感覚過敏

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感覚過敏

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 感覚過敏と診断されたのは、つい先日のことだった。


「よく知られた疾病ではないんです。知覚過敏ってご存知ですか? 冷たいモノを飲むと、歯に滲みるっていうアレです。感覚過敏はそれが歯だけではなく、皮膚や眼、耳といった様々な感覚器官で起こるんですよ」

 まさか、と思った。
 冗談はやめて欲しいと思った。
 問題ないと言って欲しかった。
 足元に暗い穴が空いて、そのまま落ちていく気がした。
 耳にはしばらく何も入ってこなかった。

「感覚過敏という言葉通り、感覚を必要以上に過敏に受け取ってしまうことが主な症状です。例えば、健常者が普通の明るさと感じるテレビ画面でも、感覚過敏症の方は眩しすぎて目を背けてしまいます。他にも、服と肌が軽く擦れただけで痛みを感じてしまうので、柔らかい布地の服しか着られない人もいらっしゃいますね」

 分かっていたことだ。
 分かっていた、はずだった。
 前兆があり、疑念を抱き、下調べをして病院に来たのだから、想定していたはずなんだ。

「感覚を処理する部分が、先天的に異常を持つことが原因です。本人しか自覚症状がないので、他人からは非常に分かりづらいんですよ。人に言っても信じてもらえない……というよりは、人と認識がずれているんです。お互いが本心を話しているのに、認識がずれているから理解できない。お互いがお互いに、相手が嘘をついていると思ってしまう。大抵の場合、少数派や立場の弱いもの、常識から遠い方が嘘つきと断定されますね」

 足りなかったのは、覚悟であった。
 優先順位を決める覚悟。
 過去を切り捨てる覚悟。
 そして、自らを省みる覚悟。
 深く考えないままに来てしまったから、こんなにもぐらついてるんだ。

「だから、きちんとしたコミュニケーションが重要です。認識の違いを踏まえた上で、適切なコミュニケーションの取れる。そんな人物が身近にいることが、とても大切なことなのです」

 しっかりしないと。と、呆けた頭に無理やり言い聞かせる。

「分かりましたか? 宮崎さん」
「はい、分かりました」

 大丈夫。
 私は、大丈夫。


 いつも通りに、家を出ようと思った。
 スーツを纏い、メタルフレームの眼鏡をかけ、スマートフォンを胸ポケットにしまう。少し大きめのバッグを肩に提げ、腕時計を確認し玄関を開ける。

「行ってきます」

 玄関に響くのは、一人分の声。いつもは息子のさとしと一緒に家を出るが、今日は祖父母の家に置いて来ていた。休日のため、保育園には連れていけない。

 さとしは今月四歳になったばかりの手の掛かる一人息子だ。もっと幼いころは酷くやんちゃだったが、最近は少し大人しくなってきている。つい昨日まで、さとしと一緒に慌ただしい朝を迎えていたはずなのに、それがまるで遠い過去のように感じられて、少しだけ寂しくなる。

 いけない、いけない。しっかりしなきゃ、いけないんだ。
 不安を振り払うように頭を振る。ついこの間、決めたことだ。
 しっかりしないと。
 私は、大丈夫。

 ずれた眼鏡をきちんと正して、私は外へ出る。週末の日曜日。現在の時刻、午前十時。私こと宮崎藤子の、最後の出社である。
 優先順位は決めた。会社を辞める覚悟もできた。あとは、自らを省みるだけだ。
 深く息を吸って、長く息を吐く。早鐘を打つ心臓を深呼吸で抑えこみ、私は駅へと向かった。


 駅までの道に、特に変わったものはなかった。
 感覚過敏と診断されてから一週間。私は道すがら違和感を感じるものがないか観察するようになっていた。医者の話によると、何を過敏に感じるかは本人でないと分からないらしい。個人差の影響が大きく、過敏の原因も嫌悪に感じる度合いもバラバラだという。だからこそ、何に対して嫌悪感を抱くか自覚することが重要であり、必要不可欠なのだ。駄目なモノがわかっていれば回避できるし対策も打てる。そういう意味で、日常における周囲の観察が何よりも重要であるらしい。

 何もなかったことに安堵して、私は駅へと入る。地下へと下り、天井から下がった時計を確認する。電車が来るまで、あと五分。特にすることもなかったので、私は自然、ホームドアの列に並ぶ。普段は短いと感じるこの時間が、今日はひどく長く感じられた。

(ほいくえん、いきたくない)

 ふと、さとしの声が聞こえた気がした。振り返っても、当然息子の姿はない。印象に残っていたから思い出してしまったのだろう。
 最近、さとしは幼稚園に行きたくないと駄々をこねるようになった。大声で泣くようなことはなかったが、グズってその場から動こうとしないのだ。

(もう、言うこと聞かないなら置いてくからね!)

