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竜の三国

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 彼がそう一声吼えただけで、アネットの新たな見合い相手は勿論のこと、全く関係がなかった警護の竜までも怯え、慌ててその場から離れた。そのまま海に潜って逃げなかったのは、族長を置いていくわけにいかないからだ。
 アネットの母竜だけはその場から動かなかったが、彼女とて彼の凄まじい威圧感に畏怖を覚えていた。だが、それ以上に、衝撃を受けてもいた。

「まさか⋯⋯ジン⋯⋯さま⋯⋯?」
「よう、ちび。大きくなったじゃねえか」
「⋯⋯あれから、どれだけ時が経ったとお思いですか⋯⋯」

 母竜は今にも泣きだしそうな声で呟き、ジャックスに深く頭を垂れた。それを見て、遠巻きにしていた竜達も慌てて倣ったが、彼は面倒そうに見ただけだ。

 その代わりに、呆然と立ち尽くすアネットを見て、変態を解いた。アネットは自らも海へと足を踏み入れて、水をかき分け、彼の元へと駆け寄る。腰ほどまで海に浸かっていた彼は竜と化したせいで裸体を晒していたが、アネットはそのまま構わず彼に飛びついた。

「ごめんな、驚かせたか?」
「とっても!」

 アネットは訳が分からない。それでも、しっかりと抱きしめてくれた腕が、他の雄竜を追い払ってくれた姿が、途方もない安心感を与えてくれる。

 ジャックスは微笑んだ。

「俺は、かつてこの世を支配していた竜族の一員だ。そして、人間側に与して同族と戦った。お前の母竜がまだ赤子同然くらいのチビだった頃の話になる」
「貴方が⋯⋯私たちの一族の始まりとなった、始祖の竜⋯⋯」

「まぁ、そうなる。俺は水竜を率いていたが、飛竜のヴェルークや⋯⋯戦後になって人間に討たれた地竜の長は、みんな俺の戦友だった」
「⋯⋯人の裏切りにあって世を捨てたといっていたのは、ヴェルーク様の事だったんだね」

 今を生きる水竜たちは、始祖の戦いを目の当たりにした者はいない。長であるアネットの母親とて、物心がつく前の幼さだったからだ。
 ただ、彼らの勇猛な戦いと、人の裏切りにあって四散した結末は語り草になっていた。

 特に人へ憎悪を滲ませて去っていったヴェルークは有名だったが、水竜の間でもっと知られていたのは、水竜の長――――ジンである。

「そうだ。部下を庇って深手を負ったあいつは、休眠状態に入るしかなくなった。その前に、俺に別れを告げに、この地へ単身飛んできた」
「なんておっしゃったの⋯⋯?」
「お前は馬鹿だ。くたばれ、だと」

 目を丸くするアネットに、ジャックスは苦笑して頷いてみせた。

 無理もないと、彼は言う。

 支配者の竜族が除かれて解放された人間達は、今度は熾烈な覇権争いを始めた。ヴェルークやジャックスら竜の長たちが止めても聞かず、地竜の長が討たれた事で、始祖の竜族と人の同盟は決裂した。

 飛竜の長ヴェルークは人間達の裏切りに激怒し、ジャックスもまた憤りを覚えた。

 だが、彼は人間達を最後まで見捨てられなかった。

「大陸では地竜や飛竜たちを巻き込んで、人間達が権力闘争を起こしていたが、島国だったザッフィーロも例外じゃなかった。仲間だった人間達が、二派に分かれて王座を巡って争ってな。俺たちも否応なく巻き込まれた」
「⋯⋯犠牲が沢山でたって、母様が⋯⋯教えてくれた」

 水竜の部下達の間でも、どちらに味方するかで仲たがいが起き、彼の制止も聞かずに海で争ったからだ。
 ジャックスが何度も間に入ってようやく双方の牙をおさめさせた時、ただでさえ先の戦で疲弊し傷ついていた彼の身体は限界に近かった。

 それでもジャックスは、今度は王位を巡る人間達の争いを止めるために動いた。ようやく宥めた仲間たちを残し、単身陸に上がる事に決めた彼に、ヴェルークは容赦なく『お前は馬鹿だ』と言い切ったという。

