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第2章 恋のキューピッド大作戦 〜 Shape of Our Heart 〜
ソフィの極秘調査8
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それから数時間後。公務の終わったソフィアは、自分の部屋で温かい紅茶を飲んでいた。
「ふぅ……、疲れましたわ……」
今日の公務は書類仕事と、外回りが少しだけ。移動はほぼ車のため、体が疲れたというわけではないが、国家の代表として相応の態度と言葉遣いを求められる場に長々と拘束されると、どうしても心のほうが疲弊してしまう。物心ついたころはそうでもなかったのだが、学校を卒業して、立場と責任を自覚してからの公務はやはり違うものがあり、彼女は未だ慣れないものがあった。
「お疲れ様です、姫様。もう少しで夕飯の準備ができるそうですよ。今日は何でしょうかねー。楽しみですねー」
そんなソフィアの気分を変えようと思ったのか、少し戯けた調子でシダレがソフィアに声をかけてきた。
今、部屋にはソフィアとシダレの二人しかいない。ソフィアがそうお願いしたことも理由の一つだが、新たに護衛となったクーガーとミュンヘンは男性であるため、ドアの外での見張りにとどまり、無理に部屋まで入ろうとはしなかった。
「そうね。でも、シダレの食事はわたしとは別でしょう」
「使用人の食事でも実家よりはおいしいですから」
「そうなの? 意外ね。ミヤナギはエイジャでも有数の名家でしょうに」
ソフィアがそう言うと、シダレは途端に苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。
「名家……うーん。外から見れば名家なんでしょうけども、実際にその家で暮らしていた身としては、平時を戦時と勘違いした、かなりお堅~いお家ですよ。食事も質素倹約を通り越して、もしものときに何でも食べられるよう兵糧食とか昆虫食とかそんなんばっかでしたし。はぁ、ハヤト兄が婿養子になったのも、分かるってもんですよ」
「それは……大変でしたね……」
ミヤナギの家柄は特殊とは聞いていたが、想像以上に過酷らしく、ソフィアは同情するしかなかった。
「ですので、使用人のためのごくごく一般的な当たり前の食事でも、私にとってはとてもとても有り難~いものなんです。……あ、もしよろしければ、姫様の残したお夕飯、少々頂いてもよろしいですか?」
「え、や、それはちょっと……」
真面目な顔でそう提案するシダレに、ソフィアは同情を通り越してどん引きした。
そんな雇い主の心情を一瞬で察知したのか、
「――やだなぁ。冗談ですよ」
とシダレは笑って誤魔化そうとするが、どうにも誤魔化し切れていないことが見え見えだった。半ば本気で、残飯を頂こうとしていたのだろう。
「あ―、それはそうと、ところでところで、今日は朝早くから大変でしたね。姫様のお兄様、ご無事で良かったです」
「……そうね」
明らかにシダレは話題をそらそうとしていたが、あまり彼女の故郷の残念な食生活を突いても藪蛇にしかならないと思ったので、ソフィアは話に乗っかることにする。ともあれ、これに関してはシダレの言うとおりだ。命に関わることがなくて、本当に良かった。
「すぐ退院できそうでよかったですね」
「そうね」
「少しタイミングがよすぎる気がしますけどね」
「そう……タイミング?」
思わず頷きそうになったソフィアは、キョトンとしたようシダレに聞き返す。
「あれ、姫様は思いませんでしたか? タイミング良すぎるなーって。私とレイカ姉はそう思ったんですけど」
「タイミングって、何の?」
「姫様のお兄様が、『軍病院に入院した』タイミングがですよ。数日前に、『準備ができました』というメッセージが軍病院に勤めている教授さんから陛下に届いて、今日、ご子息であるお兄様が『軍病院に入院』ですよ。あまりにもタイミングが良すぎませんか?」
「それは――」
