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阿芙蓉抜け荷始末
阿芙蓉抜け荷始末-3
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「どうです? 折角なので」
「おい、待てよ」
制止も聞かずに、男は自分の盆を持って大楽の前に座った。男はかけ蕎麦を食べているようだ。
「名前も知らねぇ奴とは食いたかねぇんだがな」
「それは失礼。では、名乗りますよ。私は徒目付の椋梨喜蔵という者です。勿論、あなたと同郷でございますよ」
「すると、親玉は大目付か」
椋梨は軽く微笑み、蕎麦を啜った。
嘉穂屋の手先ではない。まず、そう思ったが、それを頭から信じる事は危険だった。
「徒目付という事は、お前さんは藩の命令で俺を監視しているわけか」
「一応、御舎弟殿が脱藩をされたので。その探索ですよ。連れ戻さねばなりませんから」
「なんだ、主計が持っているあれの事かと思ったのだが」
椋梨の蕎麦を啜る手が止まった。今度は、大楽が笑む番だった。
「それで、海に出てたので?」
どうやら椋梨は、海上であれの受け渡しをしたのでは? と思ったようだ。するとあれは、海でも渡せるような代物なのか。大楽は相手の反応を見つつ答えた。
「そうとも限らんよ。釣りは趣味でね」
「あなたが話してくれるとは思っていません。ただ、あの船頭に訊けばいいだけです」
「そんな事をしてみろ。お前さんの首が飛ぶぜ」
ざる蕎麦を食べ終えた大楽は、酒を注いだ猪口を呷った。
「あなたという人は、真っ昼間から穏やかではない事を言う人ですな」
「俺が手を下すわけじゃねぇよ」
「では、誰が?」
「鉄砲洲界隈の首領だ。侍を殊の外嫌っている男でね」
「武揚会ですか」
「ほう。浅葱裏でも存在は知っているんだな」
「私が江戸詰めになって二年になりますんで」
「たった二年じゃ、まだまだ浅葱裏だぜ」
鉄砲洲の首領は、船頭のまとめ役も兼ねている。
幾ら武士とは言え、その手下の船頭に乱暴を働けばただでは済まない。実際、どこぞの小藩の江戸家老が詫びを入れたこともあった。
「ここは江戸だ。斯摩の田舎者にゃわからねぇ決まり事ってものがある。俺も慣れるのに数年掛かったもんだよ」
「ならば、やめときましょう」
椋梨も蕎麦を食べ終え、茶に手を伸ばした。大楽は酒だった。
「それで、萩尾さん。あなたはあれを持っているのですか?」
「さて、どうだろうな」
「もしあなたがお持ちであれば、そこそこの値が付きますよ」
「それは権藤に聞いた」
「それで、お持ちなので?」
「知るかよ」
大楽はそう言い捨てると、銭を置いて席を立った。椋梨の目がこちらを向く。猜疑に満ちた眼差しである。
「またな、と言いたい所だが、お前さんとはこれっきりにしたいもんだ」
「二度ある事は何とやら、と申します」
大楽はそれには何も答えず、片手を挙げた。
とりあえず、一つ揺さぶりを入れた。これで相手も、こちらが言いなりになる玉ではないと意識するだろう。
斯摩藩の政争に巻き込まれたくはないが、かと言って主導権を握られて振り回されるのは嫌だった。それに、椋梨という男も癪に障る。
その小男が現れたのは、大楽が風呂で潮を洗い落とし、倦怠感に身を投げ出していた夕暮れの事だった。
庭先に気配があった。何気なく眼を向けると、鳶風の小男が控えていた。
出っ歯の鼠顔。年の頃は、何度会ってもわからない。老けているかのようにも見えるし、若くも見える。
「よう、子鼠。悪いな、来てもらって」
「へい。そりゃ旦那のお呼びなら」
子鼠と呼ばれる男を、大楽は居室に招き入れた。
「色々と面倒に巻き込まれちまってな」
「旦那は短気ですからねぇ。短気は損気、でも元気がありゃ弱気も豪気ってね」
「それで敵を作ったんじゃ世話もねぇな」
「こりゃ、やっぱり短気は損気ですねぇ」
そう言って笑ったこの男は、凄腕の密偵だった。子鼠は渾名で、本当の名前はわからない。密偵という稼業の掟なのだろうと、大楽は勝手に思っている。
この子鼠は探索に確かな腕を持ち、どんな修羅場でも切り抜ける身の軽さを持っている。ひと仕事の相場は高いが、それだけ正確な情報を持って帰っている証拠だった。
萩尾道場でも何度か世話になった事があるが、この男とのやりとりは寺坂が受け持っていたので、大楽が直接絡んだ事はなかった。
「急な仕事を頼んで悪かったな」
「いえいえ、あっしもちょうど暇になっちまいましてね。そりゃ仕事を選ばなきゃ幾らでもありますが、何でもかんでもって具合じゃ、あっしの価値が下がるものでして」
「わかる気がするな。で、俺の依頼はその価値があったというわけか」
「ええ、そいつはかなり。なんせ、あの嘉穂屋に関わる事でしょう? 一応ですが、あっしは根岸の益屋さんに世話になっておりまして。そいつは寺坂さんからも聞いておりましょう?」
「ああ。つまり、商売敵というわけか」
「へぇ、表でも裏でも」
根岸の益屋とは、嘉穂屋同様に江戸の裏を仕切る武揚会の一人、益屋淡雲の事である。
巣鴨を中心に根岸一帯を領分として持ち、表向きの生業は嘉穂屋と同じ両替商。しかも場所までも同じ両国広小路だった。子鼠が仕事を受けた理由はそこにあるのだろう。
「で、何かわかったかい?」
「まぁ。嘉穂屋さんは色々と手を広げているんですねぇ」
子鼠に頼んだ仕事は、嘉穂屋と斯摩藩との関係の調査である。
権藤に呼び出された日以来、身の回りが妙に騒がしくなった。嘉穂屋の手先と思われる破落戸の出現。そして、謎の男。
大楽は、嘉穂屋に恨みを買った覚えはなかった。両国界隈で仕事はしていないし、第一嘉穂屋のような武揚会の面々とはぶつからないように気を付けている。
だとすると、嘉穂屋が誰かに頼まれたという線が濃厚で、その最右翼が権藤であった。
「嘉穂屋さんは、博多に一つ店を出しているようでして」
「博多か」
「へぇ。斯摩のお隣ですねぇ」
かつて博多は黒田家が治めていたが、二代藩主・黒田忠之の頃、重臣の一人が、主君が謀叛を画策していると幕府に上訴。それにより改易され、今は博多を中心にした福岡の一帯は、幕府直轄領となっていた。
「店を出したと言っても、暖簾分けしたわけじゃねぇですよ。嘉穂屋には与六っていう番頭がいましてね。この男が嘉穂屋を辞めて、故郷の博多で始めた店だそうです」
「何の商いだ?」
「廻船。傾いた店を買い取って始めたみたいですねぇ。弁才船を二艘で回しているようなんですが、面白いのがその先ですぜ」
子鼠が、ぐいっと膝を前に進めた。
「屋号は久松屋というんですがね。この与六って男の後ろ盾になっているのが、須崎屋という太物問屋で」
「須崎屋だと」
大楽が話を遮ると、子鼠が歯を剥き出し、意味あり気に笑んだ。
「何か繋がりやしたかねぇ」
「須崎屋は、斯摩の御用商人の一人だ」
「そいつぁ、なんと」
「しかし、嘉穂屋の番頭風情が、傾いたとはいえ、店の一つ買い取れるもんかね」
「まぁ嘉穂屋が銭を出したんでしょう。あっしにゃ、その先の事はわかりませんが」
「あり得る話ではあるな」
兎に角、これで斯摩藩と嘉穂屋が、須崎屋と久松屋を通じて繋がった事になる。
「旦那。この話を、益屋さんの耳に入れてもよろしゅうございやすか?」
「駄目と言っても、話すって顔をしているぜ」
すると、子鼠は声を上げて笑ってみせた。
「渡世の義理ってもんがありますからね」
「この件を、寺坂に話さないと約束してくれればいいさ」
「秘密ですかい、寺坂の旦那にゃ」
「心配をさせたくないんでね」
子鼠は素直に頷くと、「では、あっしはこれで。また何かありやしたら声を掛けてくださいよ。久々に面白そうな仕事でございやすから」と、言い残して部屋を出て行った。
