媚醜天落

四季人

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媚醜天落

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 其れは、とてもいやな笑顔であった。
 まるで人の事など信用していない、面の皮を歪めただけの、見ているだけで鳥肌が立ちそうな、気味の悪い笑顔だ。
 そんな醜いかおの女の全身を検めるようにめつすがめつ眺めながら、おれだったら……と雷蔵は思う。
 そう、おれだったら、よしんば此の世の全ての不幸と辛酸を嘗めた処で、左様な不届きな面などしないだろう、と。


 ………………


 雷蔵は道場の嫡男でありながら、家督を逃した放蕩者である。
 全ては彼が眉目秀麗な偉丈夫であった事に起因している。
 彼は子が為せぬ。
 彼の手の早さは郷でも有名であり、屋敷に居た頃などは、およそ二間程の間合いに飯炊きや女中が近づいただけで、例えその者に夫が在ろうと初花前であろうと、お構い無しに片端から籠絡し、犯して回っていた。
 彼の不妊は元服の頃、その悪癖に酷く立腹した父親の辰之進が結紮けっさつさせた為である。
 雷蔵は泣いた。
 根切られた事に対してでは無い。痛みの所為せいだ。
 斯様に歪んだ認知であったから、恐ろしい事に、雷蔵は傷が癒えるなり、「これで気兼ね無く女を貫ける」と嘲けり吹かし、其のおぞましさに、辰之進は思わず身震いし、彼に家を継がせる事を諦めた。
 だが、道場主として、腕の立つ雷蔵を勘当する事は出来ぬ。
 そうかと云って己の手に掛ける事も出来ず、辰之進は其のまま彼を家筋の暗部として扱い、留める事しかしなかった。……否、出来なかった、というのが正しいのだろう。
 何しろ、彼が姦淫した女達は一人として嫌がってなどいなかったのだから。
 
 雷蔵にとっては退屈な日々であった。
 木刀を振るう事で溜まってゆく、彼の底無しの性欲を吐き出させ続ける為、辰之進は門下達に命じて次から次へと女を連れて来させた。
 彼の伊達を目当てに、それも、子を孕む心配が無く、金子きんすも貰えるとあれば、と、屋敷にやってくる女は後を絶たなかった。
 しかし、その頃から雷蔵の静かな苦痛は始まった。
 屋敷に来る者等の柔肌に指先で触れる度、その女陰ほとに己の帆柱ほばしらを埋める度、そして意味を失くした情欲を吐き出す度に、云い様の無い虚しさに襲われるようになった。
 皆一様に美しい女達であったから、尚更始末が悪い。
 抱けば抱くほどに、雷蔵の胸中は擦れて荒んでゆく。
 其れはまるで魂を捕えられ、軟禁されてしまった様な心境に近い。
 雷蔵のからだは、まるで其の心情に呼応するかの如く、見る間に痩せていった。

 或る日、雷蔵は賭けに出た。正しくは占いと云う方が合っているのかも知れぬ。
 彼はしとねにやって来た女から、辰之進が支払ったのであろう金を巻き上げ、其の儘追い払った。
 痩せた顔で向ける侮蔑の視線は、女を酷く不快にさせたのだ。其れは実に容易であった。
 そして、其の金を持って屋敷を抜け出し、夕暮れの河原へ夜鷹よたかを買いに出掛けた。
 辻褄が合わぬ事と思えるやも知れぬ。
 しかし、結局の処、頭の霧を晴らせる物と云えば、女の肌しか知らぬ。或る意味己が課した不自由故の不幸だ。
 とは云え、ここで下手な女を買えば、其れこそ元の木阿弥もくあみと云えよう。
 故に、河原へと出向いたのである。
 幸か不幸か、彼は此れへ至る迄、美しい女しか抱いた事が無かった。
 其の事実に対して、彼自身、何某なにがしかの葛藤を感じていた事を、如何どう云う訳か、此の期に及んで自覚してしまったのである。
 とも有れ、斯様かようにして方針は固まった。
 雷蔵は醜女しこめを抱いてやろうと思った。


 ………………


「わたくしなんかで、良いんで?」
 其の女は、笑顔の様な表情でニタリとしながら、雷蔵から恐る恐る金子を受け取った。
 襦袢じゅばんは汚れ、皮膚は傷み、頭髪も乱れた、年増の女である。
 眼を剥き出して舌舐めずりする様子などは、まるで蛇の其れだ。
 それでも、過去には美しかったのであろう。そう見えぬのは、全て変わり果てたそのかお所為せいだ。
 目も鼻も口元も、加齢の為に下り気味であったが、整ってはいる。
 しかし、まるで作り物の様にぎこちなく不器用な其の表情だけは、如何どうにも神経を逆撫でて来るのだ。

 なんと、気味の悪い女か────

 雷蔵は、後悔しながらも、後には引けぬ状況に足を踏み入れんとする此の状況に、何故か興奮を覚えた。
 此の女を抱く。
 あの荒れた肌に触れれば、其処そこから病を貰うやも知れぬ。
 あの唇に吸い付けば、其処そこから歳を奪われるやも知れぬ。
 あの女陰ほと帆柱ほばしらを埋めれば、たちまち腐り落ちるかも知れぬ。
 ……荒唐無稽だが、女から感じる不幸の臭いは、其の様な物だった。
 だが、雷蔵は己が如何様いかようかおをしているのか知らぬ。
 かつての瑞々しい相貌は失われ、痩けた顔が葛藤の谷に歪んでいく様は、相対する女と然程さほども変わらぬ。
 ────その貌。
 麗しかった頃を想起させつつも、雷蔵の皮の下は脂も落ち、剣を振るう骨と肉だけが残された狼の様であった。
 其れを眼にした女は微かに畏怖いふし、奥歯を鳴らした。