それは――、確かに。朝は気が動転していて気が付かなかったが、言われてみればその通りだ。
(まるで、狙って兄様がこのタイミングで入院したみたいな――)
「でも、医師ははっきりと盲腸と……。そんな狙ったタイミングで盲腸なんて起こせるわけ――」
「医師も、お兄様も、『向こう側』だとしたら、どうします?」
その疑問は想定済みだと言わんばかりに、逆にシダレがソフィアに尋ね返してくる。
皇帝である父だけでなく、兄も。さらには教授以外の軍病院の医師も『向こう側』。もしそうだとしたら、例のメッセージは父から兄に伝わっていた可能性もある。そして、『準備ができた』ことを確認した兄が、行動に出た結果が――。
「……仮病、ってこと?」
「もしかしたら、ですけれど」
「……だとすると、兄様は芝居を打ってまで、このタイミングで軍病院に入院する必要があったの?」
「あるいは、入院予定の1.2週間ほどの期間、公務から外れても疑われない理由が欲しかったのかもしれません」
「一体どうして……?」
「それは分かりませんけど。まあ、本当に盲腸の可能性もありますし、少々考えすぎな気がしないでもないですけどねー」
と言って、シダレは苦笑する。
シダレの言う通り考えすぎかもと思うソフィアであったが、そうでない可能性も否定しきれない。
しばらく彼女はこの懸念に思考を巡らせ、やがてソフィアは――レイカやシダレとは違い、家族を、身内を、『向こう側』とは思いたくない彼女は――その可能性に思い至る。
逃亡した幼馴染。人外の回復能力を持つ彼女。帰還の隠蔽されたテラ・マーテル号。壊滅都市ヴェルニカ。生物実験の報告書。『準備ができました』というメッセージ。軍病院に入院した兄。――父ではなく、兄。
「『向こう側』が、兄様の身体を、良からぬことに使おうとしている……?」
それは、傍からすれば被害妄想甚だしいと揶揄される程小さな可能性。しかし、当事者であるソフィアにとっては、思い至った瞬間に拭いきれない不安が全身を襲うほどの可能性。
だから彼女は、その最悪の光景が脳裏に浮かんだ瞬間に行動を始めていた。
「わ、わ、姫様、どうしたんですか?」
急に外出の準備を始めたソフィアを見て、シダレが驚いた声を上げる。
「シダレ、私はこれから軍病院に行きます。あなたも付いてきなさい」
「え、でも、そろそろ夕飯が――」
「夕飯は無しです。ご飯を食べてる暇はありません」
「え、えー!? そんなぁ!」
シダレの悲痛な叫びが響き渡った。
太陽が地平線に沈み、2つの月が夜空を照らす時間帯。帝都中央地区の外れにある軍病院の廊下は、その薄く差し出された光にかろうじて照らし出されていた。
そんな薄暗い誰も居ないはずの空間を、ひっそりと行動する数人の男たちが居た。
彼らは軍病院に設えられた特別病室から、廊下へと音を立てずに忍び出る。先頭の男が扉を開け、続く二人は特別音の出ないストレッチャーを運び出し、最後のひとりがそっと扉を閉めた。その迷いのない一連の行動は、ある種の昆虫の群れを彷彿とさせる。
先頭の男は一足早くエレベータの扉を開け、続いて二人の男が滑り込ませるようにストレッチャーを運び込む。最後の一人が警戒しながらエレベータに入り込み、エレベータの扉が閉まる音とともに、彼らは廊下から姿を消した。
軍病院の廊下が、再び月明かりに薄く照らし出され、あたりは静寂に包まれる。
「……もう大丈夫ですね」
呟くような声がその静寂を切り裂いて、二人の女性が暗がりからスッと現れた。
「すごいわね、シダレ。本当に気づかれませんでしたわ」
「恐縮です。それよりも、あの様子ですと姫様のまさかが、まさかまさかの大当たりみたいですね。急いだほうが良さそうです」
二人の女性――ソフィアとシダレは、隠れるために身につけていたダンボールを脱ぎ捨てると、エレベータの前まで移動する。回数を表す表示は下に向かい、やがて1階を示して止まった。
「1階みたいね。急ぎましょう」
「いや、ちょっと待って下さい」
シダレはそう呟くと、手を筒にしてエレベータの扉に当て、そこに耳を押し当てた。
