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悪役令息が婚約破棄をするまで④
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――ちくしょう、ちくしょう!
夜の繁華街は煌びやかだ。昼間のそれとは違う顔を見せる。
その中を顔を伏せ気味に歩く青年を、ちらほら振り返り二度見する者たちがいたが本人はまったく気づかない。
「っ、なにが運命だよ」
口の中でつぶやきながら奥歯を噛む。
運命運命運命――嫌になる響きだった。
運命の番という言葉がある。しかし皇大郎に言わせればこれは単なるおとぎ話で、架空の生き物のようなものだ。
そんなもの存在しないのは身をもって知っている。
「おっ、お兄さん一人?」
突然声をかけられ思わず足を止めてしまった。
とはいえ元々、行き先なんて決めていない。激情にまかせて勢いだけで飛び出してしまっただけだ。
顔を上げるとそこには数人の男たちがいた。
ニヤニヤと不快な笑みを浮かべており、見るからに酔っ払いだとわかる。しかもアルファもまじっている。
立ち止まったのを早速後悔しつつ、一応。
「……なにか」
と訊いてしまう。
「いやァ、お兄さんめちゃくちゃ可愛いからさ。つい声掛けちゃった。ね、オレたちと一緒に飲まない?」
ガタイのいい、明らかにアルファとわかる自信に満ち溢れた男だった。
容姿も悪くない。きっとさぞモテるだろう。
しかし皇大郎は首を横に振った。
「いえ。僕は遠慮しときま――」
「遠慮しなくていいってば。おお、めちゃくちゃいい匂いする。まさか発情期前?」
「!?」
いきなり抱きつかれ悲鳴すら上げられなかった。
「そ、そんなわけっ……なんで僕がオメガだって……」
素直に疑問を口に出しただけなのだが、彼らにはよほど滑稽だったのだろうか。ゲラゲラ笑い出して。
「いやいやなんでって。分かんねぇ奴いんのかよ、そんな甘い匂いさせて」
「お兄さんもしかして処女? 可愛い顔してビッチじゃないとか理想じゃん」
「オレたちが色々教えてあげよーか?」
「あ、でもまずその邪魔な首輪外そっか~」
好き勝手なことを言われ、挙句に首にしていた保護具を引っ張られる。
「っ、やめ……!」
オメガがアルファにうなじを噛まれると番になってしまう。
そのため同意なくレイプなどでうなじに噛みつかれ、無理やり番にさせられる事件などが多い。
だからほとんどのオメガが首に保護具を付ける。
それを首輪、と揶揄する者はだいたいロクでもない輩だ。
「お兄さんなら番にしてやってもいいよ? だって可愛いし処女じゃん」
「おいおいもう処女だって決めつけんなよ」
「お、そうだな。じゃあ身体検査しようぜ」
とんでもないことを言う。
数人に羽交い締めされ、どこぞへ連れていかれるのを今更ながら察して暴れるがもう遅い。
アルファたちの匂いと香水がまざりあって胸がムカムカしてくる。と同時に突然、体温が上がり身体が疼いてきた。
「な、なん、でっ……やだ、離せ……!」
「さすがオメガ。フェロモンだけでエッチな気分になってきちゃったんだ?」
「ちがっ、ちがう! お願いだからっ、離してくれ!」
周りに助けを求めようと視線を巡らせても、厄介事はごめんだとあからさまに顔を逸らして素通りするものが大半で。
さらには面白いものを見るかのように遠まきにニヤつき眺める者、さらにはスマホを構えだすものまで。
皇大郎の足が恐怖で震えはじめた。
「怖がっちゃって。いいねぇ、こういうプレイも好きなんだよ」
「うわ変態~」
「うっせ、お前も勃ってんだろ」
「あははっ。じゃあ場所変えようぜ」
