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それは紫陽花の花に似て-鍵を守護する者③-

古都を訪ねて

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修学旅行初日。第一中学は都内でありながら旅先が鎌倉ということもあり新幹線を使うほどでは無い。在来線の特急を利用し、1時間半程で目的地である鎌倉に到着した。初日はほとんど団体行動だ。長谷寺や鎌倉大仏を拝観した後、バスで北鎌倉まで移動。円覚寺や明月院を巡った後、源氏山公園を下る。
「遠足じゃねーか」
和真が文句を言いたくなるのもわからなくは無い。源氏山公園にたどり着くまでには険しい道が続く。旅行というよりもハイキングの気分だなと思った。源氏山公園でしばらく休憩したのち銭洗弁天や佐助稲荷神社に立ち寄り、最終的に鶴岡八幡宮で班行動へと移された。
(狐いっぱいいたなぁ)
と美都が思い出したのは佐助稲荷神社だ。稲荷というだけあって狐の置物が多く見受けられた。狐自体は嫌いでは無い。ただ最近キツネ面の少女と対峙しているだけあって少し身構えてしまうのが本音だ。ちらりと四季を見たとき彼も苦い表情を浮かべていたため同じようなことを考えていたのだろう。
とは言えここから班行動だ。計画を立てる際ほとんど任せきりにしてしまったのでなんだか全てが目新しく見える。
「7組3班、揃っているので出発します」
「班長は寺崎ね。有事の際は必ず連絡すること。じゃ、気をつけて楽しんでらっしゃい」
班長であるあやのが担任の羽鳥に声を掛け、班に別れての行動が始まった。班員構成としては、女子は班長であるあやのを筆頭に美都と春香、男子は和真、秀多、四季とこちらはサッカー部で固まっている。ぼんやりと自分だけラクロス部だなぁと思っているとあやのがひとまず参拝をして行こうと促した。
鶴岡八幡宮は広い。解散したのが中腹部だったので手水舎で清めた後、目の前にある舞殿を眺めながら歩いていると隣に来ていた四季がおもむろに呟いた。
「静御前は元々この場所で舞を舞ったらしいぞ」
「そうなんだ。静御前は白拍子だったんだっけ?」
「あぁ。白拍子には男もいたそうだ」
「へぇ──……」
「見られても俺は舞わないからな」
目線に気付いたのか、四季が美都の頭を小突く。名付け親は自分だが四季は守護者としての名前が染み込んでいるようだ。
他愛ない会話をしていると二人のやり取りを見ていた春香に急に腕を引っ張られた。
「ちょっと!  何かあったの?」
「へ?  何にも無いけど……」
「うそうそ!  なんか砕けた感じになってるじゃん!」
小声で話す春香の言葉に目を瞬かせた。なるほど、そう見えるのか。確かに最近考えていたことが一つ解消されたことで、今まで通り過ごせるようになった。しかしそれはもと通りになっただけで特別進展はしていない。四季から触れられることも皆無だったわけでは無いが人前ではしたことがなかったか、と思い返す。
「おい月代」
「?  どしたの?」
今度は秀多から声を掛けられそちらを向く。ちょいちょいと手招きをされ、前を歩いている他4人と少しだけ間隔を空けた。
「ひとまずお礼言っとこうかと思って」
「まだ早いよ。これからでしょ?  っていうかわたしと話してていいの?」
「作戦会議も必要だろ?  3日間どうして行くかだ」
本宮に続く階段に足を掛けながら、前を歩くあやのを見る。今は春香といつも通り話しているようだ。彼女たちは同じ部活なだけあって元々仲が良い。だとしたら自分が出来ることは一つだけだ。
「わかった。じゃあなるべくわたしが春香と話すようにするからナベくんは積極的にあやのと話すこと。いい?」
「まぁそうなるよなー。でもさそれだとバランス悪くねぇ?」
「バランス?  何の?」
秀多の言葉に首を傾げる。その言葉を待っていたと言わんばかりに彼が意気揚々と説明をし始めた。
