殿下、今日こそ帰ります!

猫子猫

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第8羽・殿下と現代用語

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 結局、一度口にしてしまった事もあって、ハンガーストライキをしても無駄と悟り、エミリアはカートの料理も食べることにした。

 少しだけ、と思ったのに、気付けばカートの上の皿は空である。ランスが言葉巧みに、次々に勧めてきた上に、味が抜群に良くて手が止まらなかったのだ。

 食は細い方だったはずなのに、身体が違うせいか、とんだ大食いである。

 いらないと言いながら、ぺろりと平らげたエミリアは、気まずいったらない。ランスは部屋の入り口までカートを押していき、侍女らしき者を呼んで下げさせると、扉を閉めて戻って来た。
 目を泳がせている彼女の傍に座り、優美に微笑む。

「さて」
「……あの、お家に……」
「帰りたいのか?」

 エミリアは何度も首を縦に振る。男爵とは昨日別れたばかりだ。血は繋がっていないとはいえ、一応は娘である。いきなり王子に連れ去られて帰ってこないともなれば、多少なりとも心配しているはずだと思うのだ。

 王子の妾になれなどと言っていたから、ちょっと怪しい気もするが。

 そんなエミリアの密かな悩みを、彼は正確に突いてきた。

「お前が寝ている間に、男爵には使いを送っておいた。ぜひお前を預かってくれと言ってきたぞ」
「はい⁉」
「必要な物があるなら、届けるそうだ。なにかあるか?」
「あー……えええっと……!」

 何しろ、先日覚醒したばかりである。思い入れのある品などない。気になるとしたら、あの七色の鳥だが、飛び去って行ったので、別に男爵家で飼っているものでもないだろう。

 言い淀むエミリアに、ランスはにっこりと笑った。

「無いな。それならいい。お前がこれからここで生活するのに必要な物は、全て俺が買い揃える。ドレスも、コルセットも、全部一から作らせるからな」
「い、いらないわ……」
「俺の寝室から出たくないなら、それでも良いぞ。俺が全部、世話をしてやる」

 むしろその方がいいと言わんばかりである。エミリアは冷や汗が止まらない。相変わらず楽し気な彼を見据え、このまま流されてなるものかと意を決する。

「これは拉致・監禁だと思うのよ」

 法律違反である。逮捕される案件だ。

「どこがだ? 俺はお前を縛っていないし、牢にも入れていない。やられたいなら、そうするが?」

「私の国の法律では、犯罪です!」
「この国は王権が強い。そして、俺は王族だ。多少の無理は通る。駄目でも押し通す」

 ぐっとエミリアは言葉に詰まる。そうだった。彼は第一王子である。自分を部屋に引きずり込んでも、誰も異議を唱えているような空気が感じられない。彼の命令で食事を用意し、服も揃え、後は殿下のお好きなようにとばかりに静かなものである。

「け、権力を振りかざすなんて……」
と、せめてもの抵抗に、抗議してみたが。

 ランスは冷笑した。

「権力ってものはな、使うためにあるんだよ」

 将来の為政者候補が怖いことを言っている。この国は大丈夫かと、エミリアは呻いた。
 優しい笑みを浮かべながら、冷徹な目をして、毒を吐かないで欲しい。
 頭を抱える彼女に、ランスはくすくすと笑った。

「お前がいた世界は違うのか?」
「えぇ! もちろんよ。殿下みたいな方は――――」

 言いかけて、止める。彼の性格や言動はともかくとして、この美貌は芸能人になれる容姿だ。街中を歩いていれば、確実に釘付けにするに違いない。周りにあっという間に女の子たちが集まって――――それは、今でも大して変わらないか。

「いたか?」
「少なくとも、私の職場には……いなかったわね」

 雪だるま式に積み上がっていく仕事の山に追われて、誰も彼も顔色が悪かった。いきなり職場に来なくなった者もいたが、いつもの事らしく誰も気にしなかった。その分の仕事が別の者に割り振られ、もしくは新しく入って来た者に渡されて、粛々と日々は進んでいく。

