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折れて別れて
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夏が過ぎ、秋を迎えようとしていた。あれから俺は今まで以上に話術を磨いて彼女を楽しませている。彼女の笑顔はやっぱり素敵だ。その笑顔を見ているだけで屋根から突き抜けるほどに俺は幸せだった。
あの気まずさを感じて以来、彼女の口から「触れたい」という言葉が出たことはない。それを匂わせることも言ってこないし、話題がそうなりそうなら露骨すぎないほどにしれっと話題を変えてくる。極力そのワードに触れないように気をつけているようだった。
だから、俺もその話題は避けている。今の所、彼女は幸せそうだし、俺と別れようという素振りもない。
だからきっと、それでいいのだ。
ある秋の日。いつものように柱ちゃんとラブトークをしていた俺は、コツコツと柱の表面を叩かれるのを感じた。最初は無視していたのだが、だんだんとその音は大きくなり、痛みを感じるほど激しくなってきた。これ以上無視するわけにもいかなくなったので、俺は柱ちゃんに断りを入れて外を見る。
「俺と柱ちゃんの神聖な時間を邪魔する奴は誰だゴラァ!」
「あ、柱の旦那。やっと気づいてくれましたね」
スズメがいた。しかも、ただのスズメではなかった。俺が見間違えるはずがない。こいつは俺の周りにクソ結界を構築した、あの憎きクソスズメである。
「貴様。何のようだ?」
「ありゃ、旦那、虫の居所が悪いんで? 恋も実って、最近は非常に調子がよいとお聞きしましたぜ?」
「貴様、俺に何したか覚えて――って。え? 誰からその話聞いたの?」
「向こうの梁にちょいと止まらせてもらったときに、その梁からお聞きしたんですわ」
梁って、左柱の恋人の梁ちゃんか。左柱経由で伝わったんだな。まったく、もう。プライベートも何もあったもんじゃねえぜ。
「で、意中の相手を射止めてウハウハの旦那。次お米干すのはいつですかね。あっし、あの白い大地に飛び込みたくて飛び込みたくて堪んねえんですわ」
スズメはだらだらとよだれを垂らしながらそう言った。
そうか、それが目的でこいつは俺を小突いたのか。
「いや、俺は知らねえよ。あれ以来この場所では全然干してないし、もう虫が湧かなくなったんじゃないの?」
「えー、そんなぁ! あっし、もう、あれがないと生きていけない身体になっちまったんですよー!?」
そう言って、スズメはギャースカ喚く。
まったく、それこそ知らんがな。
これ以上スズメに関わるのは嫌なのだが、このまま喚かれ続けても迷惑だ。神聖なラブトークに支障をきたすこと間違いない。どうにかどこかに行ってもらわないと――。
と、そんなことを考えていたせいか、俺は気づくのが遅れた。
白い車が、猛スピードでこちらに迫っていることに。
思わず俺は叫んだ。
「おい、スズメ! 逃げろ!!」
「え? 旦那、急にどうし――ってまじかよ!!」
そう言ってスズメは飛び立った。
けれど、俺は逃げられない。
「あ」
と思う間もなく、目の前に車は迫ってきて――。
そこで、俺の意識は途切れた。
気がついたら、俺は柱ちゃんを見上げていた。
「柱くん! 柱くん!!」
彼女は必死になって俺を呼んでいた。
「柱ちゃん……? どうしてそこに?」
「柱くん!? よかった、意識が戻ったのね……!!」
「意識……? あれ、ここは……?」
いつもと明らかに違う視点に、俺は驚きを隠せなかった。