「俺たちの戦いが収まっても、地上の人間達が争っていたら、また繰り返しかねない。それに、ある男に手を貸せとも言われた」
「⋯⋯悪知恵の働く、どうしようもない男って言っていた⋯⋯?」
「ザッフィーロの初代王だ」

 目を丸くするアネットに、彼は苦笑する。

「あいつの治世が安定して、ようやく肩の荷が降りた時には、もう限界でな。海に帰ろうとしたんだが、途中で力尽きて谷に落ちた覚えがある。下が深い川になっていなかったら、そのまま死んでいたかもな」
「怖い事をあっさり言わないで⋯⋯」

 嘆くアネットだが、ジャックスはやはり冷静である。かつて水竜を率い、戦を生き抜いた猛者であるからこそ持ちうる胆力だ。そのまま意識が途絶え、目が覚めた時には記憶も断片的だった。
 水竜であることは思い出せたが、さりとて陸地では都合が悪いからと、名を変え、人での生活を始めた。

 眠りに落ちてから時間も経ち、水竜たちは新たな時代を築いていた。

 もう自分の出る幕ではないだろう――そう思って、傭兵家業を始めた訳だが、『何の因果か』と嘆いたように、王宮に戻ってしまったという訳だ。

 ただ、ジャックスは全てを思い出した時、自分の正体が水竜でよかったと心から思った。愛しい彼女を腕に抱き、呆然と見つめる彼女の母竜に告げる。

「単刀直入に言う。アネットを俺の妻にしたい」
「ジン様⋯⋯お待ちください」

「不満か? 俺はその辺のクソガキどもよりも、マシだと思うが」
「そ、それはそうですが、我が娘は思慮も足りず、不相応では⋯⋯」

「どこがだ。アネットは素直で可愛いじゃないか。何事にも一生懸命だぞ。俺は何でもしてやりたいと思うくらいだ。お前も大分いい性格に育ったようだがな?」
「⋯⋯ほっほっほっ⋯⋯」

 母竜の目が泳ぐ。今の今まで散々馬鹿にしていた男が、伝説的な水竜の長であったのだから、大変に気まずい。

「ところで、ザッフィーロの初代王が、古の戦で死んだ俺の弟と人の女の間に生まれた者――いわゆる『竜人』だったという事を知っているか」
「⋯⋯竜の血が流れている事は承知しておりましたが⋯⋯ジン様のお血筋でしたか」

「あぁ。あいつは言いたがらなかったからな。何しろ、父親を嫉妬に狂った竜族の雌に殺されている。番だった母親を庇っての事だ」
「⋯⋯⋯⋯」

「竜の血の流れを汲む者は、時に竜語を解することができる異能を持つ。だから、あいつは死んだ父親が人間などを愛するからだと、竜族から密かに小ばかにされていたのも知っていた。竜族に対して思う事もあっただろう」

 素直じゃない男だったと、ジャックスは思う。
 父を殺され、母も失意の内に亡くなっていた。そんな孤独な甥っ子を、見捨てられるわけがない。

 最後までお前を利用してやる、と吐き捨ててきた甥に、ジャックスは笑って頷いていた。

 それでいい。お前の役に立てるなら。
 父の仇討ちをしなかったお前なら、負の連鎖を断ち切れるはずだ。
 俺は命を賭して、お前を助ける。人と竜を繋ぐ国を創りたいと、願ってくれたのだから。

 そう答えたら、甥っ子が真っ赤になって、ふいと顔をそむけた。

 あれは怒ったのか、照れたのか。何しろ一度も笑ってくれなかったから、今でも分からない。

 だが、自分が去った後、甥っ子は答えをくれた。ザッフィーロは今や人口も増え、他国の支配も受けない大国であるからだ。
 そして、弟や甥の一族の血の流れを汲む王家の危機を水竜たちが見限ろうとしていた事も、ジャックスは詰るまいと思った。そんな事よりも国を護れと、甥や弟は言うだろう。

「現王家は元をただせば俺の血筋で、アネットは水竜だ。俺達の結婚は、水竜と王家を繋ぐ縁になる。政略的にも、間違っていないと思うが?」
「⋯⋯海に戻られる気はないのですか」

