キスからの距離

柚子季杏

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キスからの距離 (5)

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 背は自分よりも少し高いくらいの、中肉中背。顔のラインに掛からない程度にスッキリとさせた短い髪。
 整った顔立ちは無表情を決め込んではいたけれど、そこはかとなく立ち昇る不機嫌さが、彼が自ら好んでこの場所にきているわけでは無いという事を伝えていた。
(カッコイイのに、勿体無い)
 子供達の投げる玉を全身に受けながら、内海は横目でぼんやりと橘川の姿を追っていた。

 競技が終了し、溜息と共に立ち上がった彼の態度に、内心で少し苛立ちを覚えた。嫌なら最初から参加しなければ良いのにと。楽しそうにはしゃぐ子供達を見るにつけ、対照的な橘川の表情が勘に触った。
「……大丈夫か? 気をつけろよ」
「あ、ありがとっ」
 多少ムッとしながら橘川を見ていた内海は、その瞬間、彼に心を奪われた。
 カゴを片付けに歩く橘川の目の前で、子供が転んだ。それまでの態度を見ていれば素通りしてもおかしくはなかったのに、彼はしゃがみ込んで子供を起き上がらせると、怪我が無いかを確認し、笑顔を浮かべて見せたのだ。
(う、わ……あんな顔も、出来るんじゃん)
 不機嫌そうに結ばれていた口元が柔らかく綻び、優しい眼差しが子供を見つめる。

 もっとあの笑顔が見たいと思った。
 あの瞳に見つめられたいと思った。

 普段の内海であれば、気になった時点で引いていたに違いない。深く係わり合いになる事は避けようと、無意識に動いていた筈だった。


「隣良い?」
「え? ああ……」
 内海には今でも、どうしてあの時自分から声を掛けたのか、その勇気がどこから沸いて出たのかが分からない。突然掛けた声に対して、橘川が怪訝そうに自分を見上げた表情だけが、印象深く残っている。

 運動会の撤収作業までを終えた内海は、サークルの先輩達から引き摺られるようにして飲み会の席へと連れて来られた。
 酒が入ることで万が一にでも自分が間違いを冒すことが無いようにと、基本的に飲み会はパスして来た内海も、『たまには付き合え。他校との交流を深める為にも、うちだけ参加人数が少ないなんて言われたく無いんだよ』などと先輩たちから真剣な目で言われてしまえば、無理に断る理由も思い付かなかったのだ。
 そんな先輩たちのお目当てが他校に通う女子である事は明白だったけれど、そこは敢えて言及を避け、チェーン展開している居酒屋に総勢二十~三十名ほどが集まった。
 その中に、橘川の姿もあったのだ。
 時折女性達が彼の周りに集まって来る。彼もその時だけは笑顔を浮かべて会話を交わすくせに、長い時間誰か一人と会話を続けるということもしていない。
特にお目当ての子はいないのか、もう既に決まった相手がいるのかは分からなかったけれど、そんな橘川の態度に、初めこそ群がっていた女性達も徐々に彼の周りから引き始めた。
(変なヤツ……同類の臭いもしないけど)
 モテる男の余裕なのだろうか。周囲との会話に適当に相槌を打っていただけだった内海は、飄々とした橘川の様子をチラチラと窺っているうちに、相変わらずつまらなそうにしながら黙々とジョッキを傾ける橘川と、話してみたいという思いが強くなっていた。
「俺は内海、よろしく」
「……橘川です、どうも」
「トイレ行って来たら場所取られてて」
「ああ……何かもう、無礼講状態だもんな」
 言葉に嘘は無かった。内海が用を足して席へと戻ろうとした時には、それまで座っていた場所には既に違う人が座っていたのだ。どこか空いている場所は無いかと視線をめぐらせた時に、たまたま空いていたのが橘川の隣だった。
 内海の言葉に苦笑を浮かべる橘川に、どきりとした。
 思っていたよりも優しい語り口調。苦笑ではあったけれど自分に対してだけ向けられた笑顔が、予想以上に心の深い部分へと届いてしまったのだ。
 あっさりと恋に落ちてしまったらしい自分に内心呆れながら、内海は橘川とジョッキを触れ合わせた。
「橘川? なんかさ、今日一日ずっとつまんねえって顔してたよね」
「っ……よく見てたな」
「一人だけ仏頂面してたからさあ」
 内心の動揺を隠しながらニヒヒと笑えば、一瞬驚いた顔を見せた橘川が、内海の耳元に唇を寄せて来た。
「他のやつらには秘密にしといてくれ。うちの大学、サークルも単位に含まれるんだ」
「え! マジで?」
「……嘘に決まってんだろ」
「うっわ、お前酷い」
 酒で顔が熱いのか、橘川の行為に火照ったのか……多分その時の内海の頬は色付いていたと思う。
 好意を抱いた相手が急接近してきた、しかも自分の耳元で囁きを落としたのだ。これでドキドキしないのであれば、内海がゲイである事は無かっただろう。
 見た目の割りに口が悪くて無愛想で、けれど心根は良いやつなんだということが、会話を交わす内に内海にも分かってきた。
(もう、まずいって……)
 飲み会に参加している他の人間は適当にあしらっていたのを見ていただけに、自分もあっさり会話を打ち切られるだろうと思っていた。
 それなのに、そんな予想は裏切られた。気付けばお開きの声が掛かるまで、内海と橘川はずっと二人で他愛も無い会話を続けていたのだった。

