2 / 14
第二回 依存
しおりを挟む
藍を塗りたくったような、見事な晴れ空だった。
風は微かに吹く程度で、日差しも穏やかだ。今川町から佐賀町へ抜けていく人々の足取りも、妙に軽い。
しかし、次郎八にとっては違った。陽の光が大川の川面に反射し、二日酔いで重い頭を抱える身には忌々しいほど眩しかった。
本所押上で万吉を始末した次郎八は、猿江にある相棒の家で一夜を明かした。
相棒は為松という名で、主に密偵として働いている男だ。取り分は次郎八が七で、為松は三。これを基本として、働きによっては色をつける事もある。本当は半分ずつでもよかったが、為松が固辞したのだ。働きに応じた額でいいと。だから、相棒にしたというところもある。
その為松に万吉を始末したと報告し、忍び装束から衣服を改めた後で痛飲した。為松は意外と料理達者で、それが余計に酒を飲ませる。
阿芙蓉と同じくらい、酒も好きだった。深い酔いは、不安や鬱屈など身の内に巣食う恐怖を紛らわす。そして阿芙蓉を吸えない寂しさを、酒だけが満たしてくれるのだ。いずれは、酒毒か阿芙蓉の毒で死ぬだろう。或いは、誰かに殺されるか。
鯨飲が祟ったのか、帰り道に二度も吐いた。それで幾分かむかつきは取れたが、嘔吐による口の中の不快感は如何ともし難い。
(あれは)
自宅がある霊岸島の塩町の与兵衛長屋に戻ると、木戸門の傍に少年が立っていた。
ひと月ほど前に引っ越してきた、浪人の子供だ。名前は才之助。歳は十になるかどうか。母親は死んだのか、父親と二人暮らしである。粗末な恰好をしていて、遊び盛りだというのに、色は白く無邪気さが無い。身体の線も年の割り細く、見るからに軟弱だった。これでは長屋の悪たれどもに虐められるだろうと思ったが、この少年は他の子どもと関わる事がない。日がな一日、父親と二人で過ごしているのだ。他人の事は言えた身分ではないが、何とも気味が悪い。それでいて、訳ありの臭いを感じていた。
その才之助と目が合った。何か言うわけでもなく、無表情のままで鋭い視線を次郎八に投げかける。
(そういえば、こいつは愛想も無かったな)
微かな腹立ちも覚えたが、子供相手にムキになる事もないと気を取り直し、
「よう、日向ぼっこかい?」
と、声を掛けた。
「……」
しかし、才之助は返事もせずに、そっぽを向いた。
(いけ好かない子供だ)
次郎八は肩を竦めて、才之助の前を通り過ぎた。
才之助の父親、持木九兵衛は才之助の父親とは思えぬ好人物だ。貧乏浪人ではあるが最近までは主家持ちだったのか、浪人特有の野卑た臭いを漂わせてはいない。挙措は武士らしさに溢れているが、威張るような真似はせずに、長屋の者には笑顔で腰を低くして付き合っている。だからか、長屋の連中には好かれていて、夕餉の菜を何度かお裾分けされているのを見た事がある。
「ちょっと、次郎八さん。朝帰りかい?」
井戸端で世間話に花を咲かせていた女房連中が、声を掛けてきた。
「ああ、そうだよ。だからキンキン声で話さないでくれ。頭に響くんだよ」
「毎晩飲み歩いている次郎八さんでも、二日酔いになるんだねぇ」
与兵衛長屋でも、古株のお園が言った。肥えた女で、声も大きくがさつだが、何かと気が付く女で、長屋のおっ母さんのような存在だ。
「しかし、庭師ってのはそんなに儲かるのかねぇ? うちの夫なんて、徳利の底まで舐めるように飲んでいるのに」
「儲からねぇよ。だから賽子なのさ」
と、壺を振る仕草を見せた。
次郎八の表の顔は庭師であり、もう七年ほど働いている。最初の三年は嘉穂屋の世話で、両国の藤蔵という親方の下で修業し、四年前に独立した。
