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第四章 穢土の暗闇
第二回 鬼子①
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江戸谷中、新茶屋町にある〔やまを〕という居酒屋だった。
朝から降り出した雨が、昼前にはすっかり止んだ日の夕暮れ時。清記がやまをの暖簾を潜ると、女の景気のいい声が飛んできた。
「いらっしゃいまし」
清記は軽く頷くと、店内を見回した。狭くはないが、けっして広くもない店だった。土間に置かれた机が六つ、奥には小上りの座敷の席が二つある。夕飯時だからか、その席の殆どは埋まっている。
「ご案内しますね」
そう言う小女に、清記は首を振った。
「連れが先に来ているんだが」
隅の席。四人掛けの机で、その男は一人で飲んでいた。小女は理解したのか、笑顔で頷いた。
追っていた男だった。藩邸から失踪していたが、乙吉が男を探し出し、その報告を受けての今日だった。
清記は、男の傍に立った。男の顔を見ただけで、心の大部分を支配していた憂鬱さが更に増した。この男の順番が永遠に来ない事を、密かに願っていた。
「何か用かな?」
男は猪口を置いて見上げた。酔っているのか、やや焦点が定まっていない視線だった。店に入って、半刻ぐらいか。机の上には、焼き魚の残骸と食べかけの味噌田楽。空いた串が二本転がっている。旨い肴と合わせて、気持ちよく飲んでいたに違いない。
「お初にお目にかかります。平山清記と申します」
「ああ、君か」
男は言った。清記は、男の目の前に座った。その事に、男は何の反応も示さなかった。
中々の色男だった。色白で鼻筋が通っている。酔っているとはいえ、若い娘が好みそうな涼し気な目元は崩れていない。自分とは違う種類の男だと、何となく思った。
「まさか、君と江戸で会う事になろうとはね。いや、違うな。江戸に来たという話は聞いていたよ。なので、いよいよ出会う日が来てしまったと言うべきかな」
「ええ」
男とは旧知の仲というわけではなかった。しかし僅かな間であったが、お互いに意識していた間柄だった事には違いない。それを裏付けるかのような反応を、今まさに示したばかりだった。
男の名は、安川平蔵。志月の婚約者だった、蘭学者である。
何故、この男を斬らねばならないのか、清記はわからない。しかし、梅岳から与えられた名簿には、確かに安川の名前が記されていた。
斬りたくはない相手だったが、主税介に任せる気は起きなかった。自分は御手先役なのだ。これぐらいで逃げていては、この先のお役目を勤め上げる事など出来ようはずもないし、主税介にどんな嫌味を言われるかわかったものではない。
(しかし、安川は何をしたというのか)
このお役目について、斬るべき者の名簿を眺めていると、ぼんやりと浮かんでくるものはあった。しかし、全ては安川平蔵を省けばという話である。一介の蘭学者の名前がある事で、予想が難しいものになっていた。
「志月殿は達者かな?」
「ええ。少なくとも、私が江戸へ赴く前は」
すると、安川は軽く笑って猪口を清記に差し出した。飲めという事だろう。清記は受け取り、安川の酌を受けた。
「寂しがっていただろう」
「何故でしょうか?」
「君が江戸へ行くからだよ。袖にされた私に言わせないでくれ」
安川との破談は、東馬から聞いていた。江戸へ発つ数日前に行われた、宴会での事だった。そのわけを訊いても、東馬はニヤつくばかりで何も言わなかった。志月はいつもと変わらなかったし、大和も見る限りは機嫌が良かった。勿論、他人の自分が詮索するものではないと思っていたが、それでも気になっていたのだ。
そうした中で、安川を斬れとの命令。おそらく、破談はそれと関係があったのかもしれないと思ったが、「袖にされた」と言っていたので志月に断られたのだろうか。
「わかりません。しかし、しっかり励むようにとは言われましたが」
「ふふ。まるで夫婦ではないか」
そう言うと、安川が猪口を煽った。清記もそれに続いて猪口を空けた。
悪い酒ではなかった。客が入っているのもわかる。
「君が私を追っていたのかな?」
「……」
「そうだろう? 気配は感じていたさ。私とて無外流を使うのでね」
