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思い出に至る全ての道-鍵を守護する者⑧上-

脅威との対峙

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保健室の前の廊下は、あまり陽が入らずいつでも仄暗い。前を歩く新見がどんな表情をしているのか、それすらも把握できない。度々春香が心配そうに身体を支えてくれ、いつもより遅いスピードで歩を進める。
考えるのは、春香と別れた後の事だ。新見と対峙した際の対処法を未だ見出せない。
「そういえば、新見先生今日お休みだったんじゃないんですか?」
春香が何気なく訊いた質問は美都も気になっていたことだ。
今日は勤務の日ではなかったはずだ。だからこそ驚いたのだ。
「えぇ。ただちょっとやりたかったことがあったから偶々ね。でも……来てよかったわ」
振り向いて応答したその笑みに背筋が凍った。質問の回答を返しながらも目線はしっかりと美都を捕えていたからだ。
「本当、よかったです。この子すごくしんどそうだったし」
春香はあくまで気遣ってくれているだけだ。彼女は何も知らない。だからこうして普通に会話が出来るのだ。
「お役に立ててなによりだわ。ねぇ月代さん?」
「……」
その声色は明らかに何かを示しているものだった。自分の名前が呼ばれる度に包囲網を張られている気になる。逃げられないのだと、そう言われているような感じがしてならない。渋面を浮かべ唇を嚙んだ。
「美都?  大丈夫?」
「……──っ……大丈夫」
新見の問いかけに応じなかったからなのか、呼吸が浅いことに気付いたからなのかはわからないが、春香が覗き込むようにして美都に声をかけた。
そのまま歩きながら美都は横目で彼女を見る。今一番気に掛かるのは春香のことだ。
この場で戦闘になることはないと踏んではいるが、万が一そうなった場合確実に彼女を巻き込むことになる。新見が何を考えているかわからないからこそ、そうなる事が最も恐ろしい。
今この状態で春香を庇いながら戦うのは、相当神経を使うことになる。もちろん優先すべきは彼女の安全だ。授業中に来たためスマートフォンも持ち歩いていない。仮に何かがあったとしても連絡手段が無いのが痛手だ。
しかし警戒心に反して何も起こることなく、あっという間に春香と別れなければいけない地点に差し掛かる。春香は何度も心配そうに確認した後、ゆっくりと美都の肩を支えていた手を離した。彼女はそのまま美都と新見の一歩前に出て振り返る。位置的には新見が美都の後ろにいる形だ。
「じゃあ、私は教室に戻るね。新見先生、あとはお願いします」
「えぇ」
授業中のため他クラスに配慮して小声での会話だ。美都の後ろにいる新見に会釈をして、以降のことを願い出る。
自分の位置からでは表情は確認できないがきっと笑顔なのだろうと感じた。新見はおそらく、春香に対して本心を出さないはずなのだから。
「……──春香……!」
教室へ歩き出そうとする彼女を思わず呼び止めた。
これが最後のチャンスだ。四季と水唯に伝えるには春香に頼むしかない。だが。
────今更、何を……?
