上 下
4 / 13

非常手段

しおりを挟む
 やがて、彼の政略結婚の話は、アネットの耳にも届いた。

 元が竜であることもあって、身体能力が高く、目も良ければ耳も良い。だから、一人のんびりと廊下を歩いていた時も、侍女たちの他愛のない雑談がどうしても聞えてくるのだ。

「ジャックス様は面倒見の良い方だから、ずっとお傍にいたアネット様が負傷されて、心配されているのは分かるけど⋯⋯いつ王宮から出すおつもりかしら」

「そうねぇ⋯⋯。水竜様とはいえ女性の姿をされているから、クローディア様も気分は良くないわよね。ジャックス様に早くお会いしたいと、何度も使者を送ってきているそうだけど⋯⋯このままだと顔を合わせてしまうわ」

「姫様からしたら、王妃になる好機ですものね⋯⋯。気がはやるのも当然よ。ジャックス様はどうするおつもりかしら? 悩ましいわね」

 そんな話を、アネットはもう何度聞いたか分からない。
 唯一の救いは、ジャックスが彼女をどう思っているのか、という事が一切伝わってこない点だ。

 将来が関わってくるだけに、彼も慎重になっているのかもしれない。

 アネットは、侍女たちと鉢合わせにならないよう、方向を変えた。自分は良くても、彼女たちは気まずいだろうと思ったからだ。最近、王宮の人々が少し余所余所しい。王都が平和になればなるほど、王座への関心が高まっているからだろう。

 ――――みんな、私の事は気にしなくていいのに⋯⋯。

 ジャックスにとって自分は戦友だ。海から出て、彼と共に戦うと名乗り出た時に、アネットは最初から彼にこうも言っていた。

『戦が終わって、ザッフィーロに平和が訪れたら⋯⋯私は海に帰るから』

 アネットが望んだ訳ではない。母竜との約束があったからだ。そして、もう一つの約束は結婚・・だった。

『海に帰ってきたらお前には見合いをして、子を産んでもらう。人間などにまたほだされても困るからな。良い雄を見つけておく』

 そう母竜からは釘を刺された。受け入れたのは、ジャックスへの想いは敬愛の念だからだと思っていたからだ。しかし、戦後になって、彼と触れ合うたびに、キスをされるたびに、優しく微笑まれ甘い声を聴くたびに。

 アネットの心はとろけそうになった。

 傷を負ったのは不覚だったし、よもや日々キスをされる事になるとは思ってもいなかったが、お陰でジャックスとゆっくり過ごせた。

 アネットにとって僥倖ぎょうこうといえたが、母との約束をたがえる訳にはいかない。ジャックスの元に留まりたいと願ったら、母は水竜の加護を今後一切与えないと言い放つだろう。戦禍に傷ついた国にとって大打撃になる。

 ――――このまま私が帰るのが⋯⋯お互いに一番いいこと⋯⋯。

 胸のうずきを感じながら、アネットは重い足取りで進んだ。その歩みも、曲がり角にさしかかった時に止まった。庭先で、宰相とジャックスの話し声が聞こえてきたからだ。

「――――クローディア様の事、早く公表された方が良いかと思いますよ。相当れていらっしゃるようで、今日も王宮に来たいから許可が欲しいと、使者が言ってきました」
「⋯⋯待てと言っておけ。アネットの傷の方が心配だ」

「もう治っているそうじゃありませんか」
「まだだ」

 頑として言い張る彼に、宰相は苦々し気な顔をしたし、ジャックスもいささか気まずげに目を逸らす。今は王宮に止めるための口実に使っていると、とっくに見抜かれているからだ。

 短い沈黙の後、彼は根負けしたように呟いた。

「⋯⋯なんて、俺は望んじゃいない」

「承知しておりますが、ザッフィーロのためです。貴方はそれを一番よくお分かりのはずかと思います。手段を選んでいる場合ではないでしょう」
「⋯⋯⋯⋯」

「アネット様も、きっと分かってくださるはずです。戦友だとおっしゃったではありませんか」
「⋯⋯そうだな。戦前に、俺は彼女を無事に故郷に帰すと約束した。それが果たせるだけでも⋯⋯まずは良しとするか」