安川が再び酒を注ぎ、それから銚子を清記に差し出した。清記は首を振った。
「本当はどこかに潜伏しようかと思ったが、協力してくれる者がいなかった。手持ちも少ないし、夜須には帰れぬし長崎は遠い。それで私は観念して、此処で飲んでいたのさ」
「なるほど」
「君は建花寺流の師範代で、腕を認められて江戸へ遊学した身だ。私への討っ手は君がうってつけだな」
「安川殿、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「答えられる範囲なら」
「何故、安川殿は藩邸から姿を消したのですか?」
すると、安川が不意を突かれたかのように噴き出した。すかさず手ぬぐいで、口を拭う。
「いやぁ、すまない。それを君が、敢えて私に問うとは思わなくてね。君は聞かされていないのかい?」
「ええ」
「ただ、連れ帰れと?」
命令は連れ帰れではなく、斬れ。しかし、清記は頷いて応えた。
「違うな。斬れと命じられたか」
「ええ」
「それでは尚更乱暴だな。まるで君は道具ではないか」
「ですので、こうして訊いているのです」
お役目の裏にあるものを訊く事は、御法度だった。だから、斬る理由を説明される事も、訊く事もない。
「そうか。なら、答えられないな。君は私の恋敵さ。だから君という人間に、道具以上の価値を持たせたくないよ」
諧謔気味に言う安川を尻目に、大楽は小さな溜息を吐いた。
「それは落胆かい? それとも怒りかな」
「いいえ。諦観です。私は自分が道具である事は百も承知ですから」
「なんだ。君は道具である事を受け入れているのか」
安川が目を細め、興を削がれた風に言い捨てた。
「クズだな」
「何とでも言ってください」
「君は真実を知らずに悩み苦しみ、後ろめたい気持ちのまま、志月と生きていく。そうなる事を少し考えたのだが、惜しいなぁ」
「苦悩には慣れていますよ。それに、大なり小なり、武士は御家の道具でしょう。安川殿が蘭学を公費で学んだのも、道具になる為では?」
猪口を置いた安川と目が合った。そして安川の手は味噌田楽に伸びて、口に頬張った。清記は何も言わず、安川が味噌田楽を飲み込み口を開くのを待った。
「君の言う通りだな。ああ、君が正しい。武士は御家の道具だ。その結果、君は私の前に居て、私は君の前にいる。私が君と此処で出会ったのも、お互いが道具として生きてきた証であり結果さ」
「私もそう思います」
安川が、「よし」と一つ呟いた。銚子に残った酒を注ぎ、飲み干す。
「この先に、人が立ち寄らない場所がある。そこでやろうか? 不本意だが、こうなれば仕方がない」
清記は無言で頷いた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
そこは新茶屋町の裏手にある、墓地だった。
先導したのは安川で、
「後ろからバッサリというのはよしてくれよ」
とは言っていたが、過度に警戒する素振りは見せなかった。
とはいえ無防備な背中は、実に魅力的だった。ここで斬ってしまえば、何も命のやり取りをしなくて済むのだ。迷っている間に、こちらが振り向きざまに斬られる場合もある。誘惑と警戒。奇妙な心地の中で歩みを進め、目的の場所に到着していた。
月が輝く夜。人妻が放つ艶めかしい色気のような、妖しい光。その中で、清記は安川と向かい合った。
「君は今のままでいいと思っているのかな?」
清記が扶桑正宗に手を伸ばそうとした刹那、安川が口を開いた。
「藩のお偉方に、理由も明かされずに斬れと命じられる。道具のように使われ、いずれは捨てられるんだぞ。それでいいのかい?」
「では、どうしろと言われるのです」
「梅岳を斬ればいい。そして、執政府を変える。志月殿のお父上ならば、それを変えられる力がある」
やはり、そういう事だったのか。清記はこの役目が何を意味しているのかを悟り、息を呑んでいた。
「君は内住郡代官職を継ぐ名門。しかも剣の使い手だ。大和様に加担すれば、梅岳を倒す一助となる。微力だが、私も長崎で学んだ知見を捧げるつもりでもある」
わかっている。わかっているさ。それが出来れば、どれだけいいという事も含めて。
清記は、腹の底に気を込めた。斬るしかないと意を決して扶桑正宗を抜き払った時、安川が笑い声を挙げた。
「故に、私は死ねない」
と、安川は右手で短筒を構えた。