目の前にはひしゃげた金属の塊。漆喰や砂埃が部屋に散らばり、ありえない場所から空が覗いていた。
「あ……」
そして、俺は気づいた。
自分の半身がへし折れて、車に下敷きになっていることに。
「そうか、車がぶつかって俺は……」
俺は、折れて、千切れて、飛ばされたんだ。
彼女の立っているこの場所まで飛ばされて、俺は今、彼女にもたれかかるようにして横たわっているのだ。
「柱ちゃん……俺、折れちゃったみたいだね……」
「大丈夫。きっと、大丈夫だから。すぐ、元通りにくっつくから……」
彼女はずっと泣きそうな声だった。
割れだったり傷だったり、簡単な損傷なら問題なく柱は修復できる。でもさすがにこれは無理だろう。彼女はずっと「大丈夫だから」と繰り返していたけれど、それでもずっと泣きそうなのは、彼女もきっとそれを分かっていたからだ。
だんだんと、視界が白くなっていく。彼女に呼び止められて一旦は意識が戻ったみたいだが、どうやらそれも限界らしい。身体が折れて、千切れてしまったんだ。間違いなく、俺はもう助からないだろう。
不思議と、心は落ち着いていた。
不謹慎だと思いつつも、泣きそうな彼女がとても可愛く見えた。
「あ」
と、そこで俺は気づく。彼女の木目に、今までなかった傷ができていたのだ。
「もしかして、俺が飛ばされたときに……?」
「……こんなの、大したことないよ」
「ごめんね。せっかくの木目に――」
「大したことないってば!」
彼女は叫んだ。彼女がこんなに大きな声を出したのはこれが初めてかもしれない。最後の最後に、彼女の新しい一面を知れて少し嬉しくなった。
「どうして笑ってるの?」
半泣きの彼女はそう尋ねた。
「……やっと、柱ちゃんに触れ合えたから、嬉しくなったんだ」
それは、誤魔化しと本音が混ざった答えだった。
「……違う、違うの。私は、こんな形で、君と触れ合いたかったわけじゃないの……」
とうとう耐えきれなくて、彼女は泣き出してしまった。
彼女と触れ合っているところから、彼女の俺を想う気持ちが伝わってくる。勘違いかもしれないけど、そんな気がした。
「うん。分かってる。……でも、それでも、最後に少しでも柱ちゃんと触れ合えて、よかった……よ」
「柱くん? ……柱くん!?」
そして、俺の意識は闇に呑まれていった。
いつも眠るときと同じように、最後に彼女の声を聞くことができて、本当によかった。きっと、死ぬ直前まで、いい夢を見ることができるだろう……。
***
私は柱。
古家の隅の小さい和室を支えている中柱だ。
私は、向かいの柱くんに恋をしていた。
けど彼はもういない。不幸な事故で亡くなってしまったのだ。
「初めまして皆さん! 新人のニュー柱です! よろしくお願いします!」
「よろー」「よろしく」「元気な若者じゃのう」「あら、可愛い子じゃない」
今、彼の場所には新しい柱が立っている。ニュー柱くんはとても素直な子で、すぐに部屋のみんなとも打ち解けていた。
「……よろしく」
けれど私には、新しい炭の塗られた彼が、どうしてもこの部屋に合わないように思えて仕方なかった。個人的な感傷だと分かっていても、どうしても。
「……」
気づけば、ニュー柱くんはじっとこちらを見ていた。
「……なにかしら?」
「あ、ごめんなさい。素敵な木目だなって思って、つい見惚れちゃいました」
そういえば彼も同じようなことを言ってたっけ。
彼はそう言っていたけれど、他の部屋で同じことを言われた覚えはない。部屋によって見える木目が違うから当然と言えば当然だが、この部屋でも彼以外からそう言われたことはなかった。多分、彼の位置からだと、私はそういうふうに見えていたのだろう。
