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第二章 宝如寺の賊
第一回 憂鬱
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空が澄み渡るように晴れていた。
雲高く、秋晴れである。陽気も穏やかで、肌着の下に微かな汗を覚えるほどだ。朝晩は流石に冷えるようになってはいるが、日中はまだ暑さを感じる。
日向峠を下って、三日が経っていた。飛越宿と高師藩の城下で一泊ずつした平山小弥太は、父・平山清記と共に築城国(下野)と那珂国(下総)を繋ぐ、築那街道を南へと進んでいた。
高師では、そこに潜伏していた国学者を斬った。その男は、同じ夜須藩出身で館林簡陽という男だ。勤王の志篤く、脱藩し近隣の志士と叛乱の密計を画策していた。
夜須藩は幕府開闢以来、徳河家を守護してきた譜代である。そのような歴史を持つ武士団から、叛徒を出すわけにはいけないと、暗殺の前夜に父から聞かされた。
簡陽は、町外れにある農家の納屋に隠れていた。納屋の警備に二人の武士がいたが、それは自分が一人で斬った。二人が何者なのか、一切知らない。ただ父に命じられ、誰何《すいか》する前に始末した。
「遅かったな」
中に踏み込むと、簡陽が穏やかな笑みを投げかけた。
父は頷き、簡陽と僅かに言葉を交わすと、あっさりと首を打った。
「私も斬るのだな、お前は」
それが、簡陽の最後の言葉だった。
「私も」
という言葉が、何故か耳に残った。私も、という中には、日向峠で斬った武富陣内も含まれているのだろうか。父と、簡陽。そして陣内。かつて三人に何かがあったのかのような、含みのある言い方だった。
武富陣内は、父の友だった。屋敷の客間で将棋を指していた姿を何度も見た事もある。だが、館林簡陽との関係は、小弥太には判らなかった。父は何も語らず、それについて訊ける雰囲気でもなかった。
簡陽を斬って旅を終える。そう思っていた。だが、次の目的地が宇美津だと伝えられたのは、今朝の事だった。築那街道は、夜須と宇美津を繋ぐ、北関東の大動脈である。今はまだ、高師藩領を出たばかりで、宇美津までの道のりは遠い。
長い旅になる。事前に、そう言われて夜須を出ていた。だから、宇美津と言われても驚きはない。高師では長い旅とは言えないからだ。
宇美津は、夜須藩の飛び地である。本領に海を持たない山国の夜須にとって、唯一の湊でもあった。そこで何をするのか、その目的までは聞かされなかった。もとより、父が前もって何か言う事は珍しい。
(当然、誰かを斬るのだろう)
それだけは、間違いない。平山家の生業は、人殺しなのである。武富陣内や館林簡陽を斬ったのも命令があったからで、それを命じたのが夜須藩主・栄生左近将監利景だった。
平山家は内住郡代官として、二十五ヶ村二千五百余石の支配を代々任されている。だが、それは単なる肩書きに過ぎない。真なる平山家のお役目は、〔御手先役〕と呼ばれる藩主家直属の刺客なのだ。
藩主、或いは代理となる執政府から、斬れと命じられれば斬るだけの刀として存在してきた。それを為し得る為に、一族の秘剣・念真流がある。念真流は夜須藩お留め流剣術で、その存在を知る者は少ない。その存在は秘匿とされ、表向きには百姓相手の田舎剣法と蔑まれる建花寺流を名乗っている。
その念真流の発祥は古く、平安の御世にも遡るという。戦国乱世の御世には、少数精鋭の抜刀隊を率い栄生家の影で働いてきた。現在の当主は父であり、自分はその次期当主になる予定である。
だが小弥太は、
(父の後を継ぐ自信が無い)
と、思っていた。