今まで好き勝手動いておいて、今更助けてほしいだなんて。自分本位にも程がある。
それに今伝えたら春香はどうなる?  新見に背を向けている今、彼女の動向がわからない。もしかすると春香を巻き込むことになってしまうかもしれないのに。
頭の中で考えを幾重にも巡らせる。金魚のように口を開閉させていると不思議に思ったのか春香が問いかけてきた。
「どうしたの?」
これを逃せば、もう機会は無い。それはわかっている。痛いほど十分に。
「っ……──なんでも、……ない」
美都は手をぎゅっと握りしめた。
それでもこの子を巻き込むわけにいかない。春香は関係ないのだ。危険な目に遭わせるわけにはいかない。
気付かれないように普段通りの笑顔を作り動揺を隠す。
「ごめんね。……ありがとう」
「?  うん、ゆっくり休みなね。昼休みになったら鞄持ってくから」
それじゃあ、と言って春香は今度こそ教室に向かって歩き出した。
口を結び、だんだんと遠ざかる彼女の背中を見つめる。握りしめた手のひらを解けずに項垂れると、存在を主張するように背後から声が聞こえた。
「友だち想いね」
一瞬身を竦ませ、その声に応じるように新見の方へ向き直る。
「賢明な判断だったと思うわ。あの子を守るためには、ね」
「──……っ!」
その言動からは暗に春香の身の安全を示唆したものが窺えた。
先程とは目つきも声色も違う。これが新見の本性だ。雰囲気に呑まれないよう、美都も彼女を睨み返した。
「あら、怖い顔」
クスッとおどけるように新見は肩を竦めて見せた。
ひとまず春香の安全は守られた。次は自分のことだ。
このままカウンセリング室へ行けば間違いなく分が悪い。彼女のテリトリーに足を踏み入れたら終わりだ。なんとかしてここで食い止めなければ。
スポットの中に入れればこの場でもなんとか凌げるかもしれない、と美都は一か八かでその手に剣を呼び出す構えを取ろうとした。
「──ここで戦うつもりなら、スポットは張らないわよ」
「⁉︎」
何かを察したように、すかさず新見が言葉をぶつけてきた。驚いて目を見開くと新見の口角が上がりニヒルな表情を覗かせる。
「スポットは、謂わば他者に邪魔されないよう対象者を空間に閉じ込めるための箱のようなもの。まあそれを破って入ってきちゃうのがあなたたち守護者なんだけれど。今ここで張っても、他人を巻き込まないための救済措置にしかならないものね?」
完全に行動を読まれている。新見の方が一枚上手だった。
間髪をいれずに彼女は続きを話し始める。
「面倒だからわたしもあまり他人を巻き込みたくないのよね。でもあなたがここで留まっているのなら……しょうがないわね」
笑みを浮かべながらゆっくりと目を瞑る。所作には迷いが感じられない。ここで戦闘を始めるのも辞さない構えだ。
「さあ……どうするの?」
風邪の影響でぼうっとし始めた頭に、甲高く研ぎ澄まされた声が脳に響いた。鋭い目で美都を見つめる。
これはおそらく最後の警告だ。時間稼ぎも通用しない。
美都は構えようとした手を再び強く握りしめた。
「──っ……わかり、ました……」
俯きながら途切れ途切れに応えた。ここで戦うわけにはいかない。確実に一番近くの教室を巻き込むことになる。その教室にいる凛の姿が脳裏を過った。
「物わかりがよくて助かるわ。行きましょうか」
新見は再びにっこりと笑むと、今度は先を歩くように美都に促した。唇を噛みしめながらカウンセリング室の方へゆっくり歩を進める。
しかしカウンセリング室は目と鼻の先だ。どれだけ遅く歩こうともすぐに到着してしまう。再び背後に回られたためその表情は見えなくなったが、交わした会話やこれまでの行動から新見は相当頭が切れると感じとった。小細工は利かないだろう。
足取りが重いのは、おそらく熱のせいだけでは無い。
────戦うしかない。
新見は絶好のこの機会を逃さないはずだ。だからこそカウンセリング室へ呼び寄せたのだ。
彼女が戦う様をちゃんと見たことがないが、戦闘能力は高くないと水唯が言っていた。今はその言葉に賭けるしかない。
懸念点があるとすれば、新見は生身の人間だということだ。水唯のときもそうだったが、例え宿り魔にしか通用しない剣とはいえ切っ先は向けられない。水唯のときは最終的に彼が話を受け入れてくれたが今回は違う。
「──っ……!」
こめかみに激痛が走る。身体はとうに満身創痍だ。
しかし背後からの脅威に止まることを許されず、考えている間にカウンセリング室の入り口付近まできていた。
新見が美都の横を通り過ぎ、そっと扉を開ける。
「どうぞ?」
あくまで先には入らずに、新見はまず美都の入室を促す。
中で漂う空気を肌に受け、背筋に悪寒が走った。ここはダメだと本能が警鐘を鳴らす。だが逃げることも許されない。引き攣った顔で呼吸を出来る限り深くする。
グッと喉を引き絞りそのままゆっくりと、カウンセリング室に足を踏み入れた。
瞬間、横で様子を窺っていた新見の口角が上がる。
「──⁉︎」
入った途端、景色が一変した。反転された世界。ここはスポットだ。
慌てて背を向けていた相手と距離を取り、浅い呼吸のまま振り返る。扉を閉める際、何かを施していたのを確認した。
(まさか──!)