一人になった大楽は、また畳の上に身を横たえた。
須崎屋。博多に本店を置く一方で、斯摩城下にも支店を置いて、藩主家、特に奥向きに太物(綿織物・麻織物など)を納入している。
斯摩商人にしてみれば、外敵である。だが御用商人なので、手出しが出来ない歯痒い存在でもあった。
ただこれは十三年前の事で、今の立場がどうなっているかはわからない。
(だがなぁ……)
斯摩藩と嘉穂屋の接点は、久松屋とそれを援助している須崎屋を通じてという事であるが、それでは何とも遠く、無理に繋げた感がある。
何か理由があるはずだ。商人と商人を繋ぐ、理由が。
(それにしても、主計の野郎。何をしたのだ、お前は)
あいつは江戸を目指しているという。いや、もう江戸にいるのかもしれない。どっちでもいい。さっさと俺の目の前に現れ、事の次第を打ち明けてくれればいい。それなら、協力もしてやろうというものなのに。
五
不意に殺気が襲ってきた。
江戸、氷川明神の道を挟んで裏手にある、斯摩藩中屋敷。その庭園の一角である。
朝から、鈍色の雲が広がっている。雨が降りそうで、降り切らないのだ。遠くに見える千代田城も、どこかくすんで見える。
その空の下で、渋川堯雄は抜き身の一刀を正眼に構えた。
敵はいない。目の前には、見事な欅の木が佇立しているだけである。それでも、自分に向けられる殺気は絶えず続いていた。
何処からだ? と、探ってみても、その出所はわからない。とすると、この欅が殺気を放っているのだろうか? まさか、とは思う。しかし、長年の時を経た物には、魂が宿るともいう。
小癪なものだ。木端の分際で、貴種と呼ばれる一橋に歯向かうとは。ただ面白いとは思う。この私に挑もうとする身の程知らずなど、そうはいない。
堯雄はそう、鼻で笑う。
剣は将監鞍馬流を学んだ。一橋宗尹の末子として生まれ、物心がつく前から竹刀を握らされ、父が死ぬと一橋家を継いだ兄、治済の勧めで、将監鞍馬流の門を叩いたのだ。
剣が好きだったというより、誰かと戦って勝つ事が好きだった。そうした勝負好きの性分は、父にも兄にも見られた事で、それは偉大なる祖父、八代将軍吉宗公の血なのだろうと言い聞かされていた。
そして数ある養子先の中でも、筑前の外様大名である渋川家を選んだのも、戦いを欲しての事であった。
首席家老の宍戸川多聞とその一派が、藩主の堯春を蔑ろにして藩政を壟断し、我が世の春を謳歌している。
宍戸川は、先代藩主、堯宗の近習から出世し、風流狂いの堯春が望む物を与える事で信任を得て首席家老の座を掴んだ、絵に描いたような奸臣だった。海千山千の曲者と知られ、出世の為には竹馬の友ですら容赦なく叩き潰してきた怪物である。
屑が屑を使って治めている藩。それは、これ以上にない敵である。が、斯摩藩を選んだのは、それだけの理由ではない。もっと豊かになれる、そんな可能性を秘めていると睨んだ故なのだ。
斯摩藩は早良郡の室見川以西と志摩郡、そして怡土郡の一部を領し、表高は十万石である。だがその実は二十万石、更に開発を進めれば、それ以上になるのでは? と、事前の調査で導き出していた。
また、隣接する一大商都、博多の存在もある。黒田家の改易に伴い天領となった博多の面倒を、博多御番と称して斯摩藩が肩代わりしていた。治めているのは福岡城代と博多奉行の幕臣であるが、治安維持など実務的な人員は、斯摩藩が出しているのだ。
その博多を、長崎のような海外貿易の湊にしようという計画が、幕閣の中で話し合われているという。
計画を主導するのは、鎖国の緩和を目論む老中・田沼意次で、もしそうなった場合、斯摩藩が得られる利益は計り知れないものになる。
当然、鎖国緩和策には反対の声も多く、朝廷の周辺で反対論を声高に叫ぶ者もいたが、意次は力でねじ伏せる事に成功している。兎も角、早晩幕府は何らかの決断をする事には間違いない。
堯雄にとって、斯摩藩は金の卵である。その卵を賭して宍戸川と勝負し、そして勝利した暁には、藩政改革という勝負で全国の諸大名と争うつもりでいる。目指すべきは、日の本一の名君たる称号だった。
その為に二年もの間、自分を偽り周囲を欺いてきた。
藩邸内では、人の好い青二才を演じた。いつも笑顔を絶やさず、特に江戸の宍戸川派を率いる権藤には気を使い、何事も頼る風を装った。剣術だけの馬鹿と思わせていた。これも、こちらの動きを気取られない為の偽装である。
しかし、それも終わりを告げようとしている。昨年の秋に堯春が隠居の意向を示したのだ。恐らく、年内には家督を譲られる事になるだろう。
それを受けて、堯雄は少しずつ牙を剥き始めた。
まず人を集めた。宍戸川に反感を抱く、有能な者。そして、能力はあるが身分や性格が災いして出世出来ない者だ。
今は一橋家から随行させた者を除いて、近習に七名を集めている。自派を築くような動きに権藤は苦言を呈したが、堯雄は表では笑顔で受け流し、裏では正室の慶を使って黙らせた。
醜女である慶は、自分に惚れ込んでいる。そして、堯春はそんな慶を玉のように可愛がっている。慶から堯春に働きかけさせ、堯雄の行動にお墨付きを与えたのだ。
それが昨年の末の事で、それ以来というもの、権藤率いる江戸宍戸川派の態度が微妙に変化してきている。恐らく、国元にいる宍戸川からも何か指示があったのだろう。
自分の行動を警戒すべきか、単なる気紛れなのか、今は推し量っているのかもしれない。
大名が家臣を排除するには、「思し召しに能わず」という一言で済む。実際側近の中には、その一言で宍戸川を失脚させるべきと言うものもいたが、堯雄は聞く耳を持たなかった。
理由はただ一つ。それでは面白くない。
そう堯雄が考えるうち、殺気が更に強いものになった。
欅だろうか。確かに圧倒してくるような大樹である。まるで、深山に棲む老剣客。悠然としながらも、内に猛々しい闘気を秘めているような。
いや、違う。そう思った時には遅かった。殺気は背後からだったのだ。
慌てて振り返ると、男が控えていた。庭に臨む廊下で、軽く顔を伏せている。
「お前だったか」
乃美蔵主。昨年の秋に、国元から江戸詰めに役替えになった男である。
斯摩藩内では切れ者との評判であるが、愛想がない性格が災いして上役の評判は悪い。
だが、それを補って余りある能力で、嫌われている割には出世しているようだ。今は表方使番として、斯摩藩の渉外を担当している。
「面を上げよ」
堯雄が命じると、乃美がゆっくりと顔を上げた。
陰気な顔だった。細面で彫りの深い顔立ちだが、眼には蛇のような暗い光を湛えている。
「やっと来てくれたか」
「折角のご招聘に、参上が遅くなり申し訳ございません」
乃美は眼を逸らさずに答えた。怯えのない声だった。それ以上に、不敵な眼である。誰にも屈しない、利用してやる、と言わんばかりの眼だった。
「梟雄の相だな」
「滅相もございませぬ。これは顔だけでございます」
「そうかな」
「こればかりは、生まれ持ったものでございまして」
「いや、いい。だから、呼んだという所もある。お前が来てくれたという事は、私の為に働くと決めたと受け取っていいのだな」
乃美は、堯雄が目を付けていた男だった。国元での働きぶりを報告書で読み、そして江戸へ来てからの姿を吟味し、側近に加えようと決めたのだ。
能力だけでなく、血筋も申し分がない。
乃美家は渋川家の重臣の家系で、子女を数名側室として藩主家に送り込んでいるほどだ。中でも乃美六太夫という男は、二代・三代藩主に側用人として仕え、強大な権力を得た。しかし、驕慢な性格が災いし、三代藩主の死と共に失脚してしまった。それ以来、乃美家は家格こそ高いが鳴かず飛ばずでいる。
