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第四章 領主夫人、母となる
9.今を知る(Side G)
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「…先ほどは、妻が失礼した。」
「いえ…」
殿下の命で訪れたアンブロス領視察。出立直前に妻であるアイシャが同行を願い出た際、一度は思い留まるよう説得を試みはしたが、家人を味方につけ、既に旅支度を整えていた彼女が説得に応じることはなかった。
が、それを結局は許容してしまったのは、他ならぬ自分自身。
(私も、大概、アイシャに甘い…)
その甘さが、ある種の罪悪感から来ていることも自覚しているから、彼女が望むならばと考えてしまう。
「…夫人には…」
隣を歩く男の言葉に視線を向けた。明かしては居なかった訪問目的の一つ、領軍の視察を快諾した辺境伯が、この場には居ない妻に対して言いあぐねたように言葉を探している。
「…夫人には、学院時代に大変お世話になりましたので。」
「ああ、いや…」
気遣いからと分かる言葉を曖昧に否定した。
「…ヴィルヘルムから多少は聞いている。その…、以前の降臨祭でも妻の干渉が過ぎたと…」
「…」
婚姻後もどこか安定しないアイシャ。アオイとの関係を完全に断ち切り、今は彼女一人を愛する男として、言葉でも態度でも示しているつもりなのだが、何故か、アオイが絡むと途端に彼女の均衡は崩れ去る。
「…その、巫女様、…アンブロス夫人にも失礼をした。」
「いえ…」
先ほどのアイシャの行動、身内でもなく、彼女が言葉にするほどには親しくもない辺境伯相手にとった態度は決して褒められるものでなく、実際、辺境伯も巫女も、彼女に対して戸惑いを隠せていなかった。
どころか、
(…アオイのあれは、かなり怒っていたな…)
側に居た期間は然程長くはない。それでも、密な時間を共に過ごしたからこそ分かるアオイの感情。怒り出す寸前の彼女の表情は、しかし─
「…見えてまいりました。あちらが領軍の営舎になります。」
「ああ…」
辺境伯の指し示す先、そこに見える光景に、暫し言葉を忘れた。
「…これは…」
「調練中ですね。抜き打ちのような形になってしまったため、全軍規模ではありませんが。…現在の我が領が保持する軍の規模は一個大隊、平常時の構成人数は…」
「…」
辺境伯が口にする領軍の解説、既に公式書類でも、間者の定期報告でもあげられている内容と寸分違わぬそれに耳を傾けながらも、視線は全く別のものを追っていた。
「…アンブロス卿…」
「はい…?」
「あれは…?」
指さす先には赤の巨体、馬車によく似たそれは、しかし、牽引もなく地を走っているように見える。
「…あれは、『装甲車』と言います。」
「装甲車…?」
「はい。…妻の発案で造られたものですが、…そこまでは、王太子殿下も把握されていらっしゃいませんでしたか?」
「…」
「アンブロス領としては、あれは領軍の装備、魔道具の一種として位置付けており、そのように報告もあげております。」
言われて思い出す。確かに、アンブロス領躍進の裏に「魔道具開発の促進」があるとは聞いていたが─
「…近くで、ご覧になりますか?」
「…可能ならば。」
情報を秘匿するつもりはないのか、何の躊躇もなくそう口にした辺境伯の後に続き、調練場へと向かう。向かう途中で目にしたのは、また別の光景。
「あそこの者達は…」
思わず口にした言葉に、前を行く辺境伯が振り返る。こちらの視線の先を追って、小さく首を傾げた。
「…彼らは王都より招いた鍛冶工房の者達ですが?」
「ああ…」
「…お知り合いでしたか?」
「いや…。騎士団に剣を納めてくれていた工房の一つだ。…いい剣を作るため、工房主の顔だけは見知っていた…。そうか、店を畳んだとは聞いていたが…」
(…この地へ来ていたとは。)
今は、アンブロス領軍に剣を納めているのか、領軍の者達と何やら熱心に会話する彼らの側を通り過ぎる。
「…アンブロス領は…」
「はい…?」
「随分と、軍備に力を入れているようだが。…それは、やはり、それだけ魔の物討伐が厳しくなっているということだろうか?」
或いは、それ以外の目的があるのなら─
未だ腹芸の出来そうにない年若の領主に直截に尋ねれば、返って来たのはどこか苦笑めいた答え。
「…妻が、不安がるのです。」
「…夫人が?」
「ええ。…彼女は、例えそれが領軍の職務であろうと、彼らが傷つくことを酷く恐れています。ですから、彼らの安全を担保しながら職務を全うしてもらうべく試行錯誤する内に、このような形に…」
「…」
辺境伯の語るアオイの姿が自身の知る彼女の姿と乖離し、酷く困惑する。
(…アオイが、そのようなことを…?)