 ジャックスも、最初に交わした約束を覚えていたと、アネットは思った。政略結婚も受け入れて、彼も伴侶を迎え入れ、新たな人生を歩み始めようとしている。

 ――――私たちの時間は⋯⋯終わったんだ。

 アネットは胸の中で小さく呟いて、頬を伝った涙を無造作に拭った。未練たらしく泣くのなんて恥ずかしい。ジャックスは王に相応ふさわしい男性だ。彼の立身出世を、自分は喜ぶべきだ。

 繰り返しそう戒めて、アネットは顔に笑顔を張りつけると、再び歩き出した。真っ先に彼女に気づいたのは、ジャックスだ。
 二人はアネットを見て話を切り上げたが、宰相もまた例にもれず気まずそうな顔をしていた。アネットは気づかない振りをして、彼に歩み寄った。

「アネット、傷は――――」
「もう平気。だから、私、そろそろ故郷に帰るね!」

 アネットは精いっぱいの虚勢を張る。泣きたくなるのを堪え、この時を待っていたとばかりに明るい声で告げた。ジャックスは息を呑み、一瞬顔を強張らせたが、短い沈黙の後に頷いてみせた。

「⋯⋯あぁ⋯⋯そうか」
「戦が終わったら、帰るって前に言ったでしょう?」

「⋯⋯覚えている。しかし、急だな?」

 ジャックスは冷静さを保っていた。前から彼女が言っていたことだから、いつかは切り出されると覚悟していたからだ。アネットは真面目である。彼女と交わした約束を反故にして、失望されたくもない。

 腕の中で自分に見惚れる彼女があまりに可愛くて、一日でも傍から離したくないと思うようになっていても、約束は約束だ。

 だから、彼は落ち着きを払っていたのだが――――アネットは無自覚にジャックスを振り回す天才だった。

「一族の竜と結婚して、子供を産むことにしたの!」

 強制的に見合いをさせられる、というのは、母の口止めがあるから言えない。さりとて、あまりに唐突であるという自覚もある。彼の結婚を邪魔したくないからという理由を、口にしたくもない。気を使われて、嫌な思いをさせるだけだからだ。

 だから、なるべく笑顔で告げた。ジャックスは、しばらく何も言わなかった。呆気にとられた顔をしてまじまじと彼女を見つめ、どこをどう見ても本気だと理解した瞬間、唸るように呟いた。

「⋯⋯⋯⋯もう一度言ってみろ?」
「け⋯⋯結婚するの! そして、子供を産むの!」

「繰り返すな!」
「待って! 言えって言ったの、貴方だよ!?」

 アネットだって何度も口にしたくはない。哀しくて仕方がないのだ。

 それなのに言えといった張本人が激怒してくるなんて、おかしい。

 ジャックスは自分でも矛盾したことを言ったと理解したのか、ギリっと唇を噛み締める。行き場を失った感情がどうにも抑えきれず、苛立ったように髪をくしゃりと掻き上げた。

 彼が黙ったのを、アネットは好機と受け取った。

「これから荷造りするから。じゃあ!」

 忙しなく駆け去っていく彼女を、ジャックスは呆然と見返すしかない。そして、とんでもない事態を目撃してしまった宰相は、さんざん視線をさ迷わせた挙句、そっとジャックスに声をかけた。

「アネット様は何故、急にあのようなことを⋯⋯。あの⋯⋯?」
「⋯⋯また一つ、思い出した」

「今度はなにを?」
「非常手段だ」

 そう呟いて、ジャックスは「使者に会う」と言って踵を返した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

会うたびに、貴方が嫌いになる

黒猫子猫(猫子猫)
恋愛
長身の王女レオーネは、侯爵家令息のアリエスに会うたびに惹かれた。だが、守り役に徹している彼が応えてくれたことはない。彼女が聖獣の力を持つために発情期を迎えた時も、身体を差し出して鎮めてくれこそしたが、その後も変わらず塩対応だ。悩むレオーネは、彼が自分とは正反対の可愛らしい令嬢と親しくしているのを目撃してしまう。優しく笑いかけ、「小さい方が良い」と褒めているのも聞いた。失恋という現実を受け入れるしかなかったレオーネは、二人の妨げになるまいと決意した。 アリエスは嫌そうに自分を遠ざけ始めたレオーネに、動揺を隠せなくなった。彼女が演技などではなく、本気でそう思っていると分かったからだ。

