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trace and theorize
怒れる依頼人
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今日も平和だな。
久能は呑気にそんなことを思いながら書類を作成、時折コーヒーをすする。
時刻は午前十一時。
架純は学校のため午後五時からの出勤で、睦美は用事のため夕方まで帰らない。
昼飯はどうしようか。今日はラーメンの気分だな、と久能は『游来軒』に電話をかけた。
「チャーシューメンに焼き飯、杏仁豆腐にラムネで。はい、一つずつ。そうですね、十二時くらいだとたすかります」
久能は受話器を置くと、少し休憩と椅子に深く腰掛けた。
受話器から聞こえてきた鍋を振る音を思い出し、久能の口のなかに唾液が広がる。
するとドアの向こうから、おそらくは階段を上る音が聞こえてきた。
久能は姿勢を正し、耳を澄ます。それは駆け足にこちらに向かい近づいてくる。
配達人にしては、あまりに激しい足音だ。ドタバタ、そう形容しても間違ってはいないだろう。
そうこうしていると、ドアの向こうが静かになる。久能は立ち上がり、そっとドアの方へと移動する。
荒い呼吸音。
いる、この向こう側に誰かいる。依頼人でなければ、あまり関わりたくはない人かもしれない。
居留守を決め込もうか、そう思った矢先、ドアが激しくノックされ出した。
ひっ。久能の喉から、情けない声が漏れ出した。
やばい人じゃないだろうな。久能は身を凍らせながら、数歩後ずさる。
「そこに誰かいるんですよね!?」
女性の声だ。まだ若い。怒っているのだろうか、それが声にこもっている。
おいおい、勘弁してくれよ。今、この事務所にいるのは自分だけなんだぞ。久能はもう半歩後ずさる。
「わかってますよ、いるんでしょ!?」
俺がなにをしたっていうんだよ。この人は、いったい何に怒っているんだよ。睦美さん、助けてください。
久能は頭を抱えながらも、この状況を続けるのはまずいだろうと考えて、「はい」と消え入りそうな声でいう。
「あ、あの……、どちら様でしょうか……?」
「開けてください、依頼人です!」
「わ、わかりましたから、ドアを叩くのは、や、止めてください」
するとドアの向こうが静かになる。
よかった、聞いてくれた。久能はホッと胸を撫で下ろし、「今、開けます」とドアを開けた。
見えるのは、薄暗い廊下の突き当り。
あれ、おかしいな。
久能は目線を左右に振った。まさか聞こえちゃいけないものじゃないよな。久能の背筋が冷たくなる。
「君!」
ひっ。久能は今日何度目かの情けない声を漏らす。
「ここよ、ここ!」
ん? 下から声が聞こえるぞ。
久能はゆっくりと視線を下げてゆく。そこで大きな瞳とかち合った。
「あ、ど、どうも……」
そこには、背の低い少女が立っていた。
ツインテールに黒のローブ、黒い靴、胸元には赤いリボンといった奇妙な格好で、じっと久能の顔へと鋭い視線を送っている。
「ご、ご依頼があるんでしたよね……」
その言葉に、少女は「はい!」と力強く頷いた。
「あ、それじゃあ……、こちらにどうぞ」
久能の言葉に、少女は素直に従った。
「そ、そこでお掛けになってお待ちください。飲み物は、コーヒーでよろしいですか?」
少女はコクリと頷いた。
コーヒーでいいんだ。久能はそんなことを思いながら、給湯室でコーヒーを淹れ、少女の前にカップを置いた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
少女はカップに口をつけた。興奮しているのだろう、その頬はほんのりと赤かった。
よし、自分のペースを取り戻せ。探偵となってから一ヶ月。探し物が主だったが、それなりに依頼はこなしてきたはずだろう。
久能は心のなかで拳を握り、少女の向かいのソファに腰を下ろした。
「それで、今回はどういったご依頼で」
その言葉を、「浮気です!」という少女の声が遮った。
「う、うわ……、き?」
少女の口から出た激しい言葉。
うわきって、あの浮気だよな。おいおい、この娘はいったいいくつなんだよ。
態勢を立て直そうとした矢先、勘弁してくれと久能は心のなかで頭を抱えた。
「浮気というのは、あの、恋愛上のこじれというか、ねじれというか、そういった……」
「そうです! その浮気です!」
「あ、左様で……」
少女は興奮で身体を震わせている。そのせいで、カップのなかでコーヒーが今にも零れそうな程に波打っている。
