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ギャンブルと苺のフロマージュ

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「篠井くん、飲み物どうする? アルコールメニュー見る?」
「えっ、……っと」
「あ、僕はもちろん運転あるから呑まないけど。でも篠井くんには好きなものを注文して欲しいなーって思って。もちろん呑めって強要もしないし、お前だけ呑むなとかも絶対ないからね! アルハラもパワハラもしないから! ……あれ、……あー、何か言えば言うほど、逆に不穏な感じになってる……?」

 つらつらと喋ったあげく、最後に真面目な顔をして首を傾げる崎坂がおかしくて、篠井は小さく笑い出してしまった。

「篠井くんは、お酒好き?」
「嫌いじゃない、ですけど、強くはなくて……」
「そっか。今の気分は?」
「せっかく美味しいご飯食べるなら、……料理、ちゃんと味わいたい、かなって」
「ん、わかった。じゃあとりあえず、僕と一緒にウーロン茶にしとこっか?」
「はい」

 こくんと頷きながら、先日久しぶりに会った大学同期の愚痴を思い出した。
 職場で同じ部署の男性上司が酒席好きなうえに、酔ってくるといわゆる〈アルコールハラスメント〉的な発言をする人らしい。
 しかも絡み酒で、「男のくせに呑めないなんて恥ずかしいぞ」「上司に勧められたら、応えてこそのサラリーマンだろ」なんて今のご時世完全アウトなことを言い出してしまう。一応そのたびに、居合わせた他の上司や先輩が、アルハラ上司をやんわり宥めて助けてはくれる。しかし面倒なことに変わりはないから、会社の飲み会で近くに座りたくない――……。彼は苦い顔で、そうぼやいていた。
 篠井の周囲には幸いアルハラどころか、〈飲みニケーション〉を強要してくる人もあまりいなかった。同僚は女性比率も高めだし、さっさと帰りたい人が多いのだろう。だから職場全体での飲み会自体も頻度は少なく、短時間でサクッと終わる。

 篠井にも見えるように食事メニューを広げる崎坂の顔を、正面からチラリと見上げた。雨で少し湿ったからか、ダークブラウンに染めた髪の毛のウェーブがいつもよりくっきりしている。
 もしもの話。目上の人間から高圧的に酒を勧められたら、篠井の性格上うまく断れない。
 それでも自身のアルコール許容量は自覚しているから、きっとイエスともノーとも言えず、ひどくうろたえるだろう。
 篠井は方便どころか、愛想笑いだって上手くない。相手がもし、例の大学同期の上司だったとしたら、顔を青白くして黙り込む篠井に「男らしくない」と苛立つはずだ。
 そんな構図の想像がつきすぎる。考えただけで、背中に冷や汗が滲むようだ。

 しかし崎坂は、篠井が感じてしまうかもしれない怯えを、先回りしてあっさりとすくい上げてくれた。
 篠井が素直に返答できたのは、相手が彼だからだ。強引なのに優しくて、篠井の様子や気持ちをちゃんと見てくれる。

 臆病な篠井はいつも安全圏を選んで、慎重に舵を取ることを第一にしていた。
 それなのに崎坂といると、ハンドルの制御ができなくなる。呆けたまま、思ってもいない方角へどんどん流されてしまう。
 温かく穏やかで、陽光を反射した波がキラキラと輝く沖合に浮かびながら、篠井は絶望する。このまま岸に戻れなかったらどうしようと心配になる。
 だってここは、自分なんかにはふさわしくない場所なのだ。
 積年の苦い思い出のせいで石橋を壊れるほど叩く、慎重な自分はどこに行ってしまったのだろう。頭のどこかで危機感は覚えている。そのくせ警報を無視して崎坂に懐いてしまう自分自身が信じられなかった。



 崎坂は食事メニューも、そつなく篠井の好みを訊き出して注文してくれた。
 いち押しの釜飯は、炊きあがるまでに少し時間がかかるらしい。それでも絶対に頼むべきこの店の名物とのことだった。
 他にも崎坂のお勧めを聞きながら、一品料理をいくつも頼んだ。刺身の盛り合わせ、名前も知らないめずらしい野菜がたくさん入ったサラダに、出汁が抜群に美味しい揚げ出し豆腐。追加注文した叩きキュウリも、明太子入りだし巻き卵も、全部が全部美味しかった。
 そして最後に運ばれてきたのが、最初に決めたラスボスの釜飯だ。