本来ならば、執政府の列にいてもおかしくない。それだけに、現執政府への不満は大きいであろう。そこも利用できると、堯雄は踏んだ。
「どうだ?」
堯雄は、乃美が座している縁側に腰掛けた。
「若殿は世子であられます。故に、若殿の為に働くのは当然の事」
「そうだ。だが、今は世子に過ぎない。そして、今の斯摩は宍戸川の天下だ」
「いずれ、若殿が斯摩を治められます」
「それでは遅い。それに代替わりというやり方で宍戸川を失脚させても、その胞子は残るかもしれぬ。そうならぬ為には、根こそぎ焼き払う必要がある」
「それを私に?」
「そうだ。そして、焼き払った大地で新たに育てる作物の種蒔きも、お前に手伝ってもらうつもりだ。一人で、十万石もある畑の手入れは骨だからな」
乃美の口許が微かに緩んだのを、堯雄は見逃さなかった。
「私か、宍戸川か。それを選んでもらおう」
「選ぶ余地もございません。若殿の為に、身命を賭す覚悟にございます」
「藩邸での暮らしが辛いものになる。それはお前だけではない。国元に残した妻子も、白い目で見られよう。それは我慢してもらわねばならんが」
「我慢は暫くの間だけでしょう。いずれ大手を振って歩かせていただきます。そうならねば、若殿に協力する意味がございませぬ」
「面白い。過ぎた口を利く奴だ」
そう言うと、乃美が平伏した。身命を賭すと言ったが、その言葉を鵜呑みには出来ない、と堯雄は思った。
梟雄の相がそう思わせるのか。或いは、感情の籠っていない声色からか。
(きっと、惟任光秀も似たような顔だったのだろうよ)
ならば、私は織田右府か。この男を使うか、この男に使われるか。それもまた、面白い勝負になるやもしれない。
場を改めるため、二人は一度縁側を離れた。
向かったのは、中屋敷の離れにある、利休好みの侘びた茶室である。建てたのは二代前の藩主で、名茶室として江戸の貴人層には知れたものらしい。だが、維持するだけで大金が消えていく。義父の堯春が気に入っている手前疎かに扱えないが、家督を継いだ暁には取り壊そうかと考えている。
その一室に、二人は足を踏み入れた。
茶室であるが、湯も沸かしていなければ、茶器の一つも無い。改めて部屋だけを見れば、殺風景なものである。
それでも、この場所を選んだのは、他人の耳を気にしての事だった。乃美を麾下に加えた事は、いずれわかるからいい。しかし、これから話す事は知られてはまずかった。
中屋敷は堯雄の棲家といえど、宍戸川派は多い。いや、堯雄の側近以外は、江戸も国元も宍戸川派ばかりと見るべきだろう。それほどの基盤を、宍戸川は一代で築いていた。改めて、その政治力と野望は尊敬に値する。
「萩尾主計の一件についてだがな」
乃美は姿勢を正して、堯雄を見据えた。
この男の表情から、感情は読めない。人間の熱を感じさせないのだ。この男が、どうして嫌われているのか、何となくわかる気がする。
「今の状況が聞きたい」
「状況と仰いますと?」
「まずは、主計の所在だ」
主計と数名の同志が、昨年の暮れに脱藩した。その報を側近の一人から知らされた時、思わず驚きの声を上げたのを堯雄は覚えている。
藩内に自治を認められた一門衆の筆頭たる萩尾家当主が脱藩した事よりも、藩の存亡を左右する重要な機密を持ち出したという事が、より衝撃だったのだ。
その機密については、大まかな内容は掴んでいるが、この江戸では安易に口に出せない。もしそれが幕府の知るところになれば、改易は必定。その時点で自身の野望が詰んでしまう。
「わかりません。江戸にいるのかどうかさえ」
「同志もか?」
乃美が首肯で応えた。
主計と共に脱藩した同志は三名。それぞれ散って藩を出たのだ。宍戸川はすぐさま追っ手を放ち、一人は赤間関で追っ手に囲まれ自刃。もう一人は京都で捕縛され拷問を受けたが、口を割らず死んだ。残りの一人は行方不明である。
散り散りに行動したのは、機密を誰が持っているか、わからない状況を作り出す為であろう。今の所、その策略は功を奏している。
「わからないというのは、お前だけでなく権藤も、という意味だな?」
「ええ。権藤は、主計殿の捜索を裏の者にも頼んでおります。もし、主計殿が江戸に入れば、すぐに所在を掴めるはずでしょう」
「裏の者とは、やくざか?」
「武揚会です」
「ほう。武揚会と言っても色々いるが」
「嘉穂屋です。ご存知でしょうか?」
堯雄は頷いた。嘉穂屋は、両国で両替商を営んでいるが、裏ではその一帯を仕切っている首領だった。
「何故、嘉穂屋なのだ。権藤は何故、数いる武揚会の首領の中から、嘉穂屋と結びついた?」
「さて。その辺りの話に私は加わっていませんし、私のような浅葱裏では、裏の事はとんと。ですが、古くからの付き合い、という雰囲気はございます」
「調べられるか?」
「相応の銭さえいただければ」
「任せる。出来れば、我が陣営に味方する首領も欲しいが」
「難しいかもしれませんが、当たってみましょう。嘉穂屋は武揚会の中で伸長著しく、内心で嫌っている者もいましょう」
江戸の裏の事は、武家社会に生きる者にはわからないものがある。だが、権藤が嘉穂屋を使っているとなると、自分も協力者を得る必要がある。
そして、その為にはかなりの銭を積む事になるだろう。江戸では、銭が全てなのだ。
しかし、今の堯雄に自由に扱える銭は僅か。それ故に、兄の治済に掛け合うつもりだった。宍戸川を倒し、藩の全権を掴む。それは治済の意向でもある。
「他には?」
「先日、権藤が主計殿の兄である萩尾大楽と会っております。私も同行したのですが、どうやら主計殿が現れたら報せてくれというもので」
「それで?」
「明確に断ったわけではないですが、弟の事は自分に関係ないという素振りだったようです」
萩尾大楽については、主計が出奔した折に一応の報告は受けていた。
二十歳の頃、父である萩尾美作の命を狙っていた、柘植小刀太を斬って出奔。それから江戸へと登り、用心棒を束ねる萩尾道場なるものを経営しているという。
堯雄が知っているのはそれぐらいで、他は剣の使い手である事と、谷中ではいい顔である事ぐらいだ。
それ以上の事を、堯雄は詳しく聞こうとはしなかった。それは、この一件で大楽に大した役割があるとは思えないからだ。そして何より、かの松平信康を通じて神君家康公の血脈を受け継いだ萩尾家から、やくざ紛いの浪人者を出しているという事に、堯雄は不快感を抱いていた。
貴種には貴種の責務と権利、そして誇りがある。その血脈を僅かといえど受け継いでおきながら、素浪人風情に成り下がるとは、徳川一門の面汚しと言わずにおられない。
「何とも冷たい男だな。私の兄と大違いだ」
「いえ、そうではございません」
「どういう事だ?」
「大楽という男は天邪鬼なのです。照れくさいのか、素直に好きだとか助けてやるだとか言えない性分でして。不遇な生い立ちが、面倒な性格にしたのかと思っております」
不遇な生い立ちという言葉に、堯雄は引っ掛かった。
彼は少なくとも、斯摩藩では二番目の家格を誇る家の嫡男に生まれている。その上、徳川家の血筋まで引いているのだ。不遇という言葉から、遠い生まれのはずである。
「お前は、萩尾大楽について詳しいのか?」
「親友だと思っています。大楽も私の事はそう思っているでしょう。十三年もの間、顔を合わせておりませんが」
「長い間、顔を合わせずとも親友と呼べるのかな?」
「呼べなくなる理由がありません。ただ、十三年会っていなかったというだけです」
その感覚はよくわからなかった。
思えば、友は? と問われて浮かぶ顔が自分には無い。信用の置ける家臣はいる。しかし結局は家臣であり、友ではない。人は常に従うか従われるか、なのだ。
「それで、大楽はどう動くと思う?」