「――まだモータが動いてます。表示に出ないだけで、更に降りていってますね」
「でもこの病棟に地下は存在しないはず」という台詞がソフィアの口から出かかったが、シダレが人差し指口元に当てていたので、彼女は慌てて口を閉ざす。
「――止まりました。おそらく地下3階くらいの場所ですね。1階に階段があるはずですから、そこを探しましょう」
そう言うと、シダレはやっと扉から耳を離し、階段で1階へと向かう。ソフィアも彼女についていく。
「よく気づきましたね」
「耳が人よりいいですから。それより、どうします?」
「もちろん、連中から兄様を助けますわ」
「そう来ると思いました。眠ったままのお兄様を、あんなこそこそ連れ出したということは、お兄様は『向こう側』ではないですし、連中はほぼ間違いなく『向こう側』でしょう。……ただ、正直、戦闘にはあまり自信ないですよ?」
「え、あの人達、そんなに強いんですの?」
先程、眠っていた兄を病室からストレッチャーで運び出した男たちは皆白衣を着ていた。この軍病院の医師たち相手なら、武芸一流ミヤナギ一族のシダレであればたとえ四人がかりでも何とかなるだろうと、ソフィアはそう思っていたのだ。
「体つきや動き方から察するに、あの人達は傭兵か、下手すると軍人ですね。素人じゃないのは間違いないです。レイカ姉ならともかく、私だと正面からやりあったらちょーとギリギリかなーって感じですね……」
と、そこで二人は1階に到着する。もちろん、地下に続く階段は見当たらない。
「ここで降りた様子もないし、本当に地下に降りたようですわね。さて、どこにあるのかしら……」
そう言って階段を探し始めるソフィアに、シダレが声をかける。
「姫様、ここで引き返しませんか。これ以上は姫様の身が危険です」
「嫌ですわ。兄様を助けます」
珍しく真面目な顔で問いかけるシダレに、ソフィアは迷わず即答した。
二人はしばらくそのまま見つめ合う。
「私の力不足で申し訳ありませんが、姫様の安全が保証できません。引き返すべきです。引き返さないというのであれば、せめて、エマさんの伝言を聞いたレイカ姉やラインハルト君が来るのを待ちましょう」
「待てませんわ。その間に兄様が死ぬかもしれない」
「『姫様が』死ぬかもしれませんよ」
「見殺しにするよりマシです」
「私が行かないかもしれませんよ」
「そう。残念だけど仕方ないわ。私ひとりで行きます」
再び、二人は黙ったまま見つめ合う。
「……どうしても行きますか」
「ええ」
「……はあーーーーー。仕方ないです、付いていきます」
そしてシダレは真面目な顔を崩すと、観念したように盛大なため息をついた。
「ありがとう、シダレ」
「……これもお仕事ですから。別に、わたしひとりで行ってもいいんですけど、姫様をひとりにはできませんし、仕方ないです。ただ、本当に危なくなったら、そのときは姫様を気絶させてでも連れ帰りますからね。ご容赦願いますよ」
「分かったわ。さて、階段を探しましょうか。それらしいのはどこにもないのだけれど……」
と、ソフィアが思案していると、シダレは階段の裏に回り込んで何やら物色を始めた。
「シダレ?」
「普通、建物の構造はどの階もさほど変わりませんから、この辺を探せば……、あ、地下への階段、ありましたよ」
あっさりと地下へ続く階段は見つかった。階段自体は扉で隠されていたが、シダレの言う通り、そこにあってもおかしくない位置に階段は存在していた。
「ナイスですわ。それじゃあ行きましょう」
ソフィアの言葉を合図に、二人は薄暗い階段を降り始めた。
■おまけ
枝垂「あ、姫様。もしものときにレイカ姉が大激怒しないよう、私に非がないこと一筆したためてもらえませんか」
姫「いいわよ。……スラスラ。はいどうぞ」
枝垂「ありがとうございます♡(よし、これでレイカ姉に私がぶっ殺される最悪の事態は回避できた)」
姫「それにしても、この階段よく見つけましたね。もっと厳重に隠されていると思ってましたわ」
枝垂(……あれ? これ、階段見つからないフリをすればよかったのでは?)