睦美さん、架純くんでもいい、早く、早く助けてくれ。久能は味のしないコーヒーで喉を鳴らした。
久能は呑気にそんなことを思いながら書類を作成、時折コーヒーをすする。
時刻は午前十一時。
架純は学校のため午後五時からの出勤で、睦美は用事のため夕方まで帰らない。
昼飯はどうしようか。今日はラーメンの気分だな、と久能は『游来軒』に電話をかけた。
「チャーシューメンに焼き飯、杏仁豆腐にラムネで。はい、一つずつ。そうですね、十二時くらいだとたすかります」
久能は受話器を置くと、少し休憩と椅子に深く腰掛けた。
受話器から聞こえてきた鍋を振る音を思い出し、久能の口のなかに唾液が広がる。
するとドアの向こうから、おそらくは階段を上る音が聞こえてきた。
久能は姿勢を正し、耳を澄ます。それは駆け足にこちらに向かい近づいてくる。
配達人にしては、あまりに激しい足音だ。ドタバタ、そう形容しても間違ってはいないだろう。
そうこうしていると、ドアの向こうが静かになる。久能は立ち上がり、そっとドアの方へと移動する。
荒い呼吸音。
いる、この向こう側に誰かいる。依頼人でなければ、あまり関わりたくはない人かもしれない。
居留守を決め込もうか、そう思った矢先、ドアが激しくノックされ出した。
ひっ。久能の喉から、情けない声が漏れ出した。
やばい人じゃないだろうな。久能は身を凍らせながら、数歩後ずさる。
「そこに誰かいるんですよね!?」
女性の声だ。まだ若い。怒っているのだろうか、それが声にこもっている。
おいおい、勘弁してくれよ。今、この事務所にいるのは自分だけなんだぞ。久能はもう半歩後ずさる。
「わかってますよ、いるんでしょ!?」
俺がなにをしたっていうんだよ。この人は、いったい何に怒っているんだよ。睦美さん、助けてください。
久能は頭を抱えながらも、この状況を続けるのはまずいだろうと考えて、「はい」と消え入りそうな声でいう。
「あ、あの……、どちら様でしょうか……?」
「開けてください、依頼人です!」
「わ、わかりましたから、ドアを叩くのは、や、止めてください」
するとドアの向こうが静かになる。
よかった、聞いてくれた。久能はホッと胸を撫で下ろし、「今、開けます」とドアを開けた。
見えるのは、薄暗い廊下の突き当り。
あれ、おかしいな。
久能は目線を左右に振った。まさか聞こえちゃいけないものじゃないよな。久能の背筋が冷たくなる。
「君!」
ひっ。久能は今日何度目かの情けない声を漏らす。
「ここよ、ここ!」
ん? 下から声が聞こえるぞ。
久能はゆっくりと視線を下げてゆく。そこで大きな瞳とかち合った。
「あ、ど、どうも……」
そこには、背の低い少女が立っていた。
ツインテールに黒のローブ、黒い靴、胸元には赤いリボンといった奇妙な格好で、じっと久能の顔へと鋭い視線を送っている。
「ご、ご依頼があるんでしたよね……」
その言葉に、少女は「はい!」と力強く頷いた。
「あ、それじゃあ……、こちらにどうぞ」
久能の言葉に、少女は素直に従った。
「そ、そこでお掛けになってお待ちください。飲み物は、コーヒーでよろしいですか?」
少女はコクリと頷いた。
コーヒーでいいんだ。久能はそんなことを思いながら、給湯室でコーヒーを淹れ、少女の前にカップを置いた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
少女はカップに口をつけた。興奮しているのだろう、その頬はほんのりと赤かった。
よし、自分のペースを取り戻せ。探偵となってから一ヶ月。探し物が主だったが、それなりに依頼はこなしてきたはずだろう。
久能は心のなかで拳を握り、少女の向かいのソファに腰を下ろした。
「それで、今回はどういったご依頼で」
その言葉を、「浮気です!」という少女の声が遮った。
「う、うわ……、き?」
少女の口から出た激しい言葉。
うわきって、あの浮気だよな。おいおい、この娘はいったいいくつなんだよ。
態勢を立て直そうとした矢先、勘弁してくれと久能は心のなかで頭を抱えた。
「浮気というのは、あの、恋愛上のこじれというか、ねじれというか、そういった……」
「そうです! その浮気です!」
「あ、左様で……」
少女は興奮で身体を震わせている。そのせいで、カップのなかでコーヒーが今にも零れそうな程に波打っている。
睦美さん、架純くんでもいい、早く、早く助けてくれ。久能は味のしないコーヒーで喉を鳴らした。
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