「大楽が権藤や宍戸川に協力する事は、まずありません」
「何故、そう言い切れる?」
「これも、大楽の性格でございます。高慢に振る舞う輩が嫌いなのですよ。その上、大楽は十三年前も宍戸川への悪口を口にしていました。それに……」
乃美は一度言葉を切り、再び口を開いた。
「女を宍戸川に取られています。女と言っても、憧れという青いものですが」
「なるほどそれ故に許せない気持ちもあるだろうな」
「ですので、向こう側へ走る事は無いでしょう。この十三年で変わっていなければ」
「わかった。大楽がこの件でどれほどの役を演じるかわからぬが、差し当たりこちら側の駒にしておくに越した事はなかろう」
「ですが、若殿」
乃美の声が、一段と低いものになった。
「注意を払わねばなりません。私は大楽の名が出て来た時、厄介なものが現れたと思いました。奴は必ず、萩尾様を――弟を助けようとなされます。そして、状況を混乱させるものにするはずです」
「それほどの男なのか、大楽という者は」
「閻羅遮と、谷中界隈では畏怖されているようです。何でも、閻魔ですら非違を犯せば道を遮るという意味があるそうで」
閻羅遮の大楽。きっと鬼のような男なのだろう。乃美の話を聞いていると、会ってみたいと思えてきた。出来れば、麾下に加えてもいいかもしれない。
「乃美、大楽について知っている事を文書に纏めて出せ」
「わかりました。明日にはお見せ出来るかと。それと、裏への取り次ぎも始めます」
「忙しくなるな」
「若殿。もとより、承知の上にございます」
「それとだ、乃美。これよりは若殿ではなく、殿と呼べ」
乃美を残して茶室を出ると、侍女を引き連れて庭を歩いている慶に出くわした。
「堯雄様」
慶がこちらに気付いて手を振る。それに堯雄も笑顔で応えた。今年で十六になる慶は、相変わらずの醜女であるが、それ以外では文句はない。
いや、醜女である事も問題ではない。美しいだけなら、他の女で済ませればいい。重要な事は、この女が自分の意のままに動くかどうかなのだ。
第二章 裏の首領
一
「お前、何をやらかしたんだ」
大楽が客先廻りから道場に戻ると、出迎えた寺坂がそう言い放った。
眉間に皺を寄せた表情にも、普段とは違う声色にも、焦りや緊迫感を漂わせている。
「俺が動くと何かが起こるぜ? 何だったかな? 動けば雷電のなんちゃら」
「冗談を言っている場合ではない。谷中の首領が、お前に会いたいのだとよ」
谷中の首領とは、道灌山の傍に居を構える富農、佐多弁蔵の事である。
正業は下國村の庄屋であるが、近くに抱え屋敷を構えている夜須藩に出入りし、物資や人員を調達する御用聞きも務めている。
百姓でありながら、莫大な財産と権威を背景にして谷中界隈の表裏を仕切っている事から、弁蔵は谷中の首領と呼ばれている。
「今から来いと言っている。縄で縛ってでもってな」
「ったく、人様の予定などお構いなしかよ」
と、大楽は吐き捨てた。
江戸浦での釣りから、二日。嘉穂屋の手下に襲われて、五日は経っている。何かが動き出すには、意外と遅いように思える。
「笑い事じゃないんだ。何をやらかしたんだって、儂は訊いてんだ」
「何も。俺と茶を飲みながら世間話でもしたいんじゃねぇのか?」
「問題は、その世間話の内容だ。さては、弟さんの事だな」
「どうして主計の事に弁蔵さんが口を出すんだ。きっと用心棒絡みで、揉め事があったのだろうよ」
大楽は寺坂と共に道場を抜け、母屋へ繋がる渡り廊下を進みながら言い放った。
「そんな事はない。稼業で不始末があれば、儂の耳に入るようになっている」
「そう言えば、最近あんた耳が遠いぜ」
「だから冗談はよせよ。身に覚えは?」
「さぁ。上納金はちゃんと払ってるしな。まぁ、値上げ交渉かもしれんがね」
「銭の事なら儂だけを呼ぶはずだ。萩尾道場の財布は儂が握っていると、首領も百も承知よ」
「そうさなぁ」
「ほら、弟の事しか考えられん。お前は最近、コソコソ隠れて何かしているようだしな」
大楽が質問には答えずに居室に入ると、昼飯が用意されていた。飯と香の物、それに豆腐と嘗味噌が添えられている。
「あんたが?」
「ああ、そうだよ」
寺坂はその足で、台所へ行った。茶を準備している。
「まるで古女房だな、こりゃ」
「その古女房に、隠し事は通用しねぇよ」
台所から一声上げる。それから、盆に茶を載せて運んできた。本当に古女房だ。
「俺は、あんたを巻き込みたくはないんだ」
「水臭ぇ事を言いなさんな。儂はお前さんの力になりたいんだよ。十三年だぞ、十三年。危ない橋も何度も渡ったよな。用心棒をまともな稼業にしようと、この道場を立ち上げた時もそうさ。最初の三年は、特に死に物狂いだったよな」
「文字通りな。実際に死人も出た」
大楽は豆腐を先に平らげると、飯を茶漬けにして、胃に流し込んだ。寺坂も箸を進めながら話している。
「他にも色々あった。だがその都度、俺たちは二人で何とかしてきた」
だが、今回は洒落にならない。破落戸との争いと、政争とでは比べ物にならない。
大楽はその言葉が喉まで出かかった。それを言ってしまえば、寺坂の決意は余計に固まるに違いない。
「今回も二人で乗り切ろうじゃねぇか、萩尾よう」
「気持ちは嬉しいがね」
「お前は友達だ。いや、弟に近い気持ちを、儂はお前に抱いている。そんな儂を不義理な男にしないでくれよ」
寺坂の声には、切実な願いに似た色が籠っていた。大楽は茶碗を置くと、寺坂を見据えた。真剣な眼差し。巻き込みたくは無かった。しかし、そう言われれば、頷くしかない。それに立場が逆であったのなら、きっと同じ決断を下したはずだ。
「わかった。だが、状況がはっきりするまで待ってくれないか。今はまだ、敵と味方の区別もつかん」
「勿論。だが、何かあればすぐに知らせてくれ。それまで道場は儂が見ておく」
「すまん」
「なぁに、いいって事よ」
立派な長屋門が見えてきた。
谷中の首領、弁蔵の屋敷。近郷の者は、畏敬を込めて佐多屋敷と呼んでいる。
「これは萩尾様」
三十を過ぎた男が、出迎えに現れた。猛禽のような鋭い顔付きの男は、弁蔵の側近で鍬太郎という。弁蔵の右腕として、主に裏稼業を支えている。
「佐多の旦那が俺を呼んでいると聞いた」
「ええ。旦那様がお待ちしております」
鍬太郎は、付いて来いという素振りで大楽に目配せをした。猫のように、しなやかに歩く。そこには少しの隙も見いだせず、それなりの修羅場をくぐった事がうかがえる。
通されたのは、いつも使っている客間ではなく、弁蔵の私室だった。名主としての、御用部屋というものだ。
「旦那様、萩尾様をお連れいたしました」
「入りなさい」
その声を合図に、鍬太郎は障子を開けた。
弁蔵が背を丸めて、文机で算盤を弾いていた。帳簿の確認をしているのだろうか。算盤の珠を弾く小気味のいい音が続いている。
そうしている間に、鍬太郎が気配もなく弁蔵の背後に控えた。まるで猟犬。鍬太郎を見る度に、そう思ってしまう。
「申し訳ございませんね。わざわざ来ていただいたというのに、御覧の通り仕事の途中でして」
「いえ、構いません。こっちは話しさえしてくれればいいのですから」
「結構」
弁蔵が目もくれずに言った。
弁蔵は大楽の四つ上の三十七。隠居した父の跡を継いで、谷中の首領になった男である。豪放だった父に似ず、頭で勝負する男だ。出入りしている夜須藩と交渉し、人足の手配や飼葉の納入、糞尿の汲み取りなどの諸費用を見直させるという、父親が出来なかった事を就任後半年でやってのけている。
「寺坂に聞きましたよ。俺に話があるそうで」
「ええ、そうです。少し込み入った話でしてね」
そこで、弁蔵は算盤を弾く手を一旦止めた。