修行には自分でも驚くほど夢中になり、
「八の字、てめぇは細けぇ鋏使いは言う事ねぇよ。後は刈込を伸ばせば一端に食っていけるぜ」
そう言われ、柄にもなく照れたものだ。その縁で、今でも藤蔵の手伝いをする事もある。
庭師は嫌いではない。だが、あくまで本業は始末屋。故に、食えるだけの技能と〔庭師〕という肩書きを得た今は、仕事を踏んでいない時に依頼を受けている。
それで、近所では庭師の次郎八と認知されていた。今も庭師の格好である。しかも博打好きのやくざ者を装っているので、始末屋稼業での収入で散財しても怪しまれる事はない。
「ほんと、嫌な男ね。うちの夫を誘わないでよ」
「へん、誰か誘うかってんだ。貧乏人と一緒にいたんじゃ運が落ちるってもんよ」
次郎八はお園たちに背を向けると、話は終わりだと言わんばかりに片手を挙げて、自らの棲家に引っ込んだ。
(疲れた……)
戸を閉めた次郎八は、深いため息を吐いた。
人ひとり殺した後、痛飲した挙句に全身を刺すような日差しの中で、女房連中とのおしゃべり。本当に疲れた。特に喋る事は、本来は無口な次郎八にとって苦痛以外の何物でもなかった。
極度の無口さ故に、郷里では〔口無し〕と呼ばれたほどだったが、江戸へきて始末屋として働くと決めた時に、その性格を必死に改めた。
「裏稼業で生きていくのなら、普通に暮らさねばならないよ。無口で何をしているかわからない奴というのは、すぐに目を付けられるからね」
と、最初に世話になった首領から言われたのだ。
次郎八は、水瓶の水を柄杓ですくおうとした時、水面に映った自分の顔を見て、思わず手を止めた。
そこには、髭面の情けない中年男の顔がそこにあった。
昔に比べたら、かなり顔に肉が付いた。数日触れていない無精髭が、余計に太く見せる。
(情けない……)
次郎八は、柄杓で自分の顔をかき消した。
かつてに比べたら、嘉穂屋から受ける仕事は緩いものだ。故に、太ってしまうのだろう。だからとて、昔に戻りたいとは思わない。
喉の渇きを満たすと、布団も敷かずに横になった。
染みだらけの天井。細かい隙間があった、激しい雨が降ると雨漏りがする。望めば、もっといい棲家に変える事も出来る。谷中にも巣鴨にも、一軒家を買い受けるほどの蓄えはあるのだ。しかし、かつての自分を思えば、これだけでも贅沢なのだと思って引っ越しを出来ないでいる。
次郎八は、走狗だった。いや、今でも走狗かと問われたら否定は出来ないが、少なくともかつては自分の意志で生きる事は出来なかった。
かつて次郎八は、〔破久礼衆〕と呼ばれる三河西大平藩の忍びだった。元々は足軽の子だったが、三つの時に破久礼の里に引き取られた。売られたのか、乞われたのかはわからないが、物覚えがついた時には既に忍びとしての修行をしていた。父母の顔もわからない。足軽の子というのも、元服した時に頭領である藤林三蔵に聞かされたに過ぎないのだ。足軽の子というのも、確証はない。そもそも、自分の本当の名前すら知らない。
里では、大きな屋敷で育てられた。自分のような孤児が二十人ばかり集められ、一緒に暮らすのだ。その子供たちも、厳しい修行の中で一人減り二人減り、十五歳になる頃には半分にまで減っていた。
破久礼衆の下忍として、独り立ちをしたのは十六の時だった。当時の藩主・大岡忠宜は、幕府の大番頭を務めるだけあって何かと敵が多く、江戸にも国元にも政敵が放った密偵が溢れ、足を引っ張る材料を探っている状況だった。