「だからさ、俺と寺崎だけ男女のペアだと浮くだろ」
「えぇ?  じゃあわたしと春香もどっちかと組むってこと?」
「頼むよ。嫌なの?」
「嫌なわけじゃないけど……」
到底すんなり受け入れられる提案ではない。渋い顔を見せながら言葉をまごつかせていると、更に秀多が質問を重ねてきた。
「なぁ……月代ってあいつらのことどう思ってんの?」
「どうって……」
前を歩く男子生徒二人を思わず見る。人間性に欠点はない。どうかと訊かれれば特に何の感情も抱いていない。そう考え美都は当たり障りのない答えを出した。
「幼馴染みと親族」
「あぁ……まー……そうだよな」
「とにかくナベくんとあやのは二人きりに出来るようにするから!  頑張って!」
納得したように相槌を打ちながらも秀多は苦い表情を浮かべた。不思議に思いながらも作戦を実行すべく前を歩く集団へ駆け寄る。あやのと話す機会が減るのは寂しいが相談を受けた以上協力しないわけにはいかない。もちろん全く話をしないというわけではないので彼女と話すのはホテルに行ったときで良いだろうと判断し、秀多に目配せを送った。
「何話してたの?」
「んー……人生相談みたいなもの」
よもやあやののことを話していたとは言えないので考えた末、間違ってはいない回答をする。
後ろから追いかけるように秀多が集団へ合流する。男子は男子の中で何かを話しているようだった。
「頑張れ四季」
「お前は……余計なお世話だ」
長い石段を登りきると立派な本宮にたどり着いた。迫力のある建物に目を見開いて感嘆する。賽銭の用意をして参拝の列に並ぶ。お願いごとを考えているとあっという間に順番が回ってきた。賽銭を入れ二礼二拍手。
(無事高校に行けますように。鍵の所有者を守り切れますように。あ、世界が平和になりますように。それから────……)
欲張りなのは承知だが、神に願いを託したいことが多い。最後の願いは、ここ数年叶ったことはない。気休めに近いがどうしても願わずにはいられない。自分でも呆れてしまう。
一礼をした後、班員で本殿の横に集まった。あやのが御籤を引こうと言うので本宮前の授与所へ立ち寄る。
「引いたらせーので見せ合お!」
と彼女の提案を受け、年季の入った木箱を手に取り各々出た番号を巫女に伝えて長細い紙面を受け取った。6人集合したところであやのから声が掛かる。
「いい?  せーのっ!」
自分の引いた紙に書かれている文字を見て、ガンと頭を殴られたような衝撃を受ける。確かに鶴岡八幡宮は凶の割合が多いと聞いたことがあるが。
和真が覗き込んで美都が引いた紙面を確認した。
「おっまえ、セオリーだな」
「こんなセオリーいらない……」
あろうことか引いた御籤に書いてあったのは『大凶』だった。今まで何度も御籤を引いてきたが大凶は初めてだ。幸先が思いやられる。他のメンバーは大吉から小吉と様々だった。自分だけか。もはや逆に当たりのような感覚になってくるのは自虐だろうか。うーんと唸り顔を顰めていると、横から伸びてきた手が唐突に自分が持っていた御籤を取り上げた。
「!」
「変えてやるよ、ほら」
「え?  あ、大吉……!」
自分とは真逆の運勢が書かれた紙面に思わず目を丸くした。取り替えを申し出たのは四季だった。大吉の御籤を手にしたまま思わず彼を見上げる。
「いいの?」
「別にこだわってないからな俺は。たまたま引けただけだし」
引きが強いのかそれとも無欲の勝利なのか。大吉というだけで嬉しいものなのになと感じながらも彼の気遣いに顔を綻ばせた。
「おみくじ交換して、ご利益あるのかなぁ」
「半分くらいになるだろ、悪い運も。ちょうどいいんじゃないか?」
確かに同じ守護者として戦う上でなら、運は半分くらいにしておいた方が良いのかもしれない。神様が配慮してくれるかはわからないが。
「そっかー。あ、ちなみにそれなんて書いてある?」
「えぇっと……『与えられた天分を大切に育てなさい』だと」
「天分って?」
「才能とかそういうの。職分って意味もあるけど」
