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第四章 穢土の暗闇

第二回 鬼子②

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 突然の怒声が聞こえたのは、中西道場での稽古を終えて戻った、夕暮れ前の事である。
 夜須藩邸上屋敷の侍長屋。その自室で疲れた身体を投げ出して微睡まどろんでいた清記は、慌てて身を起こした。
 また怒声が聞こえたと思えば、その直後に女の悲鳴が続いた。

(只事ではないな)

 清記は扶桑正宗を掴むと、表に飛び出した。

「兄上」

 主税介がそこにいた。竹刀に稽古着をぶら下げ、肩に担いでいる。どうやら、弟も雖井蛙流道場の稽古から帰ってきたばかりのようだ。

「この声は?」
「あれですか? 我らが世子様ですよ」

 と、主税介は口許に軽薄な笑みを見せると、母屋の方へ目をやった。

「右京様か……」

 右京利之。現藩主・栄生利永の嫡男で、今年で二十二になる。ゆくゆくは夜須藩を継ぐ男だ。
 うつけ者。それが、この男に対する藩内の一般的な評価だった。粗暴で冷酷。遊興に耽るだけでなく、面白半分に夜な夜な辻斬りもしているという噂もある。江戸での乱行は夜須にも伝わっていて、家中の面々は右京が藩主を継ぐ事に戦々恐々としていた。
 その右京を含め藩主家の面々は、平素何かと騒がしい上屋敷を避けて中屋敷で暮していてる。こうして現れたのは、何か用件があるからだろう。
 また怒声が上がった。その内容までは聞き取れないが、足音が慌ただしくなっている。主税介は溜息を吐いた。軽薄な性格故か、こうした時には妙に冷静である。

「無視しましょうよ、兄上」
「何故?」
「関わっても、何の得にもなりません。むしろ、世子様に目を付けられた方が面倒というものですからね」

 主税介は、どこまでも興味が無さそうだった。命じられれば止めるだろうが、そうでもない限りは動きそうもない。御手先役には、こうした男の方が向いているのかもしれないと思う事もある。

「蛇のように執念深いって噂もありますからね」

 その話は聞いていた。自分に厳しかった傅役もりやくに無実の罪を着せ、切腹させているという話だ。事の真偽は不明だが、切腹で果てたのは確かだった。

「確かにそうだが、この悲鳴を聞いて無視も出来んだろう」
「出来ますよ。このまま、何も聞かなかった振りをして、部屋に戻ればいいのです」

 主税介らしいと言えばそうだが、清記は首を横にした。確かに、右京を力尽くで止める事は憚られる。しかし、悲鳴を聞いて無視をする事も、武士としての矜持に反する。

「まさか、助ける気ですか?」
「私一人でやる事だ。お前は部屋に戻っていろ」
「しかしですね、何かあれば兄を助けろ父上に言われているのですよ」
「それが今か?」
「まぁ、世子様にご不興を買うと、平山家のみならず穴水家にも影響があるので」

 また悲鳴がした。今度は男のようだ。

「仕方ないですね」
「ああ」

 清記は主税介と顔を見合わせ、母屋へと向かった。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 右京が、抜き身を手に暴れていた。
 着物は乱れ、酒気を纏わせている。酷い暴れように、清記は眉を顰めた。刀を振り回し、障子を破り襖を蹴倒す。しかも、徳利を片手にだ。藩士達は、恐る恐る右京を遠巻きにしているだけだった。

「平山、穴水、良い所に来た」

 清記の姿を認めた菊原が、慌てて駆け寄ってきた。

「如何したのです、これは」
「私が訊きたいぐらいだ。突然現れて、こんな具合だ」

 菊原は顔を顰めて言った。既に女中が一人斬り殺され、止めに入ろうとした藩士が左腕を切り落とされている。

「まずは止めろ。これ以上、騒動を大きくしてはならぬ」
「しかし、菊原様。止めるにしても、手荒にならざる得ません。そして、若殿に恨みを買えば平山家はどうなるか」

 清記は主税介を一瞥すると、一度視線を逸らし鼻を鳴らした。
 思った以上の惨状だった。白刃を手にしている以上、やはり手荒な真似は避けられない。正義感から飛び出したものの、踏ん切りがつかない自分が情けなかった。

「それは心配に及ばん。平山家は我々とは違う。たとえ若殿でも、容易に手は出せない家門だ」

 菊原がそうは言ったが、清記は頷けなかった。利永が健在な今はいい。しかし、右京の代になった時、それを誰が止めるというのか。現に嫌われたが故に使い捨てられるように死んだ者も、かつて平山家にはいた。

「どうするんです、兄上」

 主税介が耳打ちした。その声色は、何処か皮肉めいていた。だから言わんこっちゃない、とでも思っているのだろうか。

「血が流れてるというのに、お前さんは何もしねぇと言うのかい?」

 振り向くと、黒地に草木模様の着流しを纏った男が立っていた。

「よう」

 三十代前半。背が高く、角張った顔に、太い眉。それでいて目元は涼し気でもあり、江戸者が持つ洒脱で粋な印象がある。
 男の姿を見た菊原が、何故か一歩引いて黙礼した。

「あなたは?」
「ん? ああ、あの時は顔を隠していたっけか。二度目だな、平山の」

 清記はハッとして、慌てて頭を下げた。

「弟御には、初めて会うな」
「誰ですか、あなたは?」

 主税介の不躾な口調に、清記は慌てて一喝した。

「いいって事よ。俺は栄生帯刀ってもんだ。一応、あそこで暴れている奴の叔父になる」

 流石の主税介も、目が丸くなっている。それを見て、帯刀は悪餓鬼のような笑みを見せた。

「へへ。放蕩児ってのは、栄生の血かねぇ。兄貴はまぁ穏やかだが、風流狂いだ。なぁ、平山の?」

 そのような問いに答えるわけもいかず、清記は目を伏せた。

(何とも軽い男だ)

