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第八章

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「……何を、言っているの……?」

レジーナは、本気でリオネルが何を言っているのかがわからなかった。茫然としたまま聞き返し、それに、彼が真剣な表情で見つめ返したことで漸く、彼の言葉を理解する。

(本気なの……?)

けれど、理解した後も、レジーナの胸の内に浮かんだのは喜びではなかった。僅かな不快と共に、「彼の意図は何だろう」と疑問に思うだけ。婚約破棄を無かったことにして、彼は何をしたいのか。その答えを探ろうとしている自分に気が付いて、レジーナは小さくため息をついた。

「あなたの頼みはきけないわ」

最早習い性、つい条件反射的に、彼が言葉にしない部分を読みとろうとしたが、そんなものは必要ない。彼の思惑が何であれ、レジーナの答えは一つしかないのだから。

「婚約破棄を無かったことには出来ない」

言い切ったレジーナに、リオネルの表情が歪む。泣きそうな顔で前髪を掻き上げたリオネルが、小さく「そうだな」と呟いた。

拒絶をあっさりと受け入れたリオネルに内心で安堵して、レジーナは立ち上がる。一人になりたかったが、彼に捕まってしまった以上、この場に長居は無用。立ち去ろうとしたレジーナだったが、その行く手をリオネルに阻まれた。

「……まだ、何かあるの?」

「すまない。もう少しだけ、どうしても、君に話を聞いて欲しい。聞いてくれるだけでいいんだ……」

今までのように、怒るでも諌めるでもなく、ただただ懇願するリオネルに、レジーナは戸惑う。その一瞬の躊躇に、彼が一歩、二人の間の距離を詰めた。

「レジーナ、私は君とやり直したい」

「それはもう断ったでしょう?できないと言ったはずよ」

「分かっている。婚約破棄をなかったことにはできない。……だが、また新たにやり直すことはできないだろうか?」

彼の言葉が信じられず、レジーナは言葉を失う。二人の間にやり直せるものなど何もない。それは、彼自身が粉々に打ち砕いてしまったのだから。

レジーナの中に怒りが生まれる。悔しくて、腹立たしい。簡単に「やり直し」を口にする彼が許せなかった。怒りに任せて口を開きかけたレジーナだったが、リオネルがその先を制す。

「私に対する君の怒りや不信はもっともだ。私の裏切りを思えば当然のこと。それは甘んじて受け入れる」

「……」

「だが、どうかお願いだ。私を切り捨てるのだけは止めてほしい。私たちの間にあったものを、全て無かったことにはしないでくれ」

自分勝手な彼の言葉に、レジーナは嗤いそうになった。二人の間にあったもの。それがあったからこそ、自分はあれほど苦しんだというのに――?

「……あなたは、エリカを愛しているのでしょう?」

怒りを押し殺したレジーナの言葉に、リオネルはそっと視線を逸らす。そのことがまた、レジーナの怒りを誘った。

(どうして即答しないの?)

彼女を愛しているからこそ、自分との婚約を破棄したのではないか。「切り捨てるな」というが、先に自分を切り捨てたのはリオネルの方だ。そこまでして手に入れた愛を――例えシリルのことがあろうと――簡単に手放してしまえるものなのか。

(その程度の想いで、私は捨てられたというの……?)