当主は、誰よりも人殺しに長けなければならない。それは念真流の宗家としても、御手先役としても絶対条件である。
四日前、初めて人を斬った。その時は血に酔い、何の恐怖も無かった。だが時が経つと、骨を断つ感触と殺した人間の形相が蘇り、脳裏から離れないのだ。
(それが怖い……)
あれ以来、夢見も悪く夜が長く感じる。怯えているのだ。武士として恥じるべきだろうが、怖いものは怖い。
清記の後ろを俯いて歩く小弥太は、ふと視線を上げた。父の大きな背中。この背を見てきた。父が人を斬っている時もだ。
(父上は、怖くないのだろうか)
父の仕事に初めて付き従ったのは、十歳の時だ。相手は足軽で、私怨から組頭を殺害し遁走。その追跡に伴われた。
二日と半日追った末、父は藩境で男を捕らえて殺した。髪を掴み上げ、短刀で喉を掻き切ったのだ。何ら躊躇もない。喜怒哀楽を表さず、淡々と捕えた獲物を仕留める猟師のように殺した。
「お前も、いずれこうなる」
と、返り血を浴びた父に言われた。だが、そうなる自信は全く無い。
どうしようもない恐怖があった。死ぬ事も、殺す事も恐怖である。人を斬った今でも、それは変わらない。
(慣れるしかない)
いずれ、心が慣れていく。人を殺しても、自分が殺されても、何も思わなくなるはずだ。
殺しに慣れる。それが小弥太の、一縷の望みである。
◆◇◆◇◆◇◆◇
宿場に入った。
入口の看板には、〔藤ノ口〕と書かれている。そう活気がある宿場ではないが、かと言って寂れているわけではない。何とも中途半端な宿場という感じだ。
だが小弥太は、
(面白いな)
と、町の様子に目を見張った。
この旅で、初めて夜須藩を出た。藩外の話は、折に触れ父に聞いていた。だが見ると聞くとでは違い、全てが目新しく思える。
中でも、言葉の違いには驚いた。同じ日本の言葉でも、発音の節が違う事がある。田舎に行けば、聞き取れない事もあった。山を越えただけで、こうも違うとは思いもしなかった。
商店で餅と草鞋を買い込むと、一膳飯屋に入った。
昼時で賑わっていた。客の多くが旅装である。清記が小弥太に目配せをして、全体が見渡せる部屋の隅に座った。
暫くして、沢庵を乗せた麦飯と汁物、そして川魚の塩焼きが出た。岩魚のように見えるが、目印となる斑点が無い。藤ノ口の傍には、名も知れぬ川が流れている。この名も知れぬ魚は、その産だろう。
清記が膳に手を伸ばしたのを確認して、小弥太も箸を付けた。汁物の具は野菜屑、川魚は脂も少なく塩辛いだけもので、お世辞にも旨い代物ではない。だが、小弥太は構わずに黙々と食べた。旅の飯などは、まず飢えない事が第一で、食べられる時に腹を満たさなければならない。旨い不味いは二の次なのだと、父に教えられている。
そう自分に言い聞かせながら不味い飯に苦戦していると、小弥太の耳には様々な話し声が飛び込んできた。その多くが宇美津の景気に関するものだ。どうやら、行商同士の会話らしい。宇美津は、関東では江戸に次いで巨利を生み出す市場である。
「宇美津が風邪を引けば、関東が風邪を引く」
などと、父が言っていた。それだけに、宇美津の景気は関東の商人にとって注視すべき事柄なのだろう。
他には、賊徒の話題もあった。小弥太には、こちらの話題が興味をそそられた。
何でも〔土鮫の一味〕という賊が、那珂を荒らしているという。頭目は土鮫の文吾という男で、那珂国中の往来に出没しては残忍な賊働きをしているらしい。
(役人は何をしているのだ)
平山家が治める内住郡には、賊など一人とていない。それは父の統治が確かであるからだ。統治の乱れが、無法な賊を蔓延らせる。つまり、役人の無能を表していた。
「小弥太」
清記に名を呼ばれ、小弥太は我に返った。
「早く食べてしまえ」
「はい」
