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それは紫陽花の花に似て-鍵を守護する者③-
雨が降るから
しおりを挟む修学旅行から帰ってきた途端に、梅雨入りが発表された。タイミンング的にはギリギリだったようだ。
日常が戻りつつある。いつも通り授業を受けて、いつも通り部活に行って。とは言え雨の日が続くため、外での練習が中心の運動部は校舎内での基礎体力作りに励んでいた。
いつも通り、だ。何も大きなことは起こっていない。守護者の務めに関しても滞りなく行えている。至って、これまで通りに。
その日はちょうど音楽の授業があった。修学旅行後初めて高階と会うタイミングだった。授業を終え、委員の役割を名目に彼と話せるまでその場で待機する。さすがに女子生徒からの人気が高いため、旅行の土産が殺到している姿を見て苦笑いを浮かべた。かく言う自分も用意はしてあるのだが、それが大したものではなかったからだ。高階は一人一人丁寧にお礼を伝える。その真摯な姿に心が温まる。
人波が過ぎた頃、彼の側に駆け寄り次の授業の持参物を訊く。それを終えもう一人の委員の生徒を見送った。
「その様子だと、他のクラスの子からも貰ってそうですね」
先程からの流れを間近で見ていた美都は肩を竦めた。高階も苦笑いを浮かべている。
「なんだか気を遣わせてしまったようでしのびないですね」
「それだけ先生は慕われてるんですよ」
小さいピアノ椅子は土産物で溢れかえっている。高階の人の好さの表れだろう。彼はすっかり恐縮しているが自分も彼への土産を用意していた。
「実はわたしも先生にお土産が……大したものじゃないんですけど」
少しだけ遠慮気味に小さな紙袋を差し出す。高階は一瞬驚いたような表情を見せたがすぐにいつも通り笑顔に変わった。
「ありがとうございます。開けてもいいですか?」
その質問に是という意味を込め頷く。本当に大したものではないのでこちらが恐縮してしまうがやはり彼の反応が気になってしまうのが本音だ。
高階は美都の反応を見た後、丁寧に紙の包みを開いた。覗き込んで中を確認した後袋をゆっくり逆さにし、品をその手に取り出す。彼は手に乗った紫陽花の形をした金平糖を見つめふっと微笑んだ。
「可愛らしいですね」
「先生は紫陽花が似合うなって思ったので」
「僕が……ですか?」
美都の返答にきょとんと目を丸くする。その質問に答えるべく再び口を開いた。
「紫陽花っていろんな色があるじゃないですか。決して自己主張が強いわけじゃないのに表情が豊かで……先生の演奏に似てるなって。それと見た目の雰囲気も。落ち着いていて穏やかに見られるので」
紫陽花を見ていると心が安らぐのは、彼の演奏にも同じことが言える。だから似ていると思ったのだろう。落ち着いていて耳に心地よい。それと少しだけ哀愁が感じられるのもまた素敵だ。
高階は美都の説明を聞くと気恥ずかしそうにしながらも柔らかい笑みを零した。
「花に例えられるのは初めてです。月代さんは紫陽花の花言葉を知っていますか?」
今度は美都が目を丸くする番だった。花言葉、と聞いて目を瞬かせる。全く気にしたことがなかった。そのため彼の問いに首を横に振った。
「紫陽花には花言葉がいくつか存在します。代表なのは『移り気』ですね。花の色が時期によって変化することから付けられたと言われています」
「移り気……あまりいい言葉じゃないですね」
その言葉に思わず苦笑いを浮かべる。花言葉というものはその見た目に反してなぜそう付けられたのか理由が不明なものが多い。しかし高階が説明する紫陽花の花言葉の理由を聞いて、納得せざるを得なかった。
「確かにそうですね。それと紫陽花には色ごとにも花言葉があります。青は『辛抱強い愛情』、ピンクは『元気な女性』、白は『寛容』。そう言った面では確かに表情が豊かかもしれません。あいにく、僕に合いそうな言葉は無さそうですが」
「寛容は先生にぴったりじゃないですか」
「そうでしょうか。意外と狭量かもしれませんよ」
高階はおどけるようにして肩を竦める。その姿に顔が綻んだ。彼に狭量なところがあるとしたら音楽のことだろう。音楽家としてはこだわりがあっても不思議ではない。
「そういえば先生は花言葉にも詳しいんですね」
「実は僕も一度気になって調べてみたことがあって。ここで役に立つとは思いませんでした」