王都に居た頃、アオイがまともに会話するのは殿下を始め、自身を含む三人に限られていた。彼女のためにと選び抜かれた侍女らにも心を開くことなく、ただ淡々と王宮での時を過ごしていた彼女に、一体、どのような心境の変化があったというのか。
「…あちらも、アオイのそうした配慮の結果です。」
「あれは…」
辺境伯の指さす先、今まさに、魔物討伐を終えて帰還したらしき一団に目を見張る。正確には、彼らが持ち帰ったと思しきその成果に。
「…彼らがああして無事に魔物討伐を行えるようになったのも、妻の結界魔術のおかげです。」
「結界魔術…。巫女、…夫人は結界魔術を使うことを、その、忌避するようなことは…」
「ありません。彼女は、腹に子を宿すその間も、彼らのためにと領軍通いを続けておりました。」
「…」
信じられぬような話の数々。あれほど、巫女としての立場を厭い、結界魔術を行使することを拒否し続けた彼女が、自らの意志でその力を奮うとは。
(…だが、辺境伯の言葉が真であるならば…)
彼女を変えたのは、まず、間違いなく目の前の男─
「…アンブロス卿。」
「…はい。」
目の前、泰然と構える男の後ろには、アンブロス領軍の姿。自身の騎士団を率いて「勝てるか」と自問した時に、今は「否」と答えざるを得ない武力の頂点に立つ男に問う。
「…先ほど、話に出て来た卿の御子について…」
「…」
「…巫女様のご息女について、お尋ねしたいことがある。」
「いえ…」
殿下の命で訪れたアンブロス領視察。出立直前に妻であるアイシャが同行を願い出た際、一度は思い留まるよう説得を試みはしたが、家人を味方につけ、既に旅支度を整えていた彼女が説得に応じることはなかった。
が、それを結局は許容してしまったのは、他ならぬ自分自身。
(私も、大概、アイシャに甘い…)
その甘さが、ある種の罪悪感から来ていることも自覚しているから、彼女が望むならばと考えてしまう。
「…夫人には…」
隣を歩く男の言葉に視線を向けた。明かしては居なかった訪問目的の一つ、領軍の視察を快諾した辺境伯が、この場には居ない妻に対して言いあぐねたように言葉を探している。
「…夫人には、学院時代に大変お世話になりましたので。」
「ああ、いや…」
気遣いからと分かる言葉を曖昧に否定した。
「…ヴィルヘルムから多少は聞いている。その…、以前の降臨祭でも妻の干渉が過ぎたと…」
「…」
婚姻後もどこか安定しないアイシャ。アオイとの関係を完全に断ち切り、今は彼女一人を愛する男として、言葉でも態度でも示しているつもりなのだが、何故か、アオイが絡むと途端に彼女の均衡は崩れ去る。
「…その、巫女様、…アンブロス夫人にも失礼をした。」
「いえ…」
先ほどのアイシャの行動、身内でもなく、彼女が言葉にするほどには親しくもない辺境伯相手にとった態度は決して褒められるものでなく、実際、辺境伯も巫女も、彼女に対して戸惑いを隠せていなかった。
どころか、
(…アオイのあれは、かなり怒っていたな…)
側に居た期間は然程長くはない。それでも、密な時間を共に過ごしたからこそ分かるアオイの感情。怒り出す寸前の彼女の表情は、しかし─
「…見えてまいりました。あちらが領軍の営舎になります。」
「ああ…」
辺境伯の指し示す先、そこに見える光景に、暫し言葉を忘れた。
「…これは…」
「調練中ですね。抜き打ちのような形になってしまったため、全軍規模ではありませんが。…現在の我が領が保持する軍の規模は一個大隊、平常時の構成人数は…」
「…」
辺境伯が口にする領軍の解説、既に公式書類でも、間者の定期報告でもあげられている内容と寸分違わぬそれに耳を傾けながらも、視線は全く別のものを追っていた。
「…アンブロス卿…」