不味い飯を慌てて胃に詰め込むと、銭を置いて店を出た。それから宿を探すのかと思ったが、清記の足は何の迷いもなく宿場の出口に向かった。まだ先に進むつもりなのだろう。確かに、この宿で一泊するには陽が高過ぎる。
◆◇◆◇◆◇◆◇
川筋に沿って歩いた。
妖しい死人花が真紅の花を咲かせ、その美しさに目を向けながら進んでいると、いつの間にか追分に達していた。
西は新農・郡部という宿場と、那珂の都とも呼べる珂府城下を通過する築那街道。一方、南の裏街道は険しい山越えを要する峠路である。
(確か……)
小弥太は、脳裏に叩き込んだ地図を思い浮かべた。
どちらも珂府城下へ通じる。しかし、築那街道は、山を迂回するので遠回りになる。
「小弥太」
清記が熱感の無い声で、名を読んだ。
「この先の築那街道には何がある?」
「新農、郡部です」
小弥太は即答した。父の試しである。父は時折、こうして問題を出すのだ。
「では、裏街道を通ると何処に行き着く?」
「岩寂です」
「岩寂はどのような所だ?」
「夜須藩、高師藩から珂府城を守る要所です」
珂府は、那珂の府中の略称である。これまで数名の大名が治めてきたが、現在は幕府直轄となり、珂府奉行がその治世を指揮している。
「どちらが珂府城下に近いか判るか?」
「裏街道だと思います。地図の上では」
「そうだ。裏街道で山越えする方が、珂府城下に近い。しかし、多くの旅人は築那街道を選ぶ。その方が通りも良く、宿場が整備されているからだ。そして何より、身の危険が少ない」
此処は関東である。しかも、その中でも最も治安が悪いとされている那珂国。唯でさえ危険な場所であるのに、裏街道となると一層危ない。旅慣れた渡世人すらこの裏街道を避けると噂されている。
「山を越えるぞ」
清記が、そう言うと同時に歩き出していた。その後を、小弥太は追う。
峠路は、頼りない道だった。道幅は二人並んで通ればやっとという所が大半である。勿論、整備などはされていない。泥濘になっている場所もある。
(確かに、雰囲気は悪いな)
鬱蒼とした木々が天を覆い、空気も澱んでじめっとしている。賊が出てきても不思議はない。
険しい峠路も、その半ばに至った頃だった。清記は立ち止まって空を見上げると、
「野宿の準備だ」
と、小弥太に命じた。既に、陽は大きく傾いている。
小弥太は、脇道に入ると言われるがままに準備に取り掛かった。寝床の確保と、薪を集めるのである。
野宿は慣れたものだった。稽古と称して藩内を歩き回り、ふた月も野宿を続けた事もある。野宿では何に気を付け、何処を選ぶべきか。知識ではなく、経験として身に付いている。
手頃な大樹を見つけた。樹葉が屋根に、根が枕替わりになってくれそうだった。少し歩くと沢もある。
水を竹筒に汲んで戻ると、清記が火を熾し終えていた。藤ノ口で購った餅を焼いている。
餅はすぐに焼けた。味付けはない。それでも、噛んでいると次第に甘くなり、空いた腹には美味だった。
夕餉が済むと、後は寝るだけである。
「明日は払暁と共に発つ」
清記はそれだけを告げ、横になった。
この夜の会話は、たったそれだけだった。他はない。他所の親子はこうではない。十歳を越えたぐらいから、その違いに気付いた。これで本当に親子なのか、と思う事もしばしばだが、これが紛う事なき自分と父との関係なのだ。
清記の寝息が聞こえると、小弥太は焚火を消して、大樹の根を枕に寝そべった。
闇が訪れた。秋の虫と禽獣の鳴き声だけが聞こえる。小弥太は横になっても、周りの気配に気を配った。禽獣のみならず賊が襲って来ないとは限らない。何せ、昼間に賊の話を聞いたばかりだ。妙に気になる。これが持って生まれた、恥ずべき気の小ささ故の心配だ。