■補足
姫様が夕飯抜きで急いで軍病院に行った理由の補足です。
長い上にヤマカン甚だしく、読んでもすこぶる分かりづらいので、本文から削除いたしました。
(読まなくてもまったく問題ないです)
姫様からすると、兄が『向こう側』であることは考えづらいのです。
その理由は、入院したのが父でなく、兄だからです。
姫様は、「組織はトップの命令がないと動けないことが多い」と考えているため、父(『向こう側』の疑い濃厚)と兄が両方向こう側ならば、入院してまで時間を作るのは父の方が適任だと考えます。
でも実際に入院していたのは兄であるため、兄の入院は本当の病気か、あるいは『向こう側』の悪巧みだと考えます(手段としては、ジィが朝食に毒を盛って気を失わせ、あとは医師と口裏を合わせておけば実行可能です)。
『向こう側』の悪巧みとすると、姫様の頭の中にあるのは、レイジーに対して行ってきた実験の数々。その生物実験と兄様入院(拉致)が姫様の脳内で悪魔合体して、入院期間中に兄様の身体を使って何か良からぬ実験を行うのでは! と思いついてしまいました。
思いついたら不安になって、居ても立ってもいられなくなったので、シダレと一緒に軍病院に突撃したという感じです。思い過ごしなら笑い話で済むので、それはそれでいいのです。
シダレは完全にとばっちりです。
「ふぅ……、疲れましたわ……」
今日の公務は書類仕事と、外回りが少しだけ。移動はほぼ車のため、体が疲れたというわけではないが、国家の代表として相応の態度と言葉遣いを求められる場に長々と拘束されると、どうしても心のほうが疲弊してしまう。物心ついたころはそうでもなかったのだが、学校を卒業して、立場と責任を自覚してからの公務はやはり違うものがあり、彼女は未だ慣れないものがあった。
「お疲れ様です、姫様。もう少しで夕飯の準備ができるそうですよ。今日は何でしょうかねー。楽しみですねー」
そんなソフィアの気分を変えようと思ったのか、少し戯けた調子でシダレがソフィアに声をかけてきた。
今、部屋にはソフィアとシダレの二人しかいない。ソフィアがそうお願いしたことも理由の一つだが、新たに護衛となったクーガーとミュンヘンは男性であるため、ドアの外での見張りにとどまり、無理に部屋まで入ろうとはしなかった。
「そうね。でも、シダレの食事はわたしとは別でしょう」
「使用人の食事でも実家よりはおいしいですから」
「そうなの? 意外ね。ミヤナギはエイジャでも有数の名家でしょうに」
ソフィアがそう言うと、シダレは途端に苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。
「名家……うーん。外から見れば名家なんでしょうけども、実際にその家で暮らしていた身としては、平時を戦時と勘違いした、かなりお堅~いお家ですよ。食事も質素倹約を通り越して、もしものときに何でも食べられるよう兵糧食とか昆虫食とかそんなんばっかでしたし。はぁ、ハヤト兄が婿養子になったのも、分かるってもんですよ」
「それは……大変でしたね……」
ミヤナギの家柄は特殊とは聞いていたが、想像以上に過酷らしく、ソフィアは同情するしかなかった。
「ですので、使用人のためのごくごく一般的な当たり前の食事でも、私にとってはとてもとても有り難~いものなんです。……あ、もしよろしければ、姫様の残したお夕飯、少々頂いてもよろしいですか?」
「え、や、それはちょっと……」
真面目な顔でそう提案するシダレに、ソフィアは同情を通り越してどん引きした。
そんな雇い主の心情を一瞬で察知したのか、
「――やだなぁ。冗談ですよ」