「……そう」
と私は素っ気なく返事をしたのだが、まだ彼はこちらを見ている。
「まだ何か?」
「えっと、あの……。柱さんは、好きな相手とか、いるんですか?」
彼はキラキラした、真剣な眼差しを私に向けていた。
彼とまったく同じ位置から、居なくなった彼と同じように。
「……ごめんね。もう私は恋をしないの」
「……え? それってどういう――」
「はいはい、新人はまず新しい環境の注意点からな。シロアリに巣を作られたくないだろ?」
「キクイムシも最近は大量発生してると聞くからの。対策は怠るでないぞ」
「え、あの先輩方――?」
「ほら、ちゃんと話を聞け。二度は言わねえぞ」
「え、あ、はい!」
ニュー柱くんは、左柱さんと襖さんに無理やり話題を変えられてしまった。
深入りしようとしてきた彼を、事情を知っている二人が止めてくれたのだろう。正直、助かった。
「柱ちゃん」
そう思っていると、右柱くんが声をかけてきた。
「なあに? 右柱くん」
「僕が言うまでもなく分かっていると思うけどね……。君があまり悲しむのを、彼は望んじゃいないと思うよ」
「……ありがとね。右柱くん。でも、やっぱり私は、彼のことが忘れられないの」
私は自分の体の傷に意識を向ける。彼が飛んできた拍子にできたこの傷は残ったままだ。おそらく、二度と消えることはないだろう。
でも、今となってはそれがとても嬉しかった。この傷に意識を向けるたびに私は彼を思い出せる。彼を忘れることなんて絶対にできない。決して消えない絆を感じて、どうしようもなく私は嬉しくなってしまうのだ。
「……君から見たら僕は左柱だよ」
右柱くんはそう言うと、その後は何も言うことなく、そっとしておいてくれた。
彼基準の名前で呼ぶのはもうやめたほうがいいと、暗に言ってくれたのだろう。
彼が亡くなって、ニュー柱くんが立てられるくらいには時間は経過している。
けれど、どうしても私には彼のことが忘れられそうになかった。
目を閉じて幸せな過去に思いを馳せると、眠ってしまいたくなってくる。
「このままずっと目が醒めなければいいのに……」
私は誰にも聞こえないようにそう呟いた。
秋は過ぎ去り、季節は冬を迎えていた。
それから三日後。寝ているうちに部屋が少し騒がしくなっていたらしく、その音で私は目が覚めた。
「おーし、こんなんでいいか」
「あ、ちょっと待って」
「どした?」
「……ここ。ここがいい。ここに置いて」
「えー、場所なんてどこでもそんな変わらんだろ」
「いいから!」
「仕方ねえな。――よっこらしょっと! ふう……。これでいいか?」
「うん。……ね、やっぱりここがいいよ。見て見て」
「んー、どれどれ……。あー、本当だ。言われてみれば確かにそうだ。ここがいいな」
「でしょー!」
「さて、ひと仕事終わったし、ココアでも飲むか」
「あ、お父さんずるい! 私も飲む!」
嵐のような騒がしさは、襖が閉まるとピシャリと止んだ。
私の横に、棚が置かれていた。
私の身体にぴったりと寄せ合うようにその棚は移動してきた。自然と天板が目に入る。ニス塗りされ艶のでているその木目は、どこか見覚えのある模様をしていた。
いつも私を楽しませてくれた彼と、同じ模様をしていた。
え、うそ。どうして? ……本当に?
「柱くん……?」
だって、そうだ。間違いない。私が、彼の木目を見間違えるはずがない。
「……柱ちゃん。えっと、どうも……久しぶり」
「柱くん!!」
彼は返事をしてくれた。どこか気まずそうだったけど、私にはそんなことはどうでもよかった。
生きていた。彼が、生きていてくれた!