ふふ、と笑うその顔には普段のようにあどけなさが感じられた。ふとその笑顔がいいなと思う。高階と話していると少しだけ日常を忘れられるような気がするのだ。日々考えている煩わしいこともここでは気にならない。心が乱されることなく、安心出来る場所だ。
「……『雨の歌』を聴きました」
窓の外でしとしとと降る雨の音を耳にしながら、美都はおもむろに口に出した。前回高階に借りたCDの中に入っていた曲だ。ブラームス作曲、ヴァイオリンソナタ第1番。ヴァイオリンとピアノの音のコントラストが俄かに美しい曲だった。それでいてその綺麗すぎる響きに心が揺れ動かされる。怖いとさえ感じる程に。
修学旅行から帰ってきて改めて聴いた時、ふとそう思ったのだ。
「どうでしたか?」
「とても綺麗な曲でした。でもなんだか……切なく、なるような」
胸の奥が締め付けられるようだった。『雨の歌』は短調ではないので暗い曲ではないはずなのに。今ままで聞いてきたクラシック曲の中でもこんな感情になるのは初めてだった。
高階は美都の感想を聞くと少しだけ驚いたような表情をした。
「……元々この曲は、ブラームスがクララ・シューマンに送った恋文だったと言われています」
また「恋」だ。美都はその単語を聞いて目を伏せた。自分に何かがあったわけではない。だが最近周りで聞くことが増えてきた。特に修学旅行から帰ってきてから同級生の間では更にそう言った話を耳にするようになっていた。
「ブラームスは生涯クララのことを愛していました。それでも二人が結ばれることはありませんでした」
「……どうして、ですか?」
「──お互いがお互いのことを想い合っていたからです」
高階の解説にふと首を傾げる。想い合っていたのに何故、と考えてしまったのだ。彼は美都の気持ちを図るように言葉を続けた。クララが既婚者であったこと。ブラームスとは家族ぐるみの付き合いであったこと。そして夫に先立たれたことをまず説明に付け加える。
「クララは夫亡き後も、子どもを育てなければなりませんでした。彼女はブラームスにその荷を背負わせたくなかったのです。ブラームスも彼女の意思を汲んで説き伏せることはしませんでした。その叶わぬ恋と相手を思いやる気持ちが曲に表れているのでしょう。切なく感じるのはそのせいかもしれません」
ほぅ、と息を漏らす。ブラームスはクララのことを想いながらもずっと彼女の側にいたのか。彼はどのような想いでこの曲を書いたのだろう。叶わぬ恋と知っていながら、側にいるのは苦しくないのだろうか。今は亡き偉大な作曲家の思いなどわかるはずもない。しかししっかりと旋律から溢れ出ている。彼が、彼女を想う気持ちが。
自分は恋というものを知らない。誰かを好きになったことがないから。だとしたらなぜ、『雨の歌』を切ないと思ったのだろう。
「月代さん」
名前を呼ばれ、ハッとして顔を上げる。突然無言になった自分を心配したのか、高階が心配そうな表情で見つめていた。
「……何か、あったんですか?」
少しだけ瞳孔が開いた。息を呑んでその問いの答えを考える。
だが考えたところで答えはとっくに出ていた。だからその言葉を口にした。
「──何にもないですよ」
美都はいつも通り笑顔を作った。高階は返答を聞いて身体を硬直させている。それこそ彼にする話ではない。彼のそばにいると安心するが、逆に甘えてしまう気もする。それはダメだ。
そうだ。何もなかった。何もなかったのだ。事実として自分に関わることはない。だから自分が気にすることではないのだ。その考えが根底にあれば揺らぐことはない。だから大丈夫だ。
高階はしばらく腑に落ちない面持ちだったがしばらくして息を吐いた。
「何か合ったら気兼ねなく相談してくださいね」
「はい! ありがとうございます」
そう言って頭を垂れた後、美都は一人で音楽室を後にした。高階は彼女の背を見送りながらその違和感に眉を顰める。
意識なのか無意識なのかわからない。だが確かに先ほどの彼女は何かを隠した。それだけはわかる。思わず口元に手を当てた。
先日、彼女のことが危なっかしいと思った。それは無邪気すぎて、という意味だった。だが今回のものはまた違うベクトルの危うさだ。今はまだ見過ごすことが出来るが、今後もしこういったことが重なるのであれば一度担任に相談すべきだろう。干渉し過ぎも良くないが、これは教師としての義務だ。
そう考えふっと息を吐くと、高階は授業で使用したピアノを片し始めた。
◇
雨だ。そういえば天気予報では午後から強くなると言っていた気がする。階段を降りて辿り着いたエントランスの開け放した扉から土の匂いがした。