 清記は、出会った時に覚えた不快感を思い出した。帯刀の物言い、立ち振る舞いが洒脱な江戸っ子なのかもしれないが、武士の重みに欠け好きになれない。栄生家の一門衆なら、もう少し武士らしくして欲しいものだ。

「まぁ、お前らなら簡単に止められるだろうに」
若宮わかみや様。今、止めるようにと命じた所です」

 菊原が言った。若宮様と呼ばれた帯刀は鼻を鳴らした。
 帯刀は、夜須の若宮庄を知行地にしている。故に、〔若宮様〕と呼ばれるのだ。それは、あの夜に出会ってから調べた事だった。

「俺が若宮様って呼ばれるの好きじゃねぇと、お前は知っているはずだぜ」
「これは、申し訳ございませぬ」

 わざとらしく菊原が謝罪する。どうやら、帯刀が乗り込んできた事への嫌味が込められている。この男も狸だ。

「だが、こいつらに止めろっていうのは酷ってもんよ」
「ですが、このままでは」
「それで俺が参上したわけさ。可愛くない甥だが、時として厳しく指導してやるのが叔父の務めでね」

 帯刀が清記の肩を叩き、ふらふらと右京の前に進み出た。

「叔父貴」
「よう、右の字。暴れてんなぁ」

 次に聞こえたのは、悲鳴だった。右京が馬乗りになった帯刀によって組み伏せられ、刀は既に手放されていた。

「叔父貴、汚ねぇぞ」
「汚ねぇってか? お前はこれで死んでもおかしくねぇ。命のやり取りに綺麗も汚ないも無ぇんだよ」

 と、帯刀は脇差を抜くと畳に突き刺した。

「糞」
「世の中、面白くねぇなぁ。わかるぜ、右の字。俺も昔は荒れたよ。お前の親父がああだろ? 俺の方が相応しいってね。だがよ、お前は嫡男だ。遅かれ早かれ、跡目を継ぐんだよ。そんなお前が、派手にやり過ぎると廃嫡されるぜ?」
「ああ、いいともさ。俺は親父の跡目なんざ継ぎたくねぇんだよ」

 更に右京が暴れ、喚きだした。しかし、馬乗りになり腕を固めた帯刀を振り払えないでいる。

(やはり、あの男は出来る)

 柔術だけでなく、剣もかなりの腕だろう。好きではないが、その腕前に興味が強くなった。

「やりますね」

 主税介が口に出していた。帯刀の持つ腕を感じ取ったのだろう。清記は短い言葉で同意した。

「大体、お前は何で暴れてんだ?」
「俺の親友ダチが殺されたんだ。病って事になっているようだが、あいつが病なんざ考えられねぇ。きっと殺されたんだよ」
「ああ、岩城ん所の坊主ボンかい?」
「そうさ。岩城新之助だ。あいつは殺されたんだ」

 その名前が出た時、清記は視線を右京から逸らした。新之助を殺したのは、自分である。大角屋徳五郎から請け負った殺しの仕事ヤマで、始末したのだ。

「まぁ、わかるぜ。親友ダチられりゃ、悔しいだろうよ。だが、此処に乗り込んだのは何故だ?」
「そりゃ、新之助を殺したのは、犬山の野郎だからよ。そうに違いねぇ。だが、犬山は夜須で江戸にはいねぇ。だから菊原に問い質そうと」
「おいおい。そりゃ、お門違いってもんよ。それに、あいつは病でおっんだんだぜ」
「だから、そうじゃねっ……」

 不意に、右京の喚きが止んだ。帯刀が気絶させたのだ。帯刀は、右京を抱えて起こすと、梅原を呼んだ。

「お前さんに用だったみたいだぞ」
「そのようですね」

 菊原は、驚く事なく平然と答えた。

「右京が言っていた事は本当かい?」
「さて。国元の事は存じ上げませぬ」

 狸のような返答に、帯刀は鼻を鳴らした。

「まぁいい。死んだ女中には、それ相応の手当てを忘れるなよ。腕を斬られた奴は、傷が癒えたら若宮に送ってくれ。片腕では務めは出来ねぇだろうからな。若宮あっちで俺が面倒みてやる」
「はっ。若宮様、お手数をおかけしました」
「その名で、俺を呼ぶんじゃねぇや。それより駕籠を用意しな。こいつを中屋敷に連れて帰る。兄貴や義姉ねえさんに灸を据えてもらう」

 そう言って踵を返した帯刀が、清記を一瞥した。

「これが武士ってもんだろ、平山の」

 清記は、何と答えるべきが迷ったが、帯刀は既に立ち去っていた。

〔第二回 了〕
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