掌に収まるかどうかの、小さな銃だ。仕込み銃の類だろう。当たり所が悪くなければ、死ぬ事はないが脅威である事は間違いない。
「長崎で手に入れたものでね。剣では君に勝てないが、これで傷を負わせた君には勝てる」
距離は四歩。恐らく、短筒は一度しか撃てない。勝負はその時だろう。
清記は、正眼に構えて心気を整えた。鉄砲を向けられるのは、初めてではない。軽く掠った事もあるが、銃口からの圧力は想像以上だった。
「残念だが、死んでもらうよ」
引き金に掛けた指に力が入ると同時に、頭上から黒い影が舞い降りて来た。清記の眼が捉えたのは、白い斬光だけだった。
安川の喉が鳴った。何か言った気もするが、言葉にはなっていない。そして、短筒を落とすと、身体が左右に裂けて斃れた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「間に合ってよかった」
黒い影が立ち上がると、そう言った。
「すまん、今回ばかりは助かった」
「私は弟として当然の事をしたまでですよ」
影は主税介だった。絶妙な助太刀にも驚かされたが、それ以上に落鳳の冴えにも清記は驚いた。これほどの域に達しているのだと。
「兄上が自分一人で殺ると言うから手を出すまいと思っていたのですけどね。案の定というか、何と言うか。心配して見に来てよかったですよ」
主税介が刀の血を懐紙で拭い、不敵な笑みを清記に向けた。
「兄上に、恋敵を斬ったという疵を負わせたくありませんからね」
「主税介……」
「いいですよ、恩に着なくても。これも私の手柄になるのですから」
そう言って踵を返し、闇の中に消えて行く主税介に代わるように、忍び装束の乙吉が現れた。頬かむりをしているので、その表情は見えない。
「清記様、お見事でございました」
「見ていたろう。斬ったのは主税介だ。菊原様にも、そう報告しておいてくれ」
「なんの。此処におびき出したのは清記様でございますよ」
「そう言われると複雑だな」
乙吉の背後に幾つかの気配を感じて目を向けると、乙吉が
「さっ、早く」
と、立ち去るように促した。
「骸は私どもで始末いたしますので」
闇から五つの影が浮かび上がる。乙吉が率いる手下か、骸を掃除する非人衆か。どちらにせよ、自分には関係ないと清記は思った。
朝から降り出した雨が、昼前にはすっかり止んだ日の夕暮れ時。清記がやまをの暖簾を潜ると、女の景気のいい声が飛んできた。
「いらっしゃいまし」
清記は軽く頷くと、店内を見回した。狭くはないが、けっして広くもない店だった。土間に置かれた机が六つ、奥には小上りの座敷の席が二つある。夕飯時だからか、その席の殆どは埋まっている。
「ご案内しますね」
そう言う小女に、清記は首を振った。
「連れが先に来ているんだが」
隅の席。四人掛けの机で、その男は一人で飲んでいた。小女は理解したのか、笑顔で頷いた。
追っていた男だった。藩邸から失踪していたが、乙吉が男を探し出し、その報告を受けての今日だった。
清記は、男の傍に立った。男の顔を見ただけで、心の大部分を支配していた憂鬱さが更に増した。この男の順番が永遠に来ない事を、密かに願っていた。
「何か用かな?」
男は猪口を置いて見上げた。酔っているのか、やや焦点が定まっていない視線だった。店に入って、半刻ぐらいか。机の上には、焼き魚の残骸と食べかけの味噌田楽。空いた串が二本転がっている。旨い肴と合わせて、気持ちよく飲んでいたに違いない。
「お初にお目にかかります。平山清記と申します」
「ああ、君か」
男は言った。清記は、男の目の前に座った。その事に、男は何の反応も示さなかった。
中々の色男だった。色白で鼻筋が通っている。酔っているとはいえ、若い娘が好みそうな涼し気な目元は崩れていない。自分とは違う種類の男だと、何となく思った。
「まさか、君と江戸で会う事になろうとはね。いや、違うな。江戸に来たという話は聞いていたよ。なので、いよいよ出会う日が来てしまったと言うべきかな」
「ええ」
男とは旧知の仲というわけではなかった。しかし僅かな間であったが、お互いに意識していた間柄だった事には違いない。それを裏付けるかのような反応を、今まさに示したばかりだった。
男の名は、安川平蔵。志月の婚約者だった、蘭学者である。
