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嵐の夜に

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「おっと。結構ゆっくりしちゃったね」

 のんびりと呟かれた崎坂の言葉に慌てて時計を確認すれば、昼休憩はあと少しで終わろうとしていた。

「うわっ、やばい! えっと、あの、お弁当ごちそうさまでした!」

 おにぎりの残りひとくちを急いで口に詰め込む。あまり遅くなれば、事務室へ帰ってから確実に嫌味を言われるだろう。気弱な篠井に「雑用を引き受けたので、その分休憩を延長させてもらいました」なんて言う度胸はない。
 すぐにゴミをまとめて立ち上がる。そのまま部屋の入口へ向かおうとすると、ソファから腰を浮かせた崎坂に、腕を掴んで引き止められた。

「待って。これ、約束のおみやげ。持って行って」

 手の中へ捻じ込むように小さな紙袋を持たされ、「またね」と囁かれる。
 そういえば強引にこの部屋へ連れ込まれたきっかけは、甘味が好きかどうかの確認からだった。なぜ今までほぼ接点のなかった男に手ずからご馳走を与えられ、さらにはおみやげまで持たされているのか、わけがわからない。

「あ、ありがとうございます……?」

 何かもっと気の利いたことを言えたらいいのに。そう思いながら、今の篠井には礼を言うだけで精一杯だった。
 崎坂のまばゆい笑顔に見送られ、篠井は困惑によろめきながら、自身の職場である事務室へと急いだ。



「……休憩ありがとうございました」

 小さな声で呟きながら自席へ戻った。
 スリープモードにしていたノートPCを開き、パスワードを入力してロックを解除する。午前中に根を詰めていた、面倒くさいデータ入力の続きが待っている。
 崎坂に持たされた紙袋をそのままデスクの引き出しに入れようとして、そういえば中身は何だろう、と手を止めた。そっと袋の中を覗いてみると、透明な包装にくるまれた焼き菓子がふたつ入っていた。
 この形はたぶんエクレアだ。一般的なサイズより小ぶりだが、その分ナッツやドライフルーツが盛りつけられている。きっとそれなりの値段がするパティスリーのものだろう。普段篠井が買う手軽なコンビニスイーツとは、あきらかに別物だ。
 先ほど研究室を訪れていた学生のどちらかがくれたのだろうか。もしくは他の教員や職員からの差し入れとか。何しろ崎坂に近づきたい女性陣はいくらでもいるのだ。

 ――崎坂先生のためにこれを購入した方にとっては不運なことに、なぜかしがない事務員ごときが食べることになってスミマセン。でもせっかくなので、ちゃんと美味しく頂きます。

 篠井は心の中で懺悔しながら、三時のおやつとしてそれを平らげた。ちなみに今まで食べたことがないほど、感動的に美味しいエクレアだった。



 篠井の日常は基本的に、地味で、平坦で、つまらないことの連続だ。
 平日はひとり暮らしの部屋と職場を往復するばかり。自分の担当ではない仕事を押しつけられたり、道端で他人にぶつかられたあげく舌打ちされたり、そういうチクチクと嫌な気分になることはままある。反対に愛用しているスーパーで、好きな総菜が値引きされていたらラッキーだ。
 休日はたいてい昼近くまで寝坊して、あとはだらだら漫画を読んだりゲームをしたりで終わる。絵に描いたように怠惰なインドア派だ。
 どこにでもいる冴えない社会人男性らしく、将来展望や夢なんてない。のめり込むような趣味もないし、恋人だっていない。ただただ、たんたんと続いていく毎日。

 だから余計にあの日のことは、いまだに篠井をじわじわと動揺させている。
 崎坂なんて、普段ならプライベートで近寄りもしない人種だ。それなのにあれよあれよと彼のペースに巻き込まれた結果、怒涛で、不可解な展開に、ストレス耐性の低い篠井の脳は無慈悲なほど撹拌された。
 発端は崎坂への届け物をしぶしぶ運ばされたことだ。そのせいでどこから悩んでいいのかわからないほど、キャパオーバーなことばかり身に降りかかってしまった。
 彼に好意を寄せる女性なら、願ってもない状況だっただろうに。世の中はそううまいこといかないらしい。