「うわ、美味しそう!」
「いい匂いだね」

 目の前で湯気を立てるハラコ釜飯は一番人気なのだそうだ。たっぷりと出汁を吸って炊かれた米の上に、いくらと鮭がふんだんに載せられている。
 ツヤツヤしたいくらに篠井が見とれている間に、崎坂が木のしゃもじを手に取った。釜の中に差し入れてさっくりと混ぜれば、さらにたまらなくいい匂いが漂う。ふわふわと鼻をくすぐる香りに期待が募った。
 しかしようやく我に返って、篠井は慌てた。

「あ! す、すみません!」
「ん?」
「こういうの、ほんとは俺がしなきゃいけないのに……!」

 どう考えても、篠井が先にしゃもじを手にすべきだった。釜飯の予想以上に美味しそうなビジュアルや匂いに、釘づけになっている場合ではない。
 立場や年齢を踏まえての配慮を欠いた、それももちろんある。しかし今夜は崎坂の愛車に同乗させてもらい、悪天候での運転もお任せし、案内してもらった店でこんなに美味しい食事まで頂いているのだ。
 甘えっぱなしすぎて、せめてご飯をよそうくらいしないと申し訳なかった。

「うーん。そこはありがとう、って言ってよ」

 綺麗に茶碗へ盛られた釜飯が、篠井の目の前に置かれる。

「……え?」
「どっちが年上とか、立場がどうとか、そんなことどうでもいいんだよ。ここへ誘ったのは僕なんだ。篠井くんに食べて欲しいなって思ったご飯を、僕がよそうのは当然でしょ?」

 崎坂は自分の分の釜飯をよそいながら、柔らかく微笑んだ。いったい彼はどれだけ優しいのだろう。ドキドキしながら、釜飯をひとくち頬張る。

「わっ、美味しい……!」
「でしょ。ここは具材だけじゃなくて、お米にも、炊飯に使う水にもこだわってるんだって」
「え、すごい、めちゃくちゃ美味しいです!」
「よかったー」

 嬉しそうに自分の茶碗と箸を持つ崎坂は、手放しに無防備な笑顔を向けてくる。眼鏡越しの垂れ目が優しく弧を描いていた。
 得意げなその顔は、まるで宝物のどんぐりを自慢する小学生のようにも見える。
 ――年上のはずなのに、何だか可愛い。
 そう思ってしまった自分に気づいて、ものすごくびっくりした。きっと誰もが信じている、大人で落ち着いたイメージの崎坂先生、とは対極の感想だろう。
 目の前の彼へそっと視線を向けた。綺麗な箸づかいで食べる崎坂は、もう普段の澄ました雰囲気を取り戻している。先ほどの屈託のない微笑みが、見間違いだったのかと思えるほどだ。
 それにしても、可愛い、だなんて。篠井は自分でも不可解なその感情を誤魔化すために、慌てて口の中へ釜飯を詰め込んだ。



 ふたりで釜飯を平らげたあとは、せっかくだからとデザートまで頼んでもらった。
 この店のスウィーツメニューは季節によって変わるらしい。今の限定は苺のフロマージュだ。
 スプーンを口に運んでは微笑んでしまう篠井の向かいで、崎坂はアイスコーヒーを飲みながら、何やらスマホを操作していた。
 相手は仕事か、プライベート関係か。目の前でそう熱心に弄っていたら気にならないではない。けれど篠井はそこに言及できるほどの関係ではないから、口を噤んでフロマージュを食べ進める。

「……あのさ、篠井くん」
「はい?」
「そのケーキ、美味しい?」
「あ、はい! すっごく、美味しいです……! お腹いっぱいのはずだったのに、こんなの食べないで帰れないっていうか……」