 このまま、このおのこにくいころされるやも────

 期待に似た得体の知れぬ感情に翻弄されている自分を、女は少しだけたのしんでいた。
 そうして転落し、堕落した美同士が目見まみえた縁が、二人の陰部に熱を含ませていったのだ。
 女が襦袢の衿元を広げる。
 異様に伸びた胸乳むなぢが顔を覗かせて、雷蔵は息を呑んだ。

 なんとみじめな体たらくであろう────

 房の丸みは、腹の直ぐ上まで垂れ下がっている。
 斯様なだらしの無い胸乳を、雷蔵は見た事が無い。

 それ故に、
 彼の帆柱は、今迄に無い程に、力強く熱り立った。


 ………………


 醜い交合である。
 河原の小屋、御座に敷かれた蒲団の上。
 愛おしみも慈しみも無く、只々快楽けらくを啜り合う様な、美しさの欠片も無い所業であった。
 汗と、垢と、傷が膿んだ様な悪臭が混じる、えた臭いの中で、一心不乱に陰部をぶつけ合う。

 ────ああ、こんな物は不幸でしか無い。

 敗北感にさいなまれ乍らも、其の後悔が、雷蔵の心を何よりも強く満たしてゆく。

 ────ああ、このままこわれてゆきたい。

 女の情念が、ようやく出逢えた同種である、雷蔵のからだを奥まで咥え込んで、放さない。
 苦痛であった。
 頭に渦巻くのは、今迄に彼が貫いて来た女達の裸体と艶やかな嬌声である。
 其れ等の蜜を含んだ果実を頬張るが如き甘美な心地に比べ、今己が組み敷いている醜女しこめもたらすのは、腐った柿の様な手触りと、びた蜜柑の如き腐臭と、老いた猫じみた啼き声だ。
 しかし、悔しい事に、それでも尚、其の女には男の躰を悦ばせるだけの機能は残されていた。

 ────恐ろしい。

 快楽か恐怖か、雷蔵の背骨が軋む。
 股座またぐらから毒の様に染み渡っていく快感は、美しい女達からは得られぬ、きたない味わいが在った。
 熟れ過ぎた為に酒の風味を感ずる、腐り掛けの枇杷びわの様な、苦い旨味である。
 面白く無い。
 斯様かような醜女に、左様な魅力が有るなど、認めるのも腹立たしい。
 だが、そもそも其れを追い求め、此の僻地迄やって来たのであるから、己は何も間違っていない。
 そうだ。……だからこそ、不愉快極まり無い。
 弾まぬ肉が、
 ふやけた皮が、
 生臭い吐息が、
 全て嫌厭けんえんの具現であるのに、今は其れ等を、死ぬ程求めている。
 雷蔵は初めて色に溺れる男子おのこの様に、醜女の躰を貪った。

 最早、人としての尊厳は無い。
 蛞蝓なめくじ同士が絡み合うが如き醜態である。
 ……否、其れならば生存の為と云う価値が在ろう。彼等には其れすら無い。
 故に、此れこそ、矢張り、人のみが為せる所業なのであろう。
 矮小な欲求を、其れも金の受け渡しと云う嘘をながら、己を壊す、或いは労る為に利用し合っているのだ。
 謂わば人に与えられ、人に課された罰、其の物で或ると云い換える事も出来よう。
 
 物怪もののけの様になった二人の情事は丑三時まで続いた。


 ………………


 東の空が白みだし、抜けた戸板の節目から差し込む朝日が、雷蔵の瞼を照らした。
 唸りながらむくりとからだを起こすと、木刀に拠る物では無い疵や痣が、全身のあちこちで黒紫に変わっていた。
 彼の傍らに横たわった醜女しこめは、筋張った獣の骸の様に、白く小さく纏って、あばらの浮いた胸を微かに上下させていた。
 明るい場所で見ている所為せいか、それとも欲を吐き尽くして一時的に頭が澄んでいる所為か、今は昨夜程苛立ちも覚えなければ、欲情もしない。
 中身の無い財布の様に見窄らしく萎んだ胸乳むなぢの先端はぶなの実の色で、まるで雷蔵の好みでは無かったが、其れを墨々まざまざと見詰めていると、夜闇の中で夢中になって吸い付いていた記憶が、酷く悪い夢の様に、彼の心を抉った。
 矢張り、と雷蔵は眉間と口元に皺を寄せ、苦虫を噛んだかおになった。
 判っていたのだ。
 斯様かような心持ちにる事は。
 しかし、其の胸中は未だ穏やかであった。
 今は、又あの先端に吸い付きたいと云う気持ちと、むしり取った後で、あのゆるんだ胸乳に刃を叩き付けてやりたいという気持ちの両方が、静かにせめぎ合っていた。
 そうだ。
 満たされた訳では無い。欲を吐いた事で、憑き物が幾許いくばくか落ちただけである。
 とどの詰まりは何も変わらぬ。
 一度醜女を抱いた程度で、大きく変わる事など有る筈も無いのだ。
 深い罪悪感と喪失感を抱いて、彼は着物と刀を取ると、裸で寝ている女を其の儘にして、小屋を出た。
 河原は朝陽に照らされて、不穏で陰鬱な匂いが全て洗い流されたかの様に映る。
 光る水面を眺めて、其の美しさに溜息を一つ漏らし、雷蔵は涙を溢した。

 ようやく、己に掛けられた呪いの正体を知ったのである。

                             了
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