とシダレは笑って誤魔化そうとするが、どうにも誤魔化し切れていないことが見え見えだった。半ば本気で、残飯を頂こうとしていたのだろう。
「あ―、それはそうと、ところでところで、今日は朝早くから大変でしたね。姫様のお兄様、ご無事で良かったです」
「……そうね」
明らかにシダレは話題をそらそうとしていたが、あまり彼女の故郷の残念な食生活を突いても藪蛇にしかならないと思ったので、ソフィアは話に乗っかることにする。ともあれ、これに関してはシダレの言うとおりだ。命に関わることがなくて、本当に良かった。
「すぐ退院できそうでよかったですね」
「そうね」
「少しタイミングがよすぎる気がしますけどね」
「そう……タイミング?」
思わず頷きそうになったソフィアは、キョトンとしたようシダレに聞き返す。
「あれ、姫様は思いませんでしたか? タイミング良すぎるなーって。私とレイカ姉はそう思ったんですけど」
「タイミングって、何の?」
「姫様のお兄様が、『軍病院に入院した』タイミングがですよ。数日前に、『準備ができました』というメッセージが軍病院に勤めている教授さんから陛下に届いて、今日、ご子息であるお兄様が『軍病院に入院』ですよ。あまりにもタイミングが良すぎませんか?」
「それは――」
それは――、確かに。朝は気が動転していて気が付かなかったが、言われてみればその通りだ。
(まるで、狙って兄様がこのタイミングで入院したみたいな――)
「でも、医師ははっきりと盲腸と……。そんな狙ったタイミングで盲腸なんて起こせるわけ――」
「医師も、お兄様も、『向こう側』だとしたら、どうします?」
その疑問は想定済みだと言わんばかりに、逆にシダレがソフィアに尋ね返してくる。
皇帝である父だけでなく、兄も。さらには教授以外の軍病院の医師も『向こう側』。もしそうだとしたら、例のメッセージは父から兄に伝わっていた可能性もある。そして、『準備ができた』ことを確認した兄が、行動に出た結果が――。
「……仮病、ってこと?」
「もしかしたら、ですけれど」
「……だとすると、兄様は芝居を打ってまで、このタイミングで軍病院に入院する必要があったの?」
「あるいは、入院予定の1.2週間ほどの期間、公務から外れても疑われない理由が欲しかったのかもしれません」
「一体どうして……?」
「それは分かりませんけど。まあ、本当に盲腸の可能性もありますし、少々考えすぎな気がしないでもないですけどねー」
と言って、シダレは苦笑する。
シダレの言う通り考えすぎかもと思うソフィアであったが、そうでない可能性も否定しきれない。
しばらく彼女はこの懸念に思考を巡らせ、やがてソフィアは――レイカやシダレとは違い、家族を、身内を、『向こう側』とは思いたくない彼女は――その可能性に思い至る。
逃亡した幼馴染。人外の回復能力を持つ彼女。帰還の隠蔽されたテラ・マーテル号。壊滅都市ヴェルニカ。生物実験の報告書。『準備ができました』というメッセージ。軍病院に入院した兄。――父ではなく、兄。
「『向こう側』が、兄様の身体を、良からぬことに使おうとしている……?」
それは、傍からすれば被害妄想甚だしいと揶揄される程小さな可能性。しかし、当事者であるソフィアにとっては、思い至った瞬間に拭いきれない不安が全身を襲うほどの可能性。
だから彼女は、その最悪の光景が脳裏に浮かんだ瞬間に行動を始めていた。
「わ、わ、姫様、どうしたんですか?」
急に外出の準備を始めたソフィアを見て、シダレが驚いた声を上げる。
「シダレ、私はこれから軍病院に行きます。あなたも付いてきなさい」
「え、でも、そろそろ夕飯が――」
「夕飯は無しです。ご飯を食べてる暇はありません」
「え、えー!? そんなぁ!」