冷たい眼が、こちらに向く。侠としての凄みは皆無であるが、怜悧な顔立ちを持つ弁蔵と向かい合うと、大楽は心中を見透かされているかのような気分に襲われる。
「おい、待てよ」
制止も聞かずに、男は自分の盆を持って大楽の前に座った。男はかけ蕎麦を食べているようだ。
「名前も知らねぇ奴とは食いたかねぇんだがな」
「それは失礼。では、名乗りますよ。私は徒目付の椋梨喜蔵という者です。勿論、あなたと同郷でございますよ」
「すると、親玉は大目付か」
椋梨は軽く微笑み、蕎麦を啜った。
嘉穂屋の手先ではない。まず、そう思ったが、それを頭から信じる事は危険だった。
「徒目付という事は、お前さんは藩の命令で俺を監視しているわけか」
「一応、御舎弟殿が脱藩をされたので。その探索ですよ。連れ戻さねばなりませんから」
「なんだ、主計が持っているあれの事かと思ったのだが」
椋梨の蕎麦を啜る手が止まった。今度は、大楽が笑む番だった。
「それで、海に出てたので?」
どうやら椋梨は、海上であれの受け渡しをしたのでは? と思ったようだ。するとあれは、海でも渡せるような代物なのか。大楽は相手の反応を見つつ答えた。
「そうとも限らんよ。釣りは趣味でね」
「あなたが話してくれるとは思っていません。ただ、あの船頭に訊けばいいだけです」
「そんな事をしてみろ。お前さんの首が飛ぶぜ」
ざる蕎麦を食べ終えた大楽は、酒を注いだ猪口を呷った。
「あなたという人は、真っ昼間から穏やかではない事を言う人ですな」
「俺が手を下すわけじゃねぇよ」
「では、誰が?」
「鉄砲洲界隈の首領だ。侍を殊の外嫌っている男でね」
「武揚会ですか」
「ほう。浅葱裏でも存在は知っているんだな」
「私が江戸詰めになって二年になりますんで」
「たった二年じゃ、まだまだ浅葱裏だぜ」
鉄砲洲の首領は、船頭のまとめ役も兼ねている。
幾ら武士とは言え、その手下の船頭に乱暴を働けばただでは済まない。実際、どこぞの小藩の江戸家老が詫びを入れたこともあった。
「ここは江戸だ。斯摩の田舎者にゃわからねぇ決まり事ってものがある。俺も慣れるのに数年掛かったもんだよ」
「ならば、やめときましょう」
椋梨も蕎麦を食べ終え、茶に手を伸ばした。大楽は酒だった。
「それで、萩尾さん。あなたはあれを持っているのですか?」
「さて、どうだろうな」
「もしあなたがお持ちであれば、そこそこの値が付きますよ」
「それは権藤に聞いた」
「それで、お持ちなので?」
「知るかよ」
大楽はそう言い捨てると、銭を置いて席を立った。椋梨の目がこちらを向く。猜疑に満ちた眼差しである。
「またな、と言いたい所だが、お前さんとはこれっきりにしたいもんだ」
「二度ある事は何とやら、と申します」
大楽はそれには何も答えず、片手を挙げた。
とりあえず、一つ揺さぶりを入れた。これで相手も、こちらが言いなりになる玉ではないと意識するだろう。
斯摩藩の政争に巻き込まれたくはないが、かと言って主導権を握られて振り回されるのは嫌だった。それに、椋梨という男も癪に障る。
その小男が現れたのは、大楽が風呂で潮を洗い落とし、倦怠感に身を投げ出していた夕暮れの事だった。
庭先に気配があった。何気なく眼を向けると、鳶風の小男が控えていた。
出っ歯の鼠顔。年の頃は、何度会ってもわからない。老けているかのようにも見えるし、若くも見える。
「よう、子鼠。悪いな、来てもらって」
「へい。そりゃ旦那のお呼びなら」
子鼠と呼ばれる男を、大楽は居室に招き入れた。
「色々と面倒に巻き込まれちまってな」
「旦那は短気ですからねぇ。短気は損気、でも元気がありゃ弱気も豪気ってね」
「それで敵を作ったんじゃ世話もねぇな」
「こりゃ、やっぱり短気は損気ですねぇ」
そう言って笑ったこの男は、凄腕の密偵だった。子鼠は渾名で、本当の名前はわからない。密偵という稼業の掟なのだろうと、大楽は勝手に思っている。
この子鼠は探索に確かな腕を持ち、どんな修羅場でも切り抜ける身の軽さを持っている。ひと仕事の相場は高いが、それだけ正確な情報を持って帰っている証拠だった。
萩尾道場でも何度か世話になった事があるが、この男とのやりとりは寺坂が受け持っていたので、大楽が直接絡んだ事はなかった。
「急な仕事を頼んで悪かったな」
「いえいえ、あっしもちょうど暇になっちまいましてね。そりゃ仕事を選ばなきゃ幾らでもありますが、何でもかんでもって具合じゃ、あっしの価値が下がるものでして」
「わかる気がするな。で、俺の依頼はその価値があったというわけか」
「ええ、そいつはかなり。なんせ、あの嘉穂屋に関わる事でしょう? 一応ですが、あっしは根岸の益屋さんに世話になっておりまして。そいつは寺坂さんからも聞いておりましょう?」
「ああ。つまり、商売敵というわけか」
「へぇ、表でも裏でも」
根岸の益屋とは、嘉穂屋同様に江戸の裏を仕切る武揚会の一人、益屋淡雲の事である。
巣鴨を中心に根岸一帯を領分として持ち、表向きの生業は嘉穂屋と同じ両替商。しかも場所までも同じ両国広小路だった。子鼠が仕事を受けた理由はそこにあるのだろう。
「で、何かわかったかい?」
「まぁ。嘉穂屋さんは色々と手を広げているんですねぇ」
子鼠に頼んだ仕事は、嘉穂屋と斯摩藩との関係の調査である。
権藤に呼び出された日以来、身の回りが妙に騒がしくなった。嘉穂屋の手先と思われる破落戸の出現。そして、謎の男。
大楽は、嘉穂屋に恨みを買った覚えはなかった。両国界隈で仕事はしていないし、第一嘉穂屋のような武揚会の面々とはぶつからないように気を付けている。
だとすると、嘉穂屋が誰かに頼まれたという線が濃厚で、その最右翼が権藤であった。
「嘉穂屋さんは、博多に一つ店を出しているようでして」
「博多か」
「へぇ。斯摩のお隣ですねぇ」
かつて博多は黒田家が治めていたが、二代藩主・黒田忠之の頃、重臣の一人が、主君が謀叛を画策していると幕府に上訴。それにより改易され、今は博多を中心にした福岡の一帯は、幕府直轄領となっていた。
「店を出したと言っても、暖簾分けしたわけじゃねぇですよ。嘉穂屋には与六っていう番頭がいましてね。この男が嘉穂屋を辞めて、故郷の博多で始めた店だそうです」
「何の商いだ?」
「廻船。傾いた店を買い取って始めたみたいですねぇ。弁才船を二艘で回しているようなんですが、面白いのがその先ですぜ」
子鼠が、ぐいっと膝を前に進めた。
「屋号は久松屋というんですがね。この与六って男の後ろ盾になっているのが、須崎屋という太物問屋で」
「須崎屋だと」
大楽が話を遮ると、子鼠が歯を剥き出し、意味あり気に笑んだ。
「何か繋がりやしたかねぇ」
「須崎屋は、斯摩の御用商人の一人だ」
「そいつぁ、なんと」
「しかし、嘉穂屋の番頭風情が、傾いたとはいえ、店の一つ買い取れるもんかね」
「まぁ嘉穂屋が銭を出したんでしょう。あっしにゃ、その先の事はわかりませんが」
「あり得る話ではあるな」
兎に角、これで斯摩藩と嘉穂屋が、須崎屋と久松屋を通じて繋がった事になる。
「旦那。この話を、益屋さんの耳に入れてもよろしゅうございやすか?」
「駄目と言っても、話すって顔をしているぜ」
すると、子鼠は声を上げて笑ってみせた。
「渡世の義理ってもんがありますからね」
「この件を、寺坂に話さないと約束してくれればいいさ」
「秘密ですかい、寺坂の旦那にゃ」
「心配をさせたくないんでね」
子鼠は素直に頷くと、「では、あっしはこれで。また何かありやしたら声を掛けてくださいよ。久々に面白そうな仕事でございやすから」と、言い残して部屋を出て行った。
一人になった大楽は、また畳の上に身を横たえた。
須崎屋。博多に本店を置く一方で、斯摩城下にも支店を置いて、藩主家、特に奥向きに太物(綿織物・麻織物など)を納入している。
