上 下
10 / 13
二章

9話

しおりを挟む




「パトリック様、わたくしと結婚してくださいませ」



リンドラル王国からの正式な客人である第三王女のエメルローズ殿下は、パトリックを真っ直ぐに見つめてそう告げた。周囲のことなど気にもせずに。
私はそれをすぐ側で聞いていた。聞いていたというよりは、聞かされていたという方が正しいのかもしれない。まあ、どちらにせよ突拍子もない出来事であった。
今は夜会の真っ只中である。いつもならば色んな人の声で溢れかえっているその場所は、今回に限って水を打ったような静けさに満ち溢れていた。
それも当然といえよう。なにせパトリックは私の婚約者であるのだ。それはもう周知の事実なのである。辺りはなんとも気まずげな沈黙が訪れていた。
しかし、当の本人はまったくもって気にした様子は無いらしい。今もただずっとパトリックのことだけを見つめ続けているのだから。
意味が分からない。一体全体どうしたらこんな状況に遭遇することになるのだろうか。しかもまさかそれを自らが体験する日が来ようとは。
人生何があるのかわかったものでは無い。
本当に、分かったものではない。

「エメルローズ殿下、申し訳ございませんが私には正式に婚約者がおりますので」

ただただ呆然としている私の横では、普段通りの微笑みを浮かべたパトリックがやんわりと、それでいて相手に有無を言わせない様子で淡々と事実を述べていた。つまりは遠回しに求婚を断ったということである。王族の求婚を断るなんて不敬だと思わなくも無いのだが、それでもパトリックの告げた言葉に安堵する自分がいた。それでもまだ体中に走る緊張を解くことは出来なかった。
エメルローズ殿下はそれから暫くパトリックを眺めていたが、不意に私の方へと視線を向け、そして口を開いた。

「ですが、パトリック様と婚約者様は政略結婚でございましょう?ならばその相手がわたくしでもなんら問題ないのでは?」

それにわたくしの方がその方よりも余程優れていると思いますわよ?と告げる表情は、どこまでも無邪気で自然体で、本当に不思議そうに訊いていることが分かる口調だった。
私は誰にも気付かれ無いように強くドレスの裾を握りしめる。
エメルローズ殿下は、美しく愛らしい方だった。
緩く波打つ金色の髪にリンドラル王国の王族特有のルビーのように赤い瞳。その容姿はまるでビスクドールのように整っている。エメルローズ殿下の言っていることは確かに事実であるのだ。何よりも私自身でさえそう思うのだから、他の人から見れば一目瞭然であるだろう。
エメルローズ殿下の様子を見れば、悪気があって言っているわけではないということはとても良く分かった。ただの事実を述べているだけなのだということが。でも、だからこそその言葉は私の心の奥底に深い疼きを残した。
パトリックは困ったような表情を浮かべながら首を振る。

「私は彼女と将来を添い遂げることを誓った身であります。それに、殿下にはもっと相応しい者がおりますから」
「確かにそうかもしれません。ですが、わたくしはパトリック様が良いのです。貴方様しかいらないのです」

エメルローズ殿下はそう言うと切なげに目を伏せた。その姿は見ているこちら側まで心が締め付けられそうだった。
きっと、エメルローズ殿下はパトリックのことが本当に好きなのだろう。その眼差しは恋するそれであるのだから。
だからこそ、私の心は余計に掻き乱される。それに付け加えて、今は数多の好奇の視線に晒されているのだ。
ああ、居心地が悪い。
しかし、そんな私の心境などお構い無しにパトリックとエメルローズ殿下の会話は続いていく。

「———なので、申し訳ございませんが、私は殿下の気持ちに答えることは出来ません」
「そうですか……」

涙目になりながらエメルローズ殿下は胸に手を当てる。それから深く深呼吸を繰り返すと、決意のこもった眼差しをパトリックに向けた。

「……ですが、わたくしは諦めませんわ。要はパトリック様に好きになってもらえれば良いのでしょう?なら、こちらの国に滞在している期間内にわたくしは貴方様に恋に落ちてもらえるように努力しますわ!パトリック様がわたくしを好きになればなんら問題はございませんでしょう?そうですよね、ルナメリア様」
「そ、うですわね」

ちらりとこちらに視線を向けたエメルローズ殿下に、私は、一瞬言葉を詰まらせてしまう。しかし私はなんとか笑みを保たせながら声を絞り出した。
エメルローズ殿下のその瞳には、一瞬の出来事だったものの確かにそこに挑発と嘲笑の色を纏わせていたのである。
……どうやらエメルローズ殿下には表裏があるらしい。
私の心はもう限界に近かった。もう一層のことこの場で倒れてしまおうかと思ってしまうくらいに。
まあしないのだが。
そして、エメルローズ殿下の言葉には流石のパトリックも驚いたようだ。こういった場面では変わらず誰に対しても穏やかな微笑みを保っているはずのこの人が、一瞬ではあるものの目を見開かせたのだから。
パトリックは曖昧に笑って明言することを避けた。一国の王族に、それも国の正式な客人に何かを否定するなんてことが出来る筈がない。(結婚については別であると思いたい)ましては私達は一介の貴族に過ぎないのだから。しかしそれを了承したと受け取ったらしいエメルローズ殿下は嬉しそうに笑って「約束ですよ?」と小首を傾げたのであった。