レジーナの胸の内に、グルグルと怨嗟がとぐろを巻き始める。だが、リオネルがそれに気づいた様子はない。

「……エリカは、エリカのことは、何というか……。私は、彼女に理想を見すぎていたのだと思う」

彼はレジーナを見ることもせず、ただ、苦渋に満ちた自身の思いを吐き出す。

「彼女の姿に理想を重ねて、彼女ではない『誰か』に恋をしていた。……それに気付いた今、私は己の愚かさを痛感している」

吐き出して、漸くレジーナに視線を向けたリオネルが、レジーナの右手を取ろうとした。レジーナが咄嗟に避け、届かなかった距離に、二人の間に沈黙が落ちる。

リオネルが、深い溜息をついた。

「君と築いてきたもの、これから築いていこうとしていたもの、それら全てを投げ出してしまうなんて、本当に、愚かだった……」

初めて目にするリオネルの姿。常の自信を失い、打ちひしがれる彼を、レジーナは黙って見つめる。

レジーナの視線を真っすぐ受け止めたリオネルが、片足を引き、その場に跪いた。

「……レジーナ、私のことを一生許さなくて構わない。それでも、どうか、もう一度だけ、私に償いの機会を与えてくれないか」

言って、リオネルが右手を差し出した。その手が震えている。

「どうか、私と共に歩く未来を考えてほしい」

不安に揺れる瞳、差し出された手を見下ろして、レジーナの胸には様々な思いが去来する。

リオネルが私を選んだ。私の元に戻ってきた。思い描いていた未来を共に歩こうと願ってくれている。

(これが、三日前なら……)

三日前なら、レジーナはきっと彼を受け入れた。彼への執着を捨てて、「これで楽になれる」と嘯きながらも、結局は捨て切れない想いがあったから。彼の裏切りも何もかもなかったことにして、その手をとっただろう。

そして、きっとまた、泣くのだ――

「……レジーナ?」

知らず自嘲したレジーナに、リオネルが戸惑いを見せる。行き場のない彼の手を見下ろして、レジーナは告げた。

「あなたと共に生きるのは無理よ」

「っ!レジーナ!」

悲痛な叫びをあげたリオネルに、レジーナは首を横に振る。

「あなたって、笑って心にもないことを口にするの」

「それは、君を傷つけたくなくて!……いや、だが、反省する。君を余計に傷つけていたというのなら二度としないと誓う。だから、どうか……!」

必死に言い募るリオネルの言い分は分かる。確かに、全てを言葉にされていれば、それはそれで、レジーナは傷ついていただろうから。だから、問題はそこではない。

「私は、あなたの『正しさ』がつらい。あなたの期待を裏切る度、あなたは私に失望していく。その度、私は自分の至らなさを痛感して、自分が惨めで駄目な人間に思えてしまうの」

「待ってくれ!そんなつもりはないんだ!」

リオネルの叫びに、レジーナは首を横に振る。

「あなたの理想が悪いわけではないわ。期待外れに失望してしまうのも仕方ないことだと思う。だけど、私はそれを読めてしまうから……」

例え「弱さ」だ「甘え」だと言われようと、否定され続け磨耗したレジーナには、もう抗う気力も、努力する恋慕どうきも残されていない。

「きっと、あなたは正しい。だけど、その正義に到らない私を、到らない私のまま愛してくれる人でなければ、私にはもう無理なの」

レジーナの言葉に、リオネルが立ち上がる。触れんばかりの距離に近づいて、レジーナを見下ろした。

「レジーナ、すまない!君をそこまで傷つけていたとは……!気付けなかった私を許してほしいとは言えない。だが、努力する!きっと、変わってみせる!私は、ありのままの君を愛してみせるから!」

「違うわ……」

そうではないのだと、レジーナは首を横に振る。

リオネルに――他の誰であろうと、愛する努力をして欲しいわけではない。そんなことをする必要ないくらい、自分を認めて必要としてほしいだけ。

(……それに、求めてほしい相手はリオネルじゃない……)

脳裏に浮かぶ人の姿に、レジーナの胸がツキリと痛む。彼への告白の答えは保留されたまま。彼とここでお別れになる可能性を考えると、レジーナは泣きそうになる。

「……レジーナ」

不意に、リオネルがレジーナを抱きしめた。初めての温もり、かつて慣れ親しんだ匂いを、レジーナは彼の胸に両手を突っ張り拒絶する。

「離して、リオネル……」

「駄目だ……!」

そう口にしたリオネルの腕の力が強まる。

「レジーナ、頼む、どこにも行かないでくれ。私の心を、君への想いを疑わないでほしい。私の心をいくら読んでくれても構わない」

レジーナの耳に、リオネルが深く息を吸う音が聞こえた。

「私には、君が必要なんだ……!」




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