斯摩商人にしてみれば、外敵である。だが御用商人なので、手出しが出来ない歯痒い存在でもあった。
ただこれは十三年前の事で、今の立場がどうなっているかはわからない。
(だがなぁ……)
斯摩藩と嘉穂屋の接点は、久松屋とそれを援助している須崎屋を通じてという事であるが、それでは何とも遠く、無理に繋げた感がある。
何か理由があるはずだ。商人と商人を繋ぐ、理由が。
(それにしても、主計の野郎。何をしたのだ、お前は)
あいつは江戸を目指しているという。いや、もう江戸にいるのかもしれない。どっちでもいい。さっさと俺の目の前に現れ、事の次第を打ち明けてくれればいい。それなら、協力もしてやろうというものなのに。
五
不意に殺気が襲ってきた。
江戸、氷川明神の道を挟んで裏手にある、斯摩藩中屋敷。その庭園の一角である。
朝から、鈍色の雲が広がっている。雨が降りそうで、降り切らないのだ。遠くに見える千代田城も、どこかくすんで見える。
その空の下で、渋川堯雄は抜き身の一刀を正眼に構えた。
敵はいない。目の前には、見事な欅の木が佇立しているだけである。それでも、自分に向けられる殺気は絶えず続いていた。
何処からだ? と、探ってみても、その出所はわからない。とすると、この欅が殺気を放っているのだろうか? まさか、とは思う。しかし、長年の時を経た物には、魂が宿るともいう。
小癪なものだ。木端の分際で、貴種と呼ばれる一橋に歯向かうとは。ただ面白いとは思う。この私に挑もうとする身の程知らずなど、そうはいない。
堯雄はそう、鼻で笑う。
剣は将監鞍馬流を学んだ。一橋宗尹の末子として生まれ、物心がつく前から竹刀を握らされ、父が死ぬと一橋家を継いだ兄、治済の勧めで、将監鞍馬流の門を叩いたのだ。
剣が好きだったというより、誰かと戦って勝つ事が好きだった。そうした勝負好きの性分は、父にも兄にも見られた事で、それは偉大なる祖父、八代将軍吉宗公の血なのだろうと言い聞かされていた。
そして数ある養子先の中でも、筑前の外様大名である渋川家を選んだのも、戦いを欲しての事であった。
首席家老の宍戸川多聞とその一派が、藩主の堯春を蔑ろにして藩政を壟断し、我が世の春を謳歌している。
宍戸川は、先代藩主、堯宗の近習から出世し、風流狂いの堯春が望む物を与える事で信任を得て首席家老の座を掴んだ、絵に描いたような奸臣だった。海千山千の曲者と知られ、出世の為には竹馬の友ですら容赦なく叩き潰してきた怪物である。
屑が屑を使って治めている藩。それは、これ以上にない敵である。が、斯摩藩を選んだのは、それだけの理由ではない。もっと豊かになれる、そんな可能性を秘めていると睨んだ故なのだ。
斯摩藩は早良郡の室見川以西と志摩郡、そして怡土郡の一部を領し、表高は十万石である。だがその実は二十万石、更に開発を進めれば、それ以上になるのでは? と、事前の調査で導き出していた。
また、隣接する一大商都、博多の存在もある。黒田家の改易に伴い天領となった博多の面倒を、博多御番と称して斯摩藩が肩代わりしていた。治めているのは福岡城代と博多奉行の幕臣であるが、治安維持など実務的な人員は、斯摩藩が出しているのだ。
その博多を、長崎のような海外貿易の湊にしようという計画が、幕閣の中で話し合われているという。
計画を主導するのは、鎖国の緩和を目論む老中・田沼意次で、もしそうなった場合、斯摩藩が得られる利益は計り知れないものになる。
当然、鎖国緩和策には反対の声も多く、朝廷の周辺で反対論を声高に叫ぶ者もいたが、意次は力でねじ伏せる事に成功している。兎も角、早晩幕府は何らかの決断をする事には間違いない。
堯雄にとって、斯摩藩は金の卵である。その卵を賭して宍戸川と勝負し、そして勝利した暁には、藩政改革という勝負で全国の諸大名と争うつもりでいる。目指すべきは、日の本一の名君たる称号だった。
その為に二年もの間、自分を偽り周囲を欺いてきた。
藩邸内では、人の好い青二才を演じた。いつも笑顔を絶やさず、特に江戸の宍戸川派を率いる権藤には気を使い、何事も頼る風を装った。剣術だけの馬鹿と思わせていた。これも、こちらの動きを気取られない為の偽装である。
しかし、それも終わりを告げようとしている。昨年の秋に堯春が隠居の意向を示したのだ。恐らく、年内には家督を譲られる事になるだろう。
それを受けて、堯雄は少しずつ牙を剥き始めた。
まず人を集めた。宍戸川に反感を抱く、有能な者。そして、能力はあるが身分や性格が災いして出世出来ない者だ。
今は一橋家から随行させた者を除いて、近習に七名を集めている。自派を築くような動きに権藤は苦言を呈したが、堯雄は表では笑顔で受け流し、裏では正室の慶を使って黙らせた。
醜女である慶は、自分に惚れ込んでいる。そして、堯春はそんな慶を玉のように可愛がっている。慶から堯春に働きかけさせ、堯雄の行動にお墨付きを与えたのだ。
それが昨年の末の事で、それ以来というもの、権藤率いる江戸宍戸川派の態度が微妙に変化してきている。恐らく、国元にいる宍戸川からも何か指示があったのだろう。
自分の行動を警戒すべきか、単なる気紛れなのか、今は推し量っているのかもしれない。
大名が家臣を排除するには、「思し召しに能わず」という一言で済む。実際側近の中には、その一言で宍戸川を失脚させるべきと言うものもいたが、堯雄は聞く耳を持たなかった。
理由はただ一つ。それでは面白くない。
そう堯雄が考えるうち、殺気が更に強いものになった。
欅だろうか。確かに圧倒してくるような大樹である。まるで、深山に棲む老剣客。悠然としながらも、内に猛々しい闘気を秘めているような。
いや、違う。そう思った時には遅かった。殺気は背後からだったのだ。
慌てて振り返ると、男が控えていた。庭に臨む廊下で、軽く顔を伏せている。
「お前だったか」
乃美蔵主。昨年の秋に、国元から江戸詰めに役替えになった男である。
斯摩藩内では切れ者との評判であるが、愛想がない性格が災いして上役の評判は悪い。
だが、それを補って余りある能力で、嫌われている割には出世しているようだ。今は表方使番として、斯摩藩の渉外を担当している。
「面を上げよ」
堯雄が命じると、乃美がゆっくりと顔を上げた。
陰気な顔だった。細面で彫りの深い顔立ちだが、眼には蛇のような暗い光を湛えている。
「やっと来てくれたか」
「折角のご招聘に、参上が遅くなり申し訳ございません」
乃美は眼を逸らさずに答えた。怯えのない声だった。それ以上に、不敵な眼である。誰にも屈しない、利用してやる、と言わんばかりの眼だった。
「梟雄の相だな」
「滅相もございませぬ。これは顔だけでございます」
「そうかな」
「こればかりは、生まれ持ったものでございまして」
「いや、いい。だから、呼んだという所もある。お前が来てくれたという事は、私の為に働くと決めたと受け取っていいのだな」
乃美は、堯雄が目を付けていた男だった。国元での働きぶりを報告書で読み、そして江戸へ来てからの姿を吟味し、側近に加えようと決めたのだ。
能力だけでなく、血筋も申し分がない。
乃美家は渋川家の重臣の家系で、子女を数名側室として藩主家に送り込んでいるほどだ。中でも乃美六太夫という男は、二代・三代藩主に側用人として仕え、強大な権力を得た。しかし、驕慢な性格が災いし、三代藩主の死と共に失脚してしまった。それ以来、乃美家は家格こそ高いが鳴かず飛ばずでいる。
本来ならば、執政府の列にいてもおかしくない。それだけに、現執政府への不満は大きいであろう。そこも利用できると、堯雄は踏んだ。
「どうだ?」
堯雄は、乃美が座している縁側に腰掛けた。
「若殿は世子であられます。故に、若殿の為に働くのは当然の事」