 お前の仕事なんて誰でもできる。いくらでも代わりがいるんだぞ。

 寝不足と過労で体調を崩し、一日休んだ後で、歯を食いしばって出社し――――顔を見るなり苦々しそうに言った上司の言葉に、心が折れた。

 ――――私……辞めたんだったわ。

 辞表も出して、引継ぎも終えて。もう職場に行く必要もなくなったのに、習慣とは恐ろしいもので、いつものように出かけてしまったのだ。よっぽど寝ぼけていたらしい。

 ――――私にはがあるから帰らなきゃ、なんて……滑稽こっけいだわ……。

 エミリアは泣きたくなってきたが、さりとてそれをランスにいう訳にはいかない。では、帰らなくていいだろうと言われてしまいそうである。そうはいかない。

 表情を曇らせた彼女を見返していたランスは、怪訝そうな顔になった。

「職場? お前、働いていたのか」
「えぇ。事務職よ。書類を作ったり、整理して片づけたり。お客さんが来れば応対もするの」

「……なるほどな。そういう仕事は、この国にもあるぞ?」
「そ、そう……――――」

 事務仕事が好きだと言ったら勧められそうな空気だが、エミリアは曖昧に笑ってごまかした。辞めたばかりだと思い出したからだ。

「――――後は、お茶を淹れたりしたわね。それも一緒?」

 何の気なしに尋ねてみると、ランスの目が急に鋭くなった。

「おい、待て。お前がか?」
「もちろんよ!」

 エミリアは強く頷いた。最初に覚えた仕事が、お茶くみだ。

 同じ課の人たちは三十人ほどいた。まずは、全員の名前とコップ、席の位置を覚えなければならない。人それぞれ、好みも違った。緑茶が良いという人もいれば、熱い珈琲コーヒーにして、と淹れ直しを求められることもあった。

 古い習慣だと思ったし、入社して間もなく無くなったが、一人だけ最後まで嫌がった者がいた。有海の上司である。仕方なく、上司が諦めるまで続けろと先輩に言われ、彼にだけはしばらくお茶淹れを続けたのだ。

「みんな、途中から自分でするようになったけど、直属の上司だけは私がずっとお茶を淹れていたのよ。好みが結構あって、温度に量も気をつけたわね。日によって気分が違うから、機嫌が悪い時はお茶菓子も用意したりしたわ」

 実に大変だった。
 奥さんに逃げられるわけだ、と関係ない事まで思い出したエミリアは、傍らの男が殺気立った顔で「……俺を差し置いて……」とボソッと呟いたのを、完全に聞き逃す。

「……いい度胸だ」

「本当よね! でも、それも他の仕事が忙しくなったこともあって、しばらくしてやらなくなったわ」
「そうか。……命拾いしたな」
「え? えぇ、まぁ……」

 そこまでだろうかと思いながら、何だか懐かしさも覚えてきた。当時は辛くて仕方が無かったが、喉元を過ぎると何とやらだ。

「お昼ご飯はいつもお弁当を作って持って行って、食べていたわね。私、梅干しが大好きで、よく入れていたわ。実家でも、手作りをしていたから、馴染みが深いのよ。子供の頃は、みんなでちゃぶ台を囲んでご飯を食べたわ」

 料理が得意だった母親は、なんでも手作りをしていた。味噌や梅干し、沢庵など、どれも手がかかるものだが、マメな人だった。

 一方、さすがにランスも目を瞬いて、困惑顔だ。

「待て。ウメ……? ちゃぶ台とはなんだ?」

 問われて、エミリアは頬を染めた。自分のような異世界人が紛れ込んでいると聞いていたが、さすがに馴染みのないものだったらしい。

 説明するのは良いが、そこでまた新たな疑問が湧いてエンドレス、というのも困る。

 呑気に王子と会話をしている場合ではない。

「それよりも、殿下。私は帰りたいのですが」
「俺の質問に答えろ。それと、俺の事はランスと呼べと言っているだろう」

「殿下!」
「回答が先だ」

 頑として譲らない彼に、エミリアは軽く睨みつける。こんな事をしていたら日が暮れる。

「ちゃぶ台とは、腹が立ったらひっくり返す代物です!」

 やけっぱちで言い返す。ランスは目を丸くし、真っ赤になった彼女を見て、笑い出した。
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