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第四章 穢土の暗闇

第三回 血の病②

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 夜須藩邸下屋敷は、本駒込ほんこまごめにある。清記が足を踏み入れるのは初めてで、広大な敷地内には、幾つもの蔵が立ち並んでいる他、贅を凝らした池泉回遊式ちせんかいゆうしきの庭園がある。
 藩主・栄生利永の趣味だった。あの男は花鳥風月を愛でる風流人であり、数多くの文人墨客を保護し芸術を愛する大名達と交際している事から、その分野での名望は高い。しかしそれは、夜須の領民にとって不幸の何物でもないと、清記は思っている。百姓の血と汗が染みこんだ年貢が、このような庭や風流道楽に消えるのだ。
 しかも利永は、政事を梅岳に任せて顧みる事がない。かつて八代将軍・吉宗に倣って親政をしようとしたらしいが、家督継承から三年後に起こった大飢饉で政事の無力さを知ったのか、梅岳に全てを放り投げ風流の世界に逃げてしまった。噂では梅岳が仕向けたという話もあるが、真偽の程は確かではない。兎も角、夜須の領民は藩主に見捨てられたのだ。

(忌々しくなるな)

 内住郡の百姓の生活をつぶさに見ている清記の心中には、怒りとも口惜しさともつかぬ感情が湧いてくる。主君を悪し様に言うのは不忠だとは思うが、やっている事を見れば暗君としか言いようがなく、これでは内住郡の民への義が立たない。
 帯刀の案内で邸内を歩いていると、素読の声が聞こえてきた。
 読んでいるのは、論語の一節だろう。里仁りじんの部分だ。

子曰しいわく里仁爲美りはじんなるをよしとなす……」

 この言葉には様々な解釈があるが、清記は「仁愛心を尊重する事は美しいことだ」という意味で捉えている。今の利永はこれを聞いているだろうか。ならば、是非とも感想を聞いてみたいものであるが。

直衛丸なおえまるだ」

 と、帯刀が振り向きもせず言った。

「あの、直衛丸様」

 利永の五男。右京そして格之助の弟になる。
 利永には、五人の息子がいる。長男は右京、次男は早世し、三男は生まれながら盲目で僧籍に入れられた。四男の格之助は犬山梅岳の養子となり、五男が直衛丸。風流人である利永は同時に女好きでもあり、五人の息子はそれぞれ母親が違う。

仁者安仁じんしゃはじんにやすんじ知者利仁ちしゃはじんをりす

 これも聞かせたいと、ほくそ笑んでしまう。
 知恵がある者は、仁愛がもたらす利点を知っているというものだ。つまり仁愛の心を持たず、それで何を得られるのかわからない利永は愚かだと言っている。しかも、それを読んでいるのが実の息子であるのが、また面白い。

(それにしても、良い声だ)

 素読の声は明朗で、透き通っていた。思わず聴き入ってしまうその声には、隠しきれない知性と慈愛の響きがあった。論語の内容を理解して読んでいると、思ってしまうくらいに堂に入ったものだった。

「直衛丸は聡明だ。右京とは似ても似つかぬし、格之助のような小賢しさもない。家臣の受けもいい」
「私はまだ御目通りしておりませんが、あの声から十分にそれが感じられます」
「お前もそう思うか? 上の者には礼儀正しく、下の者には仁愛を持って接している。可愛い甥御よ」
「ですが、それが右京様の苛立つ原因かもしれません。家督を奪われるかもしれないと」

 すると、帯刀が清記に一瞥をくれた。

「お前、言うようになったな」
「これは申し訳ございませぬ」
「いいんだぜ。俺はお前を嫌っちゃいねぇ。むしろ好んでいるぐらいさ。だから、そうした諫言は構わんぜ」

 帯刀が鼻を鳴らし、再び歩き出した。

「……で、お前の言う通りよ。右京の苛立ちや焦りの原因はそこにあるのかもしれねぇ。直衛丸は麒麟児よ。あいつが家督を継げば、押しも押されもせぬ名君となろう。だがな、それは無理だ」
「末子だからですか?」
「いや。直衛丸は病弱なのだ、生まれつきな。元服までは持つまい」

 返す言葉が無かった。帯刀の言葉には、若くして死にゆく宿命さだめを背負ってしまった者への哀れみが含まれていた。
 それから無言で歩き、奥の一間に案内された。
 男が、庭園が望める縁側に座っていた。花を活けている。ちょうど、白い花を活けているところだ。花縮紗はなしゅくしゃだろうか。

「連れて来たぜ」

 帯刀はそう言うと、男が手を止めて振り向いた。
 歳は五十ほどか。頭髪は白髪交じりで薄く、面長。おちょぼ口が印象的だった。

(まさか)

 清記は慌てて平伏した。この男が利永だと気付いたのだ。元服の折り、一度だけ御目通りをした。あの時の記憶が既に遠く、すぐにはわからなかった。

「そちが悌蔵の倅か」

 思いの他、甲高い声だった。その上、少ししわがれている。まるで老婆のようにも聞こえた。

「はっ、平山悌蔵が嫡男、清記と申します」
「そう緊張せずともよい。まずは、おもてを上げい」

 そう言われた清記は、ゆっくり顔を上げ、利永を見据えた。

(この男か)

 改めて見ると、小さな男だった。風流人が持つ知性は感じるが、為政者としては頼りない顔だ。

「善き面構えだのう。悌蔵めが羨ましいわ。斯様に逞しき嫡男に恵まれて」
「いえ、まだまだ若輩者にございますれば」
「そう謙遜するな。若い頃の悌蔵にそっくりじゃ。上背はそちの方がだいぶあるがの」