「そうだ。だが、今は世子に過ぎない。そして、今の斯摩は宍戸川の天下だ」
「いずれ、若殿が斯摩を治められます」
「それでは遅い。それに代替わりというやり方で宍戸川を失脚させても、その胞子は残るかもしれぬ。そうならぬ為には、根こそぎ焼き払う必要がある」
「それを私に?」
「そうだ。そして、焼き払った大地で新たに育てる作物の種蒔きも、お前に手伝ってもらうつもりだ。一人で、十万石もある畑の手入れは骨だからな」
乃美の口許が微かに緩んだのを、堯雄は見逃さなかった。
「私か、宍戸川か。それを選んでもらおう」
「選ぶ余地もございません。若殿の為に、身命を賭す覚悟にございます」
「藩邸での暮らしが辛いものになる。それはお前だけではない。国元に残した妻子も、白い目で見られよう。それは我慢してもらわねばならんが」
「我慢は暫くの間だけでしょう。いずれ大手を振って歩かせていただきます。そうならねば、若殿に協力する意味がございませぬ」
「面白い。過ぎた口を利く奴だ」
そう言うと、乃美が平伏した。身命を賭すと言ったが、その言葉を鵜呑みには出来ない、と堯雄は思った。
梟雄の相がそう思わせるのか。或いは、感情の籠っていない声色からか。
(きっと、惟任光秀も似たような顔だったのだろうよ)
ならば、私は織田右府か。この男を使うか、この男に使われるか。それもまた、面白い勝負になるやもしれない。
場を改めるため、二人は一度縁側を離れた。
向かったのは、中屋敷の離れにある、利休好みの侘びた茶室である。建てたのは二代前の藩主で、名茶室として江戸の貴人層には知れたものらしい。だが、維持するだけで大金が消えていく。義父の堯春が気に入っている手前疎かに扱えないが、家督を継いだ暁には取り壊そうかと考えている。
その一室に、二人は足を踏み入れた。
茶室であるが、湯も沸かしていなければ、茶器の一つも無い。改めて部屋だけを見れば、殺風景なものである。
それでも、この場所を選んだのは、他人の耳を気にしての事だった。乃美を麾下に加えた事は、いずれわかるからいい。しかし、これから話す事は知られてはまずかった。
中屋敷は堯雄の棲家といえど、宍戸川派は多い。いや、堯雄の側近以外は、江戸も国元も宍戸川派ばかりと見るべきだろう。それほどの基盤を、宍戸川は一代で築いていた。改めて、その政治力と野望は尊敬に値する。
「萩尾主計の一件についてだがな」
乃美は姿勢を正して、堯雄を見据えた。
この男の表情から、感情は読めない。人間の熱を感じさせないのだ。この男が、どうして嫌われているのか、何となくわかる気がする。
「今の状況が聞きたい」
「状況と仰いますと?」
「まずは、主計の所在だ」
主計と数名の同志が、昨年の暮れに脱藩した。その報を側近の一人から知らされた時、思わず驚きの声を上げたのを堯雄は覚えている。
藩内に自治を認められた一門衆の筆頭たる萩尾家当主が脱藩した事よりも、藩の存亡を左右する重要な機密を持ち出したという事が、より衝撃だったのだ。
その機密については、大まかな内容は掴んでいるが、この江戸では安易に口に出せない。もしそれが幕府の知るところになれば、改易は必定。その時点で自身の野望が詰んでしまう。
「わかりません。江戸にいるのかどうかさえ」
「同志もか?」
乃美が首肯で応えた。
主計と共に脱藩した同志は三名。それぞれ散って藩を出たのだ。宍戸川はすぐさま追っ手を放ち、一人は赤間関で追っ手に囲まれ自刃。もう一人は京都で捕縛され拷問を受けたが、口を割らず死んだ。残りの一人は行方不明である。
散り散りに行動したのは、機密を誰が持っているか、わからない状況を作り出す為であろう。今の所、その策略は功を奏している。
「わからないというのは、お前だけでなく権藤も、という意味だな?」
「ええ。権藤は、主計殿の捜索を裏の者にも頼んでおります。もし、主計殿が江戸に入れば、すぐに所在を掴めるはずでしょう」
「裏の者とは、やくざか?」
「武揚会です」
「ほう。武揚会と言っても色々いるが」
「嘉穂屋です。ご存知でしょうか?」
堯雄は頷いた。嘉穂屋は、両国で両替商を営んでいるが、裏ではその一帯を仕切っている首領だった。
「何故、嘉穂屋なのだ。権藤は何故、数いる武揚会の首領の中から、嘉穂屋と結びついた?」
「さて。その辺りの話に私は加わっていませんし、私のような浅葱裏では、裏の事はとんと。ですが、古くからの付き合い、という雰囲気はございます」
「調べられるか?」
「相応の銭さえいただければ」
「任せる。出来れば、我が陣営に味方する首領も欲しいが」
「難しいかもしれませんが、当たってみましょう。嘉穂屋は武揚会の中で伸長著しく、内心で嫌っている者もいましょう」
江戸の裏の事は、武家社会に生きる者にはわからないものがある。だが、権藤が嘉穂屋を使っているとなると、自分も協力者を得る必要がある。
そして、その為にはかなりの銭を積む事になるだろう。江戸では、銭が全てなのだ。
しかし、今の堯雄に自由に扱える銭は僅か。それ故に、兄の治済に掛け合うつもりだった。宍戸川を倒し、藩の全権を掴む。それは治済の意向でもある。
「他には?」
「先日、権藤が主計殿の兄である萩尾大楽と会っております。私も同行したのですが、どうやら主計殿が現れたら報せてくれというもので」
「それで?」
「明確に断ったわけではないですが、弟の事は自分に関係ないという素振りだったようです」
萩尾大楽については、主計が出奔した折に一応の報告は受けていた。
二十歳の頃、父である萩尾美作の命を狙っていた、柘植小刀太を斬って出奔。それから江戸へと登り、用心棒を束ねる萩尾道場なるものを経営しているという。
堯雄が知っているのはそれぐらいで、他は剣の使い手である事と、谷中ではいい顔である事ぐらいだ。
それ以上の事を、堯雄は詳しく聞こうとはしなかった。それは、この一件で大楽に大した役割があるとは思えないからだ。そして何より、かの松平信康を通じて神君家康公の血脈を受け継いだ萩尾家から、やくざ紛いの浪人者を出しているという事に、堯雄は不快感を抱いていた。
貴種には貴種の責務と権利、そして誇りがある。その血脈を僅かといえど受け継いでおきながら、素浪人風情に成り下がるとは、徳川一門の面汚しと言わずにおられない。
「何とも冷たい男だな。私の兄と大違いだ」
「いえ、そうではございません」
「どういう事だ?」
「大楽という男は天邪鬼なのです。照れくさいのか、素直に好きだとか助けてやるだとか言えない性分でして。不遇な生い立ちが、面倒な性格にしたのかと思っております」
不遇な生い立ちという言葉に、堯雄は引っ掛かった。
彼は少なくとも、斯摩藩では二番目の家格を誇る家の嫡男に生まれている。その上、徳川家の血筋まで引いているのだ。不遇という言葉から、遠い生まれのはずである。
「お前は、萩尾大楽について詳しいのか?」
「親友だと思っています。大楽も私の事はそう思っているでしょう。十三年もの間、顔を合わせておりませんが」
「長い間、顔を合わせずとも親友と呼べるのかな?」
「呼べなくなる理由がありません。ただ、十三年会っていなかったというだけです」
その感覚はよくわからなかった。
思えば、友は? と問われて浮かぶ顔が自分には無い。信用の置ける家臣はいる。しかし結局は家臣であり、友ではない。人は常に従うか従われるか、なのだ。
「それで、大楽はどう動くと思う?」
「大楽が権藤や宍戸川に協力する事は、まずありません」
「何故、そう言い切れる?」
「これも、大楽の性格でございます。高慢に振る舞う輩が嫌いなのですよ。その上、大楽は十三年前も宍戸川への悪口を口にしていました。それに……」