そうした中で、次郎八は主に国元での防諜を命じられた。密偵を探り出す他、裏切った藩士を洗い出す役目も担っていた。
初めて殺した人間は、西大平藩士だった。粛清しろと、命じられたのだ。同士討ちという感覚は無い。普段は山の中に住んでいる次郎八にとっては、どうでもいい存在だった。
後ろから組み付いて首を掻き切った時、
「人殺しとは、こんなものか」
と、思ったぐらいだった。ただ、浴びた生き血の温かさだけは、今でも思い出す事がある。
十八歳の時に、役目を替えられた。新たな役目は、暗殺だった。
「お前は殺しの才がある」
三蔵はそう言うと、破久礼衆が持つもう一つの顔を語ってくれた。
それは西大平藩の暗い世界を支配する、首領としての役割。三蔵は忍びでありながら、藩の許可を得て西大平の裏に手を伸ばし、忍びの力を駆使して一つにまとめ上げたのだ。
そんな三蔵の下には、様々な願い事が舞い込む。その中の一つが殺しの依頼であり、次郎八がそれを担う事になったのだ。
ひたすらに命令を受けて、人を屠る日々。得られる報酬は、今思えば極端に少ない。今では一人殺すのに何十両も取っているが、あの頃は鐚銭で人を殺していたし、それが当たり前と思っていた。
走狗だった。命じられたままに動く、走狗。あの頃に比べたら、今の生活は極楽のようなものだ。
好きな時に、好きなように働ける。嘉穂屋の下で始末屋をしているが、それは自分が望んで続けているだけだ。かつては、望む事すら禁じられていた。悠々自適とも言える生活をしている。これ以上、望むべき事は無い。
このまま死んでいくのだろう、と常々思う。何の変化もなく、身体が動く限り人を殺し、いずれは殺されるか、阿芙蓉か酒の毒で死ぬ。先が見える最期だ。
人殺しとして、自らが幸せになるという事は禁じている。妻帯をする気も無い。このまま、誰の記憶にも残らず死んでいく。何も残さずに死んでいく。走狗の末路にはお似合いではないか。
「まぁ、お園さんったら」
耳を劈くような笑い声が、次郎八の思念を断ち切った。
相変わらず、女房衆の井戸端会議がキャンキャン煩い。よくも毎日、話しの種が尽きないものだ。
(酒か、阿芙蓉か……)
無性に阿芙蓉の煙を喰らいたいところだが、長屋では駄目だと嘉穂屋に念を押されている。吸える場所は、嘉穂屋の寮に設けた〔窟〕と呼ばれる場所だけだ。
阿芙蓉は分限者の嗜み。次郎八も銭は貯め込んではいるが、真っ当な分限者ではない。阿芙蓉を贖う銭は、驚くほど血で汚れている。表向きは庭師である次郎八が吸っている事が知れると、公儀の眼に止まるかもしれないのだ。非合法な始末屋という稼業は勿論、阿芙蓉は幕府専売のご禁制である。
「次郎八さん、阿芙蓉というものはご存知ですかな?」
ふと、嘉穂屋の言葉を思い出した。
あれはいつだったか。五年以上は前の、冬の日だった。長い殺しの稼業が祟ってか、心の沈底に堆積した亡者の呻きに苛まれ、眠れない日が続いていた。幾ら酒を飲んでも、悪夢しか見ない。次郎八自身が亡者のような顔付きになっていた。
そんな時に、嘉穂屋から阿芙蓉を勧められたのだ。嘉穂屋は、玄界灘の抜け荷に絡んでいて、多くの阿芙蓉を仕入れている。故に、幕府が流通させる物よりも安い金額で用意出来るとも言われた。
次郎八は、その誘いに乗って試した。それは無上の極楽だった。もう阿芙蓉無しではいられないと思った頃に、嘉穂屋に止められた。そして阿芙蓉の毒を叩き込まれ、考えて使えるように仕込まれた。実際に廃人になった公家や花魁も目にした。阿芙蓉を吸えば極楽だが、いずれは地獄が待っている。