昨晩の水唯の会話を思い出し目を見開いて息を呑んだ。
「結界を張ったわ。スポットの上からね。これでもうあの子たちも気付かないでしょうね」
「──っ!」
咄嗟に剣を呼び出して構える。水唯が昨晩忠告していた内容は。
────『彼女は結界術のエキスパートだ』
スポットが出現すればおそらく四季と水唯は気付くだろう。しかし新見はそれを見越して、出現させる前にこの部屋に結界を張ったのだ。他でもない美都を追い込むために。
新見は静かに微笑むと美都を真直ぐに見据えた。
「さあ月代さん────始めましょうか」
彼女が一歩前へ出ると同時に、反射的に後ずさった。剣を構えながら辺りを確認する。
この部屋は思った以上に広い。使用していない教室を開けたからか、ベッド1床にカウンセリング用の椅子が2つだけ有れば充分な広さだ。空間をうまく使えば自分のテリトリーが確保できるはずだ。
新見との距離を測りながら、美都は隅に追い込まれないよう足を動かし始めようとした。
「それにしても運がよかったわ。そろそろ頃合いだと思っていたから」
クスッと肩を竦めると、美都との距離を気にすることなく内ポケットから何かを取り出し指と指の間に2つ挟んだ。
頃合いという単語を気にするより先に、その取り出したものに瞬時に目線が動いた。
「っ!  宿り魔の胚……!」
「ご名答よ。私には戦闘能力がないもの。この子たちに任せるわ」
そう言うと一つを手に取り、近くにあるプランターのもとへ向かった。
「なぜ今まで宿り魔の胚が植物に憑かなかったかわかる?」
彼女は言いながら胚をプランターに溶け込ませた。すると無機物だったそれは電磁波のような稲光を一瞬起こし、みるみるうちに形を変えていく。
「胚というくらいだもの──植物を器にすることは、この子たちにとって最大限の力を発揮出来ることになるのよ」
「……っ、──……!」
あっという間に、プランターは人型へと変化した。いつもとは違うその禍々しい気に、美都はたじろぐ。戸惑いの表情を隠しきれずにいると、新見がまた口角をあげて微笑んだ。
「大丈夫よ。私が知りたいのはあなたの力と記憶だもの」
「記憶と、ちから──?」
前者の言葉が引っかかり、どちらもをオウム返しに呟く。
「それさえ分かれば解放してあげるわ。もっとも……場合によってはいつもより苦しむことになるかもしれないけれど。────攻撃なさい」
考える時間も無く、新見の合図とともに宿り魔が一歩前へ出る。次の瞬間には、前に掲げた宿り魔の右腕が蔦の様に複数に枝分かれし、美都へ襲いかかってきた。
「──!」
なんとかそれを剣で退け後方へ距離を取る。体勢を立て直し、荒い息を抑えた。いつもの宿り魔とは違う段違いな雰囲気に心臓が早鐘を打つ。剣で切り裂いた蔦の先は、まるで蜥蜴の尾のように不気味に蠢いていた。
(……っ、普段とはコンディションが違う。長引かせるとこっちが不利だ──)
宿り魔の気と相まって全身が痺れるように重い。意識しなければ足元が揺らぎそうだ。
呼吸を整え歯を食いしばる。美都は右手に剣を握りしめ、宿り魔に向かって駆け出した。
予想通り、先程と同じように蔦が襲いかかって来る。それを左右へ躱すと同時に敵の内側へ回り込み根元に刃を向けた。
「天浄──……、っ!」
退魔の言を結ぼうとしたとき、宿り魔のもう一方の腕が動いたのを見逃さなかった。それは同じように自在に変化し複数の蔦に分かれる。
間一髪のところでそれを避け、再び後退する。退いた際に踵が壁にぶつかった。応戦することに必死で気付かなかったが、知らぬ間に壁際へ追い込まれているようだ。
「その身体でよくそこまで動けるわね。さすが、というべきかしら?  でも、あまり動いてもらっては困るのよ」
宿り魔の後ろに佇みながら美都の動きを見ていた新見が呟きのように声を発する。