何故、この男を斬らねばならないのか、清記はわからない。しかし、梅岳から与えられた名簿には、確かに安川の名前が記されていた。
斬りたくはない相手だったが、主税介に任せる気は起きなかった。自分は御手先役なのだ。これぐらいで逃げていては、この先のお役目を勤め上げる事など出来ようはずもないし、主税介にどんな嫌味を言われるかわかったものではない。
(しかし、安川は何をしたというのか)
このお役目について、斬るべき者の名簿を眺めていると、ぼんやりと浮かんでくるものはあった。しかし、全ては安川平蔵を省けばという話である。一介の蘭学者の名前がある事で、予想が難しいものになっていた。
「志月殿は達者かな?」
「ええ。少なくとも、私が江戸へ赴く前は」
すると、安川は軽く笑って猪口を清記に差し出した。飲めという事だろう。清記は受け取り、安川の酌を受けた。
「寂しがっていただろう」
「何故でしょうか?」
「君が江戸へ行くからだよ。袖にされた私に言わせないでくれ」
安川との破談は、東馬から聞いていた。江戸へ発つ数日前に行われた、宴会での事だった。そのわけを訊いても、東馬はニヤつくばかりで何も言わなかった。志月はいつもと変わらなかったし、大和も見る限りは機嫌が良かった。勿論、他人の自分が詮索するものではないと思っていたが、それでも気になっていたのだ。
そうした中で、安川を斬れとの命令。おそらく、破談はそれと関係があったのかもしれないと思ったが、「袖にされた」と言っていたので志月に断られたのだろうか。
「わかりません。しかし、しっかり励むようにとは言われましたが」
「ふふ。まるで夫婦ではないか」
そう言うと、安川が猪口を煽った。清記もそれに続いて猪口を空けた。
悪い酒ではなかった。客が入っているのもわかる。
「君が私を追っていたのかな?」
「……」
「そうだろう? 気配は感じていたさ。私とて無外流を使うのでね」
安川が再び酒を注ぎ、それから銚子を清記に差し出した。清記は首を振った。
「本当はどこかに潜伏しようかと思ったが、協力してくれる者がいなかった。手持ちも少ないし、夜須には帰れぬし長崎は遠い。それで私は観念して、此処で飲んでいたのさ」
「なるほど」
「君は建花寺流の師範代で、腕を認められて江戸へ遊学した身だ。私への討っ手は君がうってつけだな」
「安川殿、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「答えられる範囲なら」
「何故、安川殿は藩邸から姿を消したのですか?」
すると、安川が不意を突かれたかのように噴き出した。すかさず手ぬぐいで、口を拭う。
「いやぁ、すまない。それを君が、敢えて私に問うとは思わなくてね。君は聞かされていないのかい?」
「ええ」
「ただ、連れ帰れと?」
命令は連れ帰れではなく、斬れ。しかし、清記は頷いて応えた。
「違うな。斬れと命じられたか」
「ええ」
「それでは尚更乱暴だな。まるで君は道具ではないか」
「ですので、こうして訊いているのです」
お役目の裏にあるものを訊く事は、御法度だった。だから、斬る理由を説明される事も、訊く事もない。
「そうか。なら、答えられないな。君は私の恋敵さ。だから君という人間に、道具以上の価値を持たせたくないよ」
諧謔気味に言う安川を尻目に、大楽は小さな溜息を吐いた。
「それは落胆かい? それとも怒りかな」
「いいえ。諦観です。私は自分が道具である事は百も承知ですから」
「なんだ。君は道具である事を受け入れているのか」
安川が目を細め、興を削がれた風に言い捨てた。
「クズだな」
「何とでも言ってください」
「君は真実を知らずに悩み苦しみ、後ろめたい気持ちのまま、志月と生きていく。そうなる事を少し考えたのだが、惜しいなぁ」
「苦悩には慣れていますよ。それに、大なり小なり、武士は御家の道具でしょう。安川殿が蘭学を公費で学んだのも、道具になる為では?」
猪口を置いた安川と目が合った。そして安川の手は味噌田楽に伸びて、口に頬張った。清記は何も言わず、安川が味噌田楽を飲み込み口を開くのを待った。
「君の言う通りだな。ああ、君が正しい。武士は御家の道具だ。その結果、君は私の前に居て、私は君の前にいる。私が君と此処で出会ったのも、お互いが道具として生きてきた証であり結果さ」
「私もそう思います」
