漱石先生たると考

神笠 京樹

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明治編・3

第7話 虚子と子規

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 俳人としての正岡子規には二人の高弟がいた。高浜虚子たかはまきょし河東碧梧桐かわひがしへきごとうである。この三人はみな愛媛松山の出身で、さらに言えば金之助こと夏目漱石が教鞭をとった愛媛県尋常中学校の同窓であった。

 子規と漱石が同じ慶応三(一八六七)年の生まれであるのと同じように、虚子と碧梧桐も一つしか年が離れていなかった。碧梧桐の方が上で明治六(一八七三)年の生まれ、虚子は明治七(一八七四)年に生まれた。虚子と碧梧桐は例の尋常中学校で出会って親友となり、先に弟子となっていた碧梧桐が、子規に虚子を紹介したものであるという。

 さて、その虚子が、いま神戸の病院に子規を見舞っていた。病室の戸を開けて入ると、病人が寝ている他は誰もおらず、しいんとしていた。透明なように青白い病人の顔が、こちらを見た。寝ているのかと思ったらそうではない、虚子が入って来たことには気づいていたのである。だが、何も言わない。虚子もしばらく黙っていたが、やがて、どうですかと尋ねた。子規は小さく手を動かした。どうやら手招きをしたものらしい。耳を近づけると、子規は囁くような声で言った。

「血を吐くのでな。ものを言わん。動きもせん」

 途端、虚子は血の臭いがむわっと漂うのを感じた。血の臭いは、子規の口から漂ってくるのである。女の看護人が入ってきて、カップを差し出すと、子規はその中に血を吐いた。激しくせき込んでいた。血の臭いに満ちた室内からとりあえず退出して、今までここで子規の面倒を見ていた竹村黄塔たけむらこうとうに会った。竹村は碧梧桐の兄で、彼自身も子規の友人であるのだが、たまたま神戸の師範学校で教職に就いていたので、都合が良いとここに呼ばれていたのである。

「来てくれて安心したよ」

 竹村は肩の荷が下りたような顔をしていた。虚子は病床の子規のための管理ごと一切を竹村から引き継ぎ、しばらく子規の世話を焼いた。

「食欲をまったく示さないのがいけません」

 と医者が言った。子規はひどく衰弱していた。匙に乗せたわずかばかりの牛乳すらも拒むのである。子規は本来、食が細い人間ではない。むしろ大喰らいである。それがこの有様なのだからいけなかった。この時代には、まだブドウ糖点滴などの医療技法は知られていない。医者はやむなく、滋養浣腸の処置をとった。滋養浣腸とは、栄養のある液剤を直腸から直接吸収させる技法を言う。

「これで駄目であれば、いよいよ今晩駄目かもしれません」

 と医者は悲観的であった。虚子も背筋の冷える思いである。子規は危篤であった。だが、幸いなことにはこの晩がまさに峠だったのであって、その後快方に向かい始めた。喀血の頻度も下がり、やがて碧梧桐が見舞にやってきた頃には、まともに口も利けるようになっていた。

「いや、船の上でな。立っていられるうちは船べりから海に血を吐いていたのだが、いよいよ寝たきりになってからはどこにも血を捨てる場所がなくなって、仕方がないから血を全部のみ込んでいたら、胃を悪くしたらしくてすっかり食欲がなくなってしまったんだ」

 だいぶ元気になった子規は病院を出、須磨の保養院へと移った。須磨というのは神戸の中にある地名だが、『源氏物語』に出てくるので有名なところである。虚子はそこにもついていったが、子規が蕎麦屋に出かけて行って、健康であるはずの自分よりももりもりと、名物の敦盛そばを食うのを見て「さすがにもういいか」と思ったらしく、ひとりで東京に戻った。子規はその後、しばらく須磨で静養を続けた。暇だから、『源氏物語』など読んで暮らす穏やかな日々であったという。

 そして、そこからも退院することになった夏の終わり頃のこと。子規は自宅のある東京に向かうのではなく、松山に帰郷することに決めた。もちろん、そこに朋友夏目金之助が居ることはもとより知っている。

 子規は漱石の下宿に転がり込む腹積もりであった。
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