すると間髪入れずに攻撃が再開され、今度は植物の種の様なものが数粒辺りに蒔かれた。黒い光線を放ち発芽した種は、凄まじい速さで床や壁に蔦を伸ばし張り巡らせていく。一気に足場が悪くなり、不意に体制を崩した。瞬間、熱による眩暈に襲われ視界が揺らぐ。
宿り魔はそれを見逃さなかった。再び素早く腕を掲げると蔦を美都に向かって俊敏に伸ばす。先程と同じ様にその脅威を躱そうと身体を捻ろうとするが、足元に蔦が絡みその場から数歩も動くことを許されなかった。加えて熱でぼやけた視界が反応を鈍らせる。右手で持った剣で応戦しようとしたときには遅く、もう一方の蔦の束が美都の身体を捕えドンッと思いきり壁へ押し付けた。
「──っぅあ!」
不意に身体にかかる強い衝撃で力が緩む。カラン、という剣が落ちる音が空間に響いた。
(しまっ──……)
唯一の武器を手放してしまった。張り巡らされた蔦はそのまま腕や足に巻き付くように美都の身体を壁へ縛り付ける。抵抗しようにも熱のせいもあり身体には上手く力が入らなかった。
「……っ!」
「つーかまーえた」
嬉々とした新見の声が耳に届く。身体に絡みつく蔦は容赦なく美都を締め付けた。宿り魔の後ろから歩いてきた新見がその怪物の横に並ぶ。
「ごめんなさいね。可愛い子が苦しむのは別に趣味じゃないんだけれど、私にも契約があるのよ。それに実験結果も回収しなくちゃいけないし」
「けい、やく……実験……?  一体、なんのこと──」
「その様子だと、水唯はあなたに何も言わなかったのね。まあそれがあの子の優しさというか弱さというかよね」
「……⁉︎  水唯──?」
新見は組んでいた腕を解し、顎に手をあてながら呆れるように呟いた。
突然出た名前に驚き、思わず聞き返す。水唯が何かを知っていたということだろうか。
「────っ……」
しかし、だんだんと上がる熱に、身体が悲鳴をあげ始めた。全身に絡みつく蔦のせいで制服と皮膚が擦れる。その些細な摩擦でさえ痛みに変わっていった。
その様子を見ていた新見は再び腕を組むとふっと笑みを浮かべる。
「さあ、話している時間が惜しいわ。身をもって味わってもらおうかしら」
彼女の目付きが変わった。その表情に背筋がゾクリとする。同時に美都を縛り付けている蔦──元は宿り魔の腕である── の1本がゆっくりと彼女の首へ巻きついた。
「本当は万全な状態が良かったんだけれど──まあ仕方ないわね」
そう言って宿り魔の後ろへ一歩後退する。
抵抗しようにもこの状態では無謀だ。美都は手を強く握り締めた。いつもとは何かが違う。その嫌な雰囲気を察知した。
「弱ってはいるけど極上なはずよ。────戴いちゃいなさい」
「⁉︎  っぁ……!  うあああぁ──!」
号令とともに首の蔦が引き締まり、その瞬間から美都の悲痛な叫びが室内に響き渡った。





ガラッという扉の音がして、クラスの生徒は思わずそちらを向く。美都と一緒に保健室へ付き添った春香が戻ってきたのだ。
羽鳥も一旦板書の手を止め、春香の話を聞く。四季の位置からは教室の前方と距離があり詳しい話は聞こえなかった。しかし春香が単体で帰ってきたということは、やはり美都は保健室で休養を取ることになったようだ。相当具合が芳しくなかったのだろう。
羽鳥との話を終え、春香が自身の席へと戻るため後方へ歩いてくる。まもなく授業は何事も無かったかのように羽鳥の号令で再開された。
春香と四季は隣の席だ。戻ってきた春香に何か訊くべきか考えていたところ、彼女の方から話しかけてきた。
「ねぇ四季、美都とケンカでもしたの?」
「…………なんで」
あくまで授業中なので小声での会話となる。不意打ちの質問に怪訝な顔をした。
「なんかいつもと違ったんだよね。熱があったからなのかもしれないけど」