安川が、「よし」と一つ呟いた。銚子に残った酒を注ぎ、飲み干す。
「この先に、人が立ち寄らない場所がある。そこでやろうか? 不本意だが、こうなれば仕方がない」
清記は無言で頷いた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
そこは新茶屋町の裏手にある、墓地だった。
先導したのは安川で、
「後ろからバッサリというのはよしてくれよ」
とは言っていたが、過度に警戒する素振りは見せなかった。
とはいえ無防備な背中は、実に魅力的だった。ここで斬ってしまえば、何も命のやり取りをしなくて済むのだ。迷っている間に、こちらが振り向きざまに斬られる場合もある。誘惑と警戒。奇妙な心地の中で歩みを進め、目的の場所に到着していた。
月が輝く夜。人妻が放つ艶めかしい色気のような、妖しい光。その中で、清記は安川と向かい合った。
「君は今のままでいいと思っているのかな?」
清記が扶桑正宗に手を伸ばそうとした刹那、安川が口を開いた。
「藩のお偉方に、理由も明かされずに斬れと命じられる。道具のように使われ、いずれは捨てられるんだぞ。それでいいのかい?」
「では、どうしろと言われるのです」
「梅岳を斬ればいい。そして、執政府を変える。志月殿のお父上ならば、それを変えられる力がある」
やはり、そういう事だったのか。清記はこの役目が何を意味しているのかを悟り、息を呑んでいた。
「君は内住郡代官職を継ぐ名門。しかも剣の使い手だ。大和様に加担すれば、梅岳を倒す一助となる。微力だが、私も長崎で学んだ知見を捧げるつもりでもある」
わかっている。わかっているさ。それが出来れば、どれだけいいという事も含めて。
清記は、腹の底に気を込めた。斬るしかないと意を決して扶桑正宗を抜き払った時、安川が笑い声を挙げた。
「故に、私は死ねない」
と、安川は右手で短筒を構えた。
掌に収まるかどうかの、小さな銃だ。仕込み銃の類だろう。当たり所が悪くなければ、死ぬ事はないが脅威である事は間違いない。
「長崎で手に入れたものでね。剣では君に勝てないが、これで傷を負わせた君には勝てる」
距離は四歩。恐らく、短筒は一度しか撃てない。勝負はその時だろう。
清記は、正眼に構えて心気を整えた。鉄砲を向けられるのは、初めてではない。軽く掠った事もあるが、銃口からの圧力は想像以上だった。
「残念だが、死んでもらうよ」
引き金に掛けた指に力が入ると同時に、頭上から黒い影が舞い降りて来た。清記の眼が捉えたのは、白い斬光だけだった。
安川の喉が鳴った。何か言った気もするが、言葉にはなっていない。そして、短筒を落とすと、身体が左右に裂けて斃れた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「間に合ってよかった」
黒い影が立ち上がると、そう言った。
「すまん、今回ばかりは助かった」
「私は弟として当然の事をしたまでですよ」
影は主税介だった。絶妙な助太刀にも驚かされたが、それ以上に落鳳の冴えにも清記は驚いた。これほどの域に達しているのだと。
「兄上が自分一人で殺ると言うから手を出すまいと思っていたのですけどね。案の定というか、何と言うか。心配して見に来てよかったですよ」
主税介が刀の血を懐紙で拭い、不敵な笑みを清記に向けた。
「兄上に、恋敵を斬ったという疵を負わせたくありませんからね」
「主税介……」
「いいですよ、恩に着なくても。これも私の手柄になるのですから」
そう言って踵を返し、闇の中に消えて行く主税介に代わるように、忍び装束の乙吉が現れた。頬かむりをしているので、その表情は見えない。
「清記様、お見事でございました」
「見ていたろう。斬ったのは主税介だ。菊原様にも、そう報告しておいてくれ」
「なんの。此処におびき出したのは清記様でございますよ」
「そう言われると複雑だな」
乙吉の背後に幾つかの気配を感じて目を向けると、乙吉が
「さっ、早く」
と、立ち去るように促した。
「骸は私どもで始末いたしますので」
闇から五つの影が浮かび上がる。乙吉が率いる手下か、骸を掃除する非人衆か。どちらにせよ、自分には関係ないと清記は思った。
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