才能と言われると首を傾げてしまうが、職分と言われれば恐らく守護者のことだろうと思う。だが育てるという言葉を使われているだけあって意味合い的には前者の方か。
「才能かぁ。なんだろう……何だと思う?」
「……向こう見ずなところ」
絶対褒められていないなと感じ、むすっとしたまま握りしめた手で彼の腕を小突いて抗議した。向こう見ずなのは認めざるを得ないが。
四季が大凶と書かれた御籤を折りたたむ。引いた本人だからと近くにある凶運みくじ納め箱へと促した。小さく畳まれた大凶の御籤を納め、設置してある強運掴み矢を握り締める。
(どうか、これから大きな災いが起こりませんように……)
改めて目を閉じて祈りを捧げた。旅行中はもちろん、今後についてもだ。
四季は美都の動向をしばらく側で見守る。やがてふと視線に気づいたようにハッとしてグループの方に目を向けた。するとニヤついている和真と春香の顔が目に入りバツが悪くなって思いきり顔を逸らした。
「どうかした?」
「なんでもない。終わったら行くぞ」
祈り終えた美都とちょうど目が合い、彼女が不思議そうに首を傾げた。美都にあの二人の反応を知られてなるものか。ただでさえ何を企んでいるのかわからないのだ。茶化されるのも本意ではない。それにまだ修学旅行は始まったばかりなのだ。今日を含め3日間行動を共に出来るのは大きい。例えあの女子生徒の妨害が入ろうとも。





小町通りに出た瞬間、口は災いの元という言葉を痛感することとなった。否、口には出していないのだが、神様の御前ということをすっかり忘れていた。
「詰めが甘いよ四季」
「せっかく俺らが気を利かせてやったってのに」
早速この状況を和真と春香の二人に責められる。気を利かせるつもりならあっちの方をどうにかしてくれと、美都と愛理がいる方を見遣った。たまたま同じ時間帯に同じ行動範囲になったらしい。今日に限っては仕方がない。鎌倉駅周辺と御触れが出ているため回れる範囲は限られているからだ。
あからさまな妨害行為に溜め息を吐く。彼女とはあのとき喧嘩を売られたっきり話をしていない。事あるごとに睨まれているのは分かっていたが無視を決め込んでいた。何も知らない美都を巻き込むべきではないと考えていたからだ。だがこの状況は面白くない。
「お前の幼馴染みだろ。何とかしろ」
「きゃー、四季くん怖ぁい」
「うるさい茶化すな。作戦はどうした作戦は」
強引に和真の首根っこを捕まえると、彼の茶化しにも動じることなく協力を仰いだ。元々旅行前に作戦は立てていた。愛理の暴走を止めるのは元より幼馴染みの責任だと半ば押し付けるようにして。それには和真も渋々納得していたようだった。
和真は致し方なしといった具合に土産屋で横並びで会話をしている二人の元へ歩いていった。
「おい愛理。うちの班員返せ」
「どうせそっちも自由行動でしょ?  いいじゃない少しぐらい。それよりあんたも選んでよ」
「は?  何を」
「おみやげ。うちの親、鎌倉には来たことないはずだからさ。いま美都にも見立ててもらってんの」
うーんと唸りながら美都が和小物を眺めていた。正直小町通りは雑貨店が多く目移りしてしまう。手ぬぐいなら使い勝手が良さそうだとかもっと実用品に寄せた方がいいかなど頭の中で考えを巡らせた。円佳と司への土産もここで選べそうだ。
「箸置きなんか可愛いんじゃないかな?  種類いっぱいあるし」
「じゃあ美都選んでよ。あたしのも」
「え?  愛理のも?  どれがいいかなぁ……」
ガラス細工の箸置きをじっくり見渡す。美都が適当に選ぶわけないことを分かっていて依頼したなと、ほとほと愛理の策略に感心する。否、感心している場合ではないのだが。これでは自分が四季に睨まれたままになってしまうと思いながらもこの状態では無理に引き剥がすことも困難だ。さりげなく振り向いて、四季のいる方へ口パクで「無理」と伝える。するとすぐさま彼の怪訝な表情が目に入った。