「──……」
やっぱり熱があったのか。握り締めたままのシャープペンシルの頭を顎にあてる。春香の後ろの席にいる水唯も会話が聞こえたのか、思わず目線を下に向けた。
「美都とは長い付き合いだけど、あんな取り乱したあの子初めて見たもん」
「……?  取り乱す?」
「うん。なんか迎えを呼ぼうとしたときにね、拒むような感じで『迎えに来てくれる人なんていない』って。だから四季とケンカしたのかなあって」
確かに昨夕、互いの考え方の相違で言い合いになった。そのわだかまりはまだ解消されてはいない。美都はそのことを言ったのだろうか。そうだとしても彼女のその言い方は何か引っかかる。
「ほら、美都ってわりと聞き分けいいじゃない?  でも今日は珍しく食い下がっててさ」
うーん、と唸りながら春香は先程のことを思い出すように呟いた。
こうしてみると、意外と自分は美都のことを知らないのだと思い知らされる。それは彼女があまり自らのことを話さないから、ということもあるが。
同居を始めてから家族に関することはほとんど聞いたことがない。突然の同居について何も言われていないようであったため放任主義の親なんだろうと考えていた。それに、他人の家庭環境に首を突っ込むのは避けるべきだと当初思っていたのだ。それが現在にまで続いている。単にタイミングの問題もあった。恋人同士になってからは逆に、聞くのは野暮だと考えてしまったのだ。
「途中まで一緒に来たんだけどさ、別れる間際も何か言いたそうにしてて……結局何も言わなかったんだけどなんだったんだろ?」
一方的に話す春香の言葉にとある違和感を覚えた。同じように水唯も何かを感じ取ったらしい。不思議に思って引っかかった事項を彼女に聞き返す。
「一緒に、って……あいつ保健室で寝てるんじゃないのか?」
そう言うと春香は思い出したような顔をして、四季へ応えを返した。
「あぁそれがね、保健室のベッドがいっぱいでさ。それで、たまたま保健室にいた新見先生にカウンセリング室を開けてもらうことにしたんだよ」
瞬間、四季と水唯の動きが止まる。それは思いがけない人物の名前が飛び出たからだ。
「新見……?」
「え?  ほら先月だっけ、赴任してきたでしょ?  カウンセラーの先生」
春香はそれに気付くことなく話を続ける。
「でもよかったよね。座ったままお昼休みまで耐えなきゃいけないとこだったし」
「……なら今、カウンセリング室には────」
「大丈夫、美都ひとりじゃないよ。新見先生が付き添ってくれてるはずだか──」
ガタッと大袈裟な音が教室内に響く。四季と水唯は椅子が倒れたことも気にしないまま一目散に教室後方の扉へ駆け出した。
言葉を遮られた春香は横と後ろの席から同時に大きな音がしたため、驚いて目を瞬かせていた。
「え、ちょ、四季⁉︎  水唯も⁉︎」
教室内の生徒も何事かと驚いて彼らの姿を目で追いかける。しかし彼らの反応など気にしている余裕も無く、四季と水唯は青ざめた表情で教室を飛び出した。
三年生の教室が連なる廊下を全速力で駆け抜ける。例え端の教室であっても騒々しさは伝わるようだ。通り過ぎる教室から、何事かという他の生徒の視線を浴びる。
だが彼らにとってそんなことはどうでも良い。問題は美都のことだ。
「あいつっ……なんで──!」
走りながら独り言のように四季が疑問を呟く。
春香に言うタイミングはあったはずだ。なのになぜ伝えなかったのか。
それを並走する水唯がすかさず拾った。
「おそらく川瀬を盾にされたんだろう」
「──!」
彼女は新見について全く不信感を抱いていなかった。状況まではわからないが、それ程に新見は隙を見せなかったということだ。
別れる間際に美都が言いかけたのは、無言のSOSだったに違いない。