「はい…?」
「あれは…?」
指さす先には赤の巨体、馬車によく似たそれは、しかし、牽引もなく地を走っているように見える。
「…あれは、『装甲車』と言います。」
「装甲車…?」
「はい。…妻の発案で造られたものですが、…そこまでは、王太子殿下も把握されていらっしゃいませんでしたか?」
「…」
「アンブロス領としては、あれは領軍の装備、魔道具の一種として位置付けており、そのように報告もあげております。」
言われて思い出す。確かに、アンブロス領躍進の裏に「魔道具開発の促進」があるとは聞いていたが─
「…近くで、ご覧になりますか?」
「…可能ならば。」
情報を秘匿するつもりはないのか、何の躊躇もなくそう口にした辺境伯の後に続き、調練場へと向かう。向かう途中で目にしたのは、また別の光景。
「あそこの者達は…」
思わず口にした言葉に、前を行く辺境伯が振り返る。こちらの視線の先を追って、小さく首を傾げた。
「…彼らは王都より招いた鍛冶工房の者達ですが?」
「ああ…」
「…お知り合いでしたか?」
「いや…。騎士団に剣を納めてくれていた工房の一つだ。…いい剣を作るため、工房主の顔だけは見知っていた…。そうか、店を畳んだとは聞いていたが…」
(…この地へ来ていたとは。)
今は、アンブロス領軍に剣を納めているのか、領軍の者達と何やら熱心に会話する彼らの側を通り過ぎる。
「…アンブロス領は…」
「はい…?」
「随分と、軍備に力を入れているようだが。…それは、やはり、それだけ魔の物討伐が厳しくなっているということだろうか?」
或いは、それ以外の目的があるのなら─
未だ腹芸の出来そうにない年若の領主に直截に尋ねれば、返って来たのはどこか苦笑めいた答え。
「…妻が、不安がるのです。」
「…夫人が?」
「ええ。…彼女は、例えそれが領軍の職務であろうと、彼らが傷つくことを酷く恐れています。ですから、彼らの安全を担保しながら職務を全うしてもらうべく試行錯誤する内に、このような形に…」
「…」
辺境伯の語るアオイの姿が自身の知る彼女の姿と乖離し、酷く困惑する。
(…アオイが、そのようなことを…?)
王都に居た頃、アオイがまともに会話するのは殿下を始め、自身を含む三人に限られていた。彼女のためにと選び抜かれた侍女らにも心を開くことなく、ただ淡々と王宮での時を過ごしていた彼女に、一体、どのような心境の変化があったというのか。
「…あちらも、アオイのそうした配慮の結果です。」
「あれは…」
辺境伯の指さす先、今まさに、魔物討伐を終えて帰還したらしき一団に目を見張る。正確には、彼らが持ち帰ったと思しきその成果に。
「…彼らがああして無事に魔物討伐を行えるようになったのも、妻の結界魔術のおかげです。」
「結界魔術…。巫女、…夫人は結界魔術を使うことを、その、忌避するようなことは…」
「ありません。彼女は、腹に子を宿すその間も、彼らのためにと領軍通いを続けておりました。」
「…」
信じられぬような話の数々。あれほど、巫女としての立場を厭い、結界魔術を行使することを拒否し続けた彼女が、自らの意志でその力を奮うとは。
(…だが、辺境伯の言葉が真であるならば…)
彼女を変えたのは、まず、間違いなく目の前の男─
「…アンブロス卿。」
「…はい。」
目の前、泰然と構える男の後ろには、アンブロス領軍の姿。自身の騎士団を率いて「勝てるか」と自問した時に、今は「否」と答えざるを得ない武力の頂点に立つ男に問う。
「…先ほど、話に出て来た卿の御子について…」
「…」
「…巫女様のご息女について、お尋ねしたいことがある。」
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