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羅刹道

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 翌朝、紅子が屯所に出仕すると、既に甚蔵は詰め所に来ていた。
 三笠と服部・梯、そして末永茂助すえなが もすけと話している。
 末永は梯と組んでいる男で、元は田沼家に仕える隠密だった男だ。年齢は三十三。視野が広く、頭も切れる。その上、殺しにも慣れているので逸撰隊に誘った男だが、使ってみてわかった事は、末永は異常なほどの集中力と根気の良さを有しているという事だった。
 痩せている上に背が低い事もあってか、その働き振りは蟻のようだ。釜の飯のご飯粒を数えろと命じれば、末永は嬉々として正確な数を導き出すだろうし、長時間の張り込みにも音を上げる事もない。指揮官としてはこれほど使いやすい人材はいないが、末永は病的なまでに吝嗇という欠点があった。賄賂も平気で受け取る。如何にして身銭を切らないか、それだけを考えて行動しているようにも見えるほどだ。

「お嬢、来たか」

 三笠が声を掛けてきた。

「聞いてくれ。加瀬が益屋に会いに行くと言ってんだ」
「益屋って、あの……」
「そうだ。武揚会ぶようかいに名を連ねる、益屋淡雲だ」

 甚蔵が紅子を一瞥して言った。
 江戸には暗い世界を取り仕切る首領おかしらが十数名いて、彼らは〔武揚会〕と称した親睦団体を通じて、八百八町を安定的に分割支配している。武揚会の面々は表は勿論の事、裏にも強い影響力を持ち、やくざや掏磨、金貸しに女衒ぜげんなど堅気の稼業でない者は、仲介者を通じて必ず土地土地の首領おかしらの世話にならなければならない。他にも厳しい掟があるのだが、こうした江戸の流儀に逆らえば、よくて怪我、返答次第では三途の川を渡る事になっている。
 益屋淡雲は、その武揚会でも一定の力を持つ首領おかしらだった。両国広小路での両替商を中心に、米問屋、材木商、薬種問屋、海運業と手広くやっている豪商を表の顔に持ち、裏では根岸一帯を仕切っている。

「知り合いなのかい?」

 紅子が訊いた。

「いや、知り合いが出入りしている。何とかなるかもしれん」
「その益屋から話を訊くというわけね」
「それもある。奴は江戸の裏事情に通じているしな。そして、益屋から盗賊を紹介してもらう。銭は必要だろうが」
「だが、お嬢。こいつは危険だぜ。今年の正月明けに、俺たちは益屋の子飼いを獄門送りにしたばかりだ」

 三笠の言葉に、紅子は頷いた。
 正月明けに、逸撰隊は〔夜霧の弥蔵〕という始末屋を捕縛し、獄門送りにしている。その弥蔵は、益屋のお抱えだったのだ。あわよくば、益屋もお縄にと考えたが、弥蔵の口は堅く、そこまでは辿り着かなかった。

「それに奴らに借りを作るのは良くない」

 そう言ったのは、末永だった。

「そうだ。武揚会と言って上品ぶっても、所詮は破落戸ごろつきだ。あとでどんな要求をされるかわかったもんじゃないぜ」

 珍しく、梯も真面な事を言っている。
 紅子は甚蔵に眼を向けた。

「加瀬、あんたの同僚はそう言っているよ」
「破落戸のような俺らが、何を怖がってんだって感じだな」
「何だと」

 掴みかかろうとした梯を、服部が無言で止めた。こういう時、服部は自分のする事を即座に判断して行う。

「悪い、そう怒るな。だが、隊務の為には手段を選ばねぇってのが逸撰隊おれたちじゃねぇのかい? 益屋も色々知っているだろうし、俺なら迷わず行くぜ」
「加瀬さんよ、あとで益屋が変な要求をしてきたらどうする?」
「そんときゃ、一合戦ひとあわせよ。それもいいじゃねぇか」
「正気かよ、あんた」

 梯が鼻を鳴らした。馬鹿には付き合いきれん、という様子だった。

「どうする、お嬢? 加瀬の話を訊いて、俺は有りだと思うが」
「面白いじゃない。いいだろう、これからあたしと加瀬で益屋に会いに行く。三笠と服部、梯と末永はそれぞれ聞き込み。特に悪そうな連中にだ。他の者は詰め所待機」

 そう言うと、三笠が隊士たちに指示を出した。
 紅子は甚蔵と共に甲賀のところへ行き、軍資金の三十両を受け取った。同席した勝は武揚会の事、益屋の事を喧しく言ったが、冷静な甚蔵の説明で納得したようだ。甲賀は相変わらずで、「面倒を起こすなよ」と言っただけだったが、最後にもしもの為の〔秘策〕を授けてくれた。
 その〔秘策〕は流石は甲賀と言ったところで、紅子は別段驚きはしなかったが、甚蔵はしきりに感心していた。

「益屋は、いつも巣鴨の寮にいるんだが、早々会えるってわけじゃない」
「じゃ、どうするんだい?」
「通行手形を貰う」

 とりあえず、紅子は甚蔵の手腕を確かめる意味で、何も言わずに従う事にした。

◆◇◆◇◆◇◆◆◇◆◇◆◇◆

 甚蔵が向かったのは、田安門外にある贄市之丞の役宅だった。

「おい、あんたの古巣に何の用があるってんだい?」
「贄様は、益屋と昵懇なんだよ」
「へぇ。火盗改の長官と裏の首領おかしらがねぇ」

 久し振りというわけではないが、甚蔵に対する古巣の歓迎は世知辛いものだった。
 役宅に入れたのはいいが、敵意剥き出しの視線が全身に突き刺さる。あからさまに舌打ちする者もいた。