心の奥の鬱屈とした淀みは全て消え去り、急に視界が鮮やかになった。
いつの間にか、眠気はどこかへと吹き飛んでいた。
「え、嘘、柱?」
「本当に?」
「お前さん生きとったんか!」
「まぁ、立派な棚になっちまってぇ!」
部屋のみんなも彼に気づいたようだ。ニュー柱くんだけは事態が呑み込めていないらしく、ひとりぽかんとこちらを見ていた。
「どうして棚に?」
「なんか、欲しがってたみたいでね……。身体の大きさは半分になっちゃったし、前みたいに立派な柱じゃなくなったけど、……その……柱ちゃんは、こんな棚、嫌じゃない?」
「嫌なわけないじゃない……!」
あなたの姿が変わっても、変わらなくても、そんなのはどっちだっていい。ただ、あなたが生きているそれだけで、私はまた泣いてしまいそうなほど嬉しいんだ。
「そっか。よかった……」
彼はほっとしたようにそう言った。柱くんは柱くんで、新しい姿になったことが不安で仕方が無かったのだろう。
「……ん? ねぇ、柱ちゃん。俺が居ない間に何かあった?」
「どうして?」
「どこか印象が変わったような気がして……」
印象が変わった……? 心当たりはない。彼がいない間、ずっと私は眠たい日常を送っていただけだ。
――「素敵な木目だなって思って、つい見惚れちゃいました」
不意に、私はニュー柱くんの台詞を思い出す。
もしかしたら、彼が隣に来たせいで私の木目の見え方が変わってしまい、印象が変わったように見えたのではないだろうか。
「あ、そっか。木目の見え方が違うんだ」
私が指摘する前に彼はそのことに気づいた。
ふと、私は不安になった。彼は私の木目を気に入ってくれていた。見た目が変わった私を、彼は今まで通り好きと言ってくれるだろうか。
「……うん。前の木目も素敵だったけど、ここから見上げる柱ちゃんもとっても素敵だね」
そんな心配は杞憂だった。
以前とまったく変わらない、私とお話をしていたときと同じ表情で、彼はそう言ってくれた。
「……ありがとう」
柱の奥が嬉しくなった。嬉しくて嬉しくて。私は少しだけ彼に体重を預けてみた。
「……! ……あの、柱ちゃん?」
「……なあに?」
「あの、さっきから体が触れ合ってるんだけども……」
「そうね。……それが?」
「……いいの?」
「だって、私たち両想いなんでしょう?」
「……そっか。そうだったね」
「忘れてたの? 柱くん、ひどい」
「ごめん。でも、前と同じ高さじゃないよ。今は、もう、前の半分くらいの高さになっちゃったんだ」
「いいよ、それでも。だって、半分でも、体の奥が溶けちゃいそうなほど、気持ちいいんだもの。もし――」
「…‥もし?」
「ううん。なんでもない」
「えー、何? 気になる」
「ふふ、秘密」
彼をはぐらかすようにして、私は話題を変える。だって、とても恥ずかしくて口に出すことができなかったのだ。
――もし、もたれかかるほど柱くんと接してしまったら、私はきっと、気持ちよすぎて死んでしまう。
なんて。
だからきっと私達の恋は、半分くらいがちょうどいいのだ。
あの気まずさを感じて以来、彼女の口から「触れたい」という言葉が出たことはない。それを匂わせることも言ってこないし、話題がそうなりそうなら露骨すぎないほどにしれっと話題を変えてくる。極力そのワードに触れないように気をつけているようだった。
だから、俺もその話題は避けている。今の所、彼女は幸せそうだし、俺と別れようという素振りもない。
だからきっと、それでいいのだ。
ある秋の日。いつものように柱ちゃんとラブトークをしていた俺は、コツコツと柱の表面を叩かれるのを感じた。最初は無視していたのだが、だんだんとその音は大きくなり、痛みを感じるほど激しくなってきた。これ以上無視するわけにもいかなくなったので、俺は柱ちゃんに断りを入れて外を見る。
「俺と柱ちゃんの神聖な時間を邪魔する奴は誰だゴラァ!」
「あ、柱の旦那。やっと気づいてくれましたね」
スズメがいた。しかも、ただのスズメではなかった。俺が見間違えるはずがない。こいつは俺の周りにクソ結界を構築した、あの憎きクソスズメである。
「貴様。何のようだ?」