雨は嫌いじゃない。心が落ち着くから。だが気圧のせいでいつもよりも頭が重たくなることだけ億劫だった。雨の音を聞きながら長い廊下を歩く。ちょうど給食の時間帯のため通りすぎる教室からは賑やかな声が耳に届いた。
(……不思議だな)
修学旅行がもう遥か遠いことのように思える。実際はまだ1週間と経っていないはずなのに。そう思うのは恐らく自分の中で気持ちが落とし込めたからだろう。最初からこうすればよかったのだ。そうすれば気持ちが揺らぐこともなかったのに。
──誰にも迷惑をかけず、良い子でいなければならないのに。
最近の自分と言えば全くそれが出来ていなかった。自分で考えたことに思わず溜め息をつく。
「美都」
間も無く自分の教室だった。その手前で背後から声が掛かる。振り向く前に、声の主は予想できた。だから一度呼吸を落ち着ける余裕さえあった。
「なに? 愛理」
振り向いた先に映る少女が一瞬驚いたような表情を見せる。だがすぐにその顔を引き締めこちらに歩いて来た。
「ちょっと話がしたくて」
「うん。どうしたの?」
「……何かあった?」
質問に質問で返される。愛理は怪訝そうな表情を浮かべ自分を見つめていた。
「何にもないよ」
事実のためそう述べた。しかし彼女は依然として表情を変えない。自分の回答に釈然としていないようだ。彼女はそのまま手を自分の頬へ当てる。その仕種に応じるよう顔を傾けて愛理を見上げた。
「どうしたの? 話って何?」
そう笑顔で愛理に問い掛けた。愛理はしばらく口を結んで自分を見たままだ。左の耳には賑わう教室の生徒たちの声が、右の耳からは窓越しに響く雨の音が聞こえている。本当は雨の音だけを聞いていたい。ザァザァと地面を叩く音が今は心地よく感じられるから。
ぼうっと愛理を見つめているとようやく彼女が口を開く仕種を見せた。そのため美都も耳を傾ける姿勢を取る。
「彼のこと、どう思ってるの?」
「……彼って?」
愛理は敢えて固有名詞を出さないようにしているのかもしれない。美都もなんとなく誰のことを訊かれているかはわかっていたが念の為確認しておきたかった。
「──向陽四季のこと。どう思ってるの」
まただ、と思った。またこの問いだ。四季に対してどう思っているか。最近この質問が多い。否、最近でもないか。元々親戚だと言うことを明かしてから自然とこういった質問が自分に飛んできていた。それが気になり始めたのが最近であっただけだ。
「どうって、友だちだよ。ただ親戚なだけ」
「それはだた関係性の話でしょ? あたしが訊いてるのは美都があの子に対してどういう感情を抱いているかってことよ」
自分の回答の間違いを正すように、愛理が質問を重ねた。一瞬だけ口を閉ざす。だがその問いにも既に答えは用意出来ていた。何も深く考えることはない。
「別に何も。大切な友だちっていうだけだよ。友だちに、他に何か感情がいる?」
「……本当にそう?」
「どうしたの愛理」
追及されることに笑顔でいなそうとした。同時に自分自身にも言い聞かせるために。だからこれ以上この問いは無意味だ。これ以上の回答は無い。愛理が執拗に訊くのは、やはり彼女が彼を想っているからなのだろうか。だとしたらそれこそ自分の感情など意味をなさない。
「……誰かに取られてもいいの?」
愛理は触れていた手を、頬から腕へ滑らせた。
「それは、わたしが干渉することじゃないから」
誰かが誰かを好きだという感情に、他人が干渉すべきでは無い。そう弁えている。だからたとえ四季が誰かを好きでも自分には関係のないことなのだ。もし誰かと付き合うことになったのならば今後の自分の動き方にも関わってくるため本当は教えて欲しいところなのだが、以前彼にそう訊いたとき教えないと一刀両断されたな、とふと思い出した。だから、自分には関わりのないことだ。
突如自分の腕を握る愛理の手の力が強まった。
「痛いよ、愛理」
本当はそんなに痛くない。それでも何か言いたげに自分を見つめてくる愛理に抗議しなければと思った。
「嘘ね。本心じゃないでしょ、それ」
「……なんでそう思うの?」
「何年幼馴染みやってると思ってるの。美都が考えてることくらいわかるわ」
そう言って、まるで本心を話すまで逃すまいと愛理はしっかりと自分の腕を掴み引き寄せた。その反動で視線が動く。美都としてはちょうど良かった。視線がずれたことで彼女と真っ向から目を合わせずにすむ。今の彼女の瞳は探っている目だ。愛理は自分の事情を知る数少ない人物だ。だからいつも気にかけてくれる。そんな彼女に、これ以上頼ってはいけない。彼女にだって彼女の想いがあるはずなのだから。