 そう言いながらも、花を活ける利永の手は忙しそうに動いている。

「御手先役としての役目だ、清記」

 すかさず帯刀が言った。

「お役目ですか」

 今は別のお役目をしている最中である。利永も帯刀も、それを知っているのではないか?いや、知っていて敢えて命じているのか。
 だが、今回は藩主直々の役目。今進めているものは、梅岳からのもの。藩主家と執政府は必ずしも協調しているわけではないと父も言っていた。ならば、軽々に口に出す話ではなさそうだ。

「わかっておるだろうが、他言無用ぞ」

 清記は、利永の言葉に頷いた。当然の事だ。御手先役の役目は、全てが秘匿である。

「倅の事よ。そちも右京の評判は耳にしておろう」

 何と答えたらいいかわからず、清記は目を伏せて次の言葉を待った。

「あやつ、帯刀めに叱られてから大人しいと思うておったが、どうやら陰で悪い連中とつるんでいるようでな。博打、喧嘩、強請、たかり、強姦、そして殺しと何でも有りじゃ。しかも、変装して目立たぬようにしている徹底ぶり。夜須を継ぐ者の所業とは思えん」
「……」

 右京の乱行が治まったと思ったが、それは表向きに見えなくなっただけだったのだ。
 おそらく右京は、夜須で斬った岩城新之助と同様に、血の病だろう。止めたくても止められぬ衝動。鬼子おにごとして生まれた血がそうさせるに違いない。

「清記よ、右京に痛い目に遭わせてくれぬかの。あやつの取り巻きは斬っても構わぬし、少々なら右京を痛めつけてもよい。これに懲りて二度とせぬように仕向けてくれ。でなければ、儂は次の手を考えねばならん。よいな?」

 鋭い鋏の音が鳴り、清記は平伏した。これは始末屋の仕事ヤマとは違い、断りようがない役目だった。

(さて、どうするか)

 主税介を誘う気はない。一人でする。それだけは、すぐに決めた。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 夜。遠くで、野犬の遠吠えが聞こえた。
 高田四たかだよ家町やちょうを松平邸で右に折れ、雑司ヶ谷村ぞうしがやむら側の畑と百姓町屋が立ち並ぶ小道である。
 清記は、提灯も持たず歩いていた。分厚い雲が空を覆い、月明かり一つない。それでも夜目が
確かな清記には、何ら支障はない。ただ新春の夜風は、身を震わすほどに冷たい。
 清記の十間ほど先を、六名の男達が笑い声を挙げて歩いている。先刻まで、音羽町おとわちょうで飲んでいたのだ。酒がかなり入っているらしく、こちらに気付いている気配は無い。
 男達は着流しに落とし差し。女物の洒落た小袖をそれぞれ引っ掛けている。武士にあるまじき頓痴気トンチキな格好である。
 悲しい事に、あの中に右京がいる。あれがいずれ主君になると思うと、悲しくなる。いっその事ここで始末して、直衛丸を世子に推し立てたるべきではと思うほどだ。それほど、直衛丸の声には感じ入るものがあった。

(いかんな……)

 昨日から右京を探った。利永が言っていた通り、その乱行は確かなものだ。噂によれば盗賊の真似事をして、押し込みまで働いているようだ。もし火盗改かとうあらためにでも捕縛されようものなら、夜須藩の沽券に関わる。それならいっその事と思ってしまうが、それでは平山家も潰されてしまう。
 右京達が、道を曲がった。どうやら、鬼子母神堂きしもじんどうの境内に入るようだ。

(しめた)

 あそこなら、人目もつかない。清記は一気に駆け足になり、先回りをした。
 鬼子母神堂は静かだった。周囲の百姓町屋も寝静まっている。
 清記は境内にある稲荷の陰に潜んだ。そして、懐から狐面を取り出す。顔を見られてはならないと、帯刀に渡されたのだ。
 声が近くなる。どうやら猥談に花を咲かせているようだ。急襲して一気に決めてしまいたいと思ったが、すぐに思い止まった。今回は右京に恐怖を与えるのが肝要なのだ。一瞬で決めても意味は無い。
 清記は、右京達の前にスッと出た。

「おいおい。何だよあいつ」
「狐が出たぜ」
「お稲荷さんの登場というわけか」

 と、一同が笑うが、清記は何も言わなかった。」

「何だ、てめぇ。何か言えよ」
「……」

 清記は右京を見据えた。一同の一番後ろ。頭領のように構えている。

「喧嘩売ってんのかよ」
「……」
「気に入らん。斬れ」

 右京が、冷酷に命じた。その瞬間、五人が一斉に斬りかかってきた。
 遅い。清記は五人の斬撃を薄絹のようにふわりと躱しながら、扶桑正宗を抜い払った。
 五人は大した腕ではなかった。道場剣法に毛が生えた程度。それを補っているのが、喧嘩で身に着けた糞度胸だろう。

(そろそろか)

 清記が攻勢に転じると、瞬時に五つの首が夜空に舞った。右京が刀の柄持ったまま、立ち尽くしている。
 清記は血刀を突き付け、一歩前に出た。

「おいっ…お前。やめろよ」
「……」
「冗談だろ、俺は夜須藩主になる男だぜ?」
「……」
「わ、わかった。金か? 好きなだけやる。いいな、それで手を打とう」

 清記は、扶桑正宗を横凪ぎにした。
 右京の着物一枚だけが切れた。

「ひぃぃっ」
「次は斬る」

 右京の袴の色が濃くなった。失禁しているのだ。情けない。そう思いながらも、また一閃した。
 髷が飛んだ。右京の意識も飛び、その場に崩れ落ちた。

〔第三回 了〕
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