 デザートのクオリティに興奮しながら見上げると、崎坂が笑顔を曇らせていた。端整な顔の眉間に皺が寄っている。自分は何か変な返答をしてしまったのだろうか。
 不安になる篠井に、崎坂は苦い顔で言った。

「あのね、天気予報を見てたんだけど。そしたらこの雨、当初の発表より長引くらしくて……」
「えっ、そうなんですか?」
「今も電車の運転見合わせとか遅延とか、いろんなところでしてるけど……夜中に暴風雨抜けるって話だったのに、明日の午前中いっぱい続くかもしれないみたい」
「えっ!?」
「うん。朝になっても状況が変わらない可能性がある」

 篠井は右手にスプーンを握ったまま、間抜けな顔でぽかんとしてしまった。のんきにデザートまで堪能している場合じゃなかったようだ。

「うわあ、……どうしよ」

 別に仕事命な社畜マインドなんてかけらもない。それでもこういう時はなるべく、自分がちゃんと出勤できるようにすべきだよな、とは思う。篠井は身軽なひとり暮らしの、若い独身男だから。
 紳士ぶりたいわけではなかったけれど、そもそも今夜の残業だってそういう事情を考えて引き受けたのだ。

「あの、今から大学近くのビジホに電話かけてみて、部屋取れそうならそっちに送ってもらってもいいですか……?」

 おずおずと尋ねると、崎坂はテーブルに頬杖をついてじっと視線を投げてくる。

「この間荷物届けてくれた時も思ったけど、篠井くんてすごく真面目だよね」
「え、そんなことはないと思うんですけど……」
「だって、明日出勤できないと困るなーって考えてるんでしょ?」
「それは……うちの大学事務って女性が多いし、男性は結構年輩の方ばっかりだし、独身の若い男なんて自分くらいで……あ、あとたぶん俺以外はもう全員、家に帰り着いてる頃だと思うんです。明日事務室がもぬけの殻だと、ほんとにやばいなって……」

 明朝まだ交通機関のダイヤが乱れていた場合、きっと事務室には教員からの休講連絡やら、職員からの遅刻申請の電話やらが鳴り響くはずだ。特に定年間近の教授の中には機械オンチで、メール等の代替手段はおぼつかない人もいる。
 早い時間に「自分がちゃんと出勤できそうだから大丈夫」と同僚たちへメッセージを一斉送信すれば、彼らは焦ったりせずに済むだろう。

「うーん、そんなに仕事のことが気になるならさ……僕の家に泊まる?」
「え?」

 崎坂から発された音がしばらく言葉として理解できなかった。スプーンを持ったまま目を見開く。口までぽかんと開けっぱなしになってしまい、さぞ間抜けな顔だっただろう。

「……は!?」

 身体は硬直したまま脳だけがゆるゆると動き、崎坂の発言をやっと意味を伴ったものとして処理できた瞬間、篠井にはめずらしい大声が出た。しかも情けなく引っくり返ったような声だった。

「ははっ、いいリアクション」
「いやいや、……え? は? さすがにそんなの……」
「元々明日の午前中は、大学の図書館でいろいろ調べものしようと思ってたんだよね。授業持ってるのは午後からだけど、その分集中できるからちょうどいいんだ。車で出勤するつもりだし、乗せて行ってあげられるよ?」
「え、で、でもそんな……ご迷惑が過ぎますし……」

 家に泊まるとは。ちょっとこれはいい加減、うっかり流されていい事態ではない。それだけはわかる。
 篠井にも、学生時代に男友達の家で集まって飲んで、終電を逃して雑魚寝する、くらいの経験はあった。しかしこれはだいぶ事情が違いすぎる。それでなくとも、どうして自分はこんな年齢もスペックも違う男と食事をしているのだろう、と考えるだけで、目眩がして倒れそうになるのに。

