鬼村という作家

篠崎マーティ

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二十話「エレベーター」

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 以前、鬼村のもとにお祓いを乞うて来る者が度々現れるという話をしたが、正気とは思えぬ奇妙な事象を解決してくれと言う依頼もまた、彼女のもとに舞い込んでくることがあった。馬鹿が心霊スポットで憑りつかれて泣きを見ているくらいでは鼻も引っ掛けない鬼村だが、興味のそそられる事であれば、それがどんな荒唐無稽な話でも……否、荒唐無稽な話しであればあるほど喜んで現場に足を向ける。この話も、そんな突拍子もない依頼が発端であった。
 その日、管理人の話を気もそぞろに聞きながら鬼村が見つめていたのは、時々存在しない階に着いてしまうというエレベーターだった。
 埼玉県某市。駅から徒歩圏内に建てられた古い団地は、全部で四棟ある賑やかな場所だった。明るい日差しの中、併設された小さな公園で遊ぶ子供。ベランダからはためく色とりどりの洗濯物。そんな牧歌的とさえ言える平和な風景の中に、件のエレベーターは存在していた。
 疲れた様子の管理人曰く、第四号棟のエレベーターを四階から乗って下に向かうと、稀に一番下の階である一階を通り過ぎて更に下に潜って行ってしまうらしい。存在しない地下から生還した者の話では、到着した先はひたすらに暗闇が広がっているのみ。運のよい事に暫くするとまたエレベーターが昇り始め、帰ってこられたのだとか。
 ちなみに、この団地からは行方不明者が数名出ている。
「よし、乗ろう」
 以上の説明を聞いた後、鬼村は嬉々として四階のエレベーター前でそう言い放った。分かってた。勿論そう言うって、分かってた。
「なんで私も一緒に乗らなきゃいけないんですか?」私が形式ばった嫌がるそぶりを見せても、鬼村はあっけらかんとした態度を崩さない。
「えっ、見たくないの、存在しない階?」
「見たがる人の方が少ないですよ!」
「せっかくじゃん! 滅多に出来ないよ、こんな体験! なんか居たらアタシが守ってあげるからさあ」
 確かに、この人が一緒ならどんな存在に出くわしたところで向こうが裸足で逃げだすだろう事は容易に想像できるけども。
 ちょっとした肝試しにでも誘う気安さで異界に誘う鬼村にお手あげとなった私は、仕方なく彼女についてエレベーターの中に乗り込む運びとなった。
 まあ、鬼村が居るなら大丈夫だろう。
「こういう事があるから、四とか九は避けろってのにねえ」
 ゆっくり下降をはじめたエレベーターの中で、鬼村は右手の壁に背中を預けながらぽつりと呟いた。エレベーターは団地同様古いもので、不穏な揺れと共に頭上からギシギシとワイヤーの軋む音がする。扉についた小窓の先では、暗いエレベーターシャフト内の壁と各階の廊下が交互に現れては消えていった。
「先生」私は鬼村に声をかけた。「これ、地下に行けなかったらどうするんですか?」
 鬼村は私をちらりと見ただけで何も言わない。しかしその無言こそが彼女の答えであった。そもそも、彼女が居る時点でそんな心配などする必要はないのである。
 小窓から目も眩むような陽光が差し込んだ。遠くで子供達の笑い声がする。うららかな黄金色の昼下がりが小窓の外から私達においでおいでと手招きし、そして、次の瞬間全てはせり上がってきた闇に飲み込まれた。
 我々は一階を通過して暗闇の中に潜水をはじめた。
 言葉もなく扉に向き合い、私は一歩後ずさった。こうなるだろうとは思っていたが、実際に目の前で事が起きると心臓がすくみ上る。物理法則を完全に無視し下へと突き進む我々は、今この瞬間、一体どういった存在に分類されるのだろう。
 鬼村は窓の外を綺麗な魚でも泳いでいるようにしげしげ眺めていたが、やがて下降のスピードが緩やかになると壁から身を離して私の横に立った。密やかな重力が足を引っ張り、エレベーターが止まる。ゆっくりと扉が開いた。
 扉の先には、管理人の言った通り闇が広がっていた。本当に墨を流したような真っ黒一色で、エレベーター内に灯る光もただの一筋さえ侵入を許されておらず、目の前に床があるのかさえも見極められない程暗い。ここまで何も見えないと、空間と言う概念の存在さえ疑いたくなる。
 虚無だ。虚無の中に私達とエレベーターがぽつんと浮かんでいる。