――やめろ、助けてくれ。
セクハラとか暴言とはまた違う。本物のの性暴力に晒される恐怖。
しかも数人の男たちにいいようにされるなんて、怖がるなという方がおかしい。
「泣き顔もいいねぇ。ちゃんと可愛がってやるから」
「ひっ……や、やめ……たすけ……て」
フェロモンのせいで立っていられないが、絡みつく腕に支えられて裏路地に引きずられていく。
これからどこで何をされるのか。考えたくもない。
――ああ。
熱に浮かされ始めた頭の中は、諦めに近い思考に満たされ始める。
どうせ婚約者にすら愛されない身だ。いっそのことめちゃくちゃにされて殺されでもしたら楽なのかもしれない。
もう何も見たくないと閉じた瞼。一筋の涙が頬を伝った、その時だった。
「お巡りさんこっちです! こっち!」
けたたましいサイレンの音と複数の足音。そして怒号。
それら全てにハッとなる。
「早く!」
「え!?!?」
ペットボトルの水をぶっかけられすぐに手を引っ張られた。
冷たさに驚き声をあげつつも、一気にクリアになる視界。それに意識がいくころには、既に見知らぬ者によって手を引かれ走っていた。
「っ、ちょ、と! どういう」
「ここまでくればいいか」
「……ぶッ!?」
今度は突然立ち止まるものだからその人物の背中にぶつかってしまう。
もう何がなんだかわからない。しかし出来るだけ状況を整理しないと、とぐっしょり濡れた髪をかきあげる。
「あー、かなり濡れちまったな。悪ぃ、でも少しは目ぇ覚めただろ?」
振り返ったのは男。グレーアッシュの髪色で左耳にピアスをした、二十代後半だとおぼしき彼は屈託なく笑った。
「あはは、なにその顔。まだ目ぇ覚めてないって感じ」
「いや……あ、ありがとう。助けてくれた、んだよな?」
あのままでは確実に連れ去られてどんな目に遭わされていたか。考えるだけでゾッとした。
それをすんでのところで通報して警察でも呼んで、奴らが怯んでいる隙に連れて逃げてくれたのだ。
「そうそう、結構危なかったんだぜ? アイツらここらでだいぶヤバい奴らって評判だったから」
「そうなのか」
確かにただのチャラ男っていうよりいわゆる半グレっぽい雰囲気があったような、と考えていると。
「ていうかかなり濡らしちまったな。ごめんな」
顔も服も全部べちゃべちゃなのを気にしてか、彼が眉をさげた。
皇大郎はとんでもないと首を振る。
「いやいや。感謝こそすれ、謝られる事じゃない。むしろ僕を助けてくれて本当にありがとう。助かったよ」
「そりゃあよかった」
今度はまたニカッと笑う。
ころころと表情が変わる男にこちらも思わず強ばっていた心も緩む。そうすると。
「……っくしゅ!」
「あ、やべ」
くしゃみを一つすれば、男が慌てた様子で皇大郎の手をつかみ直す。
「風邪ひいちまうぞ。ちょっとこい、まずは着替えなきゃな」
「えっ? ちょっ……!」
冷えた身体に温かく大きな手に、ほんの少しだけ鼓動が早まる心臓。
「大丈夫か。おんぶするか?」
「けけっ、結構です! 歩けますから!!」
体調悪いとでも思われたのか、その申し出をどもりながら慌てて辞退する。
すると彼の方は少し迷ったあとに。
「辛かったら言えよ?」
と少し心配そうに顔を覗き込んできた。
「は、はい……」
まだ出会ったばかりの名前も知らない相手になにビクビクしてんだと情けなくなる。
しかし彼は気付いていなかった。
自分が日課であった抑制剤を飲むことを忘れていたことに。だから薬によって抑えられていたオメガのフェロモンを知らず知らずに撒き散らしまったこと。
そしてそのせいでタチの悪いアルファどもを引き寄せ、興奮させてしまったことを。