「ね。楽しくない? 嵐の日のお泊まりってさ」
「いやいやいや」
「いっそ修学旅行とかだと思って。枕投げしてもいいよ? もしくはこっそり恋バナする?」
「しませんよ! そうじゃなくて、そもそもお泊りって……」
「大学ら辺、ホテルもそんなに数ないでしょ。しかも近くの駅で倒木騒ぎがあったらしくて、まだ路線復旧してないらしいよ。オフィス街も近いから、部屋埋まってるんじゃないかな」
「ええ、倒木……? で、でも、一応電話してみて……」
「じゃ、賭けよっか。当日予約が取れたらちゃんとそこまで送ってあげる。だめだったら僕の家に強制連行です」

 慌ててスマホを取り出し、近いビジネスホテルの電話番号を調べ始める。すると正面で小さく息を吐く気配がした。
 篠井がちらっと眼を上げると、崎坂は困ったような微笑むような、何だか複雑な表情をしている。

「篠井くんさ、真面目すぎて危なっかしくて、心配になるんだ。こんな時間に放り出せないよ」

 慈しむ、という言葉を具現化したような眼差しに、優しい言葉まで上乗せされる。テーブルを挟んだだけの距離でまともに喰らってしまい、心臓が跳ねた。
 ふざけたことばかり言った後で、突然大人の包容力を見せつけないで欲しい。篠井が女の子なら秒で落ちているところだ。むしろ男のままの今だって、恥ずかしくて叫び出したいような気持になった。
 篠井は何も返答できないまま、とにかく再びスマホへと視線を逃がした。

 結局、キャンパスの近隣にあるビジネスホテルはどこもいっぱいで、空室は見つからなかった。何ならさっき崎坂が言っていた「倒木の影響で回復時間は未定」な路線は、ばっちり篠井の通勤経路だった。ジーザス。
 崎坂に勝手に取り決められた賭けにも負けたわけで、さすがに観念した。ここでさらに「二十四時間営業のファミレスで夜を明かす」なんて言ったら、こんこんと説教されそうだ。
 苺のフロマージュはしっかり味わって食べきった。
 篠井は一銭も払わせてもらえないまま会計が終わり、店を出る。
 再び崎坂の車に乗り込んで、シートベルトを締めた。暗い夜空から降りしきる雨は一向にやまない。雨粒に滲んだ街灯やテールランプの光に、オーディオから流れるメロウなBGMが濡れて溶ける。

「……免許、やっぱりあった方が便利ですよね」

 沈黙に耐えられず、サイドガラスを流れる雨粒を見ながら呟いた。

「持ってないの?」
「はい」
「そっか。出身って都内?」
「……そうです」

 特に何らかのポリシーがあるわけでもない。篠井自身に「免許を取って運転したい」「車が欲しい」みたいな欲求がなく、そのままこの年齢までズルズルきただけだ。
 運転自体に関しては、できないよりできた方が絶対にかっこいいよな、とは思う。それこそモテ要素のひとつとしても。隣で優雅にハンドルを握る崎坂の姿を見ると、余計にそう感じる。

「でもさ、都内にいたら電車とバスでわりとどこでも行けちゃうでしょ。特に必要感じないよね」
「え?」
「僕の場合は育ったのが地方の、車社会の地域なんだ。いわゆる公共の交通機関があんまり発達してないから、免許を持ってないと自由に行動しづらくてさ。成人したら一人一台は車を持ってるのが普通、みたいなとこなの」
「……へえ」
「だから十八歳になってすぐに免許を取ったし、運転自体もわりと好きだからよかったんだけど。まあ、必要性もなくて運転に興味もなければ、無理に取るものじゃないと思うよ」
「でも何か、その、やっぱり運転できた方が男らしくてモテる、みたいのはありますよね?」
「んー、……でももうそういう時代じゃないかなって。男女カップルでも、女性が車の運転が好きで男性の側が苦手なら、得意な方がやったらいいんじゃない?」

 崎坂はそう言って、すっと鼻筋の通った綺麗な横顔でふっと笑う。こうしていちいち優しく心をくるんでくる彼は、根っからの人たらしに違いない。
 こんなの喋れば喋るほどだめだ。頭だか心臓だかが爆発してしまいそうになる。
 そっと深呼吸しながら、再び宵闇の車窓へ目を移した。これ以上グズグズに液状化させられたら、人間の形に戻れなくなってしまうかもしれない。篠井は真面目にそう思った。
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