 不意に、行方不明者が出ていると言う事実が頭を過った。まさか彼らは、この中に入って行ったのか? 想像した瞬間あまりの恐ろしさに肌が粟立ち、頭が締め付けられるように痛んだ。無理だ、間違いなく数秒で気が狂う。裸で漆黒の宇宙空間に投げ出される方が、確実に死ねる分まだマシだ。この闇に足を踏み入れたらどうなってしまうのか、全く想像できない。想像したくない。本能が普通に死ねない事を悟ってしまっている。
 しかしおかしなことに、絶対に入りたくないと思うと同時に、もういっそこの闇に身を投げて楽になりたいと言う願望が私の中で鎌首をもたげた。何故だかそんなに悪くないアイディアに思える。この恐怖を感じ続けるくらいなら、もういっそのこと、
「行かないの」
 私を片手で押し返し、鬼村が業務的にそう言った。私は暫くぼんやりと彼女の顔を見つめ、その言葉を理解しようとする。そうして自分が今、エレベーターから出て行きそうになったのに気づき、ぎょっとして鬼村の腕に縋りついた。
「えっ、え、先生、今、私」
「うん、感化されやすいからね、あんたね。映画とかでめっちゃ泣くもんね」生返事をしながら、鬼村はエレベーターから身を乗り出して暗闇を覗き込んだ。「わー、見事に繋がっちゃってんな」
「先生、これ、どうするんですか……?」
 掠れた声で私が囁くと、鬼村は肩にかけていたトートバッグの中を漁り始めた。キュウリを前に飛び上がる猫のロゴと、キューカンバー・キャット・エクスプレスという運送会社の社名がプリントされている。その光景があまりにも「レジ前で財布を探しているおばちゃん」のそれで、体から一気に力が抜けていった。
「うーん、そうだなあ。とりあえず、塩でもまいとくか」
「そ、そんなんで良いんですか?」
「これじゃどうしようもないからね。一回上戻んないと何も出来ないから帰ろ」
 良かった、もう戻るんだ。私が安堵感で頬を緩ませたその瞬間、耳をつんざくけたたましいブザー音が鳴り響いた。その叫びはエレベーターの中から暗闇の中に飛び出し、辺りにわんわんと木霊して増幅する。
 エレベーターの重量オーバーを知らせるブザーだった。
「あ?」鬼村が唸る。そりゃそうだ、今の今まで二人で問題なく乗っていたのだから。それにいくら狭いエレベーターとは言え、成人女性二人でオーバーになるエレベーターなんてあるわけがない。だが、そんな私の主張がなんの役にたとうか。ブザーは依然鳴り続け、止まる気配はまるでない。
 どうする事も出来ず、やたら滅多にガチャガチャボタンを押している鬼村を見つめていると、はたとブザーに違う音が混ざったのに気が付いた。太鼓だ。祭囃子で聞くような、コンコンと子気味の良い太鼓の音だ。
 聞こえたのは鬼村も同じだったようで、ボタンを押す手を止め、彼女は顔を上げた。やはり太鼓の音が、一定のリズムで鳴っている。最初はブザーにかき消されそうな程小さかったその音は、次第に大きくなっていき、注意しなくても聞こえるくらいまでになった。近づいてきている。
 鬼村が何のためらいもなくエレベーターから降りた。床はきちんとあった。ふっつりとブザーは消え、突然の静けさに耳鳴りがした。そしてその耳鳴りを裂いて、驚くほど大きな太鼓の音。ほんの数メートル先に居る。
「先生、ちょっと!」
 私が追いかけようとするのを体でブロックし、鬼村はエレベーターの閉まるボタンを押してしまった。エレベーターはいつもの従順さを取り戻し、すぐさま扉を閉めだした。
「は!? 先生、待って!」
「あ、大丈夫大丈夫。アタシもすぐ行くから」
 暗闇に浮かび上がる鬼村は、いっそ異様なほどいつも通りにへらへらと笑っている。
 それがたまらなく恐ろしかった。
「本当ですか!? 本当ですか、これ!?」
 扉が閉まり切ったエレベーターは、低い唸りをあげて上昇をはじめた。鬼村の姿が下に流れて行ってしまう。最後に見た彼女は、ひらひらと手を振っていた。
「管理人さん呼んどいてねえ」鬼村ののんきな声があっという間に遠ざかる。
 私は一人きりのエレベーターの中で、床にへたり込んで震えていた。



 鬼村は暗闇の中に立ち、静かに目を閉じた。
 コン。
 太鼓の音が手の届く距離でする。
 コン。
 更に近く。
 コン。
 鼻の先で音が鳴り、太鼓のピンと張られた面の振動さえ空気伝いに感じられる。
 数秒、その場に静寂が戻った。
 コン!