シダレの悲痛な叫びが響き渡った。
太陽が地平線に沈み、2つの月が夜空を照らす時間帯。帝都中央地区の外れにある軍病院の廊下は、その薄く差し出された光にかろうじて照らし出されていた。
そんな薄暗い誰も居ないはずの空間を、ひっそりと行動する数人の男たちが居た。
彼らは軍病院に設えられた特別病室から、廊下へと音を立てずに忍び出る。先頭の男が扉を開け、続く二人は特別音の出ないストレッチャーを運び出し、最後のひとりがそっと扉を閉めた。その迷いのない一連の行動は、ある種の昆虫の群れを彷彿とさせる。
先頭の男は一足早くエレベータの扉を開け、続いて二人の男が滑り込ませるようにストレッチャーを運び込む。最後の一人が警戒しながらエレベータに入り込み、エレベータの扉が閉まる音とともに、彼らは廊下から姿を消した。
軍病院の廊下が、再び月明かりに薄く照らし出され、あたりは静寂に包まれる。
「……もう大丈夫ですね」
呟くような声がその静寂を切り裂いて、二人の女性が暗がりからスッと現れた。
「すごいわね、シダレ。本当に気づかれませんでしたわ」
「恐縮です。それよりも、あの様子ですと姫様のまさかが、まさかまさかの大当たりみたいですね。急いだほうが良さそうです」
二人の女性――ソフィアとシダレは、隠れるために身につけていたダンボールを脱ぎ捨てると、エレベータの前まで移動する。回数を表す表示は下に向かい、やがて1階を示して止まった。
「1階みたいね。急ぎましょう」
「いや、ちょっと待って下さい」
シダレはそう呟くと、手を筒にしてエレベータの扉に当て、そこに耳を押し当てた。
「――まだモータが動いてます。表示に出ないだけで、更に降りていってますね」
「でもこの病棟に地下は存在しないはず」という台詞がソフィアの口から出かかったが、シダレが人差し指口元に当てていたので、彼女は慌てて口を閉ざす。
「――止まりました。おそらく地下3階くらいの場所ですね。1階に階段があるはずですから、そこを探しましょう」
そう言うと、シダレはやっと扉から耳を離し、階段で1階へと向かう。ソフィアも彼女についていく。
「よく気づきましたね」
「耳が人よりいいですから。それより、どうします?」
「もちろん、連中から兄様を助けますわ」
「そう来ると思いました。眠ったままのお兄様を、あんなこそこそ連れ出したということは、お兄様は『向こう側』ではないですし、連中はほぼ間違いなく『向こう側』でしょう。……ただ、正直、戦闘にはあまり自信ないですよ?」
「え、あの人達、そんなに強いんですの?」
先程、眠っていた兄を病室からストレッチャーで運び出した男たちは皆白衣を着ていた。この軍病院の医師たち相手なら、武芸一流ミヤナギ一族のシダレであればたとえ四人がかりでも何とかなるだろうと、ソフィアはそう思っていたのだ。
「体つきや動き方から察するに、あの人達は傭兵か、下手すると軍人ですね。素人じゃないのは間違いないです。レイカ姉ならともかく、私だと正面からやりあったらちょーとギリギリかなーって感じですね……」
と、そこで二人は1階に到着する。もちろん、地下に続く階段は見当たらない。
「ここで降りた様子もないし、本当に地下に降りたようですわね。さて、どこにあるのかしら……」
そう言って階段を探し始めるソフィアに、シダレが声をかける。
「姫様、ここで引き返しませんか。これ以上は姫様の身が危険です」
「嫌ですわ。兄様を助けます」
珍しく真面目な顔で問いかけるシダレに、ソフィアは迷わず即答した。
二人はしばらくそのまま見つめ合う。