夜空を見上げた。地上の闇に反して、満天の星空だった。今にも降ってきそうだ。小弥太は、掴めるかと手を伸ばしていた。
雲高く、秋晴れである。陽気も穏やかで、肌着の下に微かな汗を覚えるほどだ。朝晩は流石に冷えるようになってはいるが、日中はまだ暑さを感じる。
日向峠を下って、三日が経っていた。飛越宿と高師藩の城下で一泊ずつした平山小弥太は、父・平山清記と共に築城国(下野)と那珂国(下総)を繋ぐ、築那街道を南へと進んでいた。
高師では、そこに潜伏していた国学者を斬った。その男は、同じ夜須藩出身で館林簡陽という男だ。勤王の志篤く、脱藩し近隣の志士と叛乱の密計を画策していた。
夜須藩は幕府開闢以来、徳河家を守護してきた譜代である。そのような歴史を持つ武士団から、叛徒を出すわけにはいけないと、暗殺の前夜に父から聞かされた。
簡陽は、町外れにある農家の納屋に隠れていた。納屋の警備に二人の武士がいたが、それは自分が一人で斬った。二人が何者なのか、一切知らない。ただ父に命じられ、誰何《すいか》する前に始末した。
「遅かったな」
中に踏み込むと、簡陽が穏やかな笑みを投げかけた。
父は頷き、簡陽と僅かに言葉を交わすと、あっさりと首を打った。
「私も斬るのだな、お前は」
それが、簡陽の最後の言葉だった。
「私も」
という言葉が、何故か耳に残った。私も、という中には、日向峠で斬った武富陣内も含まれているのだろうか。父と、簡陽。そして陣内。かつて三人に何かがあったのかのような、含みのある言い方だった。
武富陣内は、父の友だった。屋敷の客間で将棋を指していた姿を何度も見た事もある。だが、館林簡陽との関係は、小弥太には判らなかった。父は何も語らず、それについて訊ける雰囲気でもなかった。
簡陽を斬って旅を終える。そう思っていた。だが、次の目的地が宇美津だと伝えられたのは、今朝の事だった。築那街道は、夜須と宇美津を繋ぐ、北関東の大動脈である。今はまだ、高師藩領を出たばかりで、宇美津までの道のりは遠い。
長い旅になる。事前に、そう言われて夜須を出ていた。だから、宇美津と言われても驚きはない。高師では長い旅とは言えないからだ。
宇美津は、夜須藩の飛び地である。本領に海を持たない山国の夜須にとって、唯一の湊でもあった。そこで何をするのか、その目的までは聞かされなかった。もとより、父が前もって何か言う事は珍しい。
(当然、誰かを斬るのだろう)
それだけは、間違いない。平山家の生業は、人殺しなのである。武富陣内や館林簡陽を斬ったのも命令があったからで、それを命じたのが夜須藩主・栄生左近将監利景だった。
平山家は内住郡代官として、二十五ヶ村二千五百余石の支配を代々任されている。だが、それは単なる肩書きに過ぎない。真なる平山家のお役目は、〔御手先役〕と呼ばれる藩主家直属の刺客なのだ。
藩主、或いは代理となる執政府から、斬れと命じられれば斬るだけの刀として存在してきた。それを為し得る為に、一族の秘剣・念真流がある。念真流は夜須藩お留め流剣術で、その存在を知る者は少ない。その存在は秘匿とされ、表向きには百姓相手の田舎剣法と蔑まれる建花寺流を名乗っている。
その念真流の発祥は古く、平安の御世にも遡るという。戦国乱世の御世には、少数精鋭の抜刀隊を率い栄生家の影で働いてきた。現在の当主は父であり、自分はその次期当主になる予定である。
だが小弥太は、
(父の後を継ぐ自信が無い)
と、思っていた。
当主は、誰よりも人殺しに長けなければならない。それは念真流の宗家としても、御手先役としても絶対条件である。
四日前、初めて人を斬った。その時は血に酔い、何の恐怖も無かった。だが時が経つと、骨を断つ感触と殺した人間の形相が蘇り、脳裏から離れないのだ。