 自分の言葉が耳に痛い。仕事のストレスも、女手ひとつで子育てするストレスも言い訳にならないが、あのときの自分に酷く余裕がなかったことだけは、はっきりと分かる。

 メタルフレームの冷たい感触に触れる。病院に行って良かったと、心の底から思えた。

「まもなく、1番線に電車が参ります……」

 注意を促す電子音の後に、心地良い女性の声が響く。迫り来る電車の圧力に空気が軋み、軽い風を感じる。
 

 異変は、急に来た。


「ッ……」

 頭を抑えて、耐えるように眼鏡を支える。ホームに滑りこむ電車に呼応するように、酷い痛みが幾度となく頭に走る。立っていられないほどの一際大きな痛みが走り、思わずその場に座り込んでしまった。

「大丈夫ですか?」

 心配してのことだろう、後ろに並んでいた男性が慌てたように話しかけてくる。

「……ええ、大丈夫です」

 眼鏡を外して立ち上がり、手を横に振りながら答える。

「少し休めば、良くなりますので……」

 私は近くにあったベンチまで頭を抑えながら歩いて行き、もたれかかるように座りこむ。少しだけ痛みが和らいだ。顔をあげると、ドアが今にも閉まりそうだった。この電車には乗れそうもない。さっきの男性は、未だ気掛かりな視線をこちらに送っている。善意の気遣いが有難いと、私は思った。

 不協和音を奏でながら電車は闇の中へ消えていった。それを確認した後、私は顔を手で覆い、俯く。痛みは既に無かったが、涙が溢れて止まらなかった。罪悪感と不安感が槍となって記憶を貫く。覚悟はしていたが、準備はしていたが、耐えられるものではなかった。しばらく、私はそこから動けなかった。

 五分くらい経っただろうか。トイレに行って体制を立て直す。化粧を直して眼鏡をかけて、私は次の電車に乗った。今回は頭が痛くなることはなかった。涙を流してすっきりしたせいだと思った。

 三つ先の駅で降車する。エスカレータを上がり、改札を出た。一瞬、静電気のような痛みが走ったが、周囲を見回しても特に気になる物はなかった。道を歩く人々が、特に何かに気づいた様子もない。不安感が、へばり付いて取れないガムのように、私の心の奥に残っただけだった。


 まずは会社に向かう。まだ少しオフィスに荷物が残っていたから、それを取りに行くのだ。守衛さんに声をかけてゲスト用のパスを貰い、オフィスへと向かう。自分のパスはもう返却していたので、これがないと扉は開かない。

 通路を抜けて、オフィス内を通り、ロッカールームに向かう。休日のオフィスには誰もいなかった。他の社員に会いたくなかったので都合が良い。

 自分のロッカーに入っていたブラウスや小物をバッグに詰める。大きめのモノを持ってきていたので、問題なくそれらは収まった。

「さてと……」
と呟いて、オフィスへと出る。

 これでもう、私がここに来ることはない。薄暗い空間を軽く見渡す。とても綺麗な机が目についた。自分の机だ。いや、正確には自分が使っていた机だ。もう私の机ではない。

 無意識に近づいて、手を乗せる。私が使っていた面影は少しも感じられなかった。懐かしいような、珍しいような、どこか不思議な感じ。ふと、誰もいない学校の教室を思い出す。景色はどこも一致しないが、なぜだかとても似ているなと思った。

 念のため、抽斗ひきだしを開けてなにも入っていないことを確認していると、通路に続く扉が音を立てて開いた。

「あれ、藤子ちゃんじゃない。どうしたの?」

 そこには、上司の櫻井が立っていた。

「ええ、ちょっと忘れ物を取りに……」

 最悪だ、と私は思った。
 よりにもよって、今、一番会いたくない奴が最悪のタイミングで出社してきやがった。

「ああ、そうなの。気をつけてね。引越したら、忘れ物を取りにちょっと会社までって訳には行かなくなるからね」

 そんなこと、あなたに言われなくても分かっている。櫻井は乾いた声で笑い、こちらへと近づいて来た。

「すいません。すぐに帰りますので」

 そそくさと立ち去ろうとするが「え、何? もう帰っちゃうの。……あれ、藤子ちゃん、眼鏡かけてたっけ?」立ちはだかるようにして櫻井はやんわりと私を止める。ああ、邪魔だ。それに、なぜ帰ろうとする人間に質問するのか。意味が分からない。