もう一度だけ。

しらす
恋愛
私の一番の願いは、貴方の幸せ。 最期に、うまく笑えたかな。 **タグご注意下さい。 ***ギャグが上手く書けなくてシリアスを書きたくなったので書きました。 ****ありきたりなお話です。 *****小説家になろう様にても掲載しています。

取り巻き令嬢Aは覚醒いたしましたので

モンドール
恋愛
揶揄うような微笑みで少女を見つめる貴公子。それに向き合うのは、可憐さの中に少々気の強さを秘めた美少女。 貴公子の周りに集う取り巻きの令嬢たち。 ──まるでロマンス小説のワンシーンのようだわ。 ……え、もしかして、わたくしはかませ犬にもなれない取り巻き!? 公爵令嬢アリシアは、初恋の人の取り巻きA卒業を決意した。 (『小説家になろう』にも同一名義で投稿しています。)

皇太子夫妻の歪んだ結婚 

夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。 その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。 本編完結してます。 番外編を更新中です。

最悪なお見合いと、執念の再会

当麻月菜
恋愛
伯爵令嬢のリシャーナ・エデュスは学生時代に、隣国の第七王子ガルドシア・フェ・エデュアーレから告白された。 しかし彼は留学期間限定の火遊び相手を求めていただけ。つまり、真剣に悩んだあの頃の自分は黒歴史。抹消したい過去だった。 それから一年後。リシャーナはお見合いをすることになった。 相手はエルディック・アラド。侯爵家の嫡男であり、かつてリシャーナに告白をしたクズ王子のお目付け役で、黒歴史を知るただ一人の人。 最低最悪なお見合い。でも、もう片方は執念の再会ーーの始まり始まり。

私を運命の相手とプロポーズしておきながら、可哀そうな幼馴染の方が大切なのですね! 幼馴染と幸せにお過ごしください

迷い人
恋愛
王国の特殊爵位『フラワーズ』を頂いたその日。 アシャール王国でも美貌と名高いディディエ・オラール様から婚姻の申し込みを受けた。 断るに断れない状況での婚姻の申し込み。 仕事の邪魔はしないと言う約束のもと、私はその婚姻の申し出を承諾する。 優しい人。 貞節と名高い人。 一目惚れだと、運命の相手だと、彼は言った。 細やかな気遣いと、距離を保った愛情表現。 私も愛しております。 そう告げようとした日、彼は私にこうつげたのです。 「子を事故で亡くした幼馴染が、心をすり減らして戻ってきたんだ。 私はしばらく彼女についていてあげたい」 そう言って私の物を、つぎつぎ幼馴染に与えていく。 優しかったアナタは幻ですか? どうぞ、幼馴染とお幸せに、請求書はそちらに回しておきます。

愛しき夫は、男装の姫君と恋仲らしい。

星空 金平糖
恋愛
シエラは、政略結婚で夫婦となった公爵──グレイのことを深く愛していた。 グレイは優しく、とても親しみやすい人柄でその甘いルックスから、結婚してからも数多の女性達と浮名を流していた。 それでもシエラは、グレイが囁いてくれる「私が愛しているのは、あなただけだよ」その言葉を信じ、彼と夫婦であれることに幸福を感じていた。 しかし。ある日。 シエラは、グレイが美貌の少年と親密な様子で、王宮の庭を散策している場面を目撃してしまう。当初はどこかの令息に王宮案内をしているだけだと考えていたシエラだったが、実はその少年が王女─ディアナであると判明する。 聞くところによるとディアナとグレイは昔から想い会っていた。 ディアナはグレイが結婚してからも、健気に男装までしてグレイに会いに来ては逢瀬を重ねているという。 ──……私は、ただの邪魔者だったの? 衝撃を受けるシエラは「これ以上、グレイとはいられない」と絶望する……。

政略結婚だけど溺愛されてます

紗夏
恋愛
隣国との同盟の証として、その国の王太子の元に嫁ぐことになったソフィア。 結婚して1年経っても未だ形ばかりの妻だ。 ソフィアは彼を愛しているのに…。 夫のセオドアはソフィアを大事にはしても、愛してはくれない。 だがこの結婚にはソフィアも知らない事情があって…?! 不器用夫婦のすれ違いストーリーです。

処理中です...