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最終章 狼の贄
第三回 蠢動②
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(おっ……)
思わず声を挙げそうになるほどの男の顔が、そこにはあった。
玉砂利が敷かれた但馬曲輪前の広間。そこには帰宅する為の駕籠が待ち構え、周囲には数名の家人が控えているが、その中に平山悌蔵の顔があったのだ。
「ほう、これは珍しい」
梅岳は片膝を付いて待っていた悌蔵に歩み寄ると、家人や駕籠舁きはすうっと数歩退いた。この辺りの教育は徹底させている。
「犬山様、大変御無沙汰しております」
「ふむ。まだくたばっておらんのか」
梅岳が冗談を言うと、悌蔵がにぃと口を大きく横にして笑んだ。
その笑みは媚びているようにも見えるが、眼の奥は決して笑っていない。底が見えない洞穴のような暗黒を湛えている。この男は心から笑った事があるのだろうか? と、思えるほどだ。執政として多くの人間と相対してきたが、悌蔵の眼には直視し難い圧というものがある。
「隠居した老いぼれが、お城に何の御用かの?」
「久し振りに、お殿様のご機嫌伺いと思いまして。碁のお相手を少し」
「左様か。……して、おぬしの眼にお殿様はどう映った?」
「それはどういう意味でございましょうか?」
「言葉のままよ。それ以上の意味は無い」
悌蔵の視線が突き刺さる。梅岳は目を逸らさずにいると、悌蔵が一つ咳ばらいをして口を開いた。
「何やら憂鬱なご様子ではございましたが、碁でそれがしに勝ちますと、急に上機嫌になりましたな」
「それなら良かった。奥寺の一件で、酷く胸を痛めておっての」
悌蔵はさもありなん、とばかりに何度か頷いた。その仕草がわざとらしかったが、それが悌蔵らしくもある。そして、碁でも悌蔵はわざとらしく負けてやったのだろう。
「して、おぬしが何故に此処に?」
「いえ、お殿様にどうせ帰るなら、犬山様をお屋敷まで護衛するよう言われたのでございますよ。昨今、どうも騒がしゅうございますし」
「なるほど。それでは、お殿様の心遣いに感謝しようか」
梅岳は家人に、駕籠ではなく歩いて戻ると告げた。それに反論しようとする者は一人もいない。
屋敷は三の丸にある。これは執政として与えられたものだ。
その道を、老いぼれが二人並んで歩いた。傍目から見れば、隠居老人の散歩に見えるだろう。それだけの歳を重ねている。
道すがらの会話は、他愛のないものばかりだった。悌蔵が現れた時、梅岳は江戸で菊原を斬って消えた主税介の事で何を言われるのかと思っていた。
主税介は、悌蔵が妾に産ませた子供なのだ。跡目相続に口出しをしようとした生母を追放し、主税介も穴水家に養子に出した。そうした扱いを見ると気に入っているようには思えなかったが、それでも我が子は我が子だ。
しかし、悌蔵は主税介について何も触れなかった。話の殆どは、清記の妻となった志月が懐妊した話題だった。
孫の誕生が嬉しいのか、嬉々として語っている。特に清記は悌蔵にとって遅い子。故に可愛いのだろう。
「悌蔵、孫は良いものだぞ」
「やはりそうでございますか。それがしにとっては初孫。それゆえに、楽しみでございます」
「男の子を挙げるとよいがの」
「あいや、男でも女でも構いません。元気で産まれてきてくれたらそれで」
梅岳は深く頷いた。
梅岳には四人の孫がいる。一人は廃嫡した長男の子で、残りは庶子達の子だ。会う事は殆どないが、贅沢が出来るだけの銭は送っている。
「特に今は、志月にとって厳しい時期でございますゆえ」
大和の事だ。梅岳が横の悌蔵を一瞥したが、この男は薄ら笑みを浮かべたままだった。
「そうだのう」
「志月の心労を考えて、今は蓮台寺村にある親類の屋敷に預けておるのですよ」
「確かにそれがいいかもしれんの。清記にも気を使うであろうし、顔を合わせれば働こうともするであろう。女とはそういうものだ」
悌蔵が言う心労の意味は察していたが、梅岳は敢えて解釈を変えた。
「左様にございます。愚息には過ぎたる嫁でございますよ」
「それはうらやましい。格之助にも、斯様な娘を娶わせなければならんの」
自分の妻はどうだったか? 考えても、思い出せなかった。下士から身を興し、出世の為に無茶なお勤めを繰り返していた時期だ。やっと人並みに暮らせるようになった時期でもある。妻の妊娠には、男を産めばいい。それぐらいしか考えなかった。だからか、気が付けば冷え切った関係になっていた。そして、修復せぬままに死んだ。