歩いている時も、彼の方を振り返った人々はそのフェロモンに気付き訝しんだのだろう。
ベータであっても嗅覚に優れた者であれば思わず足を止めてもおかしくは無い。
「ついたぞ」
数分歩いた先にあったのはバーだった。
なんの躊躇いもなく、彼は中に入っていく。
「よぉ!」
「なんだ、さっき帰ったばっかりじゃないか」
店の中には客が数人。決して大きな店ではないがオシャレで雰囲気も良く、客も穏やかに楽しんでいるようだ。
カウンターの向こうから顔を上げたのは男性。明るい色の長い髪をゆるく結び、緑がかった瞳の色が特徴的なハーフ系美形だった。
「お客さん? いらっしゃい」
「ど、どうも……」
息をのむほどの美しさというのはこういう人の事だろう。
そこらの女性が束になっても敵わないほどの容姿の良さはどこか女性的であるのに、しなやかだが鍛えられた肉体もハスキーな声も。
思わず挙動不審気味になる皇大郎に、男は笑いかけた。
「亮介、可愛い子を引っ掛けてきたな。でもこんなに濡れてたら風邪ひいちゃうだろ」
「人をナンパ野郎みたいに言うなよ。人助けしてきたんだぜ。まあ濡らたのはオレだけど……」
亮介、というのが彼の名前らしい。決まり悪そうに肩をすくめている。
「あ、本当なんです。僕、向こうの通りで絡まれてるのを彼に助けてもらって」
「へぇ! 亮介がねぇ」
「なんだよその反応」
揶揄うような声色と表情に彼が頬を膨らませた。
「オレだってやる時はやるっつーこと! そんなことよりこの子になんか服貸してやってよ。オレのやつ、この前置いて帰っただろ」
亮介の言葉にハイハイと男が奥に引っ込んだ。
「ここのママ。美人だけど怒るとめちゃくちゃ怖いからな、気をつけろよ。腕っ節もゴリラだし」
コソッと言われた時にまた少し距離が近づき、頬がほんの少し熱くなったのが分かった。
「言っとくけどボクを怒らせるのは亮介くらいだからね」
「うわっ、聞こえてた」
ジト目をしつつ、こちらを手招きするママ (男性だが)。
「こっちおいで。さすがにここで着替えさせられないから」
「あっ、はい」
その親切に大人しく従ってついて行くとスタッフルームに通された。
そしてわたされたのが、上下黒のジャージ。
「もう上下着替えちゃいなよ。あ、ダサいのは亮介に文句言って」
「いえそんな……ありがとうございます」
頭を下げ着替え始めた。
――うぅっ、見られてる。
背中を向けてはいるが視線が浴びせられるのがわかって気まずい。
「君もオメガなんだ」
も、ということは。
振り向いて彼を見る。
「ボクもだよ。お互い大変だねぇ」
首元を見せて口角を上げる彼はやはり綺麗で。
「犬や猫は飼われると首輪つけるけど、ボクらは飼われないためにつけるんだから面白いものだねぇ」
皮肉げで少し悲しげだった。
「事情があるんだろうけど、ちゃんと薬は飲まなきゃ」
皇大郎はそこでようやく自分が抑制剤を飲み忘れていたことに気づく。
急いでポケットから財布を出し、そこに万が一の時に入れておいた錠剤を口に含む。
そこへすかさず蓋の空いた水のペットボトルを差し出され、ありがたくいただく事にした。
「すみません、助かりました」
助けてもらったことも着替えも。
「困った時は助け合いってね」
穏やかにそう答えてくれる彼はとても親切なのだろう。素性も知らぬ相手にこんなに良くしてくれるなんて、今まで知らない世界だった。
「……僕、今まで自分のことを知ってる人達ばかりの中で暮らして来たんです」
御笠家という箱の中で大切に育てられてきた過去だってある。でもひとたび世界が変わると人の手のひらはあっという間にひっくり返って、蔑まれて見下されて。
「だから本当にすごく嬉しくて」