「あんた、何をやらかしたんだ?」

 客間に通されて二人になると、紅子が訊いた。

「部下を全員死なせた上に、仲の悪い逸撰隊に鞍替えしたんだ。わかるだろ」
「裏切り者ってか」

 嬉々として言う紅子に甚蔵が肩を竦めると、足音が聞こえてきた。

「久し振り、と言うほどではありませんね、加瀬さん」

 現れたのは、色白で神経質そうな小男だった。まさに小役人という風貌は、勝とは良く似合うのかもしれない。

「そして、そちら様が噂の」
「逸撰隊一番組々頭の明楽紅子」

 紅子は、贄の言葉を被せるようにして言った。それが気に障ったのか、贄が咳払いをする。それは紅子も同様で、どうにも癪に障る男だった。

「それで?」
「早速でございますが、益屋淡雲との面会の取次を頼みたく」

 加瀬が本題を切り出した。

「益屋さんの? 何故、それを私に?」
「贄様が益屋と昵懇である事は存じております」
「まぁ、何度は会った事はありますがねぇ」
「これは隊務に関わる事です。是非とも」

 加瀬が頭を下げる。贄は、視線を逸らした。

「明楽さん」

 不意に名を呼ばれた。上から呼びかけるような、高慢な色がある声だ。

「加瀬さんの前で言うのもなんですが、火盗改われわれ逸撰隊あなたがたに大きな貸しがありますよね」
「まぁ」
「五人の同心を失い、加瀬さんまで取られてしまった。表向きは私の推薦という事になっていますが、それは加瀬さんが羅刹道とやらへの復讐に捉われたからです。助っ人の要請に応えていなければ、こちらら都合六名を失う事はなかった」

 紅子は頷いて応えた。

「その上、仲介をしろと?」
「お手数とは思うんですがね、こっちは遊びじゃないですから。一筆くれるだけで会えるなら、それが御家の為になると思うんですけど」
「御家の為ねぇ」

 贄が懐から扇子を取り出した。そして、手慰みのように弄ぶ。

「銭かい?」

 紅子がそう言うと、贄が失笑した。

「まさか。私はそんな守銭奴ではありませんよ」
「では、何?」
「情報」

 贄の目が光った。そして、この小男の狙いもわかった。
 羅刹道を火盗改で壊滅し、功名を上げると共に、逸撰隊を出し抜こうというのだ。切れ者だとは耳にしていたが、中々どうして抜け目がない。

「教えてやりたいところだけど、あたしの一存では決められないわ」
「なら、お断りします」
「許可さえ取れば可能と思いますので」
「誰の許可です?」
「田沼意次」

 紅子の言葉に、贄がわざとらしく目を丸くする。

逸撰隊われわれは、田沼様の直属の組織。その活動は秘密裏で、世話人である田沼意知様を通して逐一報告しているんですよ。当然、田沼様の耳に入る情報を漏らすのですから、お伺いを立てなければいけないよねぇ」

 紅子は加瀬を一瞥した。甲賀の〔秘策〕を使う頃合いだった。

「贄様、益屋に銭を借りていますね?」

 甚蔵が訊いた。

「彼は金貸しですからね。私だけではなく、益屋さんに借財している旗本や大名は多いですよ」
「いえいえ、それは悪くはありません。しかし、その益屋に情報をもらっているのはどうにも」

 贄が目を細める。

「益屋さんは、協力者ですから」
嘉穂屋宗右衛門かほや そういえもん。その男は益屋と同じ武揚会でありながら、対立関係にありましてね。その嘉穂屋の配下に、〔八岐やまたの六兵衛〕という盗賊がいたんですよ。ご存知でしょうけど」
「それが?」
「八岐の六兵衛の盗人宿に俺らが急襲し、一味をお縄にしましたよね。贄様の華々しい手柄の一つです。そして、その情報は、益屋からもらったと聞きました」
「ええ。先程も申し上げましたが、彼は協力者ですから」
「他にも、〔斑目まだらめの文吉〕〔ましらの吉次郎〕。就任一年弱で潰した盗賊団ですが、どれも益屋経由だとか」
「だから」
「いやいや、噂があるのですよ。益屋が贄様に渡した盗賊の情報は、益屋が目障りだと思っている盗賊ではないかって」
「なに」
「つまり、益屋に銭を借りる代わりに、奴の敵を火盗改が討伐しているという仕組みじゃないかって懸念しているのですよ。これが田沼様の耳に入ったら……」
「あなたという人は……」

 腰を上げた贄に、甚蔵が咄嗟に平伏した。

「それとも、益屋との癒着に加えて、逸撰隊われわれへの協力を拒んだ事も付け加えますか」

 贄が肩を落とす。そして笑って、甚蔵を見据えた。

「お見事ですね。甲賀殿の入れ知恵ですか?」

 観念したのか、贄からは警戒感は消えていた。

「そうです。うちの局長の脅しとハッタリは十八番なので」

 紅子が言った。

「わかりました。添え状を書きますよ」

 贄がにっこりと笑った。それまであった、小役人という印象が、すっかりと消えているのに驚いた。全てが演技だったのか。ともすれば、どんな意図だったのか。
 気になるが、これ以上関わりたくはないという気持ちの方が強く、紅子は黙っていた。

「よくわからん男ね。話し方も気持ち悪い」

 役宅を出た紅子は呆れたように言うと、甚蔵が苦笑した。贄からの添え状は懐に入れてある。

「まぁ、俺も苦手だ。あれも半分本気、半分は試したってところだろうな」
「しかし、能吏って噂だろ?」
「ああ。紛れもなく優秀だ。俺を逸撰隊こっちに送り込んでもくれたしな。恩人だよ」
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