「しかし、愚息がどうも良くないのです」
「清記が? あれは中々の男だぞ。儂は何度も助けてもらっている」
「そういう意味では申し分なく。しかし蓮台寺村に預けると言うと、嫁と離れ難いと反対したのでございます」
「情が深いのだろうよ」
すると、悌蔵は首を横にした。
「あやつめは、志月に惚れ込んでおるのですよ。惚れた女の為なら、何をしでかすか親でさえわからぬほどでございます」
「それほどか」
女には縁が無さそうな男に見えた。それは清記の見栄えが悪いという意味ではなく、女を寄せ付けない何かがあると感じたのだ。
「ですが、それがしは孫の顔を見る為に心を鬼にしました。心労が重なれば、腹の子にも影響が出ましょうからな」
「すっかり爺だのう」
「ええ、左様で。孫の為なら、それがしは喜んで鬼になりまする」
そう言った時、梅岳の全身に粟が立った。猛烈な寒気。これが殺気というものだろうか? 隣りを歩く悌蔵は相変わらずの笑顔であるが、この男から発せられている事は間違いない。
先代の御手先役。歴代の中で、最も長く役目に就いていた男だ。梅岳の為にも何度も働いてもらった。それは御家の為だけでなく、自分の為にもだ。この老いぼれには、言葉に尽くせぬ恩もある。
悌蔵はその恩に託けて、志月には手を伸ばすなと言いたいのか? 思えば、清記が志月の為なら何をしでかすかわからない、というのもそうだ。そして、孫の為なら鬼になると言ったのも同じ。やはり、悌蔵は脅しを掛けにきたのだ。
派閥の中には、清記を離縁させるべし、という意見は確かにあった。大和と清記の結びつきを危険視したのだ。それに対し、梅岳は明確に答えを出せないでいた。離縁させた方が安心である。その上、未だ嫁いでいない一族の娘と娶わせれば安心だ。だが、清記が志月へ向ける愛情は強く、無理矢理に離縁すれば、無傷にはいられない。
恨まれたら、敵に回る。清記が敵に回れば、厄介な事この上ない。
(それにしても、この男は化け物だな)
清記もいずれはこうなるのかと思うと、梅岳の胸に微かな同情が芽生えたが、そうなる前に始末するのも、飼い主の責任とも思った。
思わず声を挙げそうになるほどの男の顔が、そこにはあった。
玉砂利が敷かれた但馬曲輪前の広間。そこには帰宅する為の駕籠が待ち構え、周囲には数名の家人が控えているが、その中に平山悌蔵の顔があったのだ。
「ほう、これは珍しい」
梅岳は片膝を付いて待っていた悌蔵に歩み寄ると、家人や駕籠舁きはすうっと数歩退いた。この辺りの教育は徹底させている。
「犬山様、大変御無沙汰しております」
「ふむ。まだくたばっておらんのか」
梅岳が冗談を言うと、悌蔵がにぃと口を大きく横にして笑んだ。
その笑みは媚びているようにも見えるが、眼の奥は決して笑っていない。底が見えない洞穴のような暗黒を湛えている。この男は心から笑った事があるのだろうか? と、思えるほどだ。執政として多くの人間と相対してきたが、悌蔵の眼には直視し難い圧というものがある。
「隠居した老いぼれが、お城に何の御用かの?」
「久し振りに、お殿様のご機嫌伺いと思いまして。碁のお相手を少し」
「左様か。……して、おぬしの眼にお殿様はどう映った?」
「それはどういう意味でございましょうか?」
「言葉のままよ。それ以上の意味は無い」
悌蔵の視線が突き刺さる。梅岳は目を逸らさずにいると、悌蔵が一つ咳ばらいをして口を開いた。
「何やら憂鬱なご様子ではございましたが、碁でそれがしに勝ちますと、急に上機嫌になりましたな」
「それなら良かった。奥寺の一件で、酷く胸を痛めておっての」
悌蔵はさもありなん、とばかりに何度か頷いた。その仕草がわざとらしかったが、それが悌蔵らしくもある。そして、碁でも悌蔵はわざとらしく負けてやったのだろう。
「して、おぬしが何故に此処に?」
「いえ、お殿様にどうせ帰るなら、犬山様をお屋敷まで護衛するよう言われたのでございますよ。昨今、どうも騒がしゅうございますし」
「なるほど。それでは、お殿様の心遣いに感謝しようか」
梅岳は家人に、駕籠ではなく歩いて戻ると告げた。それに反論しようとする者は一人もいない。
屋敷は三の丸にある。これは執政として与えられたものだ。