(酒だな)
次郎八は土間にぶら下げた瓢箪に目をやった。あの中には、酒が半分ほど入っている。しかし、動くのが億劫だった。少し手を伸ばしてみたが届くわけもなく、ゆっくりと迫りくる睡魔に身を委ねる道を選んだ。
風は微かに吹く程度で、日差しも穏やかだ。今川町から佐賀町へ抜けていく人々の足取りも、妙に軽い。
しかし、次郎八にとっては違った。陽の光が大川の川面に反射し、二日酔いで重い頭を抱える身には忌々しいほど眩しかった。
本所押上で万吉を始末した次郎八は、猿江にある相棒の家で一夜を明かした。
相棒は為松という名で、主に密偵として働いている男だ。取り分は次郎八が七で、為松は三。これを基本として、働きによっては色をつける事もある。本当は半分ずつでもよかったが、為松が固辞したのだ。働きに応じた額でいいと。だから、相棒にしたというところもある。
その為松に万吉を始末したと報告し、忍び装束から衣服を改めた後で痛飲した。為松は意外と料理達者で、それが余計に酒を飲ませる。
阿芙蓉と同じくらい、酒も好きだった。深い酔いは、不安や鬱屈など身の内に巣食う恐怖を紛らわす。そして阿芙蓉を吸えない寂しさを、酒だけが満たしてくれるのだ。いずれは、酒毒か阿芙蓉の毒で死ぬだろう。或いは、誰かに殺されるか。
鯨飲が祟ったのか、帰り道に二度も吐いた。それで幾分かむかつきは取れたが、嘔吐による口の中の不快感は如何ともし難い。
(あれは)
自宅がある霊岸島の塩町の与兵衛長屋に戻ると、木戸門の傍に少年が立っていた。
ひと月ほど前に引っ越してきた、浪人の子供だ。名前は才之助。歳は十になるかどうか。母親は死んだのか、父親と二人暮らしである。粗末な恰好をしていて、遊び盛りだというのに、色は白く無邪気さが無い。身体の線も年の割り細く、見るからに軟弱だった。これでは長屋の悪たれどもに虐められるだろうと思ったが、この少年は他の子どもと関わる事がない。日がな一日、父親と二人で過ごしているのだ。他人の事は言えた身分ではないが、何とも気味が悪い。それでいて、訳ありの臭いを感じていた。
その才之助と目が合った。何か言うわけでもなく、無表情のままで鋭い視線を次郎八に投げかける。
(そういえば、こいつは愛想も無かったな)
微かな腹立ちも覚えたが、子供相手にムキになる事もないと気を取り直し、
「よう、日向ぼっこかい?」
と、声を掛けた。
「……」
しかし、才之助は返事もせずに、そっぽを向いた。
(いけ好かない子供だ)
次郎八は肩を竦めて、才之助の前を通り過ぎた。
才之助の父親、持木九兵衛は才之助の父親とは思えぬ好人物だ。貧乏浪人ではあるが最近までは主家持ちだったのか、浪人特有の野卑た臭いを漂わせてはいない。挙措は武士らしさに溢れているが、威張るような真似はせずに、長屋の者には笑顔で腰を低くして付き合っている。だからか、長屋の連中には好かれていて、夕餉の菜を何度かお裾分けされているのを見た事がある。
「ちょっと、次郎八さん。朝帰りかい?」
井戸端で世間話に花を咲かせていた女房連中が、声を掛けてきた。
「ああ、そうだよ。だからキンキン声で話さないでくれ。頭に響くんだよ」
「毎晩飲み歩いている次郎八さんでも、二日酔いになるんだねぇ」
与兵衛長屋でも、古株のお園が言った。肥えた女で、声も大きくがさつだが、何かと気が付く女で、長屋のおっ母さんのような存在だ。
「しかし、庭師ってのはそんなに儲かるのかねぇ? うちの夫なんて、徳利の底まで舐めるように飲んでいるのに」