乃美は一度言葉を切り、再び口を開いた。
「女を宍戸川に取られています。女と言っても、憧れという青いものですが」
「なるほどそれ故に許せない気持ちもあるだろうな」
「ですので、向こう側へ走る事は無いでしょう。この十三年で変わっていなければ」
「わかった。大楽がこの件でどれほどの役を演じるかわからぬが、差し当たりこちら側の駒にしておくに越した事はなかろう」
「ですが、若殿」
乃美の声が、一段と低いものになった。
「注意を払わねばなりません。私は大楽の名が出て来た時、厄介なものが現れたと思いました。奴は必ず、萩尾様を――弟を助けようとなされます。そして、状況を混乱させるものにするはずです」
「それほどの男なのか、大楽という者は」
「閻羅遮と、谷中界隈では畏怖されているようです。何でも、閻魔ですら非違を犯せば道を遮るという意味があるそうで」
閻羅遮の大楽。きっと鬼のような男なのだろう。乃美の話を聞いていると、会ってみたいと思えてきた。出来れば、麾下に加えてもいいかもしれない。
「乃美、大楽について知っている事を文書に纏めて出せ」
「わかりました。明日にはお見せ出来るかと。それと、裏への取り次ぎも始めます」
「忙しくなるな」
「若殿。もとより、承知の上にございます」
「それとだ、乃美。これよりは若殿ではなく、殿と呼べ」
乃美を残して茶室を出ると、侍女を引き連れて庭を歩いている慶に出くわした。
「堯雄様」
慶がこちらに気付いて手を振る。それに堯雄も笑顔で応えた。今年で十六になる慶は、相変わらずの醜女であるが、それ以外では文句はない。
いや、醜女である事も問題ではない。美しいだけなら、他の女で済ませればいい。重要な事は、この女が自分の意のままに動くかどうかなのだ。
第二章 裏の首領
一
「お前、何をやらかしたんだ」
大楽が客先廻りから道場に戻ると、出迎えた寺坂がそう言い放った。
眉間に皺を寄せた表情にも、普段とは違う声色にも、焦りや緊迫感を漂わせている。
「俺が動くと何かが起こるぜ? 何だったかな? 動けば雷電のなんちゃら」
「冗談を言っている場合ではない。谷中の首領が、お前に会いたいのだとよ」
谷中の首領とは、道灌山の傍に居を構える富農、佐多弁蔵の事である。
正業は下國村の庄屋であるが、近くに抱え屋敷を構えている夜須藩に出入りし、物資や人員を調達する御用聞きも務めている。
百姓でありながら、莫大な財産と権威を背景にして谷中界隈の表裏を仕切っている事から、弁蔵は谷中の首領と呼ばれている。
「今から来いと言っている。縄で縛ってでもってな」
「ったく、人様の予定などお構いなしかよ」
と、大楽は吐き捨てた。
江戸浦での釣りから、二日。嘉穂屋の手下に襲われて、五日は経っている。何かが動き出すには、意外と遅いように思える。
「笑い事じゃないんだ。何をやらかしたんだって、儂は訊いてんだ」
「何も。俺と茶を飲みながら世間話でもしたいんじゃねぇのか?」
「問題は、その世間話の内容だ。さては、弟さんの事だな」
「どうして主計の事に弁蔵さんが口を出すんだ。きっと用心棒絡みで、揉め事があったのだろうよ」
大楽は寺坂と共に道場を抜け、母屋へ繋がる渡り廊下を進みながら言い放った。
「そんな事はない。稼業で不始末があれば、儂の耳に入るようになっている」
「そう言えば、最近あんた耳が遠いぜ」
「だから冗談はよせよ。身に覚えは?」
「さぁ。上納金はちゃんと払ってるしな。まぁ、値上げ交渉かもしれんがね」
「銭の事なら儂だけを呼ぶはずだ。萩尾道場の財布は儂が握っていると、首領も百も承知よ」
「そうさなぁ」
「ほら、弟の事しか考えられん。お前は最近、コソコソ隠れて何かしているようだしな」
大楽が質問には答えずに居室に入ると、昼飯が用意されていた。飯と香の物、それに豆腐と嘗味噌が添えられている。
「あんたが?」
「ああ、そうだよ」
寺坂はその足で、台所へ行った。茶を準備している。
「まるで古女房だな、こりゃ」
「その古女房に、隠し事は通用しねぇよ」
台所から一声上げる。それから、盆に茶を載せて運んできた。本当に古女房だ。
「俺は、あんたを巻き込みたくはないんだ」
「水臭ぇ事を言いなさんな。儂はお前さんの力になりたいんだよ。十三年だぞ、十三年。危ない橋も何度も渡ったよな。用心棒をまともな稼業にしようと、この道場を立ち上げた時もそうさ。最初の三年は、特に死に物狂いだったよな」
「文字通りな。実際に死人も出た」
大楽は豆腐を先に平らげると、飯を茶漬けにして、胃に流し込んだ。寺坂も箸を進めながら話している。
「他にも色々あった。だがその都度、俺たちは二人で何とかしてきた」
だが、今回は洒落にならない。破落戸との争いと、政争とでは比べ物にならない。
大楽はその言葉が喉まで出かかった。それを言ってしまえば、寺坂の決意は余計に固まるに違いない。
「今回も二人で乗り切ろうじゃねぇか、萩尾よう」
「気持ちは嬉しいがね」
「お前は友達だ。いや、弟に近い気持ちを、儂はお前に抱いている。そんな儂を不義理な男にしないでくれよ」
寺坂の声には、切実な願いに似た色が籠っていた。大楽は茶碗を置くと、寺坂を見据えた。真剣な眼差し。巻き込みたくは無かった。しかし、そう言われれば、頷くしかない。それに立場が逆であったのなら、きっと同じ決断を下したはずだ。
「わかった。だが、状況がはっきりするまで待ってくれないか。今はまだ、敵と味方の区別もつかん」
「勿論。だが、何かあればすぐに知らせてくれ。それまで道場は儂が見ておく」
「すまん」
「なぁに、いいって事よ」
立派な長屋門が見えてきた。
谷中の首領、弁蔵の屋敷。近郷の者は、畏敬を込めて佐多屋敷と呼んでいる。
「これは萩尾様」
三十を過ぎた男が、出迎えに現れた。猛禽のような鋭い顔付きの男は、弁蔵の側近で鍬太郎という。弁蔵の右腕として、主に裏稼業を支えている。
「佐多の旦那が俺を呼んでいると聞いた」
「ええ。旦那様がお待ちしております」
鍬太郎は、付いて来いという素振りで大楽に目配せをした。猫のように、しなやかに歩く。そこには少しの隙も見いだせず、それなりの修羅場をくぐった事がうかがえる。
通されたのは、いつも使っている客間ではなく、弁蔵の私室だった。名主としての、御用部屋というものだ。
「旦那様、萩尾様をお連れいたしました」
「入りなさい」
その声を合図に、鍬太郎は障子を開けた。
弁蔵が背を丸めて、文机で算盤を弾いていた。帳簿の確認をしているのだろうか。算盤の珠を弾く小気味のいい音が続いている。
そうしている間に、鍬太郎が気配もなく弁蔵の背後に控えた。まるで猟犬。鍬太郎を見る度に、そう思ってしまう。
「申し訳ございませんね。わざわざ来ていただいたというのに、御覧の通り仕事の途中でして」
「いえ、構いません。こっちは話しさえしてくれればいいのですから」
「結構」
弁蔵が目もくれずに言った。
弁蔵は大楽の四つ上の三十七。隠居した父の跡を継いで、谷中の首領になった男である。豪放だった父に似ず、頭で勝負する男だ。出入りしている夜須藩と交渉し、人足の手配や飼葉の納入、糞尿の汲み取りなどの諸費用を見直させるという、父親が出来なかった事を就任後半年でやってのけている。
「寺坂に聞きましたよ。俺に話があるそうで」
「ええ、そうです。少し込み入った話でしてね」
そこで、弁蔵は算盤を弾く手を一旦止めた。
冷たい眼が、こちらに向く。侠としての凄みは皆無であるが、怜悧な顔立ちを持つ弁蔵と向かい合うと、大楽は心中を見透かされているかのような気分に襲われる。
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