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第三章 蒼い月

第十六回 涅槃の光

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 目の前には、数日前とはまるで人が変わったような小弥太が立っていた。

(別人ではないか)

 そう思えるほどの豹変である。
 小弥太からは、怯えを全く感じない。真剣を前にしても、落ち着き払って佇立しいる。冷たく沈んだ氣は、齢十五の子どものものとは到底思えない。この歳にして、既に何人か斬っている。そう思えるような、落ち着きぶりがあった。清記が〔臆病者の剣〕と評していたが、どうやらそれは敵を欺く為の嘘だったらしい。
 小弥太は、一礼をすると刀を抜いた。
 下段。端正な構えだ。求馬は、

(これは油断ならぬ)

 と、一度納刀し、居合の体勢を取った。
 居合は管亥流の、そして自分の必殺の構えだ。
 二人の間には、四歩の距離がある。遠巻きにして、捕吏が四囲を囲んでいる。堤防の上である事も気にしなければならない。足運びを誤れば、海に真っ逆さまもありえる。

(それにしても、小弥太の奴)

 求馬は、内心で苦虫を噛んだ。
 隙が無い。隙だらけのようで、打ち込んでも返されるように思えてしまう。ここ数日で、こうも上達出来るものではない。自分の力量を、隠していたのだ。この日の為に。

(小弥太にも騙されていたのだな)

 小癪な小僧。不気味で、可愛げが無い。真剣を持っても、平然としている。抜き身の刀を持つ事が、小弥太にとって当たり前の行為なのだろうか。

(面白い……)

 求馬は、自らの闘争心が湧き立つのをしたたかに感じた。
 負けてたまるか。こんな小僧に。剣だけなら、宇美津随一の自信はある。
 求馬は、地摺りで距離を詰めた。少しずつ近付くが、小弥太は瞑目しているかのように、不動だった。その落ち着きも、求馬には気に食わない。
 三歩。その距離に達した時、求馬の全身が粟立った。
 小弥太の放つ氣が、覆い被さって来たのだ。
 強烈な黒。人の生き血を吸った者だけが放つ氣である。並の腕ならば、向かい合っただけで圧倒され、潰れてしまうだろう。
 ふん。
 鼻を鳴らした。やはり、そうか。その歳で、人斬りなのか。小弥太。
 求馬は気勢を上げ、更に前に出ようとした。
 が、足が前に出なかった。
 視線を足元に移す。
 手。影から黒い手が伸び、両足を掴んでいた。
 掴んでいるように見えた。

「なに」

 その刹那。下段に構え、沈んでいた小弥太の切っ先が動いた。
 光。刃が放つ、鈍い白だった。
 突きである。いきなり来た。何とか躱す。更に、小弥太が斬り下げる。身を翻し躱した。
 また突きが来た。これは、抜刀で払う。そして距離を取るように、後方に跳び退いた。
 何という連撃か。反撃の暇さえ与えない、流れるような刀の捌き。

(小僧の分際で、この域とはな)

 一方、小弥太は切れ長の目を大きく見開いていた。一つも身体に届かなかった事を、驚いているのだろうか。

(これで決めきれなかった事を後悔させてやる)

 求馬は納刀し、再び居合の構えを取った。
 勝負は鞘の内にある。次に抜く時は、小弥太を斬る為だ。
 今度は、求馬が前に出た。
 間合いに入る。それを待っていたかのように、小弥太の刀が迫ってきた。
 下段からの斬り上げ。峻烈とした攻撃だが、刃が鼻先を通過していく。
 踏み込みが甘く、距離が足りなかったのだ。
 小弥太の動きを目で追いながら、求馬は清記の言葉を思い出した。

(ほう、これが……)

 これこそが、清記が言っていた臆病者の剣たる由縁。どうやら、嘘ではなかったようだ。そして、それが小弥太の命取りになる。

(もらった)

 そう思った。小弥太の胴が伸びきり、がら空きになっているのだ。
 背を低くし、両足の裏に氣を込め、地面を蹴り上げる。
 瞬剣、飛燕。
 がら空きの胴を、水平に薙いだ。
 斬った。
 と、思った。
 確かに、そう見えた。だが、求馬は我が目を疑った。
 胴を薙いだはずの小弥太の身体が、霧散していくのだ。
 これは、夢か? 幻術の類か?
 いや、違う。謀られた。小弥太は、これを待っていたのだ。
 頭上。跳躍していた小弥太が、刀を振り下ろしながら降ってくる。
 それを、求馬は刀身で受けた。想像以上の圧力に、思わず膝を付く。
 求馬は咆吼した。立ち上がり、小弥太を押し返す。そのまま、鍔迫り合いになった。力比べならこちらに分がある。
 刀越しの小弥太の顔。あからさまに焦っていた。動揺しているのだ。秘奥が通じなかったからか。
 いいぞ。驚け。慌てろ。そして、心を乱すがいい。
 その先に、俺の勝機がある。それが今。いや、今でなければ勝てない。
 更に押した。二人の身体が、後方に流れていく。このまま押し倒し、止めを刺す。それで、殺してやる。
 不意に、襟を掴まれた。小弥太の身体が沈む。真剣を持ったまま、何をするつもりだ。
 疾い。と、感じた時には、得体の知れない力に、身体を引っこ抜かれていた。

「どういう事だ」

 求馬は、口に出していた。
 身体が、宙に浮いている。そうか。投げられたのだな。小弥太の奴め、柔の技も使えるとは。
 そう思ったのは一瞬で、足元が黒く暗い水面である事に気付いた。
 海だ。海に、俺は落ちるのか。
 求馬は、咄嗟に手を伸ばした。何かを掴んだ。それが小弥太の襟であると判った時、無性に嬉しくなった。

「お前も来い」

 そして、視界は一転した。
 冷たい水。目を見開いても、そこは闇だけだった。息が出来ない。それは当たり前だ。ここは海中なのだから。
 細い腕が、首に巻きついている。小弥太か。この小僧は、まだ戦うつもりなのだろう。
 足掻いてみた。小弥太が離れない。糞。離せ。このままでは、二人とも死ぬぞ。
 息が苦しくなった。意識が緩慢になる。もう無理だ。息が続かない。俺は、死ぬのか。こんな所で。
 身体が沈んでいく。その感覚に、不思議と心地良さすら覚えた。
 芳野に会いたい。他には何もいらない。ただ、あと一目。あの女は、いつまでも待つと言っていた。健気けなげな女なのだ。もう待たなくていい。そう言ってやりたい。
 ふと、目の前に光が差した。そして暖かい。白い世界がそこにあった。
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