(それが怖い……)
あれ以来、夢見も悪く夜が長く感じる。怯えているのだ。武士として恥じるべきだろうが、怖いものは怖い。
清記の後ろを俯いて歩く小弥太は、ふと視線を上げた。父の大きな背中。この背を見てきた。父が人を斬っている時もだ。
(父上は、怖くないのだろうか)
父の仕事に初めて付き従ったのは、十歳の時だ。相手は足軽で、私怨から組頭を殺害し遁走。その追跡に伴われた。
二日と半日追った末、父は藩境で男を捕らえて殺した。髪を掴み上げ、短刀で喉を掻き切ったのだ。何ら躊躇もない。喜怒哀楽を表さず、淡々と捕えた獲物を仕留める猟師のように殺した。
「お前も、いずれこうなる」
と、返り血を浴びた父に言われた。だが、そうなる自信は全く無い。
どうしようもない恐怖があった。死ぬ事も、殺す事も恐怖である。人を斬った今でも、それは変わらない。
(慣れるしかない)
いずれ、心が慣れていく。人を殺しても、自分が殺されても、何も思わなくなるはずだ。
殺しに慣れる。それが小弥太の、一縷の望みである。
◆◇◆◇◆◇◆◇
宿場に入った。
入口の看板には、〔藤ノ口〕と書かれている。そう活気がある宿場ではないが、かと言って寂れているわけではない。何とも中途半端な宿場という感じだ。
だが小弥太は、
(面白いな)
と、町の様子に目を見張った。
この旅で、初めて夜須藩を出た。藩外の話は、折に触れ父に聞いていた。だが見ると聞くとでは違い、全てが目新しく思える。
中でも、言葉の違いには驚いた。同じ日本の言葉でも、発音の節が違う事がある。田舎に行けば、聞き取れない事もあった。山を越えただけで、こうも違うとは思いもしなかった。
商店で餅と草鞋を買い込むと、一膳飯屋に入った。
昼時で賑わっていた。客の多くが旅装である。清記が小弥太に目配せをして、全体が見渡せる部屋の隅に座った。
暫くして、沢庵を乗せた麦飯と汁物、そして川魚の塩焼きが出た。岩魚のように見えるが、目印となる斑点が無い。藤ノ口の傍には、名も知れぬ川が流れている。この名も知れぬ魚は、その産だろう。
清記が膳に手を伸ばしたのを確認して、小弥太も箸を付けた。汁物の具は野菜屑、川魚は脂も少なく塩辛いだけもので、お世辞にも旨い代物ではない。だが、小弥太は構わずに黙々と食べた。旅の飯などは、まず飢えない事が第一で、食べられる時に腹を満たさなければならない。旨い不味いは二の次なのだと、父に教えられている。
そう自分に言い聞かせながら不味い飯に苦戦していると、小弥太の耳には様々な話し声が飛び込んできた。その多くが宇美津の景気に関するものだ。どうやら、行商同士の会話らしい。宇美津は、関東では江戸に次いで巨利を生み出す市場である。
「宇美津が風邪を引けば、関東が風邪を引く」
などと、父が言っていた。それだけに、宇美津の景気は関東の商人にとって注視すべき事柄なのだろう。
他には、賊徒の話題もあった。小弥太には、こちらの話題が興味をそそられた。
何でも〔土鮫の一味〕という賊が、那珂を荒らしているという。頭目は土鮫の文吾という男で、那珂国中の往来に出没しては残忍な賊働きをしているらしい。
(役人は何をしているのだ)
平山家が治める内住郡には、賊など一人とていない。それは父の統治が確かであるからだ。統治の乱れが、無法な賊を蔓延らせる。つまり、役人の無能を表していた。
「小弥太」
清記に名を呼ばれ、小弥太は我に返った。
「早く食べてしまえ」
「はい」
不味い飯を慌てて胃に詰め込むと、銭を置いて店を出た。それから宿を探すのかと思ったが、清記の足は何の迷いもなく宿場の出口に向かった。まだ先に進むつもりなのだろう。確かに、この宿で一泊するには陽が高過ぎる。
◆◇◆◇◆◇◆◇