「なんでそうやって隠そうとするの」
「隠そうとなんかしてない。本心だよ」
「嘘。……いいえ、あんたにとっては嘘じゃないのかもね。自分の気持ちがわかってないだけで」
愛理の言葉に目を見開いた。自分の気持ちがわかっていない? そんなことは無い。わかっている。だからこれ以上干渉したく無いのだ。自分は関係ないのだから放っておいて欲しいとさえ思う。それなのになぜ関わらせようとするのか。
「わかってるよ。わかってるからもうわたしには関係ないの」
「わかってないからそうやって意固地になるんでしょ?」
「違う!」
反論した瞬間、思ったよりも声が響いたことに驚いてハッとした。
「……ほらね」
嫌だ。違う。それ以上見透かさないで。ようやく膜を張れたところだったのに。愛理はいつもそうだ。自分が内側に入ろうとすることを是としない。彼女は円佳に似ている。だからたまに真っ向から向き合うのが怖いのだ。
「いつまでそれを続けるの。そうやって自分の気持ちに嘘ばかりついて、なおざりにして、それで何か変わるの!?」
「変わらなくたっていい! なんで変わらなきゃいけないの? わたしは……このままでいいのに……!」
変わりたくない。今の関係性を崩したくない。なのになぜ皆、変えようとしてくるのか。
一度は踏み込もうと決めたのに、あっさりと自分で覆してしまった。衣奈の言う通りだ。傷付くのが怖いから深入りしたくない。ちゃんと距離を測らなければ。
「そんなのだめ。怖がらずにちゃんと自分と向き合って! じゃないと進めないでしょ!?」
「…………っ!」
愛理の言うことは恐らく正しい。受け入れられないのは、怖いからだ。自分の中に隠した本心と向き合いたくない。それを表に出すことは、自分以外とも関わることになるのだ。他人を巻き込みたくない。巻き込むべきでは無い。彼女はそれをわかっていて尚、向き合えと言う。
彼女の言葉に答えられないまま顔を歪ませ俯いていると、掴まれていた腕から手の力がふっと抜けた。
「今日の放課後、向陽四季と話す」
「──!」
「……いいのね?」
四季の名を耳にして思わず目を見開いた。二人での話し合いならば無論自分が介入することは出来ない。内容はわからないがそれを拒否する理由も自分には無い。例え愛理が、彼に想いを伝えるのだとしても。そう思って頷いた。
「美都は……本当にそれでいいの?」
「わたしは────」
繰り返し問われる愛理の言葉に答えるべく、喉をぐっと引き絞る。
「自分のわがままで誰かの心を繋ぎ止めておくことなんて、出来ないよ……」
行かないで、なんて言えるわけない。あの時もそうだった。言えたら何かが変わっていたのかもしれないのに。それでも自分のわがままで誰かを困らせることだけはしたくない。
そう決めたはずなのにどうしてこんなに胸が苦しいのか。わけがわからず目を強く瞑り胸の前で手を握りしめた。次の瞬間自身に強い圧が加わり目をハッと開く。
「愛理……?」
「あんたはもうちょっとわがままでいいの。……わがままでいてよ」
愛理が美都を強く抱きしめた。突然のことに一瞬驚いて目を見張ったが、彼女の言葉を聞いてふっと息を吐いた。これは彼女の優しさだ。いつもこうして自分を抱きしめてくれる。顔は見えないが抱きしめてくれる力で分かる。これは合図だ。納得はしていないが渋々と了承すると言う彼女の行動。それを知っているのは自分だけだ。だから小さく「ありがとう」と呟いた。彼女に無理を強いている。それでも。
「だめだよ。わたしは良い子でいなきゃ」
彼女の肩に手を押し当て、無理矢理身体を引き離した。愛理は眉間にしわを寄せ、苦い顔をしたまま自分を見つめている。今度は美都が彼女の頬に手を当てる番だった。随分と心配をかけているのだなと改めて実感する。彼女の想いを無下には出来ない。美都は微笑んで愛理に語りかけた。
「愛理。わたし大丈夫だから。ね?」
だから心配しないで。愛理には愛理の想いを大切にして欲しい。自分のことなどは気にせずに。
愛理は頬に触れる美都の手に自身の手を重ねた。先程と違って彼女は自分から目を逸らしたままだ。
大切な幼馴染みで大切な友人で。たくさん甘えてきた。自分が出来ることは少ない。今はただ彼女を安心させてやることだけだ。
大丈夫だ。何があっても自分はいつも通りでいれば良いのだから。
ザァザァと降り続く雨の音が、静かな廊下にこだましていた。
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