「そんなに近づきたくないの?」
「当たり前だ。白昼堂々喧嘩売られたんだぞ」
「まあねぇ。ここまで愛理が敵意剥き出しなのも珍しいわね」
距離を取りつつ様子を伺っていた四季と春香が、和真からの無言の報告を確認して眉を顰めた。春香が冷静に分析し息を吐く。珍しいというが、割と初っ端から敵意を感じていたのはやはり親戚という設定からだろうか。
「でもこのままじゃ思うツボだよ。愛理、絶対分かってやってるもん」
「……分かってる」
「ほら、なんとか引き剥がさないと。美都が気づくわけないんだから」
そう春香に背中を押され渋々と幼馴染み軍団がいる方向へ歩いた。四季の行動に真っ先に気付いた愛理がすぐさま美都の腕を引き寄せる。その仕種にむっとしながらも冷静さを欠いたら負けだと意識し、愛理と反対の方から美都に近づいた。
「美都。終わったらちょっと来て」
「え?  あ、うん。どうかしたの?」
「あー……ちょっと見て欲しいものが」
正直美都のことが気になりロクに土産を見ていなかったが引き剥がす口実にはこれしか無い。しかしその不自然な誘いに突っかかるようにして愛理が突如口を挟んだ。
「へぇ。見せたいものって何なのかしらねぇ?」
「……お前には関係ないだろ」
「美都が行くならあたしも行こっかなー」
こいつ、と睨みをきかせる。如何あっても美都から離れるつもりがないようだ。言動も行動もいちいち癪に障る。いち早く自分の方へ美都を引き寄せ、彼女をガードするように上から腕を回している様も敵意の表れだろう。勝ち誇ったような笑みでこちらを見ている。
「邪魔しないでくれる?  今美都と一緒にいるのはあたしなんだから」
「終わったらって言ったろうが。話が通じないのかよ」
狭い店内に険悪な空気が流れる。それを察知してか和真と春香は早々に退散したようだ。店の外から様子を窺う姿が見える。
さすがの美都も頭上で二人のやり取りを聞いていつもと違う雰囲気を察知したようだ。目線で雲行きを探っている。
「まだ美都に相談することがあるんだからどっか行ってよ」
「勝手だな。こいつはお前の所有物じゃないだろ」
「だったら何?  あなただって違うでしょ」
このままではまた売り言葉に買い言葉になってしまう。そう解っているものの易々と引ける状況ではなかった。
しかしそれまで傍観者を貫いていた少女の一言で、空気がピタリと止まることとなった。
「ストップストップ!! 」
愛理の腕の中でもがきながら、美都が事態を止めに入った。彼女の声に応じるように二人も動きを止める。愛理の腕から抜け出すと美都は間に割って入り交互に見ながら目を瞬かせた。
「もう!  何だかわかんないけどお店の中なんだから迷惑でしょ!  ほら、愛理はこれ持ってお会計。四季はわたしと外に出る。いい?」
「……はぁーい」
二人の目線の少し下で、混乱しながらも的確な指示を出す美都の言葉に愛理は渋々と返事をした。美都が選んだ箸置きを手渡され愛理は奥の会計卓へと進む。
珍しくテキパキと仕切る彼女に驚いて目を丸くしていると、当の本人に促されて店外へ移動した。
「いつの間に二人仲良くなったの?」
「……仲良く見えるか?」
「愛理が和真以外の男子と話すの珍しくって」
鈍感にも程があるだろう。どう見ても不穏な空気が漂っていたじゃないか。他人を疑わないのは美都の長所であり短所だなと改めて思う。誤解も甚だしいがでは何だと訊かれても現状答えようがない。はぁと彼女の見えないところで溜め息を吐く。
「それで、見て欲しいものって何?  あ、弥生ちゃんたちのお土産?」
「あ?  あー……そうだな」
美都は口実を気にかけてくれていたようだ。よもや弥生たちの土産も忘れていたとは言えない。ひとまずは目に入った店へ誘導するのが先か。なるべくならここから離れた場所がいい。和真に目配せを送り小町通りの奥へ移動しようと算段をつける。幸いこの商店街は人通りが多い。
「じゃあこっち」