「折角だから、アドレス交換しとくか? また合同で何かすることもあるかもしれないし」
「え……あ、うん」
 言い出したのは橘川だった。社交辞令のひとつである事は分かっていたけれど、橘川からの連絡が来る事も、ましてや内海から連絡を入れる事など無いと分かっていたけれど。
「あ、来たよ。んじゃ次は俺が送るな」
「オッケ、ばっちり……下の名前智久っていうのか」
「在り来たりだろ? 橘川は……悦郎? 何か格好良いな」
「んなことねえよ――っと、じゃあまたな」
「ああ、また」
 二次会に呼ばれる前にと、店の前で場所を決め兼ねている仲間達の輪をそっと離れ、橘川は内海を振り返ることなく消えて行った。
 思いがけず宝物をもらってしまったようで、内海は新しく登録されたばかりのアドレスの入った携帯を、そっとポケットへと捩じ込んだ。
「――ま、飲みの席での勢い、だしね」
 橘川なら多分、友達も多いに違いない。女性にだってモテるのだろうことは、半日一緒に過ごしただけでも十分過ぎるほど分かった。
 そんな橘川が自分とこれ以上の接点を持つことは無いだろうけれど、もしまたサークル活動で一緒になることがあれば、多少の話くらいは出来るのかもしれない。
 内海にとってはそれだけで満足出来ると思える出会いだった。
 それ以上を求めようだなんて、思っていなかった。


 数日後、内海がバイト先のスーパーで品出しをしている時だった。
 ふと視線を向けた先に、見覚えのある顔が面倒そうに商品を眺めながら歩いていた。男は内海には気付かないまま、徐々に二人の間の距離が縮まる。
「あれ? 橘川?」
「内海……何、お前、ここでバイトしてんの?」
「俺んちここから近いんだよ。お前は?」
「俺も、アパートが直ぐそこだから」
 内海が逡巡したのは一瞬のことだった。
 接点がそう多いわけでもない相手。自分の事を覚えていなくても、通う大学も違うのだからと納得することも出来ると、男が自分の前まで来た瞬間に思い切って声を掛けた。
 てっきり忘れられているものだとばかり思っていた内海は、間髪入れずに自分の名を口にした橘川に、驚きと同時に嬉しさを感じた。
 無意識に笑顔になった内海を、橘川はほんの少しだけ眉を上げて眺める。少しでも嫌がられるような、ウザイと思われているのだろうと感じる様子があったなら、その場でじゃあなと言って立ち去るつもりだった。それなのに、橘川の表情にはどこか楽しそうな色が浮かんで見えて。
 何かを期待している訳ではなかった。けれどほんの少しだけ、ほんの僅かな期待を籠めて、内海は口を開く。
「マジで? 超近いじゃん! 今度飲もうぜ」
「ああ、そうだな」
 『機会があったら』などと、体の良い言葉で断られるものだとばかり思っていた内海には、内心で飛び上がるほど喜ばしい返答だった。
(社交辞令でも、いい……)
 彼が自分の名前を覚えていてくれただけで、本当に嬉しかったのだ。


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