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正保編・参
第十話 井筒屋
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「たのもう」
ある日のこと、安左衛門は古町にやってきて、井筒屋の暖簾をくぐった。
「これはお武家さま。いらっしゃいまし」
暖簾と言うのは商店が店頭に飾った布のことである。色と形状によって業種などを表すのだが、井筒屋の暖簾は白かった。なぜ白いかというと、上等の白砂糖を扱う上菓子屋である、ということを表している。さて店内には、日保ちのする菓子がいくつか展示されているだけで、あまり商品は置かれていない。それもそのはず、この時代の上菓子屋というのは原則的に注文を受けてから商品を作る。つまり、受注生産を主としているのである。
「品書きを見せてくれ」
「はい、ただいまこちらに」
安左衛門はじっくりと品書きの内容を改める。改めながら、ちらちらと店内の様子を盗み見する。店の職人が何か、作業をしていた。どうも餡を練っているようだが、それ以上のことは分からない。品書きに目を戻す。かすていらが載っているが、ものすごい金額であった。
「かすていらは、注文から受け取りまでにどれくらいかかるのかな」
聞いてみた。
「はい。かすていらですと、まる二日より先から御予約を頂かなければなりません。大変失礼ながら、お城の御用でございましょうか」
「いや。拙者、実は甘いものに目がなくてな。いちどこの店に来てみたかったのだ」
「それはそれは」
半分以上嘘であるが、それは方便というものであった。御藩主定行公が『たると』なるものを食べたがっていて……というところから始まるほんとうの話を、ここで語って聞かせるわけにはいかない。それは自分たちの問題であるから、いかに自分がいま必要としている技術や知識を持っていようと、城下の町人に過ぎない彼らを安易に巻き込むわけにはいかないのである。
「実は先日、城で貴店のかすていらを御下賜に預かったのだが、いや、頬が落ちるが如きとはあのようなものを言うのであろうな」
「恐縮にございます」
ちなみに、武士というものは衣装格好を見ればある程度身分と格式が分かるようになっている。安左衛門が自分の身代で井筒屋に通えるような身の程の侍ではないはずだということを井筒屋のあるじはとっくに気付いているのだが、しかしそんなことはおくびにも出さない。
「ここに載っている晩柑糖というのは、どんなものかね」
饅頭やら練り切りやらといった説明を受けなくても知っている菓子ももちろんたくさん品書きにあるのだが、よく分からないものも多かった。
「はい。いまの季節に取れます晩柑の実をくり抜き、寒天を流し込んだものにて御座います」
晩柑というのは柑橘類の一種である。みかんより大ぶりで、出回る時期が早く、夏に獲れる。なお余談だが、夏みかんと呼ばれる種類のみかんはこのような名であっても旬は春である。
「面白いな。では、一つ頼むとしよう。あとは、小麦饅頭を一折頼む。いつになる?」
「饅頭の方は、お急ぎでしたら一刻(二時間)ほどでご用意できます。晩柑糖は、本日夕刻までお時間を頂きたく」
「分かった。じゃあ夕方にまた、まとめて取りに来る。包みは、別々にしてくれ。代金はそのときでよいか」
「はい、御意のままに。おありがとうございます」
本当は夕方まで店先に突っ立って作っているところを見物したいが、そんなことをするわけにはいかなかった。武士というのは面目と体面が大切なのである。
さて、古町というところは松山の西側にある。松山城から古町を経て、物流拠点である三津浜の港へと道が伸びている。古町が商業地として整備されたのは定行の入府よりも以前、加藤嘉明による松山城築城の際であった。というわけで、この時代には湊町より古町の方が栄えている。
「昼飯は古町で食っていくか」
せっかく来たので、そういうことにする。といって、なにも遊んでいるわけではない。
「ここにしよう」
安左衛門が選んだのは、「うんとん」の看板を出した露店であった。うどん屋である。露店だが、立ち食いではなく腰掛けは用意されている。
「らっしゃい。うどん一杯、十六文でございやす。具は何かお乗せしましょうか」
「なま玉子をふたつ、のせてくれ」
「へい、がってん」
うどん屋は元気よく返事をして、うどんをゆで始めた。しばらく待つと、あつあつの汁と、生卵が二つ落とされたうどんが手渡される。
「ふむ」
ずるずるとうどんをすすりながら、丼をよく観察する。すると、安左衛門はあることに気付いた。卵の様子が、片方ともう片方とでわずかに違うのである。
「ふむ……?」
片方のたまごは白身が水のように流れ汁の中に沈んでいたが、もう片方のたまごはぷっくりと盛り上がり、うどんの上で自らを主張していた。そういえば、黄身の色も違うようである。
「うむ。馳走であった」
このたまごはそれぞれどこで仕入れたもので、どうしてこのような違いが出るのか。興味があった。だが、うどん売りを問い詰めるわけにはいかない。侍が、出された食い物に因縁を付けているなどと思われたら大変なことになりかねないからだ。町人上がりの身だからなおさらそう思うのだが、武士というのは全く面倒なものである。まあ仕方ない、帰ってうちの卵をもっとよく調べてみよう。安左衛門はそう思った。