「最近からです。それでは」
「確か、引越し先、九州だったよね」
「……そうですけど」

 わざとぶっきらぼうに返事したのにも関わらず、櫻井はなおも会話を続ける。無視するわけにもいかないので、会話が続いてしまった。
 櫻井はいつもわざとかと思うくらい空気を読まない。会話するのに気苦労するし、愛想笑いも愛想と気づかず、そのまま調子に乗って話が続く。一言で言うと面倒くさい上司だ。解放されるまで時間がかかりそうで、私は内心ため息をついた。。

「そうかー。いや、良いね、九州。博多ラーメン、チキン南蛮、焼き豚足と、美味いモノにはこと欠かないからねー」

 内心で舌打ちしながら、はあそうですねと適当に私は同調する。お前の好物とかどうでもいいから。

「ああ、そうそう。君は旦那の元に行くんだよね、単身赴任先の」
「ええ、まぁ……」

 話はまだ続く。

「うん、やっぱり、そのほうがいいと思うな。いやー、前から思ってたんだよね。子育てしながら仕事をするのは大変そうだなって。この前も急に保育園から呼び出されてたでしょ? そうなると、どうしても行かなくちゃならないからね」

 サァっと、私の顔が熱くなる。

「すいません。その節はご迷惑をお掛けしました」
「ああ、いや、別に謝って欲しいわけじゃなくてね。ただ、これからは仕事を気にせず迎えに行けるわけでしょ? そういう意味で、良かったねって言いたくてね。前々から思ってたけど、家族というのは一緒に住まないと駄目なんだよね。これできっと、旦那さんも安心するだろう。仕事にもいっそう力が入るってもんだ。はっはっは」

 はっはっは、じゃねえよ、うるさいな。
 目の前の男は私の心情もお構いなしに、ここぞとばかりに喋り散らす。適当に同調しているが、それはできるだけ話を短く済ませたいからだ。

 本当なら、仕事を続けたい。
 長年住んだこの場所から離れたくない。
 旦那の単身赴任は、無理なく折り合いがついたからだ。

 唯一の想定外は病気だけ。
 それについても、私はもう優先順位を決めたんだ。

 だから、仕事を切り捨てる。
 切り捨てるが、仕事はやめるが、旦那のもとに引越すが、お前の意見を聞いた覚えはないし、お前の賛同を乞うた覚えもない。結果的にそうなったからといって調子に乗るな。上げた口角を維持するのだって体力を遣うんだ。ああ、もう帰りたい。
 
 そのとき突然、視界が眩んだ。

(なんだ……?)

 僅かに陰り、暗転する視界。
 伴って現れる、微かな不快感。
 視界が揺れる。画面が揺れる。
 コントラストが、気持ち悪い。
 思わず私は、机に手を突いて、体重を預ける。

「……? 藤子君、大丈夫かね。顔色が悪いよ」

 乗り物に酔った気分だった。

「すいません、ちょっと気分が優れないみたいで……。多分、引越しの疲れが出たんだと思います。失礼します」

 早口にそう言うと、私は櫻井の返事も待たずにオフィスを出た。鬱屈した通路を抜けて外に出る。守衛室の前にあるベンチにもたれるように体を預け、私は眼鏡を外す。深呼吸して、気分が落ち着くのを待った。

(これも、感覚過敏か……)

 痛みはないが、気持ち悪く、ただただ不快。あまりにも不快。
 まるで、櫻井と永久に会話しているようだった。いや、話が通じないぶん、櫻井より質が悪い。こうなるともう、笑うしかない。

「大丈夫かい?」

 後ろから声がかけられた。男性の声だった。守衛さんかなと思って、パスを返していないことに気づいた。

「すいません。パスを返すの、忘れていました」

 そう言いながら振り返ると、櫻井が私のバッグを持って立っていた。

「藤子ちゃん、バッグを忘れてるよ」

 櫻井は何も知らずに笑い、私の肩に手を置いた。


 なんとか気分を持ち直して、次に私は会社から徒歩5分の場所にある保育園へと向かう。さとしの退所届を提出するためだ。道路を二回曲がり、高架下をくぐり、コンビニの側を通るともう見えてくる。遊具のある小さな庭を抜け、玄関へと進む。

