漱石先生たると考

神笠 京樹

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正保編・漆

第三十話 粒あんとこしあん

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「おっかあ。いや……母上。豆は大納言を用いたい」

 子供ではないし、今の時点では侍なので、いつまでもおっかあと呼んでいるわけにもいかないのだった。

「そうかい。大納言はね、うん、いい豆だよ。皮がしっかりしているから、特に粒あんには向くね」

 江戸時代の作物品種でこんにちそのままの名で流通しているものというのはそんなに多くはないのだが、小豆の大納言はその一つの例であると言える。大納言は小豆の中でも特に大粒な品種の群であり、さらに細かく分けると丹波大納言、京都大納言などがある。大納言という名については、豆のなりが貴族の大納言が被る烏帽子の形に似ているからという説と、公卿には切腹の風習がないから大納言と名付けられたという説との二説があり、どちらが正しいのかは分からない。これは前にも述べたが、煮崩れがしにくく皮が破れないので武士に好まれ、またその性質から、鹿の子や甘納豆などの豆粒の形状を保った製品には特に適する。

「というわけで、豆屋で大納言あずきを仕入れてきた。これを、まず洗うんだよな」

 門前の小僧は習わない経を読むとは言ったもので、いちおう菓子屋の家に育った安左衛門には最低限の知識はあった。

「そう、まずは表面を軽く洗う。それから、じっくり水で研ぐやり方と、乾煎りにするやり方があるけれど」

 加工前の小豆にはえぐみや渋みがあるので、それを取り除くために洗うのだが、非常に時間がかかる。時間をかけずに仕込む場合は、乾煎りにする方が早い。ただし品質は落ちる。

「殿様にお出しする前提だからな。手間のかかるやり方のほうをやらせてもらうよ」
「じゃあ、今から小豆を研ぐコツを教えるからね。見てな」

 そういうわけで、江戸で十年自分の店を切り盛りしていた菓子屋の女による講釈を受ける安左衛門である。なお、今さらの説明になるが、安兵衛は安左衛門が松山に移ってまもなく物故している。

「それじゃ、小豆を煮ていくよ。最初の湯は一回、こうやってすぐに捨てる。そのあともまめにアクを取らないといけない。火は弱くして水が飛びすぎないように、時間をかけて煮込んでいく。砂糖を入れるときにも極意があるからね、よーくあんこの出来上がりの状態を見ていな」

 そうこうして、とりあえず最初の粒あんが出来上がった。よい仕上がりであるが、これを使って菓子を作って殿様にお出しして終わりというわけにはいかない。おみつがお城の厨に上がるわけにはいかないし、自宅で煮たあんこを城に持って行って菓子を作るというわけにもいかないので、安左衛門ひとりで完璧なあんこが炊けるようになるところまでが修行である。

「次は、こしあんの説明もしようか。こしあんにはいい漉し器を使うことが大切だ。手ぬぐいで作るやり方もあるんだけど、馬毛の漉し器があるならそれが一番いい」
「それなら用意してある」
「そうかい。流石にお城勤めは違うねえ。じゃあ、あんの漉し方の基本からだ」

 と、言っているようなところで、喜代が離れに入ってきた。

「あの、安左衛門さま、お母上さま。お茶をお持ちいたしました。ご休憩になられませんか?」
「お母上さま、か。いやはや。このあたしが武家の娘さんの姑をやる日が来るたあね」

 ちなみに、この先何がどうなっても安左衛門が武士で居続ける可能性は無くなっているわけだが、婚約は破談になってはいなかった。安左衛門は「家禄を返上する」と申し立てたときにいちおう話が立ち消えとなる可能性を考えはしたのだが、喜代はもちろん、勘之丞もそのことを問題にはしなかった。そもそも、侍の娘が町人の嫁に行くのはそう珍しいことではないのである。その逆ならば多少は難しくなるが、それにも「武家の養女になる」という抜け道があるくらいなものであった。

「うまい煎餅ですな」
「ええ、安左衛門さま」

 小さな二人の世界が出来上がっていた。おみつもそれを冷やかしたりはしなかった。
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