「お前が立派に護ってくれている。俺は必要ない」

 アネットの母竜は、ジャックスを黙って見つめ、そして彼の腕の中にいる愛娘が片時も離れまいとしている様子を見て、小さくため息をついた。

「⋯⋯御意のままに」

 今一度深く首を垂れると、母竜はアネットに「よくお仕えせよ」と言葉をかけて、竜族たちを引き連れて海へと帰っていった。
 彼らを見送ったジャックスは、アネットを抱き上げ、軽々と片腕の上に乗せる。

「よし。政略結婚の成立だ」

 満足げな彼にアネットは目を丸くする。かつて、彼が渋々受け入れると言っていた事を思い出す。

「ザッフィーロの為にって言っていたのは⋯⋯この事だったの?」
「なんのことだ?」

 アネットが宰相と彼の会話を伝えると、ジャックスは苦笑して頷いて見せた。

「お前が海に帰るとか言い出したからな。約束は果たそうと思っていたが、そのまま去られるのはごめんだ。宰相は俺の元部下だったから、一緒に知恵を働かせた」

 ジャックスが消息を絶ち、ザッフィーロの初代王は『別に心配しているわけじゃないからな』と言いながら、手を尽くして探させた。それを知った彼の部下たちも陸にあがり、さりとて長は見つからず、失意の王を見かねて、人化して留まっていた者もいた。
 長寿の竜である宰相は、全く老けることが無い。だから、時々現れて人間社会に関わったり、姿を消してほとぼりが冷めるのを待ったりしながら、陸地での生活を謳歌していたのだという。

「そ、そうだったの⋯⋯」
「お前を口説き落とすのが一番だったんだが、万が一、逃げられるようだったら、お前の母親に政略結婚を持ちかける気でいた」

 ジャックスは艶然と微笑む。眼差しは優しく、アネットは頬を染めたが、何だかすさまじい彼の執念を感じる。

 それこそ、番である人に対する竜の執着を、優に超えるような。

「私を⋯⋯番のように思ってくれたの?」
「あぁ。例の証しは、竜である俺には出ない。あれは人間に現れる代物だからな。お前が母親から言われていたように、お前の番はどこかに今いるかもしれない」
「そんなの⋯⋯困る」

 本能で惹かれる相手よりも、ただひたすらジャックスを想いたい。
 心からそう思ったアネットに、彼はにっこりと笑った。

「心配するな。人間だろうが竜だろうが、他所の雄が入る余地など与えるものか。俺のものだと、きっちり刻んである」

 何のことだと目を瞬くアネットにジャックスは目を細め、空いていた一方の手でするりと彼女の腰を撫でた。

「きゃ⋯⋯っ⁉」

 途端に頬が赤く染まり、アネットは慌てて彼にしがみつく。

「俺のような始祖の最高位の竜族の力は強い。体液は伴侶と定めた相手を絡めとる力も抜群でな。他所の雄への本能を完璧に封じ込める。番だろうと同じだ」
「⋯⋯あ。だから、戦後になって、キスばかりしてきたの⁉」
「もっと褒美をくれと言って、そのまま寝室に連れ込もうとしていた」

 平然と言い放つジャックスに、アネットの目は泳ぐ。あの時、彼はもっと過激な行動に出ようとしていたと、やっと気づく。怪我をしていて良かったのか、悪かったのか。

「竜の姿でも、俺としてみるか?」
「⋯⋯短いと聞いたけど⋯⋯」
「足りないな。俺は人間の愛し方の方が好きだ」

 真っ赤になったアネットは、ジャックスに微笑みかけられ、小さく頷いた。

 後に飛竜の国が再興され、アルティナという新たな名で生まれ変わった。

 地竜が護る国、ルーフス。
 飛竜が護る国、アルティナ。
 水竜が護る国、ザッフィーロ。

 かの国々は長い戦いの末に、融和の時を迎える。そして、《竜の三国》と称され、比類なき栄華を誇った。

 その最中、喧嘩別れをした飛竜と水竜の長は再会を果たした。
 彼らは和解し、互いの無事を喜び合い。
 自分の伴侶がどれほど可愛いかを巡って、また大喧嘩をした。

 戦を終わらせることができても、あれだけは止まらないと、周りの者はみな匙を投げた。

【彼は政略結婚を受け入れた・了】
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