 と、そこで私は気づいた。ブーウゥンという変な音がする。小さいが、気のせいではない。多少耳障りであるが、耳を塞ぐほどの大きさではなかった。

「あ、こんにちはー」

 昇降口で靴を履き替えていると、職員室の扉が開き保育士さんが笑顔を見せた。

「……こんにちは。あの、退所届の提出に来たんですが……」
「ああ、話は伺ってます。えっと、宮崎さんですね。さとしくんの退園ですね。転園じゃなくて、大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」

 私は保育士に退所届を渡す。

「はい、お預かりします。寂しくなっちゃいますねぇ。本当に。さとしくん、あまり昼寝しない子だったから良く覚えてますよ。えっと、……あ、お引越しなさるんですね。どちらへ?」

 退所届の理由欄を見た保育士が尋ねてくる。向こうは何気ない世間話のつもりなのかもしれないが、その何気なさが癇に障った。少し試してみることにする。

「九州の方に。あの、何か変な音聞こえませんか?」
「え、変な音?」

 保育士は辺りをきょろきょろ見回す。まだあの音は、私にははっきりと聞こえる。

「いや、特に何も……」
「……そうですか。じゃあきっと私の気のせいですね」

 精一杯の作り笑いを浮かべて、私は言った。
 表情には出さないが、とても腹が立ち、同じくらい悲しくなった。
 他人には聞こえない音が聞こえる。
 他人には認識できないものが認識できる。
 ひとりぼっちの、孤独な世界。
 伝えたくても、伝わらない。
 言葉にしても、嘘付きと呼ばれる。
 そんな世界を、これから生きていかねばならない。

 だから私は、旦那のもとに引っ越すと決めた。コミュニケーションには、それがきっと、最善だと思ったから。

 私は手早く挨拶を済ませて、保育園を後にした。
 次に私は大学病院に向かう。そこが本日最後の目的地だ。


 大学病院の前でバスから降車する。他に数人がバスから降りた。彼らは受付を済ませるため目の前の大きな建物に入っていく。そんな彼らを尻目に、私は敷地の奥にある研究棟へと進む。入り口は電子ロックされていた。壁に設置されたインターフォンに番号を入力し、四階の部屋の主を呼び出して、ロックを解除してもらう。

 研究棟の入り口から四階まで誰とも出会わなかった。廊下の先は薄暗かったが、私の進みに合わせて自動で灯りが点き、道を照らしてくれた。

 目的の部屋の前に私は立つ。《国芳研究室》というプレートが、扉の上に貼りついていた。ノックする。

「はい、どうぞ」

 低いが聞き取りやすい声が返ってくる。失礼しますと言って、私は部屋に入った。

「どうも、こんにちは宮崎さん。今日は、さとしくんは一緒じゃないんですね」

 部屋の奥に白髪の交じり始めた男性が座っていた。机にはノートPCが一台と、大量に積まれた紙束があった。彼は立ち上がるとこちらへと移動し、無表情のまま応接用と思しき革張りのソファを勧めてくる。

「ええ。今日は祖父母のところに預けています」

 促されるまま私は椅子に座り、男性も座卓を挟んた向かいのソファに座った。

「あの、これ、ありがとうございました」

 私は身につけていた眼鏡とスマートフォンに腕時計、それに耳の中に入れていた小型のスピーカを座卓の上に置く。

「ああ、いえ、こちらこそありがとうございました。実験の協力に感謝します」

 目の前の男性――国芳教授は、礼を言ってそれらを自分の手元に寄せた。

「それで、どうでしたか? 私どもとしては、この体験で少しでも息子さんのことが、息子さんの持つ感覚過敏がどのようなものか、分かって頂けたら幸いなんですが」

 国芳教授は無表情のまま訊いて来た。

「はい、それはもう。十分に、とは言えませんが、存分に体験できたと思います。特に感覚過敏は予想以上に予測できないことが良く分かりました」
「それは何よりです」

 目の前の男性はようやく笑みを浮かべた。深いシワの刻まれた、とても優しい笑顔だった。


 先日、息子のさとしが感覚過敏と診断された。
 

 ひと通りの説明を受けた後、私はこの国芳研究室を紹介された。ここでは感覚過敏について研究しており、特にその社会的認知にも力を入れている。その研究の一環として、今まで取得した感覚過敏のデータから、一般人にも感覚過敏症を体験できるシステムを開発していた。

 そのシステムはまだ開発段階であったが、少しでもさとしの気持が知りたくて、少しでもさとしと感覚を共有したくて、私は実験協力という形で感覚過敏を体験させてもらうことにした。

「少しですが、さとしの気持がわかったような気がします。あの子がどこで痛みを感じて、どこで他人に聞こえない音が聞こえるのか。そして、そのことが分かってもらえなくて、どれだけ孤独に感じているか。少しですけど、それが分かった気がします」
「そうですか。それは良かった。これ、痛くありませんでした? 一応、安全なはずなんですが……」