「儲からねぇよ。だから賽子なのさ」
と、壺を振る仕草を見せた。
次郎八の表の顔は庭師であり、もう七年ほど働いている。最初の三年は嘉穂屋の世話で、両国の藤蔵という親方の下で修業し、四年前に独立した。
修行には自分でも驚くほど夢中になり、
「八の字、てめぇは細けぇ鋏使いは言う事ねぇよ。後は刈込を伸ばせば一端に食っていけるぜ」
そう言われ、柄にもなく照れたものだ。その縁で、今でも藤蔵の手伝いをする事もある。
庭師は嫌いではない。だが、あくまで本業は始末屋。故に、食えるだけの技能と〔庭師〕という肩書きを得た今は、仕事を踏んでいない時に依頼を受けている。
それで、近所では庭師の次郎八と認知されていた。今も庭師の格好である。しかも博打好きのやくざ者を装っているので、始末屋稼業での収入で散財しても怪しまれる事はない。
「ほんと、嫌な男ね。うちの夫を誘わないでよ」
「へん、誰か誘うかってんだ。貧乏人と一緒にいたんじゃ運が落ちるってもんよ」
次郎八はお園たちに背を向けると、話は終わりだと言わんばかりに片手を挙げて、自らの棲家に引っ込んだ。
(疲れた……)
戸を閉めた次郎八は、深いため息を吐いた。
人ひとり殺した後、痛飲した挙句に全身を刺すような日差しの中で、女房連中とのおしゃべり。本当に疲れた。特に喋る事は、本来は無口な次郎八にとって苦痛以外の何物でもなかった。
極度の無口さ故に、郷里では〔口無し〕と呼ばれたほどだったが、江戸へきて始末屋として働くと決めた時に、その性格を必死に改めた。
「裏稼業で生きていくのなら、普通に暮らさねばならないよ。無口で何をしているかわからない奴というのは、すぐに目を付けられるからね」
と、最初に世話になった首領から言われたのだ。
次郎八は、水瓶の水を柄杓ですくおうとした時、水面に映った自分の顔を見て、思わず手を止めた。
そこには、髭面の情けない中年男の顔がそこにあった。
昔に比べたら、かなり顔に肉が付いた。数日触れていない無精髭が、余計に太く見せる。
(情けない……)
次郎八は、柄杓で自分の顔をかき消した。
かつてに比べたら、嘉穂屋から受ける仕事は緩いものだ。故に、太ってしまうのだろう。だからとて、昔に戻りたいとは思わない。
喉の渇きを満たすと、布団も敷かずに横になった。
染みだらけの天井。細かい隙間があった、激しい雨が降ると雨漏りがする。望めば、もっといい棲家に変える事も出来る。谷中にも巣鴨にも、一軒家を買い受けるほどの蓄えはあるのだ。しかし、かつての自分を思えば、これだけでも贅沢なのだと思って引っ越しを出来ないでいる。
次郎八は、走狗だった。いや、今でも走狗かと問われたら否定は出来ないが、少なくともかつては自分の意志で生きる事は出来なかった。
かつて次郎八は、〔破久礼衆〕と呼ばれる三河西大平藩の忍びだった。元々は足軽の子だったが、三つの時に破久礼の里に引き取られた。売られたのか、乞われたのかはわからないが、物覚えがついた時には既に忍びとしての修行をしていた。父母の顔もわからない。足軽の子というのも、元服した時に頭領である藤林三蔵に聞かされたに過ぎないのだ。足軽の子というのも、確証はない。そもそも、自分の本当の名前すら知らない。
里では、大きな屋敷で育てられた。自分のような孤児が二十人ばかり集められ、一緒に暮らすのだ。その子供たちも、厳しい修行の中で一人減り二人減り、十五歳になる頃には半分にまで減っていた。