その道を、老いぼれが二人並んで歩いた。傍目から見れば、隠居老人の散歩に見えるだろう。それだけの歳を重ねている。
道すがらの会話は、他愛のないものばかりだった。悌蔵が現れた時、梅岳は江戸で菊原を斬って消えた主税介の事で何を言われるのかと思っていた。
主税介は、悌蔵が妾に産ませた子供なのだ。跡目相続に口出しをしようとした生母を追放し、主税介も穴水家に養子に出した。そうした扱いを見ると気に入っているようには思えなかったが、それでも我が子は我が子だ。
しかし、悌蔵は主税介について何も触れなかった。話の殆どは、清記の妻となった志月が懐妊した話題だった。
孫の誕生が嬉しいのか、嬉々として語っている。特に清記は悌蔵にとって遅い子。故に可愛いのだろう。
「悌蔵、孫は良いものだぞ」
「やはりそうでございますか。それがしにとっては初孫。それゆえに、楽しみでございます」
「男の子を挙げるとよいがの」
「あいや、男でも女でも構いません。元気で産まれてきてくれたらそれで」
梅岳は深く頷いた。
梅岳には四人の孫がいる。一人は廃嫡した長男の子で、残りは庶子達の子だ。会う事は殆どないが、贅沢が出来るだけの銭は送っている。
「特に今は、志月にとって厳しい時期でございますゆえ」
大和の事だ。梅岳が横の悌蔵を一瞥したが、この男は薄ら笑みを浮かべたままだった。
「そうだのう」
「志月の心労を考えて、今は蓮台寺村にある親類の屋敷に預けておるのですよ」
「確かにそれがいいかもしれんの。清記にも気を使うであろうし、顔を合わせれば働こうともするであろう。女とはそういうものだ」
悌蔵が言う心労の意味は察していたが、梅岳は敢えて解釈を変えた。
「左様にございます。愚息には過ぎたる嫁でございますよ」
「それはうらやましい。格之助にも、斯様な娘を娶わせなければならんの」
自分の妻はどうだったか? 考えても、思い出せなかった。下士から身を興し、出世の為に無茶なお勤めを繰り返していた時期だ。やっと人並みに暮らせるようになった時期でもある。妻の妊娠には、男を産めばいい。それぐらいしか考えなかった。だからか、気が付けば冷え切った関係になっていた。そして、修復せぬままに死んだ。
「しかし、愚息がどうも良くないのです」
「清記が? あれは中々の男だぞ。儂は何度も助けてもらっている」
「そういう意味では申し分なく。しかし蓮台寺村に預けると言うと、嫁と離れ難いと反対したのでございます」
「情が深いのだろうよ」
すると、悌蔵は首を横にした。
「あやつめは、志月に惚れ込んでおるのですよ。惚れた女の為なら、何をしでかすか親でさえわからぬほどでございます」
「それほどか」
女には縁が無さそうな男に見えた。それは清記の見栄えが悪いという意味ではなく、女を寄せ付けない何かがあると感じたのだ。
「ですが、それがしは孫の顔を見る為に心を鬼にしました。心労が重なれば、腹の子にも影響が出ましょうからな」
「すっかり爺だのう」
「ええ、左様で。孫の為なら、それがしは喜んで鬼になりまする」
そう言った時、梅岳の全身に粟が立った。猛烈な寒気。これが殺気というものだろうか? 隣りを歩く悌蔵は相変わらずの笑顔であるが、この男から発せられている事は間違いない。
先代の御手先役。歴代の中で、最も長く役目に就いていた男だ。梅岳の為にも何度も働いてもらった。それは御家の為だけでなく、自分の為にもだ。この老いぼれには、言葉に尽くせぬ恩もある。
悌蔵はその恩に託けて、志月には手を伸ばすなと言いたいのか? 思えば、清記が志月の為なら何をしでかすかわからない、というのもそうだ。そして、孫の為なら鬼になると言ったのも同じ。やはり、悌蔵は脅しを掛けにきたのだ。
派閥の中には、清記を離縁させるべし、という意見は確かにあった。大和と清記の結びつきを危険視したのだ。それに対し、梅岳は明確に答えを出せないでいた。離縁させた方が安心である。その上、未だ嫁いでいない一族の娘と娶わせれば安心だ。だが、清記が志月へ向ける愛情は強く、無理矢理に離縁すれば、無傷にはいられない。
恨まれたら、敵に回る。清記が敵に回れば、厄介な事この上ない。
(それにしても、この男は化け物だな)
清記もいずれはこうなるのかと思うと、梅岳の胸に微かな同情が芽生えたが、そうなる前に始末するのも、飼い主の責任とも思った。
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