そう言って指を差しながら歩を進める。通ってきた記憶を頼りに弥生たちに似合いそうな店に見当をつける。美都は何の疑問も抱かずに自分の隣を歩くだけだ。
(上機嫌だな……)
昨日までの彼女とは打って変わって、顔を綻ばせながら歩いている。本人は無自覚だろうが。弥生に話を聞いてもらったことで考えていたことを昇華出来たようだ。それについては少なからず自分の態度にも原因があるのだが。他にも色々考えていたようだがそれは大丈夫なのだろうか。
「お前、昨日まで考えてたことはもういいのか?」
「え?  あ……うん。まだしばらく様子見かな」
「……?」
四季の言葉で思い出したのか、一瞬空を仰いだあと己にも言い聞かせるよう頷いた。様子見というくらいなのだから何かしらの事態が動くのだろう。昨日彼女は自分の問題だと言っていたので気持ち的な面なのだと察することが出来る。原因については不明だが一時でも忘れられるくらいの悩みになったのかと安堵した。
しかし思った以上に人通りが多い。自分たちのような修学旅行生と何人もすれ違う。目を離すと本当に逸れてしまいそうだ。目的の店が見えたが美都は歩きながら向かいの店を見ているため気がそぞろになっているようだ。危なっかしいな、と思わず彼女の腕に手を伸ばした。
「おい美都──」
「……っ──!」
掴んだ腕を美都がバッと振り解いた。その仕種に驚いて互いに目を見開く。直後我に返った彼女がフォローを入れるように口を開いた。
「あ……!  ご、ごめん。ちょっとびっくりしちゃって……」
「……いや。店こっちだから」
「う、うん。じゃあ行こ」
店を指差すと美都は目を合わせずに示された方へ足を急がせた。手に残る腕の感触と振り解かれたという事実に混乱しながら一瞬呆然と自分の手を見つめる。
ガツンと頭を鈍器で殴られたような思いだ。あれは見るからにあからさまな拒絶だった。だが何故?  鶴岡八幡宮で頭を小突いたとき、何ともなかった筈だ。触れるのは良いとしても掴んだのがダメなのか?
亀の足で店に向かいながら一人悶々と考える。近付いたと思っていた距離を離されてしまったような気分だ。
四季は口元に手をあてると、その眉間にしわを寄せた。





しまった、と美都は思いながら小走りで店へ向かった。
振り解いてしまった。それも思いっきり。四季の驚いた表情が目に焼き付いている。
触れられることに抵抗はない。だが、腕を掴まれたとき不意に思い出してしまった。あの保健室での出来事も、この間彼が愛理に同じようにしていた姿も。
せっかく忘れていたところだったのに。ちょうど四季の言葉で思い出されたところだったのもタイミングが悪かった。
たったあれだけのことで顔が紅潮してくる。気づけば心音も速くなっているようだ。気まずくて目を合わせられずに一人で先に来てしまった。彼に変に思われていなければいいが。
「あれ?  美都ー!」
慌てて店に入ると突然自分の名前を呼ばれて声の主を探す。手を振っている人物に焦点を当て思わず苦笑した。
(ごめん、ナベくん……)
別行動をとっていた秀多とあやのだ。図らずも店内で合流してしまうとは。心の中で秀多に謝りながら、あやのに手を振り返した。
「他のみんなは?」
「和真と春香はまだ小町通りの入り口付近だと思う。四季は……あそこに……」
「?  何で四季と距離があるの?」
「ひ、人混みに呑まれちゃって」
あははと誤魔化すように笑みを作る。あやのはその説明に納得してくれたようだ。遅れて入店してくる四季に秀多が寄っていった。土産の相談をしようにもまだ顔を合わせづらい。しばらくは秀多に任せて、こちらはあやのの話を聞くことにしよう。彼には意気揚々と「二人っきりにするから」と言った手前、この状況は全くもって忍びないが。
ひと時だけで良いのでしばらく気持ちを落ち着けたい。そう思いながら彼に背を向けて美都は唇を噛み締めるように顔を歪ませた。


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