「ありゃ、旦那、虫の居所が悪いんで? 恋も実って、最近は非常に調子がよいとお聞きしましたぜ?」
「貴様、俺に何したか覚えて――って。え? 誰からその話聞いたの?」
「向こうの梁にちょいと止まらせてもらったときに、その梁からお聞きしたんですわ」
梁って、左柱の恋人の梁ちゃんか。左柱経由で伝わったんだな。まったく、もう。プライベートも何もあったもんじゃねえぜ。
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スズメはだらだらとよだれを垂らしながらそう言った。
そうか、それが目的でこいつは俺を小突いたのか。
「いや、俺は知らねえよ。あれ以来この場所では全然干してないし、もう虫が湧かなくなったんじゃないの?」
「えー、そんなぁ! あっし、もう、あれがないと生きていけない身体になっちまったんですよー!?」
そう言って、スズメはギャースカ喚く。
まったく、それこそ知らんがな。
これ以上スズメに関わるのは嫌なのだが、このまま喚かれ続けても迷惑だ。神聖なラブトークに支障をきたすこと間違いない。どうにかどこかに行ってもらわないと――。
と、そんなことを考えていたせいか、俺は気づくのが遅れた。
白い車が、猛スピードでこちらに迫っていることに。
思わず俺は叫んだ。
「おい、スズメ! 逃げろ!!」
「え? 旦那、急にどうし――ってまじかよ!!」
そう言ってスズメは飛び立った。
けれど、俺は逃げられない。
「あ」
と思う間もなく、目の前に車は迫ってきて――。
そこで、俺の意識は途切れた。
気がついたら、俺は柱ちゃんを見上げていた。
「柱くん! 柱くん!!」
彼女は必死になって俺を呼んでいた。
「柱ちゃん……? どうしてそこに?」
「柱くん!? よかった、意識が戻ったのね……!!」
「意識……? あれ、ここは……?」
いつもと明らかに違う視点に、俺は驚きを隠せなかった。
目の前にはひしゃげた金属の塊。漆喰や砂埃が部屋に散らばり、ありえない場所から空が覗いていた。
「あ……」
そして、俺は気づいた。
自分の半身がへし折れて、車に下敷きになっていることに。
「そうか、車がぶつかって俺は……」
俺は、折れて、千切れて、飛ばされたんだ。
彼女の立っているこの場所まで飛ばされて、俺は今、彼女にもたれかかるようにして横たわっているのだ。
「柱ちゃん……俺、折れちゃったみたいだね……」
「大丈夫。きっと、大丈夫だから。すぐ、元通りにくっつくから……」
彼女はずっと泣きそうな声だった。
割れだったり傷だったり、簡単な損傷なら問題なく柱は修復できる。でもさすがにこれは無理だろう。彼女はずっと「大丈夫だから」と繰り返していたけれど、それでもずっと泣きそうなのは、彼女もきっとそれを分かっていたからだ。
だんだんと、視界が白くなっていく。彼女に呼び止められて一旦は意識が戻ったみたいだが、どうやらそれも限界らしい。身体が折れて、千切れてしまったんだ。間違いなく、俺はもう助からないだろう。
不思議と、心は落ち着いていた。
不謹慎だと思いつつも、泣きそうな彼女がとても可愛く見えた。
「あ」
と、そこで俺は気づく。彼女の木目に、今までなかった傷ができていたのだ。
「もしかして、俺が飛ばされたときに……?」
「……こんなの、大したことないよ」
「ごめんね。せっかくの木目に――」
「大したことないってば!」
彼女は叫んだ。彼女がこんなに大きな声を出したのはこれが初めてかもしれない。最後の最後に、彼女の新しい一面を知れて少し嬉しくなった。
「どうして笑ってるの?」
半泣きの彼女はそう尋ねた。
「……やっと、柱ちゃんに触れ合えたから、嬉しくなったんだ」
それは、誤魔化しと本音が混ざった答えだった。
「……違う、違うの。私は、こんな形で、君と触れ合いたかったわけじゃないの……」
とうとう耐えきれなくて、彼女は泣き出してしまった。
彼女と触れ合っているところから、彼女の俺を想う気持ちが伝わってくる。勘違いかもしれないけど、そんな気がした。
「うん。分かってる。……でも、それでも、最後に少しでも柱ちゃんと触れ合えて、よかった……よ」