破久礼衆の下忍として、独り立ちをしたのは十六の時だった。当時の藩主・大岡忠宜は、幕府の大番頭を務めるだけあって何かと敵が多く、江戸にも国元にも政敵が放った密偵が溢れ、足を引っ張る材料を探っている状況だった。
そうした中で、次郎八は主に国元での防諜を命じられた。密偵を探り出す他、裏切った藩士を洗い出す役目も担っていた。
初めて殺した人間は、西大平藩士だった。粛清しろと、命じられたのだ。同士討ちという感覚は無い。普段は山の中に住んでいる次郎八にとっては、どうでもいい存在だった。
後ろから組み付いて首を掻き切った時、
「人殺しとは、こんなものか」
と、思ったぐらいだった。ただ、浴びた生き血の温かさだけは、今でも思い出す事がある。
十八歳の時に、役目を替えられた。新たな役目は、暗殺だった。
「お前は殺しの才がある」
三蔵はそう言うと、破久礼衆が持つもう一つの顔を語ってくれた。
それは西大平藩の暗い世界を支配する、首領としての役割。三蔵は忍びでありながら、藩の許可を得て西大平の裏に手を伸ばし、忍びの力を駆使して一つにまとめ上げたのだ。
そんな三蔵の下には、様々な願い事が舞い込む。その中の一つが殺しの依頼であり、次郎八がそれを担う事になったのだ。
ひたすらに命令を受けて、人を屠る日々。得られる報酬は、今思えば極端に少ない。今では一人殺すのに何十両も取っているが、あの頃は鐚銭で人を殺していたし、それが当たり前と思っていた。
走狗だった。命じられたままに動く、走狗。あの頃に比べたら、今の生活は極楽のようなものだ。
好きな時に、好きなように働ける。嘉穂屋の下で始末屋をしているが、それは自分が望んで続けているだけだ。かつては、望む事すら禁じられていた。悠々自適とも言える生活をしている。これ以上、望むべき事は無い。
このまま死んでいくのだろう、と常々思う。何の変化もなく、身体が動く限り人を殺し、いずれは殺されるか、阿芙蓉か酒の毒で死ぬ。先が見える最期だ。
人殺しとして、自らが幸せになるという事は禁じている。妻帯をする気も無い。このまま、誰の記憶にも残らず死んでいく。何も残さずに死んでいく。走狗の末路にはお似合いではないか。
「まぁ、お園さんったら」
耳を劈くような笑い声が、次郎八の思念を断ち切った。
相変わらず、女房衆の井戸端会議がキャンキャン煩い。よくも毎日、話しの種が尽きないものだ。
(酒か、阿芙蓉か……)
無性に阿芙蓉の煙を喰らいたいところだが、長屋では駄目だと嘉穂屋に念を押されている。吸える場所は、嘉穂屋の寮に設けた〔窟〕と呼ばれる場所だけだ。
阿芙蓉は分限者の嗜み。次郎八も銭は貯め込んではいるが、真っ当な分限者ではない。阿芙蓉を贖う銭は、驚くほど血で汚れている。表向きは庭師である次郎八が吸っている事が知れると、公儀の眼に止まるかもしれないのだ。非合法な始末屋という稼業は勿論、阿芙蓉は幕府専売のご禁制である。
「次郎八さん、阿芙蓉というものはご存知ですかな?」
ふと、嘉穂屋の言葉を思い出した。
あれはいつだったか。五年以上は前の、冬の日だった。長い殺しの稼業が祟ってか、心の沈底に堆積した亡者の呻きに苛まれ、眠れない日が続いていた。幾ら酒を飲んでも、悪夢しか見ない。次郎八自身が亡者のような顔付きになっていた。
そんな時に、嘉穂屋から阿芙蓉を勧められたのだ。嘉穂屋は、玄界灘の抜け荷に絡んでいて、多くの阿芙蓉を仕入れている。故に、幕府が流通させる物よりも安い金額で用意出来るとも言われた。