しおりを挟む
感想 6

あなたにおすすめの小説

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

ある王国の王室の物語

朝山みどり
恋愛
平和が続くある王国の一室で婚約者破棄を宣言された少女がいた。カップを持ったまま下を向いて無言の彼女を国王夫妻、侯爵夫妻、王太子、異母妹がじっと見つめた。 顔をあげた彼女はカップを皿に置くと、レモンパイに手を伸ばすと皿に取った。 それから 「承知しました」とだけ言った。 ゆっくりレモンパイを食べるとお茶のおかわりを注ぐように侍女に合図をした。 それからバウンドケーキに手を伸ばした。 カクヨムで公開したものに手を入れたものです。

【完結】可愛くない、私ですので。

たまこ
恋愛
 華やかな装いを苦手としているアニエスは、周りから陰口を叩かれようと着飾ることはしなかった。地味なアニエスを疎ましく思っている様子の婚約者リシャールの隣には、アニエスではない別の女性が立つようになっていて……。

うたた寝している間に運命が変わりました。

gacchi
恋愛
優柔不断な第三王子フレディ様の婚約者として、幼いころから色々と苦労してきたけど、最近はもう呆れてしまって放置気味。そんな中、お義姉様がフレディ様の子を身ごもった?私との婚約は解消?私は学園を卒業したら修道院へ入れられることに。…だったはずなのに、カフェテリアでうたた寝していたら、私の運命は変わってしまったようです。

【完結】王子妃候補をクビになった公爵令嬢は、拗らせた初恋の思い出だけで生きていく

たまこ
恋愛
 10年の間、王子妃教育を受けてきた公爵令嬢シャーロットは、政治的な背景から王子妃候補をクビになってしまう。  多額の慰謝料を貰ったものの、婚約者を見つけることは絶望的な状況であり、シャーロットは結婚は諦めて公爵家の仕事に打ち込む。  もう会えないであろう初恋の相手のことだけを想って、生涯を終えるのだと覚悟していたのだが…。

【完結】溺愛婚約者の裏の顔 ~そろそろ婚約破棄してくれませんか~

瀬里
恋愛
(なろうの異世界恋愛ジャンルで日刊7位頂きました)  ニナには、幼い頃からの婚約者がいる。  3歳年下のティーノ様だ。  本人に「お前が行き遅れになった頃に終わりだ」と宣言されるような、典型的な「婚約破棄前提の格差婚約」だ。  行き遅れになる前に何とか婚約破棄できないかと頑張ってはみるが、うまくいかず、最近ではもうそれもいいか、と半ばあきらめている。  なぜなら、現在16歳のティーノ様は、匂いたつような色香と初々しさとを併せ持つ、美青年へと成長してしまったのだ。おまけに人前では、誰もがうらやむような溺愛ぶりだ。それが偽物だったとしても、こんな風に夢を見させてもらえる体験なんて、そうそうできやしない。  もちろん人前でだけで、裏ではひどいものだけど。  そんな中、第三王女殿下が、ティーノ様をお気に召したらしいという噂が飛び込んできて、あきらめかけていた婚約破棄がかなうかもしれないと、ニナは行動を起こすことにするのだが――。  全7話の短編です 完結確約です。

当て馬令息の婚約者になったので美味しいお菓子を食べながら聖女との恋を応援しようと思います!

朱音ゆうひ
恋愛
「わたくし、当て馬令息の婚約者では?」 伯爵令嬢コーデリアは家同士が決めた婚約者ジャスティンと出会った瞬間、前世の記憶を思い出した。 ここは小説に出てくる世界で、当て馬令息ジャスティンは聖女に片思いするキャラ。婚約者に遠慮してアプローチできないまま失恋する優しいお兄様系キャラで、前世での推しだったのだ。 「わたくし、ジャスティン様の恋を応援しますわ」 推しの幸せが自分の幸せ! あとお菓子が美味しい! 特に小説では出番がなく悪役令嬢でもなんでもない脇役以前のモブキャラ(?)コーデリアは、全力でジャスティンを応援することにした! ※ゆるゆるほんわかハートフルラブコメ。 サブキャラに軽く百合カップルが出てきたりします 他サイトにも掲載しています( https://ncode.syosetu.com/n5753hy/ )

冤罪から逃れるために全てを捨てた。

四折 柊
恋愛
王太子の婚約者だったオリビアは冤罪をかけられ捕縛されそうになり全てを捨てて家族と逃げた。そして以前留学していた国の恩師を頼り、新しい名前と身分を手に入れ幸せに過ごす。1年が過ぎ今が幸せだからこそ思い出してしまう。捨ててきた国や自分を陥れた人達が今どうしているのかを。(視点が何度も変わります)

処理中です...