川筋に沿って歩いた。
妖しい死人花が真紅の花を咲かせ、その美しさに目を向けながら進んでいると、いつの間にか追分に達していた。
西は新農・郡部という宿場と、那珂の都とも呼べる珂府城下を通過する築那街道。一方、南の裏街道は険しい山越えを要する峠路である。
(確か……)
小弥太は、脳裏に叩き込んだ地図を思い浮かべた。
どちらも珂府城下へ通じる。しかし、築那街道は、山を迂回するので遠回りになる。
「小弥太」
清記が熱感の無い声で、名を読んだ。
「この先の築那街道には何がある?」
「新農、郡部です」
小弥太は即答した。父の試しである。父は時折、こうして問題を出すのだ。
「では、裏街道を通ると何処に行き着く?」
「岩寂です」
「岩寂はどのような所だ?」
「夜須藩、高師藩から珂府城を守る要所です」
珂府は、那珂の府中の略称である。これまで数名の大名が治めてきたが、現在は幕府直轄となり、珂府奉行がその治世を指揮している。
「どちらが珂府城下に近いか判るか?」
「裏街道だと思います。地図の上では」
「そうだ。裏街道で山越えする方が、珂府城下に近い。しかし、多くの旅人は築那街道を選ぶ。その方が通りも良く、宿場が整備されているからだ。そして何より、身の危険が少ない」
此処は関東である。しかも、その中でも最も治安が悪いとされている那珂国。唯でさえ危険な場所であるのに、裏街道となると一層危ない。旅慣れた渡世人すらこの裏街道を避けると噂されている。
「山を越えるぞ」
清記が、そう言うと同時に歩き出していた。その後を、小弥太は追う。
峠路は、頼りない道だった。道幅は二人並んで通ればやっとという所が大半である。勿論、整備などはされていない。泥濘になっている場所もある。
(確かに、雰囲気は悪いな)
鬱蒼とした木々が天を覆い、空気も澱んでじめっとしている。賊が出てきても不思議はない。
険しい峠路も、その半ばに至った頃だった。清記は立ち止まって空を見上げると、
「野宿の準備だ」
と、小弥太に命じた。既に、陽は大きく傾いている。
小弥太は、脇道に入ると言われるがままに準備に取り掛かった。寝床の確保と、薪を集めるのである。
野宿は慣れたものだった。稽古と称して藩内を歩き回り、ふた月も野宿を続けた事もある。野宿では何に気を付け、何処を選ぶべきか。知識ではなく、経験として身に付いている。
手頃な大樹を見つけた。樹葉が屋根に、根が枕替わりになってくれそうだった。少し歩くと沢もある。
水を竹筒に汲んで戻ると、清記が火を熾し終えていた。藤ノ口で購った餅を焼いている。
餅はすぐに焼けた。味付けはない。それでも、噛んでいると次第に甘くなり、空いた腹には美味だった。
夕餉が済むと、後は寝るだけである。
「明日は払暁と共に発つ」
清記はそれだけを告げ、横になった。
この夜の会話は、たったそれだけだった。他はない。他所の親子はこうではない。十歳を越えたぐらいから、その違いに気付いた。これで本当に親子なのか、と思う事もしばしばだが、これが紛う事なき自分と父との関係なのだ。
清記の寝息が聞こえると、小弥太は焚火を消して、大樹の根を枕に寝そべった。
闇が訪れた。秋の虫と禽獣の鳴き声だけが聞こえる。小弥太は横になっても、周りの気配に気を配った。禽獣のみならず賊が襲って来ないとは限らない。何せ、昼間に賊の話を聞いたばかりだ。妙に気になる。これが持って生まれた、恥ずべき気の小ささ故の心配だ。
夜空を見上げた。地上の闇に反して、満天の星空だった。今にも降ってきそうだ。小弥太は、掴めるかと手を伸ばしていた。
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