キスからの距離

柚子季杏

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キスからの距離 (17)

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 慌てて出勤の支度を整える橘川の背後を付いて歩きながら、それでも内海は決心が鈍らない内に伝えたいと口を開く。
「悦郎、俺、話があるんだ」
「悪い智久。マジで時間無いんだ。帰ったら聞くから」
「帰ったらって……」
「2泊だったか3泊だったか、カレンダーに書いてあるから見ておいてくれ」
「ちょっ、悦郎!」
 首筋の痕に気付かれたらどうしようかと着る物にすら悩み、春先だからこそ誤魔化しが利くだろうと身に付けたタートルネックも、今朝の橘川にとっては何の意味も成さなかったようだ。襟ぐりの大きく開いたシャツを着ていたところで、多分気付かれる事すらないのだろう。
(お前にとって、今の俺って……何なんだ?)
 スーツケースを開き、仕上げとばかりに使い終えたばかりのシェーバーを放り込んだ橘川の背を、内海は唇を噛み締めながら見ていた。

 橘川からの告白によって始まった二人の関係。
 その手を取って良いものかと悩む内海を説き伏せ、力強く自分を引っ張ってくれていたはずの男の心が、今の内海には見えなくなっていた。情熱的に抱かれた夜も、囁かれた愛の言葉も、どこか遠い昔の記憶のようで。
「んじゃ行ってくる」
「待って悦郎!」
「何だよ、マジ時間無いんだって」
「……じゃあせめて、抱いて、キスしてくれよ……前みたいに」
 荷物を手に玄関へと向かう橘川の後姿に必死に声を掛ける。
 最後の賭けだった。橘川が、僅かな時間を割いて自分を振り向き、その腕の中に包み込んでくれたなら。
「今更何言ってんだよ、照れるだろ……帰ったらな」
「悦……悦郎――ッ」
 行ってきますの言葉と共に、玄関扉が音を立てて閉まった。
 内海の心に多少の余裕があったなら、その時の橘川の耳が赤らんでいた事に気付けたのかもしれないけれど。
「もう……無理だよ、悦郎……俺、もう疲れたよ」
 目の前で閉ざされた扉に、内海は自分達の関係を重ねて見てしまっていた。
 玄関先に蹲ったまま流れていく時間の中で、内海はその時、二人で暮らしたこの部屋を出て行こうと決心したのだった。



 どの位の時間が掛かったのだろうか。
 相変わらず薄っすらと聞こえて来る店の喧騒をBGM変わりに、康之と再会するまでの数年間をやっとの思いで語り終えた内海は、テーブルの上に置いたままになっていたグラスの中身を半分ほど、ひと息に煽った。
 少し気が抜けて温くなったビールは苦味だけが強く感じられ、内海は微かに眉を寄せる。
「あいつが帰って来るまでの間に、部屋中磨き上げて、必要最低限の物だけ持って……出て来たんだ」
「出て来たって、今何処に住んでんだ? 実家に戻ったのか?」
 頭の中で整理しながらの、内海の取り留めの無い話を、康之は時折相槌を交えながら辛抱強く聞いてくれた。瞳に心配の色を乗せて内海を見つめる従兄に、そっと首を振って見せる。
「実家には戻ってないよ。今はビジネスホテルに泊まってて……一人で鬱々してるのも嫌になって、飲みに出て来たんだ」
「なるほどな」
 自嘲しながら告げる内海に、目の前の従兄は呆れたような哀れむような視線を向けてくる。自分の情けなさは自分が一番良く分かっていると、内海は益々俯きがちに身を小さくした。
「……お前、それで良かったのか?」
「え?」
「未練たっぷりですって、顔に書いてあるぞ」
 僅かな沈黙の後に康之から掛けられた言葉に、思わず自分の頬を両手で擦り立てた。
 そんなに情けない顔をしていたのだろうか。人恋しいと、他人が見ても分かるほどに消沈した表情を晒していたのだろうか。
「う……だって……今更もう、戻れない――それにあいつは女だって抱けるんだから、俺がいなくなればきっと、結婚もして子供も作って、幸せになれると思うし」
 自分の発した言葉が胸に深く傷を付ける。
 未練など当然の顔をして内海の中に居座っている。
 二人でいても一人でいるような、募る寂しさに耐えられなくなった。打ち寄せる孤独感は一人でいた時よりも大きくて、育ってしまった想いの分だけ、切なさが辛かった。