 それでも一週間ほど過ぎて、あれはたぶん夢だったのだと、自分をなだめることに成功してきた。
 現実だったことは承知している。けれどもうあんなイレギュラーに襲われることはないだろう。分相応というやつだ。言うなれば崎坂は高視聴率ドラマの主演俳優で、篠井はモブ役どころか、顔も映らないくらいのエキストラなのだから。

 残業を終え、帰宅前にトイレへ寄った。洗面台の鏡に映る自分は一日働いた疲労をしっかりと溜め込んだ、ヨレヨレの情けない顔をしていた。

「……あれ、篠井くん?」

 トイレを出て、青白い蛍光灯の照らす薄暗い廊下を、ペタペタと歩いているところだった。
 正門へと向かっていた篠井は、背後からかけられた声に振り返る。あの日以来、耳に残り続けている声だ。篠井の名前を呼んだのは崎坂だと、その一言でわかってしまった。
 崎坂は足早にこちらへ近づいてきた。手には黒い雨傘を携えている。

「まだ残ってたの」
「はい。ちょっと、今日中に片づけなきゃいけない仕事があって……」

 学生はすべて帰宅させ、構内は職員と教員しか残っていない時間帯だ。それでも普段ならもう少し人の気配があるはずなのに、構内はしんとしている。
 これからさらにひどくなると予報の出ている、悪天候のせいだった。例年より早く発生した台風が、慈悲なくこの列島を舐めていくらしい。建物内がしんと静かなせいで、荒い風の音がより一層、ごうごうと響くようだった。
 篠井はふと、嵐の夜に出会ったオオカミとヤギが主役の、絵本のタイトルを思い出した。

「もう帰るところ?」
「はい、まあ……」
「こんな天気の日に、結構遅くまで残ってたんだね」
「そう、……ですかね」
「そっか。篠井くんは仕事熱心だなあ」
「いえ、そんな……それに、この時間までキャンパスにいた崎坂先生も、ですよね……?」

 言葉を交わしながら、何だか不思議だと思う。あの日のことがなければ、崎坂とこんなふうに会話することもなかっただろう。
 それに相手が誰であろうと、篠井はお喋りが得意ではない。少し考えてから口に出す癖があるから、言葉が途切れがちになる。そのせいで傍から見ればきっと相当ぎこちないやり取りだ。
 それでも崎坂は面倒がらずに柔らかく受け止めてくれるから、篠井も居心地の悪さを感じて逃げ出したりしないでいられる。

 篠井にとっては本来、住む世界の違う人間と関わるのは心臓に悪い。荷が重い。それなのにあの昼休みの一時のせいで、篠井は崎坂を無下にできなくなってしまった。
 パーソナルスペースなんておかまいなしの距離感で、今までされたことのない優しい態度にくるまれて、しかも相手はこの紳士な美丈夫なのだ。そんな人が自分を気にかけてくれることを、少しも嬉しく思わないと言えば嘘になる。

「僕は文芸誌に送る原稿を書いてたんだ。翻訳を依頼されててさ。締め切りギリギリだったし、家に帰るとどうしても集中できない時があるから、職場でやっちゃおうと思って」
「……そうですか」
「篠井くんは? 他の職員さんたち、ほとんど帰ってるんじゃない?」
「あ、……えっと」

 とある備品在庫の件で、今夜中に送っておきたいメールがあった。通常なら明日の午前中に送信すれば、十分納期に間に合うはずの案件だった。
 しかし現在、この列島はひどい暴風雨に見舞われている。梅雨前のくせに早めの台風だか何だか知らないが、この悪天候は明朝まで続くとの予報が流れている。
 取引相手の対応が通常より遅れる可能性があるなか、発注が早いに越したことはない。基本的には注文順に処理されるはずで、在庫確保も物流過程も優先される可能性が上がる。

