子の疑問に、思わず言葉を詰まらせた。それは嘘です、なんて言えばどうなってしまうかわからない。そもそもなぜ、彼女が自分と美土里の関係を知っているのか、それすら知らないのだから。

「あたしね、美土里と貴江たかえの幼馴染みなの。だから美土里から色々聞いてるってわけ」
「そうなんですか。すみません、何も聞いていなくて、私」

 こんな美人が幼馴染みにいるというのに、何を考えて自分みたいな地味な人間を仮初めの婚約者にしたのか。そんなことを思いながらも、先程の紅子の言葉を怪訝に思った。写真なんて、いつの間に美土里は自分を撮ったのだろう。怖々と聞いてみる。

「あの、写真って言ってましたけど、私の写真、社長が持ってたんですか?」
「……どうやら隠し撮りみたいね。やらしいのよ、美土里って。場所は確か病院かしら。ナースステーションが映ってたわ」
「病院……?」

 病院に通っていたのは、一年半とちょっと前ほどだ。父のいた病棟を思い出す。

 でも、そこで美土里と話したことは一度もない。出会ったのは確実に、それ以降がはじめてだ。こないだ済ませた一周忌に美土里も来てくれたけれど、そんな話題、出たことがない。

「さて、次は仰向けになってくれる? デコルテをやりたいから」

 考えてもわからず、紅子の指示に従い仰向けになる。もうこうなったら、技術を盗ませてもらうだけだ。そう決めるといささか気持ちが晴れやかになる。

「お上手ですね、マッサージ」
「ありがとう。匂いはどう? 嫌じゃないかしら」
「好きな香りです。森林みたいな……でも優しくて、甘くて」
「こっちも『プロタゴニスタ』に負けないよう、必死にアロマ作ってるの。相手は美土里だから、なかなか難しいんだけど」
「木場さんがアロマ、調合してらっしゃるんですか?」
「さて、それはどうかしら。企業秘密ね」

 唇をほころばせる紅子は、どこまでも綺麗だ。美土里と並んだら、きっと映えるだろう。そんな美人に肌を見られていることが、なんとなく恥ずかしかった。

「最初に美土里から、婚約者が決まったって聞いたのには驚いたわ。だって最初、あたしが婚約者になる予定だったんだもの」
「え?」

 唐突に意地悪く、そんなことを言われたものだから一瞬、惚けた。きっと間抜け面を見せているな、と思いながらまたたきを繰り返すばかりだ。

「幼馴染みでもあって婚約者。あたしの家も少し大きいから。必然って言うのかしらね」
「ああ……そうなんですね。なんとなく理解できます」
「それだけ? 本当に?」
「だって、広宮ひろみや家って老舗のお香店ですよね。そういうのもあるのかなって」

 すとんと、何かが心にはまったような感じがした。揺らいでいた思いが休まる感覚だ。紅子は同性の雪生から見ても美人だし、華やかだ。自信に満ち、それだけでオーラがある。きっとこんな人なら、美土里の人生の伴侶として相応しい、そう思う。

 束の間の火遊び、その相手にきっと、美土里は自分を選んだのだろう。金で買われたという言葉がようやく腑に落ちた感じがして、内心で自嘲した。

「でも結局、今はあなたが婚約者になったから話は流れたけど。おかげで貴江とくっつくハメになったわ」
「そ、それはすみません」
「まあ、美土里も捨てがたいのよね。美土里、エスコートが上手いでしょう」
「はあ……」

 デートもしたことないからわかりません、とは言えず、適当に返事をした。紅子は手を休めることなく、唇の端をつり上げる。

「ふーん。今まで美土里が付き合ってた女たちと違うタイプね、あなた」
「……そうですか。木場さんは社長のこと、よく知ってらっしゃるんですね」
「もちろん。長い付き合いだもの。ところであなたは美土里のこと、名前で呼ばないの?」
「公私は分けてるんです」

 するりと嘘が口をついて出た。なんとなく、心に穴が空いた感じがする。名前なんて呼ぶ間柄じゃない。紅子と話していると、嫌でもそのことを自覚させられた。なぜか胃の辺りがムカムカしてどうしようもない。例えようのない感情が、自分の胸を占めている。

(なんでこんな気持ちになるんだろう。馬鹿みたい、本当に)

 目を閉じ、小さく嘆息した。マッサージの技術も手順も、頭に入ってこない。紅子はそれ以上何も言うことなく、施術を続けている。体は心地よいのに気分だけが最悪だ。でも、どうして落ちこむのか、ここにいるのかすらわからなくなってくる。

 施術時間の終わり、それを告げるアラームの音が響くまで、部屋は無言に包まれる。

 また会いましょう、と退室する際に微笑まれたけれど、上手く返せたかわからなかった。
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