だからちゃんとお礼させてくださいと深々と頭を下げた。
「じゃあまた店においで」
ぽん、と頭を撫でられる。
「そのダサいジャージも持って」
とても優しい顔だった。
夜の繁華街は煌びやかだ。昼間のそれとは違う顔を見せる。
その中を顔を伏せ気味に歩く青年を、ちらほら振り返り二度見する者たちがいたが本人はまったく気づかない。
「っ、なにが運命だよ」
口の中でつぶやきながら奥歯を噛む。
運命運命運命――嫌になる響きだった。
運命の番という言葉がある。しかし皇大郎に言わせればこれは単なるおとぎ話で、架空の生き物のようなものだ。
そんなもの存在しないのは身をもって知っている。
「おっ、お兄さん一人?」
突然声をかけられ思わず足を止めてしまった。
とはいえ元々、行き先なんて決めていない。激情にまかせて勢いだけで飛び出してしまっただけだ。
顔を上げるとそこには数人の男たちがいた。
ニヤニヤと不快な笑みを浮かべており、見るからに酔っ払いだとわかる。しかもアルファもまじっている。
立ち止まったのを早速後悔しつつ、一応。
「……なにか」
と訊いてしまう。
「いやァ、お兄さんめちゃくちゃ可愛いからさ。つい声掛けちゃった。ね、オレたちと一緒に飲まない?」
ガタイのいい、明らかにアルファとわかる自信に満ち溢れた男だった。
容姿も悪くない。きっとさぞモテるだろう。
しかし皇大郎は首を横に振った。
「いえ。僕は遠慮しときま――」
「遠慮しなくていいってば。おお、めちゃくちゃいい匂いする。まさか発情期前?」
「!?」
いきなり抱きつかれ悲鳴すら上げられなかった。
「そ、そんなわけっ……なんで僕がオメガだって……」
素直に疑問を口に出しただけなのだが、彼らにはよほど滑稽だったのだろうか。ゲラゲラ笑い出して。
「いやいやなんでって。分かんねぇ奴いんのかよ、そんな甘い匂いさせて」
「お兄さんもしかして処女? 可愛い顔してビッチじゃないとか理想じゃん」
「オレたちが色々教えてあげよーか?」
「あ、でもまずその邪魔な首輪外そっか~」
好き勝手なことを言われ、挙句に首にしていた保護具を引っ張られる。
「っ、やめ……!」
オメガがアルファにうなじを噛まれると番になってしまう。
そのため同意なくレイプなどでうなじに噛みつかれ、無理やり番にさせられる事件などが多い。
だからほとんどのオメガが首に保護具を付ける。
それを首輪、と揶揄する者はだいたいロクでもない輩だ。
「お兄さんなら番にしてやってもいいよ? だって可愛いし処女じゃん」
「おいおいもう処女だって決めつけんなよ」
「お、そうだな。じゃあ身体検査しようぜ」
とんでもないことを言う。
数人に羽交い締めされ、どこぞへ連れていかれるのを今更ながら察して暴れるがもう遅い。
アルファたちの匂いと香水がまざりあって胸がムカムカしてくる。と同時に突然、体温が上がり身体が疼いてきた。
「な、なん、でっ……やだ、離せ……!」
「さすがオメガ。フェロモンだけでエッチな気分になってきちゃったんだ?」
「ちがっ、ちがう! お願いだからっ、離してくれ!」
周りに助けを求めようと視線を巡らせても、厄介事はごめんだとあからさまに顔を逸らして素通りするものが大半で。
さらには面白いものを見るかのように遠まきにニヤつき眺める者、さらにはスマホを構えだすものまで。
皇大郎の足が恐怖で震えはじめた。
「怖がっちゃって。いいねぇ、こういうプレイも好きなんだよ」
「うわ変態~」
「うっせ、お前も勃ってんだろ」
「あははっ。じゃあ場所変えようぜ」
――やめろ、助けてくれ。
セクハラとか暴言とはまた違う。本物のの性暴力に晒される恐怖。
しかも数人の男たちにいいようにされるなんて、怖がるなという方がおかしい。
「泣き顔もいいねぇ。ちゃんと可愛がってやるから」
「ひっ……や、やめ……たすけ……て」
フェロモンのせいで立っていられないが、絡みつく腕に支えられて裏路地に引きずられていく。
これからどこで何をされるのか。考えたくもない。
――ああ。
熱に浮かされ始めた頭の中は、諦めに近い思考に満たされ始める。
どうせ婚約者にすら愛されない身だ。いっそのことめちゃくちゃにされて殺されでもしたら楽なのかもしれない。
もう何も見たくないと閉じた瞼。一筋の涙が頬を伝った、その時だった。
「お巡りさんこっちです! こっち!」
けたたましいサイレンの音と複数の足音。そして怒号。
それら全てにハッとなる。
「早く!」
「え!?!?」
ペットボトルの水をぶっかけられすぐに手を引っ張られた。
冷たさに驚き声をあげつつも、一気にクリアになる視界。それに意識がいくころには、既に見知らぬ者によって手を引かれ走っていた。
「っ、ちょ、と! どういう」
「ここまでくればいいか」
「……ぶッ!?」
今度は突然立ち止まるものだからその人物の背中にぶつかってしまう。
もう何がなんだかわからない。しかし出来るだけ状況を整理しないと、とぐっしょり濡れた髪をかきあげる。
「あー、かなり濡れちまったな。悪ぃ、でも少しは目ぇ覚めただろ?」
振り返ったのは男。グレーアッシュの髪色で左耳にピアスをした、二十代後半だとおぼしき彼は屈託なく笑った。
「あはは、なにその顔。まだ目ぇ覚めてないって感じ」
「いや……あ、ありがとう。助けてくれた、んだよな?」
あのままでは確実に連れ去られてどんな目に遭わされていたか。考えるだけでゾッとした。
それをすんでのところで通報して警察でも呼んで、奴らが怯んでいる隙に連れて逃げてくれたのだ。
「そうそう、結構危なかったんだぜ? アイツらここらでだいぶヤバい奴らって評判だったから」
「そうなのか」
確かにただのチャラ男っていうよりいわゆる半グレっぽい雰囲気があったような、と考えていると。
「ていうかかなり濡らしちまったな。ごめんな」
顔も服も全部べちゃべちゃなのを気にしてか、彼が眉をさげた。
皇大郎はとんでもないと首を振る。
「いやいや。感謝こそすれ、謝られる事じゃない。むしろ僕を助けてくれて本当にありがとう。助かったよ」
「そりゃあよかった」
今度はまたニカッと笑う。
ころころと表情が変わる男にこちらも思わず強ばっていた心も緩む。そうすると。
「……っくしゅ!」
「あ、やべ」
くしゃみを一つすれば、男が慌てた様子で皇大郎の手をつかみ直す。
「風邪ひいちまうぞ。ちょっとこい、まずは着替えなきゃな」
「えっ? ちょっ……!」
冷えた身体に温かく大きな手に、ほんの少しだけ鼓動が早まる心臓。
「大丈夫か。おんぶするか?」
「けけっ、結構です! 歩けますから!!」
体調悪いとでも思われたのか、その申し出をどもりながら慌てて辞退する。
すると彼の方は少し迷ったあとに。
「辛かったら言えよ?」
と少し心配そうに顔を覗き込んできた。
「は、はい……」
まだ出会ったばかりの名前も知らない相手になにビクビクしてんだと情けなくなる。
しかし彼は気付いていなかった。
自分が日課であった抑制剤を飲むことを忘れていたことに。だから薬によって抑えられていたオメガのフェロモンを知らず知らずに撒き散らしまったこと。
そしてそのせいでタチの悪いアルファどもを引き寄せ、興奮させてしまったことを。
歩いている時も、彼の方を振り返った人々はそのフェロモンに気付き訝しんだのだろう。
ベータであっても嗅覚に優れた者であれば思わず足を止めてもおかしくは無い。
「ついたぞ」
数分歩いた先にあったのはバーだった。
なんの躊躇いもなく、彼は中に入っていく。
「よぉ!」
「なんだ、さっき帰ったばっかりじゃないか」
店の中には客が数人。決して大きな店ではないがオシャレで雰囲気も良く、客も穏やかに楽しんでいるようだ。
カウンターの向こうから顔を上げたのは男性。明るい色の長い髪をゆるく結び、緑がかった瞳の色が特徴的なハーフ系美形だった。
「お客さん? いらっしゃい」
「ど、どうも……」
息をのむほどの美しさというのはこういう人の事だろう。
そこらの女性が束になっても敵わないほどの容姿の良さはどこか女性的であるのに、しなやかだが鍛えられた肉体もハスキーな声も。
思わず挙動不審気味になる皇大郎に、男は笑いかけた。
「亮介、可愛い子を引っ掛けてきたな。でもこんなに濡れてたら風邪ひいちゃうだろ」
「人をナンパ野郎みたいに言うなよ。人助けしてきたんだぜ。まあ濡らたのはオレだけど……」
亮介、というのが彼の名前らしい。決まり悪そうに肩をすくめている。
「あ、本当なんです。僕、向こうの通りで絡まれてるのを彼に助けてもらって」
「へぇ! 亮介がねぇ」
「なんだよその反応」
揶揄うような声色と表情に彼が頬を膨らませた。
「オレだってやる時はやるっつーこと! そんなことよりこの子になんか服貸してやってよ。オレのやつ、この前置いて帰っただろ」
亮介の言葉にハイハイと男が奥に引っ込んだ。
「ここのママ。美人だけど怒るとめちゃくちゃ怖いからな、気をつけろよ。腕っ節もゴリラだし」
コソッと言われた時にまた少し距離が近づき、頬がほんの少し熱くなったのが分かった。
「言っとくけどボクを怒らせるのは亮介くらいだからね」
「うわっ、聞こえてた」
ジト目をしつつ、こちらを手招きするママ (男性だが)。
「こっちおいで。さすがにここで着替えさせられないから」
「あっ、はい」
その親切に大人しく従ってついて行くとスタッフルームに通された。
そしてわたされたのが、上下黒のジャージ。
「もう上下着替えちゃいなよ。あ、ダサいのは亮介に文句言って」
「いえそんな……ありがとうございます」
頭を下げ着替え始めた。
――うぅっ、見られてる。
背中を向けてはいるが視線が浴びせられるのがわかって気まずい。
「君もオメガなんだ」
も、ということは。
振り向いて彼を見る。
「ボクもだよ。お互い大変だねぇ」
首元を見せて口角を上げる彼はやはり綺麗で。
「犬や猫は飼われると首輪つけるけど、ボクらは飼われないためにつけるんだから面白いものだねぇ」
皮肉げで少し悲しげだった。
「事情があるんだろうけど、ちゃんと薬は飲まなきゃ」
皇大郎はそこでようやく自分が抑制剤を飲み忘れていたことに気づく。
急いでポケットから財布を出し、そこに万が一の時に入れておいた錠剤を口に含む。
そこへすかさず蓋の空いた水のペットボトルを差し出され、ありがたくいただく事にした。
「すみません、助かりました」
助けてもらったことも着替えも。
「困った時は助け合いってね」
穏やかにそう答えてくれる彼はとても親切なのだろう。素性も知らぬ相手にこんなに良くしてくれるなんて、今まで知らない世界だった。
「……僕、今まで自分のことを知ってる人達ばかりの中で暮らして来たんです」
御笠家という箱の中で大切に育てられてきた過去だってある。でもひとたび世界が変わると人の手のひらはあっという間にひっくり返って、蔑まれて見下されて。
「だから本当にすごく嬉しくて」
だからちゃんとお礼させてくださいと深々と頭を下げた。
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