 そしてこういう時、独身ひとり暮らしの篠井は身軽だ。
 同じ課で事務職員として働く同僚と比べ、一番適性があるのは篠井だったと自分でも思う。思い浮かべた顔は、女性、定年近い年輩男性、または子供や配偶者の家族持ち。
 帰宅が遅くなっても、最悪足止めされてキャンパス内で夜を明かしたとしても、支障がないのは篠井ただひとりだった。
 もちろんまったく理不尽を感じないわけではない。嵐の夜に孤独に残業だなんて、したいはずがなかった。それでも冷静に考えればこの残業を引き受けるべき人間は自分で、いっそ恩を売るつもりで手を挙げたのだった。

「……電車もかなり止まってるらしいけど、まだ平気なの?」

 崎坂に怪訝そうな顔でそう言われて、慌てて最寄り駅までの路線運行状況を調べた。
 まだ二十時過ぎとはいえ窓の外は真っ暗で、変わらず不安を煽るような風の音が鳴いている。不気味で、不穏で、最低限の明かりしかない廊下は深夜のようだった。
 今すぐに、どこよりも安心できる自分だけの巣、ひとり暮らしのアパートの部屋へ帰りたくなる。残業中だって、うまいこと辿り着けますようにと祈っていた。
 しかし悲しいことに、篠井の帰路は途中で途絶えていたらしい。ちなみに希望を断たれると残業へのモチベーションがゼロになるので、むしろ調べないようにしていた。
 

「えっと、電車で途中まで行って……あとはタクシーとか……」
「こんな日に、タクシーなんか掴まらないでしょう」

 崎坂がきっぱりと否定してくる。それは何となくわかってはいたけれど、少しくらい現実逃避させて欲しかった。

 今日はまだ木曜日で、明日も出勤しなければならない。この一週間ほど、篠井は近々開催されるオープンキャンパス関連の仕事に忙殺されていた。残業して作っていた発注依頼もそれ関連のものだ。
 明日だって多少の遅刻ならまだしも、午前中丸々出勤できないとかなり厳しい。

「じゃあビジホか、ネカフェ探します。最悪事務室で一晩……」
「それじゃあ、身体が休まらないんじゃないの。こんな天気で空きがあるかもわからないし」

 崎坂は腕組みをしながら篠井を見下ろし、はあ、と大きく息を吐く。少し呆れているようにも見えた。何だか気まずくなって、視線を自分の足元へ落とす。
 しかし一瞬落ちた沈黙の後、篠井の胸には小さくくすぶるような怒りが湧いてきた。きっと今、自分はひどい顔をしている。人生のステージが違うハイスペイケメンから謎の説教をされて、みじめな気持ちでいっぱいになっている。

 今夜の残業は業務上の不可抗力だ。したくてこうなってるわけじゃない。――篠井自身そう納得しようとしていた。
 それなのに不本意になじられて、胸の中にじわりと真っ黒な墨を流し込まされたようで、うっかりすれば涙でも出そうなくらいに切なく苦しくなる。こんな日に残業なんて、したくてしたわけじゃないのに。きゅ、と下唇を噛んで俯いた。
 あきらかに住む世界の違う、こんな地味でおもしろみ皆無な男のことなんて放っておいて欲しい。どこで雑魚寝しようが関係ないだろう。

 しばらく押し黙っていると、優しい体温が両頬へと触れてきた。顔を大きなてのひらで包まれて上を向かされる。

「ごめん。気にさわることを言ってしまったね。篠井くんが心配だっただけで、そんな顔をさせるつもりじゃなかったんだ」

 間近で眼を覗き込まれたうえに、甘い声で謝罪されて心臓が止まりかける。生粋のイケメンはこんな冴えないモブ男子への対応ですら、いちいち破壊力がすごすぎると思う。

「い、いえ、……あの」
「でも大丈夫だから」
「え?」
「今日は悪天候を見越して車で出勤してきたんだ。送って行くよ」

 崎坂がにっこりと首を傾げながら、某高級自動車メーカーのマークが入ったキーを掲げた。勝手に決定事項として告げられたそれに、篠井の内心は何も「大丈夫」ではなかった。
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