 教授はそう言って眼鏡を取り上げた。メタルフレームでできたそれは、こめかみのところだけ少し膨らんでいる。感覚過敏を誘発する原因をスマフォのカメラかマイク、もしくは腕時計に搭載されたセンサが拾ったときに、ここから電流が流れて軽い刺激を与えるのだ。場合によっては、スピーカから感覚過敏者が聞こえるであろう不快音が出ることもある。

「うーん、酷いときは、立ってられないくらい痛くなりました」
「……それはまずいですね。もう少し、出力を抑えるようにしなければ」
「え、抑えるんですか? 実際はそれぐらい痛いんですよね?」
「そうですね。感覚過敏症の方がこれぐらいだと出力を決めてますから。でも、この痛みのせいで体験をした人がトラブルに見舞われても問題です。体験はあくまで体験ですから」

 国芳教授はアンケート用紙を差し出す。

「これに記入をお願いします。謝礼の方は来月までに銀行へ振り込んでおきますので」
「はい、分かりました」

 アンケート用紙にはさっき教授が訊いてきたことの他、数多くの質問が書いてあった。つらつらとそれを埋めながら私は考える。

 どれだけ私はあの子を分かっていなかったのだろう。
 それが、あの子をどれほど苦しめたのだろう。
 私は、大丈夫。大丈夫であることが自覚できる。
 けれど、息子はーーさとしは大丈夫かどうか分からない。私が大丈夫でも、あの子が大丈夫かどうかは、あの子自身にしか分からない。

《認識の違いを踏まえた上で、適切なコミュニケーションの取れる。そんな人物が身近にいることが、とても大切なことなのです》

 先生に言われたことを思い出す。認識もコミュニケーションも、そのどちらも、私はできていなかった。
 地下鉄で、さとしは保育園に行きたくないと言った。仕事で忙しくて構ってやれないから、父親が身近にいないから、我儘を言っているのだと思った。そう決めつけて、知らなかったとはいえ、私と同じ認識だと思ったから、私はろくに息子の話を聞こうとしなかった。

 保育園に行きたくなかったのは、立っていられないほど頭が痛かったからだろうか。
 保育園で眠れなかったのは、眠りを妨げるような音がしたからだろうか。

 最初は信じたのだ。「頭が痛い」も「音がする」も信じたのだ。でも、保育園から呼び出しや注意を受けることが多くなるうちに、信じられなくなってしまった。「注意しても、先生の話を聞かない」「昼寝の時間に、変な音が聴こえて眠れないと言う」。そういったことを、電話越しや迎えに行った際に繰返し言われた。夫が出張中で、私も仕事のため寂しい思いをさせているから、気を引こうとしてそんな嘘を付いているのだと思った。

 そう思ってしまった。
 母親の私が、さとしを嘘つきにしたのだ。 
 だから私は、優先順位を決めた。
 仕事より息子のことを優先に考えた。
 自然、仕事はやめることになり、私たちは九州にいる夫のところに引越すことになった。

「はい、書けました」

 私は教授にアンケートを渡す。

「ありがとうございます。これで、実験は以上です」
「はい」
「もし、また何かありましたら、いつでも連絡して下さい。もちろん、実験協力の連絡でも構いません」
「分かりました。でも、しばらくは無理ですね。引越と、さとしの世話と、やることは一杯ありますから」

 そう、仕事がなくなったとはいえ、やることは沢山ある。
 認識の違いは理解した。少なくとも、理解したとは思う。
 だから次はコミュニケーションだ。あの子が何を感じて、何を喜ぶか。または、何を意識して、何を苦しむか。
 それは、今までの知識では分からない。ドラマを見ても分からないし、本にも書かれていない。分からないから、知らなければいけない。

 さとしといっぱい話そう。さとしといっぱい、同じところに行こう。
 それがきっと、今一番、大切なことなんだ。

「分かりました。さとしくんに、よろしくお伝え下さい。道中、お気をつけて」

 国芳教授はそう言ってニコリと笑う。額に刻まれた大きなシワが、これまでの苦労を物語っているようだった。

「はい。親身になって相談していただき、本当にありがとうございました」

 私は深々と頭を下げて、研究室を後にする。暗い廊下を抜けて研究棟の出口まで行く。扉は自然に開いた。先生が開けておいてくれたのだろう。外は眩しい光に包まれている。眼鏡を外したせいだろうか、いつもより視界はクリアになっていた。
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