「美都は自分よりも彼女の安全を優先したんだ……──!」
自分の状態を鑑みて、春香の安全を守ったのだろう。そうでなければ美都がここまで危機的な状況にはならない。
しかし、なぜ新見が?  今日は出勤日ではないはずだ。だからこそ油断していた。それも偶然なのだろうか。
加えて水唯には気がかりなことがあった。
────スポットの気配が微塵も感じられない。
それどころか、いつもは感じる美都の気も今は無に等しい。
嫌な予感がずっと頭の中で渦巻いている。昨晩美都に伝えたことだ。その状況において、自分は太刀打ちできるのか。不安が顔に現れる。
カウンセリング室にはすぐに到着する。問題はそこからだ。立ち向かうべき相手を脳裏に浮かべ、苦虫を噛み潰したような表情で二人はただ走り続けた。





一方、二人が走り去った教室は案の定再びざわつきが広がっていた。
騒動の口火を切ったような形になってしまった春香は、取り残されたまま混乱を隠しきれずに苦笑いを浮かべる。羽鳥は呆れ気味に彼女に声をかけた。
「川瀬……お前何言ったんだ」
「え、えぇ?  先生に言ったことと同じですよ……?」
動揺したまま問いかけに応じる生徒を見遣る。そんな羽鳥も、咄嗟のことで注意も間に合わなかった己にも反省点があるなと頭で考えていた。その思考に大きな溜め息を吐く。
二人の少年が血相を変えて出ていった瞬間がしっかりと目に焼き付いている。あれは緊急事態だ。さすがに表情を見ればわかる。だからこそ注意も出来なかったのだ。
(……おそらくあれは月代のことだな)
春香から受けた報告に、羽鳥自身も違和感を覚えていた。しかし内山の判断ならば仕方がないか、と受け入れたのだ。美都もそれを承諾したのだと思ったから。
だが実情はそうじゃないのだとしたらおそらく彼らが焦っていたのは──。
(やはり……新見か)
先月赴任してきたカウンセラーだ。まだまともに話をしたことがないが彼女の雰囲気は時々により、ものすごく変化していることに羽鳥は気づいていた。
赴任してきた初日、美都たちと何かを話していた姿を目撃している。しかしそれは親しげというよりかは空気が張りつめているような雰囲気だった。それ以来、彼女には注意するようにしていた。内山に共有しておかなかったのは自分の落ち度だ。
美都のその特殊な境遇について薄々感じていることがあったが、それが明確になったということか。彼らから話を聞くまでは確定は避けるべきだがこの状況から察するに、ほぼ自分が考えていることに間違いはないだろう。だからこそ先程のことも注意しなかったが、このままでは他の生徒に示しがつかない。それにこの場も納める必要がある。
「あいつらには宿題を倍にするとして……授業を再開するぞ」
えー、と尚も不満の声が上がる。さすがに思春期の子どもを相手にするのは骨が折れる。しかしそれも教師の務めだ。
「不満があるならお前らも同じ量にしてやってもいいが?」
そう不敵に微笑みながら応対すると、教室内は一気に静まった。受験生にとっての宿題は負担にしかならないことを良く心得ている。
「よろしい。それじゃ川瀬のためにも今までのおさらいをしとくか」
その言葉に春香は救われたような面持ちのまま高速で頷いた。しっかりと板書をとる姿勢に向き直る。
とりあえず授業が終わり次第カウンセリング室に向かおう。少年らにも話を聞かねばならない。羽鳥にとっては担任としての責務の他にもう一つ理由があった。それは過去の経験によるものだ。人には言えない秘密。それを恐らく彼らも共有しているはずだと。
羽鳥はもう一度大きな息を吐くと、気を取り直して黒板と向き合った。

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