ぬきさしならへんっ!

夢野咲コ

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4.タイガー・クライング・イン・ザ・レイン

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 雨の日は好きじゃない。10歳の時、母さんが死んだのも雨の日だった。

 学校が終わって帰ると、いつも散らかったアパートの部屋が、やけに綺麗に掃除されていた。雨漏りこそしなかったが、古いトタンの屋根にバタバタと落ちる水滴の音が喧しくて、雨の日はテレビのボリュームを上げなくてはろくに聞こえなかった。
 昼に給食を食っても、帰宅する頃には腹が減る。買い置きの68円の食パンを一斤丸ごと何もつけずに食った。まだ腹は減っているが、食うものがなかったから諦めた。今思えば、ストレスから来る過食だった気がする。成長期だった上に、親は滅多に食事を作らなかったから、太らずに顕在化しなかっただけなのかもしれない。

 いつもこの時間は、家にいる母さんがいなかった。部屋がやけに片付いていることを鑑みるに「ミズタニさん」が来るのかと思った。
 ミズタニさんは母さんの客の中でも特別な存在で、母さんの恋人だ。父親のいない俺たちを支えてくれるいい人……と、母さんは言っていた。が、そんなものは嘘だと子供の俺にだってわかっていた。経済支援とは名ばかりで、たまに家にふらりと来ては、母さんを罵って殴っては俺に嫌がらせをして帰ってゆく。それでも寄る辺のない母さんは、ミズタニさんのことが好きだったようだ。それが一種の洗脳だったと気づいたのは、皮肉なことに俺がミズタニさんと同じようにヤクザになってからだった。

「母親と違って景虎は賢いな」
 見え見えの言葉で手懐けようとして思い通りにならない俺を、ミズタニさんは疎ましがっていた。風呂に一緒に入ろうとしたり、寝床に入ってこようとしたり、良からぬ思惑を抱いていたのかもしれない。俺は生っ白くて細くて、女のような顔の子供だったから。あるいは児童趣味の変態に売ろうとしていたのかもしれない。
 そのミズタニさんが来るかもしれないと思って、俺は嫌な気分になった。誰かの家に避難しようにも、そんな親しい友達もいなかった。いつものように公園で過ごそう、そして補導されるような遅い時間になったら、塾の付近で親を待っているような素振りでやり過ごそうと思った。
 俺はそういうことには慣れていたのだ。物心ついたころから、母さんが家に男の客を呼んで、身体を売っていたからだ。

 「アレ」の時間が近づくと、俺は家の外に出る。大体「アレ」の時間は夜だったから、近所の公園なんかにいるとしょっちゅう警察に声をかけられる。それが面倒臭くて、俺は色んなところに隠れた。茂みの中、滑り台のはしごの下、木の裏側、夏には虫に刺され冬には寒さで死にそうになったが、家に帰る方が嫌だった。そうして稼いだ金を、母さんはミズタニさんにいくらか渡していた。暴力団のミズタニさんから覚醒剤を買っていたのだ。

 母さんは基本的に俺にとても優しかった。すごくハイになって笑っている時と、薬が切れて辛そうに部屋に閉じこもっている時の落差が激しかったし、下りた遮断器の向こうに走っていこうとしたのを泣きながら止めたこともある。それでも俺を殴ったり罵ったりはしなかった。それで十分だった。いくら駄目な親だと周りに言われても、たった一人の肉親を他の母親と比べられるわけがなかった。
 ミズタニさんが来る前に出ていこうと、ナイロンのナップサックに100円玉が数枚の財布と、宿題の算数ドリルと筆箱を詰めた。その時リビングの電話が鳴った。
 警察からの電話だった。

●●●●●●●●●●●●●●●

 母さんは近くのマンションの屋上に侵入して、そこから落ちたらしい。当然のことながら、子供の俺は死体は見ていない。身体からアルコールと睡眠薬が検出されたという。
 警察はこう教えてくれた。

 母さんが一人酔っ払ってふらつきながら、近隣マンションのエレベーターに乗る姿が、防犯カメラに映っていた。屋上フロアには防犯カメラがないけれど、エレベーターも階段も、他に屋上階にいく人間はいなかったと。
 きっと薬物中毒である自分の人生を憂いて。売春に疲れて。だから景虎くんは悪くない。警察や周りの大人は、遺書もないのにそんなふうに俺を励ました。母さんが死んでどこか納得しているようだった。

 俺は、母さんが死んでしまったのは自分のせいだと今も思っている。
 あの日、母さんが死ぬ前の日。
 その日も春先なのに冷たい小雨が降っていた。母さんは、珍しく学校に傘を持って迎えに来てくれた。小学校にあがってからというもの、手を繋がなくなって久しい。俺は傘を左手に持ち替え、母親の手を後ろから引いて、顔を見上げた。

「母さん、遠くに行こう」
「どうしたの……」
「ミズタニさんやお客さんのこないところに、俺と二人だけで引っ越すのはイヤ?」
「景虎……」
「俺は、母さんと二人だけで生活したい」
 なんでそんなことを言ってしまったのかわからない。学校で嫌なことがあったのかもしれない。憶えていない。
「そうだよね、ごめんねごめんね……頑張るね、お母さん頑張る」
 母さんは申し訳無さそうに笑ったけれど、あの時俺は薄氷を踏み抜いてしまったのだと思う。だって次の日に母さんは死んだ。

 雨水の流れる音が、見ていないはずの母さんの死体と、流れる赤い血を連想させる。排水溝に崩れながら落ちてゆく、白とピンクのカッテージチーズのような脳みその欠片も、地面に叩きつけられておかしな方向に曲がった手足も。見ていないはずなのにありありと思い出せる。
 俺が、ありもしない『幸せ』を妄想して欲しがってしまったから、母さんは耐えられなくなって死んだ。クソみたいな雨の日に、地面にへばりついた痕すら残らなかった。
 あの日からずっと、がらんどうになった頭の中で、雨の音が止まらない。俺は定期的に夢を見る、思い出し、耽溺する。頭の中で喪失を何度も再現して味わうさまは、まるで自慰だった。

 雨は好きじゃない。好きじゃなかった。

 庄助と出会ったのが雨の日でなければ、俺は一生、暗い空とそこから落ちる水の滴を逆恨みし、喜びに触れて生きることを諦め続けていたかもしれない。
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