次郎八は、その誘いに乗って試した。それは無上の極楽だった。もう阿芙蓉無しではいられないと思った頃に、嘉穂屋に止められた。そして阿芙蓉の毒を叩き込まれ、考えて使えるように仕込まれた。実際に廃人になった公家や花魁も目にした。阿芙蓉を吸えば極楽だが、いずれは地獄が待っている。
(酒だな)
次郎八は土間にぶら下げた瓢箪に目をやった。あの中には、酒が半分ほど入っている。しかし、動くのが億劫だった。少し手を伸ばしてみたが届くわけもなく、ゆっくりと迫りくる睡魔に身を委ねる道を選んだ。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
ヴィクトリアンメイドは夕陽に素肌を晒す
矢木羽研
歴史・時代
カメラが普及し始めたヴィクトリア朝のイギリスにて。
はじめて写真のモデルになるメイドが、主人の言葉で次第に脱がされていき……
メイドと主の織りなす官能の世界です。
堤の高さ
戸沢一平
歴史・時代
葉山藩目付役高橋惣兵衛は妻を亡くしてやもめ暮らしをしている。晩酌が生き甲斐の「のんべえ」だが、そこにヨネという若い新しい下女が来た。
ヨネは言葉が不自由で人見知りも激しい、いわゆる変わった女であるが、物の寸法を即座に正確に言い当てる才能を持っていた。
折しも、藩では大規模な堤の建設を行なっていたが、その検査を担当していた藩士が死亡する事故が起こった。
医者による検死の結果、その藩士は殺された可能性が出て来た。
惣兵衛は目付役として真相を解明して行くが、次第に、この堤建設工事に関わる大規模な不正の疑惑が浮上して来る。
【受賞作】狼の贄~念真流寂滅抄~
筑前助広
歴史・時代
「人を斬らねば、私は生きられぬのか……」
江戸の泰平も豊熟の極みに達し、組織からも人の心からも腐敗臭を放ちだした頃。
魔剣・念真流の次期宗家である平山清記は、夜須藩を守る刺客として、鬱々とした日々を過ごしていた。
念真流の奥義〔落鳳〕を武器に、無明の闇を遍歴する清記であったが、門閥・奥寺家の剣術指南役を命じられた事によって、執政・犬山梅岳と中老・奥寺大和との政争に容赦なく巻き込まれていく。
己の心のままに、狼として生きるか?
権力に媚びる、走狗として生きるか?
悲しき剣の宿命という、筑前筑後オリジンと呼べる主旨を真正面から描いたハードボイルド時代小説にして、アルファポリス第一回歴史時代小説大賞特別賞「狼の裔」に繋がる、念真流サーガのエピソード1。
――受け継がれるのは、愛か憎しみか――
※この作品は「天暗の星」を底本に、9万文字を25万文字へと一から作り直した作品です。現行の「狼の裔」とは設定が違う箇所がありますので注意。
商い幼女と猫侍
和紗かをる
歴史・時代
黒船来航から少しの時代。動物狂いでお家断絶になった侍、渡会正嗣と伊勢屋の次女ふたみはあるきっかけから協力して犬、猫、鶏と一緒になって世を守る。世直しドタバタ活劇。綺羅星の様な偉人ひしめく幕末の日本で、二人がひっそりと織り成す物語です。
就職面接の感ドコロ!?
フルーツパフェ
大衆娯楽
今や十年前とは真逆の、売り手市場の就職活動。
学生達は賃金と休暇を貪欲に追い求め、いつ送られてくるかわからない採用辞退メールに怯えながら、それでも優秀な人材を発掘しようとしていた。
その業務ストレスのせいだろうか。
ある面接官は、女子学生達のリクルートスーツに興奮する性癖を備え、仕事のストレスから面接の現場を愉しむことに決めたのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる