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素顔を見せて
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「お風呂、お先にありがとうございました」
リビングへ戻ると、崎坂はソファに座って何やら分厚い本を読んでいた。仕事絡みのものだろうか。篠井の呼びかけに視線を上げると、ふわりと微笑みかけてくる。
「いえいえ。勝手わかった? ちゃんと温まった?」
「はい。普段シャワーですましちゃうから、湯船浸かるの久々だったし! あ、あの、入れてもらった入浴剤もすごくいい匂いで! 何か肌のカサカサもよくなった、……気が、します……」
感謝を伝えたくて口を開いた結果、小学生の書く日記のようなつたない感想しか出てこなかった。言いながらだんだん恥ずかしくなり、頭を抱えてしゃがみ込みたくなる。陰キャの口下手パワーを舐めないで欲しい。つらい。
「そっか、よかった。でも貸したスウェット、やっぱり僕のだと少し大きいね」
「え、ああ、……さすがにスタイルの差が……」
「身長差でしょ。篠井くん、背はいくつ?」
「173です。先生は?」
「たぶん182センチとかだったかなぁ。でかくてごめんね。まあ、裾を捲れば大丈夫か」
崎坂はそう言って本をローテーブルに置いて立ち上がったかと思うと、篠井の目の前まで歩いてきた。そのまま流れるような動作で、篠井の足元へ跪く。
一瞬呆気に取られて言葉を発せなかった。けれどすぐに脳みそが再起動して、声にならない悲鳴を上げる。
「あっ、あの!?」
「うん。じっとしててね」
「自分で、でき……や、やりますからっ……」
「んー、いいから」
鷹揚に返答した崎坂は、篠井のスウェットパンツの裾へ手をかけ、丁寧に折り上げてくれる。まるでお姫様にかしずく王子様か、貴族に侍る執事のようだ。しかしその相手は姫でも貴族でもない地味な男だ。視界に映る景色にまったく現実感がない。
崎坂の大きな手が、長く綺麗な指が、篠井のくるぶし付近で世話を焼いている。自分はこんな色男に何をさせているのだろう。今日一番のパニックに襲われる。頬も耳もじんじんと火照ってきた。
しかしこの状況で篠井が下手に動けば、崎坂の顔面を蹴り飛ばす可能性すらある。それこそ絶対に許されない所業だ。
結局崎坂のつむじを見下ろしながら、彼の気が済むまでされるがままになるしかなかった。
「――はい。できたよ」
引きずりそうだった篠井のスウェットパンツを整えると、崎坂は満足げな顔で立ち上がった。
「袖も適当に捲ってね。あ、そっちもやってあげようか?」
「大丈夫です! というか足だって、自分でできたんですけど……」
「うーん。まあそこは、僕がしてあげたかっただけだから。篠井くんって何か世話焼きたくなっちゃうんだよね。言われない?」
「そんなの……言われたことないです……」
どういう意味か理解できず、ムスッ、とあからさまに眉根を寄せてしまった。十歳ほど年上の崎坂にすれば、篠井など学生たちと変わらない子供に見えているのだろうか。
けれど崎坂は何も気にしていない調子で、篠井の憤りを軽くかわす。
「さて、とりあえず僕もお風呂行ってくるね。テレビ付けてもいいし、キッチンの冷蔵庫も食器棚も勝手に開けて好きにして。あ、それとお風呂上がりだから、水だけはちゃんと飲んでおいてね? 冷蔵庫にペットボトル入ってるから」
崎坂はそう言い置いて、リビングを出て行ってしまった。彼だって雨に降られたのだ。早く入浴して温まるに越したことはない。
むしろ篠井は最初、「泊めてもらう自分が先に風呂を使うなんて」と散々拒否をしたのだ。けれど「篠井くんがお風呂に入らないんだったら僕も入らない」と謎の強情をキメられて、折れた結果の現状だった。
そういえばとにかく水を飲めと言われたな、と家主不在のキッチンへ入る。
冷蔵庫の取っ手を掴んだはいいけれど、一瞬戸惑って息を呑んだ。いくら許可をもらったとはいえ、冷蔵庫なんてプライベート空間の最たるもののひとつだ。少し後ろめたさが付きまとう。
努めて余計なものを見ないようにサッと目を走らせた。棚の端の方にミネラルウォーターのボトルが積まれているのを見つけ、そっと一本拝借する。
ごくごくと喉を鳴らして半分ほど飲んだ。
「はあ……」
自然と深い息が零れる。きちんと湯船に浸かったからだろうか、思いのほか喉が渇いていたらしい。
ペットボトルを手にしたまま、リビングスペースのソファへと腰かけた。ゆったりと大きなソファは座り心地もいい。篠井が住む1Kの部屋には到底置けない、贅沢なサイズだ。
家主がいないのをいいことに、リビングダイニングをじっくりと見回す。
ソファやカーテンのファブリック類は、淡いグレー系のグラデーションだ。家具はベージュに近い、明るい色の木製をメインでまとめられている。けして気取った嫌味な感じはないのに統一感がありセンスがいい。大人っぽいのに柔らかな印象は、まさに崎坂の部屋だと思った。
ソファの対面には、かなり立派なサイズのテレビが設置されている。崎坂は好きに観ていいと言っていた。けれどこの時間帯はたぶん、大きな笑い声ではしゃぐようなバラエティ番組ばかりだろう。
そういう喧騒が欲しい時もあるけれど、今の気分ではない。何となくこの部屋に、そういう俗物的で軽薄な明るさを持ち込むことははばかられた。
手持ち無沙汰にスマホを手に取った。とりあえず気象情報を調べるとやはり明日午前中いっぱいは、このまま悪天候に見舞われる可能性があるらしい。窓の外からは相変わらず激しい雨の音が続いている。
うう、と唸りながら、今度は交通機関の運行情報を調べてみた。すると篠井が日々使用している路線の、例の倒木撤去についてのニュースが目に入った。この悪天候の中、やはり短時間での復旧は難しいとのことだ。どうにもこうにも積みだった。
こうして崎坂に拾ってもらえて、やはりラッキーだったのだろう。
「篠井くん、お待たせ」
しばらくネットサーフィンに興じていたところへ、背後から声をかけられる。
「あ、いえ……」
篠井はスマホから目を離して振り返った。崎坂は濡れた頭をタオルで拭きながら、リビングへと入ってくる。しかしその印象は、篠井が見慣れた崎坂とはひどく違っていた。
キャンパスで見かける崎坂は、基本的にジャケットや襟付きシャツなど、爽やかで落ち着いた恰好をしている。
風呂上がりの今は当然ながら、その対極とでも言うべき部屋着姿だ。篠井が貸してもらったものと似たようなスウェットの上下を着て、首にはタオルまでかけていた。
しかし服装より何より、崎坂の雰囲気がガラリと変わっている一番の理由がある。
彼がいつもかけている眼鏡を外していることだった。
「……篠井くん?」
「えっ、あ、はい!」
思わず凝視してしまっていたところへ呼びかけられる。反応が遅れてどもってしまった。崎坂はそんな篠井に目尻を下げただけで、すたすたとキッチンへ入って行った。
冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、こちらへ見えるように掲げてくる。
「僕、ちょっと呑みたいなって思ってるんだけど。篠井くんもいる?」
「あー、……じゃあ」
「甘いのがよければ梅酒とかもあるよ」
「いえ、ビールで」
食事の時に申告した通り、篠井はアルコールには強くないだけで嫌いではない。
崎坂は冷えたビールを両手に携え、ソファの方へやってきた。片方の缶を篠井へ手渡して、すぐ隣へと腰を下ろす。
「ありがとうございます」
「うん。はい、お疲れさま」
プルタブを開け、缶同士をかち合わせて乾杯をした。喉へ流し込んだ冷たさは胃へ滑り落ちてから、じわじわと全身の細胞を満たすように沁みていく。
隣をチラリと盗み見ると、ソファの背もたれに深く身体を預けた崎坂も、満足げに息を吐いている。すっかりリラックスした様子だ。
篠井も少しだけ緊張がほぐれた心地で、疑問を口にしてみることにした。
「……あの」
「ん?」
「あ、……その、えっと」
何気ない調子で話しかけるつもりだった。しかしその思惑はすぐ失敗に終わる。元々隣同士に座っているというのに、崎坂がさらに篠井の顔を覗き込むように顔を近づけてきたからだ。
思った以上の近距離に動揺して、慌てて目を逸らしてしまった。途端にうまく喋れなくなった。
「篠井くん?」
篠井はパーソナルスペースを広く保ちたい質だ。本来の性格もあるけれど、今までの経験によるところも大きかった。
篠井と同類の地味でおとなしい人間は、必要以上に距離を詰めたり、ましてやボディタッチなんかはしないことが多い。
逆にわざとらしく顔を近づけて話しかけてくる人間は、たいてい自分とはノリの違うリア充だ。そしてそういう相手にはあまりいい思い出がなかった。
彼らが近づいてくるのは、すぐオドオドする篠井をからかったり、お願いという名目で雑用を押しつけるような時だ。同い年の人間が狭い教室に、クラスメイトという枠で詰め込まれていた頃。いわゆる〈スクールカースト〉に誰もが翻弄される、そんな時期が一番顕著だった。
もちろん崎坂はそんな人間ではないだろうと、わかってきてはいる。けれどこれは篠井の条件反射のようなものだ。
「なあに? どうした?」
自分から話しかけておいて黙りこくるなんて、失礼極まりないと思う。それなのに崎坂は、子供に向けるような甘い声と口調で、優しく尋ねてくれる。
崎坂の顔を見上げて、やっぱりあまりの近さに動揺した。それでも再び目を伏せてから、何とか口を開く。
「め、……めがね」
「眼鏡?」
「……なくて大丈夫なのかな、って……」
「ああ。洗面所に置いてきちゃったかな」
たったそれだけ訊くのに、挙動不審すぎた自覚はある。それでも眼鏡は誰もが認める、崎坂のトレードマークだ。あの大学キャンパス内で、素顔の崎坂を見たことのある人はいないのではないかとすら思う。
しかし崎坂は平然としていて、返答する声ものんびりとしたものだった。
「平気なんですか?」
「うん、まあ。日常生活に支障があるほど眼が悪いわけじゃないんだ。家の中では基本的にかけてない。そういえば篠井くんは? コンタクトも入れてないの?」
「俺はずっと視力はよくて、裸眼なので」
「そっか、いいねえ。僕の場合は外出時にちょっと困るくらいかな。駅の案内板とか道路標識とか、目に付くべきものとして設置されているところが見えづらいって、危ないでしょ」
「ああ、そうですね」
そうやって説明されると腑に落ちる。日常生活に支障ないということは、すぐ傍にいる篠井の顔は、今もはっきりと見えているのだろうか。
「あとさ、事務員さんだったら……304講義室、って言えばどこかわかるよね?」
「ウチで一番大きい教室ですよね。席が階段状になってる」
「うん。あれくらいの広さだと、やっぱり視力補正が必要だなって思うよ。最後列まで学生の様子が見えるし」
「でもそれこそ、コンタクトにはしないんですか」
尋ねながら、レンズ越しではない崎坂の瞳をよくよく観察してみた。澄んだ淡いセピアカラーが綺麗だと思う。人形にはめ込まれたガラス玉の眼のように、きらきらと透き通っている。
篠井は髪も瞳も真っ黒だから、その透明感がめずらしかった。
崎坂は相変わらず、柔らかな表情でしばらく篠井を見つめていた。どうにも美貌の圧がすごい。しかしふと視線をさまよわせると、自嘲するように表情を歪めた。
「さっきの質問だけど」
「あ、はい」
「……僕さ、素顔だと舐められちゃうんだよね」
「え?」
ポツリと落とされた予想外の答えに、篠井はただ驚いて固まってしまった。
「僕、もう三十八歳なんだけど、同級生と比べても貫禄ないっていうかさ。若々しいのは悪いことじゃないけど、社会人で若く見えるのって、実際いいことばかりじゃないでしょ?」
「はい。まあ、男は特に……ですね」
「身長はそれなりにあるし、一応ジムで運動してるから身体もペラペラってわけじゃないんだけどね。僕は骨格自体がゴツイわけじゃないから、服着たら細く見えるでしょ。それにこのふやけた顔とゆるい天パが合わさって、やたらとソフトな印象を持たれるんだよね」
「ああ……」
「キリッとした感じにしたくて、短髪っぽくしてみたこともあるんだよ。でもこの髪質だと毛がふわふわあっちこっちに行っちゃって、収集つかなくて諦めた」
何より天然パーマだということに驚いた。崎坂の甘い顔貌の額縁たるふんわりとしたウェーブは、天が与えたものらしい。いつも計算したようにキマっているから、わざとパーマをかけているのだと思っていた。
「でもジャケットを着て眼鏡をしてると、少しは硬い印象になるからさ。とりあえず教員ぽくはなるかなって。ほんと女子大生たち元気すぎるし、油断してるとすごく近い距離で接してくるし、ただの噂でも教え子とどうこうとか言われるのも面倒くさくて……」
崎坂はうーんと唸りながら天を仰いだ。外聞なくふてくされたような態度に、篠井は口角が緩みそうになる。
口元を隠すようにビールをあおりつつ、慌てて顔の筋肉を引き締めた。
崎坂が言わんとしていることは理解できる。キャンパス内での、彼曰く「教員ぽく」武装している姿でも、実年齢より若々しく魅力的に見えてしまう男だ。今みたいにラフな恰好で髪もセットせず、優しげな垂れ目がはっきり覗くと、顔立ちの甘さに拍車がかかってしまう。取り巻く雰囲気がさらにふわっとして、隙がありそうに見えるのだろう。
崎坂の研究室でランチを取った日、女子ふたりに迫られているようすを思い出した。あんな肉食すぎるハンターにこんな姿は見せたくないはずだ。
崎坂が仕事着にしている大人っぽいスマートカジュアルは、ある種の鎧なのだろう。知的な印象を上乗せする眼鏡は、きっとその重要な仕上げだ。
リビングへ戻ると、崎坂はソファに座って何やら分厚い本を読んでいた。仕事絡みのものだろうか。篠井の呼びかけに視線を上げると、ふわりと微笑みかけてくる。
「いえいえ。勝手わかった? ちゃんと温まった?」
「はい。普段シャワーですましちゃうから、湯船浸かるの久々だったし! あ、あの、入れてもらった入浴剤もすごくいい匂いで! 何か肌のカサカサもよくなった、……気が、します……」
感謝を伝えたくて口を開いた結果、小学生の書く日記のようなつたない感想しか出てこなかった。言いながらだんだん恥ずかしくなり、頭を抱えてしゃがみ込みたくなる。陰キャの口下手パワーを舐めないで欲しい。つらい。
「そっか、よかった。でも貸したスウェット、やっぱり僕のだと少し大きいね」
「え、ああ、……さすがにスタイルの差が……」
「身長差でしょ。篠井くん、背はいくつ?」
「173です。先生は?」
「たぶん182センチとかだったかなぁ。でかくてごめんね。まあ、裾を捲れば大丈夫か」
崎坂はそう言って本をローテーブルに置いて立ち上がったかと思うと、篠井の目の前まで歩いてきた。そのまま流れるような動作で、篠井の足元へ跪く。
一瞬呆気に取られて言葉を発せなかった。けれどすぐに脳みそが再起動して、声にならない悲鳴を上げる。
「あっ、あの!?」
「うん。じっとしててね」
「自分で、でき……や、やりますからっ……」
「んー、いいから」
鷹揚に返答した崎坂は、篠井のスウェットパンツの裾へ手をかけ、丁寧に折り上げてくれる。まるでお姫様にかしずく王子様か、貴族に侍る執事のようだ。しかしその相手は姫でも貴族でもない地味な男だ。視界に映る景色にまったく現実感がない。
崎坂の大きな手が、長く綺麗な指が、篠井のくるぶし付近で世話を焼いている。自分はこんな色男に何をさせているのだろう。今日一番のパニックに襲われる。頬も耳もじんじんと火照ってきた。
しかしこの状況で篠井が下手に動けば、崎坂の顔面を蹴り飛ばす可能性すらある。それこそ絶対に許されない所業だ。
結局崎坂のつむじを見下ろしながら、彼の気が済むまでされるがままになるしかなかった。
「――はい。できたよ」
引きずりそうだった篠井のスウェットパンツを整えると、崎坂は満足げな顔で立ち上がった。
「袖も適当に捲ってね。あ、そっちもやってあげようか?」
「大丈夫です! というか足だって、自分でできたんですけど……」
「うーん。まあそこは、僕がしてあげたかっただけだから。篠井くんって何か世話焼きたくなっちゃうんだよね。言われない?」
「そんなの……言われたことないです……」
どういう意味か理解できず、ムスッ、とあからさまに眉根を寄せてしまった。十歳ほど年上の崎坂にすれば、篠井など学生たちと変わらない子供に見えているのだろうか。
けれど崎坂は何も気にしていない調子で、篠井の憤りを軽くかわす。
「さて、とりあえず僕もお風呂行ってくるね。テレビ付けてもいいし、キッチンの冷蔵庫も食器棚も勝手に開けて好きにして。あ、それとお風呂上がりだから、水だけはちゃんと飲んでおいてね? 冷蔵庫にペットボトル入ってるから」
崎坂はそう言い置いて、リビングを出て行ってしまった。彼だって雨に降られたのだ。早く入浴して温まるに越したことはない。
むしろ篠井は最初、「泊めてもらう自分が先に風呂を使うなんて」と散々拒否をしたのだ。けれど「篠井くんがお風呂に入らないんだったら僕も入らない」と謎の強情をキメられて、折れた結果の現状だった。
そういえばとにかく水を飲めと言われたな、と家主不在のキッチンへ入る。
冷蔵庫の取っ手を掴んだはいいけれど、一瞬戸惑って息を呑んだ。いくら許可をもらったとはいえ、冷蔵庫なんてプライベート空間の最たるもののひとつだ。少し後ろめたさが付きまとう。
努めて余計なものを見ないようにサッと目を走らせた。棚の端の方にミネラルウォーターのボトルが積まれているのを見つけ、そっと一本拝借する。
ごくごくと喉を鳴らして半分ほど飲んだ。
「はあ……」
自然と深い息が零れる。きちんと湯船に浸かったからだろうか、思いのほか喉が渇いていたらしい。
ペットボトルを手にしたまま、リビングスペースのソファへと腰かけた。ゆったりと大きなソファは座り心地もいい。篠井が住む1Kの部屋には到底置けない、贅沢なサイズだ。
家主がいないのをいいことに、リビングダイニングをじっくりと見回す。
ソファやカーテンのファブリック類は、淡いグレー系のグラデーションだ。家具はベージュに近い、明るい色の木製をメインでまとめられている。けして気取った嫌味な感じはないのに統一感がありセンスがいい。大人っぽいのに柔らかな印象は、まさに崎坂の部屋だと思った。
ソファの対面には、かなり立派なサイズのテレビが設置されている。崎坂は好きに観ていいと言っていた。けれどこの時間帯はたぶん、大きな笑い声ではしゃぐようなバラエティ番組ばかりだろう。
そういう喧騒が欲しい時もあるけれど、今の気分ではない。何となくこの部屋に、そういう俗物的で軽薄な明るさを持ち込むことははばかられた。
手持ち無沙汰にスマホを手に取った。とりあえず気象情報を調べるとやはり明日午前中いっぱいは、このまま悪天候に見舞われる可能性があるらしい。窓の外からは相変わらず激しい雨の音が続いている。
うう、と唸りながら、今度は交通機関の運行情報を調べてみた。すると篠井が日々使用している路線の、例の倒木撤去についてのニュースが目に入った。この悪天候の中、やはり短時間での復旧は難しいとのことだ。どうにもこうにも積みだった。
こうして崎坂に拾ってもらえて、やはりラッキーだったのだろう。
「篠井くん、お待たせ」
しばらくネットサーフィンに興じていたところへ、背後から声をかけられる。
「あ、いえ……」
篠井はスマホから目を離して振り返った。崎坂は濡れた頭をタオルで拭きながら、リビングへと入ってくる。しかしその印象は、篠井が見慣れた崎坂とはひどく違っていた。
キャンパスで見かける崎坂は、基本的にジャケットや襟付きシャツなど、爽やかで落ち着いた恰好をしている。
風呂上がりの今は当然ながら、その対極とでも言うべき部屋着姿だ。篠井が貸してもらったものと似たようなスウェットの上下を着て、首にはタオルまでかけていた。
しかし服装より何より、崎坂の雰囲気がガラリと変わっている一番の理由がある。
彼がいつもかけている眼鏡を外していることだった。
「……篠井くん?」
「えっ、あ、はい!」
思わず凝視してしまっていたところへ呼びかけられる。反応が遅れてどもってしまった。崎坂はそんな篠井に目尻を下げただけで、すたすたとキッチンへ入って行った。
冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、こちらへ見えるように掲げてくる。
「僕、ちょっと呑みたいなって思ってるんだけど。篠井くんもいる?」
「あー、……じゃあ」
「甘いのがよければ梅酒とかもあるよ」
「いえ、ビールで」
食事の時に申告した通り、篠井はアルコールには強くないだけで嫌いではない。
崎坂は冷えたビールを両手に携え、ソファの方へやってきた。片方の缶を篠井へ手渡して、すぐ隣へと腰を下ろす。
「ありがとうございます」
「うん。はい、お疲れさま」
プルタブを開け、缶同士をかち合わせて乾杯をした。喉へ流し込んだ冷たさは胃へ滑り落ちてから、じわじわと全身の細胞を満たすように沁みていく。
隣をチラリと盗み見ると、ソファの背もたれに深く身体を預けた崎坂も、満足げに息を吐いている。すっかりリラックスした様子だ。
篠井も少しだけ緊張がほぐれた心地で、疑問を口にしてみることにした。
「……あの」
「ん?」
「あ、……その、えっと」
何気ない調子で話しかけるつもりだった。しかしその思惑はすぐ失敗に終わる。元々隣同士に座っているというのに、崎坂がさらに篠井の顔を覗き込むように顔を近づけてきたからだ。
思った以上の近距離に動揺して、慌てて目を逸らしてしまった。途端にうまく喋れなくなった。
「篠井くん?」
篠井はパーソナルスペースを広く保ちたい質だ。本来の性格もあるけれど、今までの経験によるところも大きかった。
篠井と同類の地味でおとなしい人間は、必要以上に距離を詰めたり、ましてやボディタッチなんかはしないことが多い。
逆にわざとらしく顔を近づけて話しかけてくる人間は、たいてい自分とはノリの違うリア充だ。そしてそういう相手にはあまりいい思い出がなかった。
彼らが近づいてくるのは、すぐオドオドする篠井をからかったり、お願いという名目で雑用を押しつけるような時だ。同い年の人間が狭い教室に、クラスメイトという枠で詰め込まれていた頃。いわゆる〈スクールカースト〉に誰もが翻弄される、そんな時期が一番顕著だった。
もちろん崎坂はそんな人間ではないだろうと、わかってきてはいる。けれどこれは篠井の条件反射のようなものだ。
「なあに? どうした?」
自分から話しかけておいて黙りこくるなんて、失礼極まりないと思う。それなのに崎坂は、子供に向けるような甘い声と口調で、優しく尋ねてくれる。
崎坂の顔を見上げて、やっぱりあまりの近さに動揺した。それでも再び目を伏せてから、何とか口を開く。
「め、……めがね」
「眼鏡?」
「……なくて大丈夫なのかな、って……」
「ああ。洗面所に置いてきちゃったかな」
たったそれだけ訊くのに、挙動不審すぎた自覚はある。それでも眼鏡は誰もが認める、崎坂のトレードマークだ。あの大学キャンパス内で、素顔の崎坂を見たことのある人はいないのではないかとすら思う。
しかし崎坂は平然としていて、返答する声ものんびりとしたものだった。
「平気なんですか?」
「うん、まあ。日常生活に支障があるほど眼が悪いわけじゃないんだ。家の中では基本的にかけてない。そういえば篠井くんは? コンタクトも入れてないの?」
「俺はずっと視力はよくて、裸眼なので」
「そっか、いいねえ。僕の場合は外出時にちょっと困るくらいかな。駅の案内板とか道路標識とか、目に付くべきものとして設置されているところが見えづらいって、危ないでしょ」
「ああ、そうですね」
そうやって説明されると腑に落ちる。日常生活に支障ないということは、すぐ傍にいる篠井の顔は、今もはっきりと見えているのだろうか。
「あとさ、事務員さんだったら……304講義室、って言えばどこかわかるよね?」
「ウチで一番大きい教室ですよね。席が階段状になってる」
「うん。あれくらいの広さだと、やっぱり視力補正が必要だなって思うよ。最後列まで学生の様子が見えるし」
「でもそれこそ、コンタクトにはしないんですか」
尋ねながら、レンズ越しではない崎坂の瞳をよくよく観察してみた。澄んだ淡いセピアカラーが綺麗だと思う。人形にはめ込まれたガラス玉の眼のように、きらきらと透き通っている。
篠井は髪も瞳も真っ黒だから、その透明感がめずらしかった。
崎坂は相変わらず、柔らかな表情でしばらく篠井を見つめていた。どうにも美貌の圧がすごい。しかしふと視線をさまよわせると、自嘲するように表情を歪めた。
「さっきの質問だけど」
「あ、はい」
「……僕さ、素顔だと舐められちゃうんだよね」
「え?」
ポツリと落とされた予想外の答えに、篠井はただ驚いて固まってしまった。
「僕、もう三十八歳なんだけど、同級生と比べても貫禄ないっていうかさ。若々しいのは悪いことじゃないけど、社会人で若く見えるのって、実際いいことばかりじゃないでしょ?」
「はい。まあ、男は特に……ですね」
「身長はそれなりにあるし、一応ジムで運動してるから身体もペラペラってわけじゃないんだけどね。僕は骨格自体がゴツイわけじゃないから、服着たら細く見えるでしょ。それにこのふやけた顔とゆるい天パが合わさって、やたらとソフトな印象を持たれるんだよね」
「ああ……」
「キリッとした感じにしたくて、短髪っぽくしてみたこともあるんだよ。でもこの髪質だと毛がふわふわあっちこっちに行っちゃって、収集つかなくて諦めた」
何より天然パーマだということに驚いた。崎坂の甘い顔貌の額縁たるふんわりとしたウェーブは、天が与えたものらしい。いつも計算したようにキマっているから、わざとパーマをかけているのだと思っていた。
「でもジャケットを着て眼鏡をしてると、少しは硬い印象になるからさ。とりあえず教員ぽくはなるかなって。ほんと女子大生たち元気すぎるし、油断してるとすごく近い距離で接してくるし、ただの噂でも教え子とどうこうとか言われるのも面倒くさくて……」
崎坂はうーんと唸りながら天を仰いだ。外聞なくふてくされたような態度に、篠井は口角が緩みそうになる。
口元を隠すようにビールをあおりつつ、慌てて顔の筋肉を引き締めた。
崎坂が言わんとしていることは理解できる。キャンパス内での、彼曰く「教員ぽく」武装している姿でも、実年齢より若々しく魅力的に見えてしまう男だ。今みたいにラフな恰好で髪もセットせず、優しげな垂れ目がはっきり覗くと、顔立ちの甘さに拍車がかかってしまう。取り巻く雰囲気がさらにふわっとして、隙がありそうに見えるのだろう。
崎坂の研究室でランチを取った日、女子ふたりに迫られているようすを思い出した。あんな肉食すぎるハンターにこんな姿は見せたくないはずだ。
崎坂が仕事着にしている大人っぽいスマートカジュアルは、ある種の鎧なのだろう。知的な印象を上乗せする眼鏡は、きっとその重要な仕上げだ。
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