「柱くん? ……柱くん!?」
そして、俺の意識は闇に呑まれていった。
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「……よろしく」
けれど私には、新しい炭の塗られた彼が、どうしてもこの部屋に合わないように思えて仕方なかった。個人的な感傷だと分かっていても、どうしても。
「……」
気づけば、ニュー柱くんはじっとこちらを見ていた。
「……なにかしら?」
「あ、ごめんなさい。素敵な木目だなって思って、つい見惚れちゃいました」
そういえば彼も同じようなことを言ってたっけ。
彼はそう言っていたけれど、他の部屋で同じことを言われた覚えはない。部屋によって見える木目が違うから当然と言えば当然だが、この部屋でも彼以外からそう言われたことはなかった。多分、彼の位置からだと、私はそういうふうに見えていたのだろう。
「……そう」
と私は素っ気なく返事をしたのだが、まだ彼はこちらを見ている。
「まだ何か?」
「えっと、あの……。柱さんは、好きな相手とか、いるんですか?」
彼はキラキラした、真剣な眼差しを私に向けていた。
彼とまったく同じ位置から、居なくなった彼と同じように。
「……ごめんね。もう私は恋をしないの」
「……え? それってどういう――」
「はいはい、新人はまず新しい環境の注意点からな。シロアリに巣を作られたくないだろ?」
「キクイムシも最近は大量発生してると聞くからの。対策は怠るでないぞ」
「え、あの先輩方――?」
「ほら、ちゃんと話を聞け。二度は言わねえぞ」
「え、あ、はい!」
ニュー柱くんは、左柱さんと襖さんに無理やり話題を変えられてしまった。
深入りしようとしてきた彼を、事情を知っている二人が止めてくれたのだろう。正直、助かった。
「柱ちゃん」
そう思っていると、右柱くんが声をかけてきた。
「なあに? 右柱くん」
「僕が言うまでもなく分かっていると思うけどね……。君があまり悲しむのを、彼は望んじゃいないと思うよ」
「……ありがとね。右柱くん。でも、やっぱり私は、彼のことが忘れられないの」
私は自分の体の傷に意識を向ける。彼が飛んできた拍子にできたこの傷は残ったままだ。おそらく、二度と消えることはないだろう。
でも、今となってはそれがとても嬉しかった。この傷に意識を向けるたびに私は彼を思い出せる。彼を忘れることなんて絶対にできない。決して消えない絆を感じて、どうしようもなく私は嬉しくなってしまうのだ。
「……君から見たら僕は左柱だよ」
右柱くんはそう言うと、その後は何も言うことなく、そっとしておいてくれた。
彼基準の名前で呼ぶのはもうやめたほうがいいと、暗に言ってくれたのだろう。
彼が亡くなって、ニュー柱くんが立てられるくらいには時間は経過している。
けれど、どうしても私には彼のことが忘れられそうになかった。
目を閉じて幸せな過去に思いを馳せると、眠ってしまいたくなってくる。
「このままずっと目が醒めなければいいのに……」
私は誰にも聞こえないようにそう呟いた。
秋は過ぎ去り、季節は冬を迎えていた。
それから三日後。寝ているうちに部屋が少し騒がしくなっていたらしく、その音で私は目が覚めた。
「おーし、こんなんでいいか」
「あ、ちょっと待って」
「どした?」
「……ここ。ここがいい。ここに置いて」
「えー、場所なんてどこでもそんな変わらんだろ」
「いいから!」
「仕方ねえな。――よっこらしょっと! ふう……。これでいいか?」
「うん。……ね、やっぱりここがいいよ。見て見て」
「んー、どれどれ……。あー、本当だ。言われてみれば確かにそうだ。ここがいいな」
「でしょー!」
「さて、ひと仕事終わったし、ココアでも飲むか」
「あ、お父さんずるい! 私も飲む!」
嵐のような騒がしさは、襖が閉まるとピシャリと止んだ。
私の横に、棚が置かれていた。
私の身体にぴったりと寄せ合うようにその棚は移動してきた。自然と天板が目に入る。ニス塗りされ艶のでているその木目は、どこか見覚えのある模様をしていた。
いつも私を楽しませてくれた彼と、同じ模様をしていた。
え、うそ。どうして? ……本当に?
「柱くん……?」
だって、そうだ。間違いない。私が、彼の木目を見間違えるはずがない。
「……柱ちゃん。えっと、どうも……久しぶり」
「柱くん!!」
彼は返事をしてくれた。どこか気まずそうだったけど、私にはそんなことはどうでもよかった。
生きていた。彼が、生きていてくれた!
心の奥の鬱屈とした淀みは全て消え去り、急に視界が鮮やかになった。
いつの間にか、眠気はどこかへと吹き飛んでいた。
「え、嘘、柱?」
「本当に?」
「お前さん生きとったんか!」
「まぁ、立派な棚になっちまってぇ!」
部屋のみんなも彼に気づいたようだ。ニュー柱くんだけは事態が呑み込めていないらしく、ひとりぽかんとこちらを見ていた。
「どうして棚に?」
「なんか、欲しがってたみたいでね……。身体の大きさは半分になっちゃったし、前みたいに立派な柱じゃなくなったけど、……その……柱ちゃんは、こんな棚、嫌じゃない?」
「嫌なわけないじゃない……!」
あなたの姿が変わっても、変わらなくても、そんなのはどっちだっていい。ただ、あなたが生きているそれだけで、私はまた泣いてしまいそうなほど嬉しいんだ。
「そっか。よかった……」
彼はほっとしたようにそう言った。柱くんは柱くんで、新しい姿になったことが不安で仕方が無かったのだろう。
「……ん? ねぇ、柱ちゃん。俺が居ない間に何かあった?」
「どうして?」
「どこか印象が変わったような気がして……」
印象が変わった……? 心当たりはない。彼がいない間、ずっと私は眠たい日常を送っていただけだ。
――「素敵な木目だなって思って、つい見惚れちゃいました」
不意に、私はニュー柱くんの台詞を思い出す。
もしかしたら、彼が隣に来たせいで私の木目の見え方が変わってしまい、印象が変わったように見えたのではないだろうか。
「あ、そっか。木目の見え方が違うんだ」
私が指摘する前に彼はそのことに気づいた。
ふと、私は不安になった。彼は私の木目を気に入ってくれていた。見た目が変わった私を、彼は今まで通り好きと言ってくれるだろうか。
「……うん。前の木目も素敵だったけど、ここから見上げる柱ちゃんもとっても素敵だね」
そんな心配は杞憂だった。
以前とまったく変わらない、私とお話をしていたときと同じ表情で、彼はそう言ってくれた。
「……ありがとう」
柱の奥が嬉しくなった。嬉しくて嬉しくて。私は少しだけ彼に体重を預けてみた。
「……! ……あの、柱ちゃん?」
「……なあに?」
「あの、さっきから体が触れ合ってるんだけども……」
「そうね。……それが?」
「……いいの?」
「だって、私たち両想いなんでしょう?」
「……そっか。そうだったね」
「忘れてたの? 柱くん、ひどい」
「ごめん。でも、前と同じ高さじゃないよ。今は、もう、前の半分くらいの高さになっちゃったんだ」
「いいよ、それでも。だって、半分でも、体の奥が溶けちゃいそうなほど、気持ちいいんだもの。もし――」
「…‥もし?」
「ううん。なんでもない」
「えー、何? 気になる」
「ふふ、秘密」
彼をはぐらかすようにして、私は話題を変える。だって、とても恥ずかしくて口に出すことができなかったのだ。
――もし、もたれかかるほど柱くんと接してしまったら、私はきっと、気持ちよすぎて死んでしまう。
なんて。
だからきっと私達の恋は、半分くらいがちょうどいいのだ。
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