「私の力不足で申し訳ありませんが、姫様の安全が保証できません。引き返すべきです。引き返さないというのであれば、せめて、エマさんの伝言を聞いたレイカ姉やラインハルト君が来るのを待ちましょう」
「待てませんわ。その間に兄様が死ぬかもしれない」
「『姫様が』死ぬかもしれませんよ」
「見殺しにするよりマシです」
「私が行かないかもしれませんよ」
「そう。残念だけど仕方ないわ。私ひとりで行きます」
再び、二人は黙ったまま見つめ合う。
「……どうしても行きますか」
「ええ」
「……はあーーーーー。仕方ないです、付いていきます」
そしてシダレは真面目な顔を崩すと、観念したように盛大なため息をついた。
「ありがとう、シダレ」
「……これもお仕事ですから。別に、わたしひとりで行ってもいいんですけど、姫様をひとりにはできませんし、仕方ないです。ただ、本当に危なくなったら、そのときは姫様を気絶させてでも連れ帰りますからね。ご容赦願いますよ」
「分かったわ。さて、階段を探しましょうか。それらしいのはどこにもないのだけれど……」
と、ソフィアが思案していると、シダレは階段の裏に回り込んで何やら物色を始めた。
「シダレ?」
「普通、建物の構造はどの階もさほど変わりませんから、この辺を探せば……、あ、地下への階段、ありましたよ」
あっさりと地下へ続く階段は見つかった。階段自体は扉で隠されていたが、シダレの言う通り、そこにあってもおかしくない位置に階段は存在していた。
「ナイスですわ。それじゃあ行きましょう」
ソフィアの言葉を合図に、二人は薄暗い階段を降り始めた。
■おまけ
枝垂「あ、姫様。もしものときにレイカ姉が大激怒しないよう、私に非がないこと一筆したためてもらえませんか」
姫「いいわよ。……スラスラ。はいどうぞ」
枝垂「ありがとうございます♡(よし、これでレイカ姉に私がぶっ殺される最悪の事態は回避できた)」
姫「それにしても、この階段よく見つけましたね。もっと厳重に隠されていると思ってましたわ」
枝垂(……あれ? これ、階段見つからないフリをすればよかったのでは?)
■補足
姫様が夕飯抜きで急いで軍病院に行った理由の補足です。
長い上にヤマカン甚だしく、読んでもすこぶる分かりづらいので、本文から削除いたしました。
(読まなくてもまったく問題ないです)
姫様からすると、兄が『向こう側』であることは考えづらいのです。
その理由は、入院したのが父でなく、兄だからです。
姫様は、「組織はトップの命令がないと動けないことが多い」と考えているため、父(『向こう側』の疑い濃厚)と兄が両方向こう側ならば、入院してまで時間を作るのは父の方が適任だと考えます。
でも実際に入院していたのは兄であるため、兄の入院は本当の病気か、あるいは『向こう側』の悪巧みだと考えます(手段としては、ジィが朝食に毒を盛って気を失わせ、あとは医師と口裏を合わせておけば実行可能です)。
『向こう側』の悪巧みとすると、姫様の頭の中にあるのは、レイジーに対して行ってきた実験の数々。その生物実験と兄様入院(拉致)が姫様の脳内で悪魔合体して、入院期間中に兄様の身体を使って何か良からぬ実験を行うのでは! と思いついてしまいました。
思いついたら不安になって、居ても立ってもいられなくなったので、シダレと一緒に軍病院に突撃したという感じです。思い過ごしなら笑い話で済むので、それはそれでいいのです。
シダレは完全にとばっちりです。
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これは転生貴族アクスが領地経営に奮闘し、大貴族へ成りあがる物語。
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