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3.はじめてのほしょく①
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「カゲ、ごめん……」
庄助は家に着くまでの間ずっと泣きそうにそう言っていたが、家に着いてからも変わらず泣きそうだった。
「謝るくらいなら最初から調子に乗るな」
景虎にしたら別に殴られるくらい大したことはなかった。痛かったことには間違いないが、慣れている。肋骨も折れていないし、内臓にも特に異常はなさそうだ。
そもそも織原の代紋を出している時点で向こうは退くしかなかったので、殴られてやる必要はなかった。が、軽率な行動がどういった事態に繋がるのかを知れて、庄助にはいい薬になるだろうと思った。
「つ……」
腹筋に力を入れると少し痛む。景虎はソファベッドに腰掛けた。ふうと息をついてシャツの合わせの上から腹を撫でると、庄助が心配そうに隣に腰掛けた。
カーテンの隙間から、西陽が差している。電気を点けていない部屋の隅から、ゆっくりと夕闇が忍び込んでくる。庄助が朝飲んでテーブルに置きっぱなしにしたペットボトルのミネラルウォーターの残りが、差し込んだ夕陽に当たってオレンジ色にきらきらと輝いている。
「寝転ぶ?」
「いや、このままでいい。なあ、タオルを濡らして持ってきてくれるか」
痛みに耐えた際に吹き出た脂汗で、シャツが張り付いて気持ちが悪かった。
庄助はすぐさま立ち上がると、洗面所へ走った。バシャバシャと水を派手に使っている音が聞こえてくる。ボタンを外して腹を見たが、特に腫れてはいなかった。衝撃の瞬間、微妙に体幹をずらして、正中線への直撃を免れたからかもしれない。
ベタつくシャツを脱ぐと、濡れタオルを持ってきた庄助が驚いたように口を開けて景虎を見た。
「どうした」
「……あ、ちゃうねん。刺青、キレーやなって」
筋肉で盛り上がった双肩には、それぞれ虎が一匹ずつ。しなやかな背中に般若の面と緋牡丹が散っていて、尻の方まで続いている。景虎の刺青をちゃんと見たのは初めてだった。
景虎に湯で濡らしたタオルを渡す。締まって見事に6つに割れた腹は、男同士なのに見てはいけないような気持ちになって目を逸らした。首筋や脇腹を拭き上げている景虎に、庄助は遠慮がちに声をかけた。
「背中、俺……拭こっか?」
いつもと違ってしおらしい声音に、景虎は思わず笑ってしまう。
「見たいのか」
「や……そういう、わけじゃないけどよ」
照れたようにそっぽを向く手にタオルを預けて背を向け、景虎はそのままソファベッドに座り直した。庄助もそれに続いて掛ける。二人分の体重でスプリングがギッと音を立てて軋む。
「……痛かった?」
そっと背中に濡れた感触。庄助がすん、と小さく鼻を鳴らした。冷めかけたタオルで、ぺたぺたと背中を拭いてゆく。なんとなく刺青の入った皮膚は冷たいのかと思っていたが、そうではなかった。ちゃんと温かい、人間の体温だ。
「どっちが。さっきのか? それとも、刺青か?」
「あ、ごめん。刺青のほう。こんだけ彫るの、時間かかりそうやし。トラは景虎のトラ? それはわかるけど、背中は? なんでハンニャにしたん?」
「……忘れた。あんまり、憶えてない」
矢継ぎ早な質問を、少し投げやりに返した。しかし景虎は本当に、刺青を入れた当時のことをあまり憶えてはいなかった。別に自分の意志で決めたわけじゃない。親代わりの矢野組長が進言してきた図案を、断る理由が特になかっただけだ。
「そっか……うん、でもめっちゃきれい、かっこいい」
背中の模様をなぞる庄助の指がくすぐったかった。綺麗だなんて思ったことがなかった、特別気にかけたこともなかった刺青のことを、そんなふうに褒められるなんて思いもよらなかった。
今まで同衾した女にだって言われたことがない。いや、言われたのかもしれないが、意識しなかった。
「きれいな赤やな。俺もいつか、こういうの入れるんかな」
牡丹の花に触れながら、庄助は言う。
景虎は、庄助のまっさらな背中を這う、機械の針のピストンを思い描いた。肌を破って侵入する墨と、じわりと滲む赤い血を拭き取るティッシュペーパー。断続的なちくちくとした痛みを涙目で耐える庄助の姿を想像したとき、景虎はうっすら欲情している自分に気づき、驚いた。
「終わったで」
庄助はぽんと肩を叩くと立ち上がり、洗面所の洗濯かごにタオルを投げ入れてすぐに戻ってきた。
「他には? 俺にしてほしいことある?」
「いや……」
「ほんまに? なんかあったら言うてや」
隣で覗き込んでくる庄助の瞳の表面を被う涙の膜が、西陽を受けて光っている。少しは反省しているのか、殊勝にしている庄助を見ると、不思議な気持ちが頭をもたげる。頬を抓りたいような、齧り付きたいような。誰かに対してそんなことを思うのは初めてだった。
「あのさ、ほんまさっき……ごめん。俺、めっちゃアホやった」
素直に謝ることができるのは美徳だ。下を向く庄助の頬のうぶ毛にばかり見とれている自分が嫌になるほどに。正体の分からない欲望はどんどんと景虎の腹の中で堆くなってゆき、今にも喉を破って手を出しそうだ。
「俺なんか置いていったらよかったのに」
ポツリと自虐的にそう言われて、景虎はカッと目を見開いた。はらわたが急に燃えるように熱くなり、景虎はほぼ無意識に庄助の右の手首を捕まえた。
「つまらんことを言うな」
「え……っ」
突然のことに庄助は目をまるく見開いた。
怒りに似た疼きに、胃の腑のあたりが脈動する。景虎は、自分の代わりに庄助があの丸太のような拳に打ち据えられて組み伏せられていたかと想像すると、それだけで気持ちが煮え立つようだった。
「あ! おい痛いって……!」
景虎の指が、ギリギリと骨にめり込む。庄助は驚いて手を引こうとしたが、景虎の力は万力のように圧倒的だった。
「なあ、庄助。俺が仮にお前をあの場に置き去りにしたら、どうなってたと思う」
「それは……どつき回され……たり?」
「そうだな。殴られて、犯されて、いじめ抜かれてボロボロにされて。もう殺してくださいって泣く頃には、山に捨ててもらえるかもな?」
そう言って強めに握り込むと、庄助は痛みに目を瞑った。怒られているのがわかっているのか、普段ならもっと強気で拒否するだろうに、されるがままになっている。かき混ぜられた澱のようにむらのある衝動が、景虎の血中を行き来した。
「……なんなん? カゲ、なんか変や」
「たしかに変だな。腹の中がモヤモヤする。こんな気持ちは、初めてだと思う」
「腹がモヤモヤするのは、さっき殴られたからちゃうんか」
ただならぬ雰囲気を、庄助は冗談を言ってやり過ごそうとした。
「……ふぅん、まだ茶化す余裕があるのか?」
反対の手首も掴んでしまうと、庄助は抗議するように眉をひそめた。痛い、と小さく呟いた声が不安そうに揺れた。
「……カゲ」
庄助は恐る恐る景虎の顔を見た。いつもあまり感情の揺らぎの見えない景虎の目の色は今や、怒りと情欲で燃えている。恐れだけでない何かが背すじを走って、ゾクッとした。
「お前を見てると、興奮する」
そう言ったあと、ほんの一瞬二人して沈黙する。夕方の闇はからだを伸ばし、ソファに座る二人の足元まで来ていた。先に沈黙を破ろうとほんの少し開いた庄助の唇を、景虎が奪った。
庄助は家に着くまでの間ずっと泣きそうにそう言っていたが、家に着いてからも変わらず泣きそうだった。
「謝るくらいなら最初から調子に乗るな」
景虎にしたら別に殴られるくらい大したことはなかった。痛かったことには間違いないが、慣れている。肋骨も折れていないし、内臓にも特に異常はなさそうだ。
そもそも織原の代紋を出している時点で向こうは退くしかなかったので、殴られてやる必要はなかった。が、軽率な行動がどういった事態に繋がるのかを知れて、庄助にはいい薬になるだろうと思った。
「つ……」
腹筋に力を入れると少し痛む。景虎はソファベッドに腰掛けた。ふうと息をついてシャツの合わせの上から腹を撫でると、庄助が心配そうに隣に腰掛けた。
カーテンの隙間から、西陽が差している。電気を点けていない部屋の隅から、ゆっくりと夕闇が忍び込んでくる。庄助が朝飲んでテーブルに置きっぱなしにしたペットボトルのミネラルウォーターの残りが、差し込んだ夕陽に当たってオレンジ色にきらきらと輝いている。
「寝転ぶ?」
「いや、このままでいい。なあ、タオルを濡らして持ってきてくれるか」
痛みに耐えた際に吹き出た脂汗で、シャツが張り付いて気持ちが悪かった。
庄助はすぐさま立ち上がると、洗面所へ走った。バシャバシャと水を派手に使っている音が聞こえてくる。ボタンを外して腹を見たが、特に腫れてはいなかった。衝撃の瞬間、微妙に体幹をずらして、正中線への直撃を免れたからかもしれない。
ベタつくシャツを脱ぐと、濡れタオルを持ってきた庄助が驚いたように口を開けて景虎を見た。
「どうした」
「……あ、ちゃうねん。刺青、キレーやなって」
筋肉で盛り上がった双肩には、それぞれ虎が一匹ずつ。しなやかな背中に般若の面と緋牡丹が散っていて、尻の方まで続いている。景虎の刺青をちゃんと見たのは初めてだった。
景虎に湯で濡らしたタオルを渡す。締まって見事に6つに割れた腹は、男同士なのに見てはいけないような気持ちになって目を逸らした。首筋や脇腹を拭き上げている景虎に、庄助は遠慮がちに声をかけた。
「背中、俺……拭こっか?」
いつもと違ってしおらしい声音に、景虎は思わず笑ってしまう。
「見たいのか」
「や……そういう、わけじゃないけどよ」
照れたようにそっぽを向く手にタオルを預けて背を向け、景虎はそのままソファベッドに座り直した。庄助もそれに続いて掛ける。二人分の体重でスプリングがギッと音を立てて軋む。
「……痛かった?」
そっと背中に濡れた感触。庄助がすん、と小さく鼻を鳴らした。冷めかけたタオルで、ぺたぺたと背中を拭いてゆく。なんとなく刺青の入った皮膚は冷たいのかと思っていたが、そうではなかった。ちゃんと温かい、人間の体温だ。
「どっちが。さっきのか? それとも、刺青か?」
「あ、ごめん。刺青のほう。こんだけ彫るの、時間かかりそうやし。トラは景虎のトラ? それはわかるけど、背中は? なんでハンニャにしたん?」
「……忘れた。あんまり、憶えてない」
矢継ぎ早な質問を、少し投げやりに返した。しかし景虎は本当に、刺青を入れた当時のことをあまり憶えてはいなかった。別に自分の意志で決めたわけじゃない。親代わりの矢野組長が進言してきた図案を、断る理由が特になかっただけだ。
「そっか……うん、でもめっちゃきれい、かっこいい」
背中の模様をなぞる庄助の指がくすぐったかった。綺麗だなんて思ったことがなかった、特別気にかけたこともなかった刺青のことを、そんなふうに褒められるなんて思いもよらなかった。
今まで同衾した女にだって言われたことがない。いや、言われたのかもしれないが、意識しなかった。
「きれいな赤やな。俺もいつか、こういうの入れるんかな」
牡丹の花に触れながら、庄助は言う。
景虎は、庄助のまっさらな背中を這う、機械の針のピストンを思い描いた。肌を破って侵入する墨と、じわりと滲む赤い血を拭き取るティッシュペーパー。断続的なちくちくとした痛みを涙目で耐える庄助の姿を想像したとき、景虎はうっすら欲情している自分に気づき、驚いた。
「終わったで」
庄助はぽんと肩を叩くと立ち上がり、洗面所の洗濯かごにタオルを投げ入れてすぐに戻ってきた。
「他には? 俺にしてほしいことある?」
「いや……」
「ほんまに? なんかあったら言うてや」
隣で覗き込んでくる庄助の瞳の表面を被う涙の膜が、西陽を受けて光っている。少しは反省しているのか、殊勝にしている庄助を見ると、不思議な気持ちが頭をもたげる。頬を抓りたいような、齧り付きたいような。誰かに対してそんなことを思うのは初めてだった。
「あのさ、ほんまさっき……ごめん。俺、めっちゃアホやった」
素直に謝ることができるのは美徳だ。下を向く庄助の頬のうぶ毛にばかり見とれている自分が嫌になるほどに。正体の分からない欲望はどんどんと景虎の腹の中で堆くなってゆき、今にも喉を破って手を出しそうだ。
「俺なんか置いていったらよかったのに」
ポツリと自虐的にそう言われて、景虎はカッと目を見開いた。はらわたが急に燃えるように熱くなり、景虎はほぼ無意識に庄助の右の手首を捕まえた。
「つまらんことを言うな」
「え……っ」
突然のことに庄助は目をまるく見開いた。
怒りに似た疼きに、胃の腑のあたりが脈動する。景虎は、自分の代わりに庄助があの丸太のような拳に打ち据えられて組み伏せられていたかと想像すると、それだけで気持ちが煮え立つようだった。
「あ! おい痛いって……!」
景虎の指が、ギリギリと骨にめり込む。庄助は驚いて手を引こうとしたが、景虎の力は万力のように圧倒的だった。
「なあ、庄助。俺が仮にお前をあの場に置き去りにしたら、どうなってたと思う」
「それは……どつき回され……たり?」
「そうだな。殴られて、犯されて、いじめ抜かれてボロボロにされて。もう殺してくださいって泣く頃には、山に捨ててもらえるかもな?」
そう言って強めに握り込むと、庄助は痛みに目を瞑った。怒られているのがわかっているのか、普段ならもっと強気で拒否するだろうに、されるがままになっている。かき混ぜられた澱のようにむらのある衝動が、景虎の血中を行き来した。
「……なんなん? カゲ、なんか変や」
「たしかに変だな。腹の中がモヤモヤする。こんな気持ちは、初めてだと思う」
「腹がモヤモヤするのは、さっき殴られたからちゃうんか」
ただならぬ雰囲気を、庄助は冗談を言ってやり過ごそうとした。
「……ふぅん、まだ茶化す余裕があるのか?」
反対の手首も掴んでしまうと、庄助は抗議するように眉をひそめた。痛い、と小さく呟いた声が不安そうに揺れた。
「……カゲ」
庄助は恐る恐る景虎の顔を見た。いつもあまり感情の揺らぎの見えない景虎の目の色は今や、怒りと情欲で燃えている。恐れだけでない何かが背すじを走って、ゾクッとした。
「お前を見てると、興奮する」
そう言ったあと、ほんの一瞬二人して沈黙する。夕方の闇はからだを伸ばし、ソファに座る二人の足元まで来ていた。先に沈黙を破ろうとほんの少し開いた庄助の唇を、景虎が奪った。
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