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二章
9話
しおりを挟む「パトリック様、わたくしと結婚してくださいませ」
リンドラル王国からの正式な客人である第三王女のエメルローズ殿下は、パトリックを真っ直ぐに見つめてそう告げた。周囲のことなど気にもせずに。
私はそれをすぐ側で聞いていた。聞いていたというよりは、聞かされていたという方が正しいのかもしれない。まあ、どちらにせよ突拍子もない出来事であった。
今は夜会の真っ只中である。いつもならば色んな人の声で溢れかえっているその場所は、今回に限って水を打ったような静けさに満ち溢れていた。
それも当然といえよう。なにせパトリックは私の婚約者であるのだ。それはもう周知の事実なのである。辺りはなんとも気まずげな沈黙が訪れていた。
しかし、当の本人はまったくもって気にした様子は無いらしい。今もただずっとパトリックのことだけを見つめ続けているのだから。
意味が分からない。一体全体どうしたらこんな状況に遭遇することになるのだろうか。しかもまさかそれを自らが体験する日が来ようとは。
人生何があるのかわかったものでは無い。
本当に、分かったものではない。
「エメルローズ殿下、申し訳ございませんが私には正式に婚約者がおりますので」
ただただ呆然としている私の横では、普段通りの微笑みを浮かべたパトリックがやんわりと、それでいて相手に有無を言わせない様子で淡々と事実を述べていた。つまりは遠回しに求婚を断ったということである。王族の求婚を断るなんて不敬だと思わなくも無いのだが、それでもパトリックの告げた言葉に安堵する自分がいた。それでもまだ体中に走る緊張を解くことは出来なかった。
エメルローズ殿下はそれから暫くパトリックを眺めていたが、不意に私の方へと視線を向け、そして口を開いた。
「ですが、パトリック様と婚約者様は政略結婚でございましょう?ならばその相手がわたくしでもなんら問題ないのでは?」
それにわたくしの方がその方よりも余程優れていると思いますわよ?と告げる表情は、どこまでも無邪気で自然体で、本当に不思議そうに訊いていることが分かる口調だった。
私は誰にも気付かれ無いように強くドレスの裾を握りしめる。
エメルローズ殿下は、美しく愛らしい方だった。
緩く波打つ金色の髪にリンドラル王国の王族特有のルビーのように赤い瞳。その容姿はまるでビスクドールのように整っている。エメルローズ殿下の言っていることは確かに事実であるのだ。何よりも私自身でさえそう思うのだから、他の人から見れば一目瞭然であるだろう。
エメルローズ殿下の様子を見れば、悪気があって言っているわけではないということはとても良く分かった。ただの事実を述べているだけなのだということが。でも、だからこそその言葉は私の心の奥底に深い疼きを残した。
パトリックは困ったような表情を浮かべながら首を振る。
「私は彼女と将来を添い遂げることを誓った身であります。それに、殿下にはもっと相応しい者がおりますから」
「確かにそうかもしれません。ですが、わたくしはパトリック様が良いのです。貴方様しかいらないのです」
エメルローズ殿下はそう言うと切なげに目を伏せた。その姿は見ているこちら側まで心が締め付けられそうだった。
きっと、エメルローズ殿下はパトリックのことが本当に好きなのだろう。その眼差しは恋するそれであるのだから。
だからこそ、私の心は余計に掻き乱される。それに付け加えて、今は数多の好奇の視線に晒されているのだ。
ああ、居心地が悪い。
しかし、そんな私の心境などお構い無しにパトリックとエメルローズ殿下の会話は続いていく。
「———なので、申し訳ございませんが、私は殿下の気持ちに答えることは出来ません」
「そうですか……」
涙目になりながらエメルローズ殿下は胸に手を当てる。それから深く深呼吸を繰り返すと、決意のこもった眼差しをパトリックに向けた。
「……ですが、わたくしは諦めませんわ。要はパトリック様に好きになってもらえれば良いのでしょう?なら、こちらの国に滞在している期間内にわたくしは貴方様に恋に落ちてもらえるように努力しますわ!パトリック様がわたくしを好きになればなんら問題はございませんでしょう?そうですよね、ルナメリア様」
「そ、うですわね」
ちらりとこちらに視線を向けたエメルローズ殿下に、私は、一瞬言葉を詰まらせてしまう。しかし私はなんとか笑みを保たせながら声を絞り出した。
エメルローズ殿下のその瞳には、一瞬の出来事だったものの確かにそこに挑発と嘲笑の色を纏わせていたのである。
……どうやらエメルローズ殿下には表裏があるらしい。
私の心はもう限界に近かった。もう一層のことこの場で倒れてしまおうかと思ってしまうくらいに。
まあしないのだが。
そして、エメルローズ殿下の言葉には流石のパトリックも驚いたようだ。こういった場面では変わらず誰に対しても穏やかな微笑みを保っているはずのこの人が、一瞬ではあるものの目を見開かせたのだから。
パトリックは曖昧に笑って明言することを避けた。一国の王族に、それも国の正式な客人に何かを否定するなんてことが出来る筈がない。(結婚については別であると思いたい)ましては私達は一介の貴族に過ぎないのだから。しかしそれを了承したと受け取ったらしいエメルローズ殿下は嬉しそうに笑って「約束ですよ?」と小首を傾げたのであった。
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