 右耳のすぐそばで太鼓が鳴らされた。鬼村は呼吸一つ乱さず、微動だにしない。音はそのまま横を通り過ぎ、次第に遠ざかっていく。やがて何も聞こえなくなると、鬼村はそっと目を開いた。
 相変わらず暗い。が、うすぼんやりと世界の影が見えるようになっていた。先の見えぬ廊下が目の前にまっすぐに伸びており、右手には等間隔で扉が並んでいるようだ。団地の廊下に似ているなと鬼村は思った。幸い、まだ先ほどまで居たあの団地とのつながりは切れてないようだ。
 ポケットからシガレットケースとライターを出すと、手巻き煙草を一本咥えて火をつけた。ぽっと灯った火の先に一瞬何か居たような気がするが見なかった事にする。ゆっくりと煙で肺を満たした後、吸い込んだ倍の時間をかけて紫煙を吐き出した。甘い薬草の香りが世に放たれる。鬼村の周りを足にじゃれつく猫のように煙が漂いはじめる。
「……し。帰るか」
 足音もたてず鬼村は歩き出した。
 煙草を咥えたまま、けれどいつでも煙を吹き出せるように指で挟んで、警戒は怠らない。時折衣擦れのような音や木の枝が折れるような音がしたが、まだ遠いので別段気にする必要もないだろう。歩きながら目を凝らし扉を見てみれば、やはりそれは団地で見た扉と同じものだった。表札はまっさらだ。
 前に視線を戻したところで、鬼村は歩みを止めた。扉の前に人が立っている。今風の髪型の女性、スーツを着た男性、制服を着た少年、頭の禿げあがった老人、ランドセルを背負った少女……一つの扉に一人ずつ、老若男女が落とした肩をぴくりともさせず、扉に鼻がくっつきそうな距離で直立不動を保っている。
 鬼村はゆっくりと煙を二回吐き出してから、慎重に彼らの横を歩き出した。纏った煙のベール越しに彼らの背中を見つめながら歩を進めると、悪趣味なマネキンの博物館にでも迷い込んだ気になってくる。今一度煙を吐き出し、鬼村は小さな目を細めた。
 本音を言えば彼らを不憫に思う。ただただ運がなかっただけで、この地獄に引きずり込まれた哀れな被害者に、何か慰めが与えられないかとも思う。しかし自分に何も出来ないのは幼い頃からいやという程経験してきたし、あの世の者に手を貸すのは道理に反すると祖父から口を酸っぱくして言われてきた。
 だから無視をする。何も知らないふりをする。他人を憐れむ自分の傲慢さを嫌悪する。諦めこそが、生きていくうえで何よりも強力な鎮痛剤となるのだ。救えない者の痛みを背負う事は、自傷と変わりはしない。ただ、それは紛れもなく美しい傷であるけれど。
 作家の宿命か、そんな物思いに耽っているとどんどんと意識が己の内側に集中してしまい、有象無象に取り巻かれて外界の事に疎くなってしまう。そのせいで、鬼村は突然聞こえた足音への反応が遅れてしまった。
 唐突に全速力の足音が聞こえたかと思うと、身構える暇もなく煙の壁を突き破って恐怖に顔をこわばらせた子供がぶつかってきた。鬼村は後ろにばったり倒れ込み、その衝撃で咥えていた紙巻き煙草が彼方に吹き飛ばされた。呻きながらも急いで身を起こす。彼女を守っていた紫煙が霧散する。はっとして顔を上げたが、もう遅かった。
 全員が鬼村を見下ろしていた。扉の前に立っている人々はねじ切れそうな程首を回して。ぶつかってきた子供は鬼村の足元で。死体と同じ無の表情を張り付けた顔に埋め込まれた、暗闇の中でもぎらりとよく光る無数の瞳が一心に鬼村に注がれている。
 なるほど、この闇の中に居ればこんな目にもなろう。鬼村は場違いな感心とわずかばかりの焦燥感を胸に抱き、彼らと目を合わせぬよう、そのはるか先、暗闇の一点をじいっと見つめながら数秒かけて立ち上がった。全員の瞳がそれを追う。それからトートバッグの中に衣擦れの音一つたてず手を入れ、亡霊のようにふらりと歩き出した。全員の顔がそれを追う。