ある日のこと、安左衛門は古町にやってきて、井筒屋の暖簾をくぐった。
「これはお武家さま。いらっしゃいまし」
暖簾と言うのは商店が店頭に飾った布のことである。色と形状によって業種などを表すのだが、井筒屋の暖簾は白かった。なぜ白いかというと、上等の白砂糖を扱う上菓子屋である、ということを表している。さて店内には、日保ちのする菓子がいくつか展示されているだけで、あまり商品は置かれていない。それもそのはず、この時代の上菓子屋というのは原則的に注文を受けてから商品を作る。つまり、受注生産を主としているのである。
「品書きを見せてくれ」
「はい、ただいまこちらに」
安左衛門はじっくりと品書きの内容を改める。改めながら、ちらちらと店内の様子を盗み見する。店の職人が何か、作業をしていた。どうも餡を練っているようだが、それ以上のことは分からない。品書きに目を戻す。かすていらが載っているが、ものすごい金額であった。
「かすていらは、注文から受け取りまでにどれくらいかかるのかな」
聞いてみた。
「はい。かすていらですと、まる二日より先から御予約を頂かなければなりません。大変失礼ながら、お城の御用でございましょうか」
「いや。拙者、実は甘いものに目がなくてな。いちどこの店に来てみたかったのだ」
「それはそれは」
半分以上嘘であるが、それは方便というものであった。御藩主定行公が『たると』なるものを食べたがっていて……というところから始まるほんとうの話を、ここで語って聞かせるわけにはいかない。それは自分たちの問題であるから、いかに自分がいま必要としている技術や知識を持っていようと、城下の町人に過ぎない彼らを安易に巻き込むわけにはいかないのである。
「実は先日、城で貴店のかすていらを御下賜に預かったのだが、いや、頬が落ちるが如きとはあのようなものを言うのであろうな」
「恐縮にございます」
ちなみに、武士というものは衣装格好を見ればある程度身分と格式が分かるようになっている。安左衛門が自分の身代で井筒屋に通えるような身の程の侍ではないはずだということを井筒屋のあるじはとっくに気付いているのだが、しかしそんなことはおくびにも出さない。
「ここに載っている晩柑糖というのは、どんなものかね」
饅頭やら練り切りやらといった説明を受けなくても知っている菓子ももちろんたくさん品書きにあるのだが、よく分からないものも多かった。
「はい。いまの季節に取れます晩柑の実をくり抜き、寒天を流し込んだものにて御座います」
晩柑というのは柑橘類の一種である。みかんより大ぶりで、出回る時期が早く、夏に獲れる。なお余談だが、夏みかんと呼ばれる種類のみかんはこのような名であっても旬は春である。
「面白いな。では、一つ頼むとしよう。あとは、小麦饅頭を一折頼む。いつになる?」
「饅頭の方は、お急ぎでしたら一刻(二時間)ほどでご用意できます。晩柑糖は、本日夕刻までお時間を頂きたく」
「分かった。じゃあ夕方にまた、まとめて取りに来る。包みは、別々にしてくれ。代金はそのときでよいか」
「はい、御意のままに。おありがとうございます」
本当は夕方まで店先に突っ立って作っているところを見物したいが、そんなことをするわけにはいかなかった。武士というのは面目と体面が大切なのである。
さて、古町というところは松山の西側にある。松山城から古町を経て、物流拠点である三津浜の港へと道が伸びている。古町が商業地として整備されたのは定行の入府よりも以前、加藤嘉明による松山城築城の際であった。というわけで、この時代には湊町より古町の方が栄えている。
「昼飯は古町で食っていくか」
せっかく来たので、そういうことにする。といって、なにも遊んでいるわけではない。
「ここにしよう」
安左衛門が選んだのは、「うんとん」の看板を出した露店であった。うどん屋である。露店だが、立ち食いではなく腰掛けは用意されている。
「らっしゃい。うどん一杯、十六文でございやす。具は何かお乗せしましょうか」
「なま玉子をふたつ、のせてくれ」
「へい、がってん」
うどん屋は元気よく返事をして、うどんをゆで始めた。しばらく待つと、あつあつの汁と、生卵が二つ落とされたうどんが手渡される。
「ふむ」
ずるずるとうどんをすすりながら、丼をよく観察する。すると、安左衛門はあることに気付いた。卵の様子が、片方ともう片方とでわずかに違うのである。
「ふむ……?」
片方のたまごは白身が水のように流れ汁の中に沈んでいたが、もう片方のたまごはぷっくりと盛り上がり、うどんの上で自らを主張していた。そういえば、黄身の色も違うようである。
「うむ。馳走であった」
このたまごはそれぞれどこで仕入れたもので、どうしてこのような違いが出るのか。興味があった。だが、うどん売りを問い詰めるわけにはいかない。侍が、出された食い物に因縁を付けているなどと思われたら大変なことになりかねないからだ。町人上がりの身だからなおさらそう思うのだが、武士というのは全く面倒なものである。まあ仕方ない、帰ってうちの卵をもっとよく調べてみよう。安左衛門はそう思った。
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