 だから、逃げ出した。
 頭を占める悪い想像に耐えられなくなったのだ。

 橘川から別れを告げられたりしたら、多分自分は一人で立ち上がることが出来なくなると思ったから。
 彼を守りたかったなんて言い訳は、ほんの僅かなものだろう。拒絶されたくなくて、自分が傷付く事が嫌で、弱い心が上げる悲鳴に従ってしまったのだ。
(好きなのに――嫌いになんて、なれっこないのに)
 好きな相手と結ばれることを端から諦めて生きてきた自分に、初めて夢を見せてくれた人。内海も幸せを手にして良いのだと、そう思わせてくれた大切な人。
 ずっと大事に温めて、育てていきたかった二人の関係を、自らの手で断ち切ってしまった。
 内海という存在が消えた部屋で、橘川は何を思っただろう。
 ようやく内海から解放されたとホッとしているのだろうか。それとも自分があの部屋で感じていたように、少しは寂しいと思ってくれているだろうか。
 思ってくれていれば良いのにと、仄暗い想いが沸いて消えて行く。
「……まあ、お前が良いなら良いけどな」
「康兄」
「夜の街には色んなヤツが溢れてる。話したくない事は深くは聞かない、それがこの世界のルールのひとつだ。お前がそれで納得してるっていうなら、俺はこれ以上何も言わないよ」
 内海から視線を外した康之が、指先で弄んでいた煙草に火を点ける。
 ゆるりと立ち上がる紫煙をぼんやりと目の端で追う内海に、康之は過去の話は終わりだと長い足を組み直した。
「で?」
「で、って?」
「この先どうすんだ? 仕事も無い、住むところも無いじゃ、暮らしていけねえだろ」
 吸い込んだ煙を細く吐き出しながらの言葉に、頭の隅へと押し遣っていた問題に再び直面させられる。首を傾け問い返した内海は、告げられた言葉に項垂れた。
「そうだった……どうしよう」
 衝動に駆られるように部屋を飛び出して来たけれど、今の内海は職も失ってしまった状態で、今はビジネスホテルに身を寄せてはいるけれど、少ない貯蓄ではいつまでそれが持つかも分からない。
 一瞬でも現実逃避をしたくて夜の街へと繰り出しては来たけれど、問題自体は一歩も進展してはいないのだ。
「康兄、安い賃貸とか知らない? 出来れば敷金礼金掛からないとこが良いんだけど」
「うちの若い連中を住まわせてるマンションの部屋があるにはあるんだけどなあ……生憎定員オーバーだ」
 縋る思いで視線を向ければ、康之は眉を寄せて僅かな希望の糸を断ち切ってしまう。

 店の名義で借りている家族向けの部屋が二つ、どちらも一人に一室宛がえるほどの余裕も無い状態で、新入りは一部屋を数名で共有している有様らしい。
 さすがにそんな状況の中に、部外者である内海が図々しく世話になるわけにはいかない。幾ら切羽詰っているとはいっても、それくらいの常識は持ち合わせている。
「そっか、まあ、もう暫らくは貯金も持つだろうし、職と並行して探してみるよ」
 苦笑交じりに頷きを返し、良い物件があったら紹介してと言いながら、残っていたグラスの中身を飲み干す。
 ホストクラブで普通に飲んだなら、この一杯でどの位の会計が取られるのだろうと考えかけて止めておいた。康之だからそんなしみったれた事は言わないだろうけれど、万が一請求でもされたら無職の財布の中身が泣き出してしまう。
「……お前、家事は出来るよな?」
「ん? うん、大学からずっと一人暮らしだったし、ある程度のことなら」
 ソファを立ち掛けた内海への問い掛けに、何故そんな質問をするのだろうと訝しげに康之を見遣れば、当の本人は何やら難しそうな顔をして考え込んでいる。
「仕事は、経理関係の経験があるって言ったっけ?」
「まあ一応……でも一般的な会社の新入社員レベルだよ? 今回初めて期末までの経験をさせてもらったばかりだし」
 辞めざるを得なくなっちゃったけどなと自嘲する内海に、康之は伏せ気味にしていた瞼を上げた。思案気だった先ほどまでの表情とは一変し、口元には不敵な笑みが浮かんでいる。
「敷金礼金ついでに家賃も無しで、バストイレ付き6畳フローリング収納付き……但し共同生活、って物件ならひとつ、心当たりがある」
「え! マジで?」
「ただし条件がひとつ」
「条件、って……何?」
 したり顔で指を折ってみせる康之へと食い付けば、面白そうに口角が持ち上がる。
「家事の一切を切り盛りすること」
「……そんなことで良いのかよ?」
 あまりにも今の自分に対して良過ぎる条件に、内海の眉根が寄る。
 上手い話には裏があると、大昔から決まっているのだ。そんなことも分からないほど馬鹿じゃない。
「それから仕事も、経理と総務関係……まあ、何でも屋みたいなもんだけど、やる気あるか? 給料は手取りでこれ位」
「……マジで? 何それ、何でそんな都合良く」
 手を翳して提示された金額は、内海が以前の職場で貰っていたひと月の給料よりも大分良かった。一般的な大卒二年目の給与額からいっても多い部類だろう。
 怪訝な顔をする内海に、康之は喉奥で笑いながらあっさりと言い放った。
「住むのは俺のマンションの一室。事務所代わりっていうか、物置状態になってる部屋があるんだが、そこを片付けてくれさえすれば自由に使って構わない」
「康兄の家?」
「仕事はこの店を中心とした事務関係だ……やる気あるか?」
 ぽかんと口を開けたままの内海の目の前にひらひらと手を翳した康之に、内海もようやく言われている内容を飲み込んだ。


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