 鬼村が数歩も行かぬうち、背後に足音が加わった。一人……また一人……進めば進むほど彼女の後を追う足音が増えていく。前方に立ち並ぶ扉の前の人々も、鬼村が通り過ぎるまでは首を曲げて彼女を静かに見つめていたが、通り過ぎるとその列に参加した。
 気が付けば、彼女は軍隊の行進のような足跡を引き連れて歩いていた。
 その時、鬼村の指先がトートバッグの中にぞんざいに放り込まれたままの鋏に触れた。
 鬼村は立ち止まる。夥しい数の足音も止まる。鋏を静かに取り出し、自分の長い髪を一纏めにして前に持ってくると、その先端を持ってじょきりと切り落とした。鬼村の項に生臭い息がかかった。
 ひゅっと鋭く息を吸い込んだ鬼村は、切った髪を後ろに向かって投げ捨てると同時に脱兎のごとく駆けだした。背後で恐ろしい声がする。ぐちゃぐちゃ、ばりばり、ごりごりと、聞くも恐ろしい音がする。鬼村は振り返らない。そんな事をしたら、食い殺される最中の幾人もの自分を見ることになる。そんなのは気分が良くない。
 気づかれないうちになるべく彼らから遠ざかり、出口を見つけなければ。鬼村は必死に目をこらし、一つの扉を見出してそこに飛びついた。中は2DKの至って普通な部屋だった。表の廊下が嘘のように平平凡凡な室内で、窓からは明るい陽光が差し込んでいる。一瞬帰ってこられたかと思ったが、右手の部屋で首を吊っている最中の男がじたばたもがいているので違うようだ。男は血走った目で鬼村に助けを求めた。鬼村は彼を見もせずずんずん部屋の中に入って行く。何かを探すように辺りを見回した後、確信を持って風呂場の扉を開けた。
 暗い廊下に出た。鬼村は舌打ちをし、仕方なく廊下を小走りで進んだ。思ったよりも入り組んでいる。このままではいつ帰れるか分かったものではない。だが焦る気持ちとは裏腹に、四十の鬼村の体は既に悲鳴をあげていた。一日中座っての執筆作業に加え生来の出不精、日頃の不摂生と運動不足が祟り軽度の肥満ときている。そんな自分が、よもやこんな大立ち回りを演じる事になるなんて。
 後ろの方で何やら騒がしい気配がし、彼らが自分達が食ったのは髪の毛であったと気が付いた事がうかがえた。怒っているだろう。あれに捕まったらさしもの鬼村もどうする事も出来まい。
 また扉を一つ開けた。今度は夜の部屋に出た。風呂場の電気だけがついていて、一定の間隔でぽたりぽたりと水音が続いている。鬼村はベランダに続く窓を開けて、一歩踏み出した。
 冷たい手すりを両手でつかんだ感触。顔を上げると、一面赤に覆われた世界が広がっていた。何よりもまず空が赤い。赤黒い血のように輝き、その光に縁どられた黒雲が、戦場の偵察用ドローンのように獲物を探して飛んでいる。荒廃した町がその下にあり、遠くに鋭い岩山が聳えているのが見えた。悲鳴が風にのって微かに聞こえてくる。焦げ臭さが鼻をつく。全身を舐るような心地悪い熱気が絡みついてきた。
 地獄だ。
 鬼村は自分が生命の危機に曝されているのも忘れ、薄く唇を開きその光景に魅入られた。
「嗚呼」掠れた溜息がこぼれる。
 なんと美しい光景だろう。
 その時、鬼村の横をすごいスピードで何かが横切った。はたと我に返り、横を見やる。鴉だった。射干玉の鴉が一羽、手すりにとまってガラス玉のような瞳で鬼村を見つめている。
「あっ」鬼村が思わず声をあげると、鴉はすいと廊下の奥に飛び去ってしまった。右手は変わらず扉が続いているが、今回は外廊下のため視界が良い。苦も無く鴉の後を追って走り出すと、ほどなくして前方に小さな人影が見えて来た。
「ママ!」
 子供が高い声をあげた。鬼村は子供の前で止まり、息を整えながら言った。
「美命、なにしてンの?」
「ママが迷子だったから、鴉のおじちゃん呼んできたの」
「おじちゃん呼んできてくれたの?」
 にっこりと笑って頷く娘と鴉を交互に見やり、鬼村はははあと息を吐いた。渡りに船とはまさにこの事だ。腰をかがめて美命と同じ視線になると、鬼村はその頭を撫でた。ぐにゃり。猫を撫でたような不安定な感触が手のひらに広がった。
「あらあ、ありがとうね。助かったわ」
「どういましたして!」
 いつまで経っても「どういたしまして」が言えない我が子に笑いつつ、鬼村は久しぶりに肉眼で見る美命をじっくり眺めた。可愛らしいワンピース……きっと”父親”が買い与えたものだろう……おでこを出したセミロング、健康的に日焼けした肌、鬼村には似ても似つかぬ整った顔立ち、零れそうなほど大きな……あまりの大きさに違和感さえ覚えるほど大きな瞳……。
 鬼村は小さな唇をきゅっと一文字に結んだ。
 突然、二人のずっと後ろで荒々しく扉が開く音がした。見れば廊下に真っ黒い何かがぞろぞろと溢れ出している。それはうねり、蠢き、一つになったり千切れたりしながら、鬼村を見止めた瞬間恐ろしい咆哮を張り上げた。
「美命、一緒に帰る?」素早く鬼村が問う。
「ううん、もう少し遊んでから帰る」娘は身を乗り出して下を指さした。同い年くらいの子供達が、団地の前で集まって遊んでいる。その中に、人の姿を保てている者は二人しか居なかった。
「そう、暗くなる前に帰っといでね」
「はあい」屈託ない、愛らしい返事だ。
 鴉が飛び立ち、鬼村はその後を追って走り出した。最後に一度振り返ると、美命が小さな手を懸命に振っているのが見えた。その後ろに、突き出た手足をめちゃくちゃに振り回しながら突進してくる黒い塊。感傷に浸っている暇はない。鬼村の足は自分が感じているよりずっと遅いのだから。
 走っているうち左手がまた壁になり、暗闇の中に舞い戻ることとなった。前を飛んでいた鴉の姿は闇に紛れてもう見えない。後ろを追いかけてくる彼らの姿も闇に紛れてもう見えない。音だけが頼りの世界で、不意に前方に光が降りて来た。エレベーターが降りて来たのだ。鬼村はこれ以上は無理という程足を動かして駆けに駆けた。
 ドアが開いた。暁烏が居た。鴉が彼の肩に音もなくとまると、彼は手に持っていた煙管を吸い、大きく紫煙を吐き出した。濃霧のような白い煙と甘い薬草の香りの中を走り抜け、壁に激突する勢いでエレベーターの中に飛び込んでくる鬼村。間髪入れずに振り返って閉めるのボタンを押すと、ゆっくり扉がスライドして閉まった。けぶる向こうで何かが蠢いているが、暁烏が放ったその壁は突破できないようで、オォン、オォム、と悔し気な低い呻き声だけが鬼村を呪っている。
 エレベーターは上昇をはじめた。
「はい、鴉のおじちゃんですよ」
 走り疲れて座り込む鬼村に、にやりと笑った暁烏が言う。鬼村は汗をぬぐいながら力なく笑った。
「すいません、まさか先生呼んできちゃうなんて」
「いいよ、ちょうど鬼市おにいちで買い物してたから。まったくねえ、鬼村センセ。こっちに体のまんま来ちゃア駄目でしょ」
「いやあ、緊急事態でして」
 暁烏は煙管を吸いながら壁に背中を預けた。
「一口さん助けたってのは聞いたけど、それにしてもの体たらくよ」
「ごもっとも」
「しかも、ほとんど丸腰だし」
「いやその通り」
「あとね、君、も少し痩せなさい」
「返す言葉も御座いません」
 醜い顔を歪めてへらへら笑う鬼村を横目で一瞥し、暁烏は煙を吐き出して思案気に呟いた。
「……美命ちゃん、崩れ始めてるよ」
 鬼村は僅かに俯いて「そうですね」と消え入りそうな声で返事をした。
「そろそろ消してやんないと、君の手離れたら厄介だよ」
「分かってます」
「……辛いなら、おれがやってやろうか?」
「いやいや、その時は自分でやりますから」ひらひらと手を振る。「だから、まあ、もう少しだけ……」
 ため息ともつかない息遣いで紫煙を吐き、暁烏は目を細めて天井を見上げた。
「哀れな女だねえ、君は」
 鬼村は微笑した。
「性分でね」
 エレベーターの小窓から、突然光が差し込んできた。扉が開いた。鬼村がふらふらと立ちあがると同時に、「先生!」と甲高い悲鳴が鼓膜に突き刺さる。
 一口が両手を握りしめ、今にも泣きそうな顔で立っていた。横には困り顔の管理人が居る。あの状況でもきちんと言いつけを守って、管理人を呼んできてくれたのだ。なんと健気な事だろう。鬼村より少しだけ背の高い一口だが、今ばかりは忠実なポメラニアンに見える。
「ただいま」鬼村はあっけらかんと言った。「時間、どれくらい経った?」
「私がここに着いてからまだ十分も経ってないですけど……あの、な、なんで、暁烏先生が……?」
 上ってきたエレベーターに鬼村のみならず暁烏が(しかも肩に鴉まで乗せて)乗っていたものだから、驚きで先ほどまで彼女を締め付けていた不安が吹き飛んでしまったようだ。暁烏は煙管を咥えたままにこりと笑って見せた。
「や。ちょうど近くに居たもんでね」
「近く……」冬眠から目覚めた熊のような愚鈍さでエレベーターを降りる鬼村を見た後、一歩も動かない暁烏に視線をやって一口は眉根を寄せた。「あの、降りないんですか?」
「あー、気にしないで。今のぼくはね、そっち行けないの」
「え?」
「うん、良いから良いから。じゃあ、また今度」暁烏は閉めるボタンを押すと、ふうと煙を吐いて微笑んだ。一口はその煙から、嗅いだことのある匂いがするのに気が付いた。「一口さん、鬼村をよろしくねえ」
 扉が閉まり、エレベーターは当たり前のように存在しない地下へと潜っていった。ぽかんとしたまま振り返る。鬼村は管理人に指示を出している所だった。
「だから、壁面の4と言う数字も5に塗り替えてください。全ての棟で四階を五階に繰り上げて、とにかく四とつくものは全部変えてください」
「わ、分かりました。でも塗り替えるのには少し時間がかかるんですが、その間はどうしたら……」
「その間は、エレベーターの壁に大きな鏡をつけてください。デパートとかでそう言うエレベーターあるでしょ。あれで少しは軸がズレますから、繋がりづらくはなります。でも気休めなんで、とにかく四の繰り上げを最優先に」
「すぐ手配します。本当に有難う御座いました」
 管理人は深々とお辞儀をし、急いで管理人室に向かって駆けだした。これからやる事が山積みだが、入居者が地下に引きずり込まれて行方不明になる心配と無縁になると思えば、どんな大変な事だって大歓迎だ。
 一口は鬼村の横につき、じっくりと鬼村を見つめた。疲れた様子だが、先ほどエレベーターで別れた彼女と何も変わりない。奇妙な出来事なんか、これっぽちも起きなかったような態度だ。
「先生、どうやって帰ってきたんですか?」
「んー? めっちゃ走った」
「あの真っ暗な中を!?」
「詳しく話してやるから、どこか喫茶店にでも入ろう。もう喉からからでやばいわ」
 歩き出した鬼村のふくらはぎが痙攣を始める。太ももが震え、足の裏の感覚がないことに気が付いた。疲労困憊だ。確かに全速力で走ったが、何もフルマラソンを走りぬいたわけでもない。距離で言えばどれくらいだ。時間で言えばどれくらいだ。恐らく、一口なら汗一つかかず走れる程度だ。
 鬼村は大きく息を吐き出して唸った。
「アタシ、痩せるわ……」
 一口はなんと声をかけるべきか分からず、不思議そうに彼女を見つめた。
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