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1巻

1-3

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 わかっていても、どうにもできないときは存在するのだ。私はそれほど達観できないし、賢明でもない。自分でもわかるほど愚かな女なのだ。
 先のことを考えず、心を制御できずに口を開きかけた、まさにそのときだった。

「こんにちは」

 第三者の声がしたのは。
 その介入によって、私の自滅行為は実行されることはなかった。我に返った私はホッと小さく息を吐き、そして聞きなれた声に振り向く。そこには……

「ランディ! いらっしゃい!」

 立ち上がったエリシラがパアッと顔を輝かせて駆け寄り、すぐに腕を絡ませた相手。それは彼女の婚約者である侯爵の一人息子、ランディ。
 そして、さらにその背後にたたずむ存在に私は目を見開く。

「まあ、バジルお義兄様!」

 エリシラが彼の名前を呼ぶ。私は呆然としたままフラフラと立ち上がった。
 どうして? どうして彼がここにいるの?
 黒い前髪をかきあげてたたずむその人。私の形だけの夫が、微笑みながらそこに立っていたのだ。

「バジル様?」

 バジル様は私の問いかけにチラリと視線を一瞬投げ、すぐにそれをお母様へ向ける。

「突然の訪問、申し訳ありません」

 そう言ってバジル様は頭を下げる。その顔が上がった直後、彼は視線を向けた。
 私ではない。私の隣にいる仲睦まじいカップルへ向けたのだ。正確にはランディに寄り添うエリシラへ。
 どうして気づかなかったのだろう。なぜこんなに明確な行為に私は気づかずにいたのだろう。
 そのあともバジル様はけっして私を見なかった。いや、彼は誰も見ない。見ているようで見ていないのだ。
 その視線はたった一人に向けられている。
 気づいてしまえば、意識して見ていればすぐにわかる。バジル様は、お父様とブラッドお兄様が帰宅しても、リーリアお姉様がやってきても、ずっとエリシラを見続けた。
 全員が揃ったところで昼食になった。食事をとりながら、バジル様はもう一度、突然の訪問の謝罪をして頭を下げた。

「いえいえ、気にしないでくださいな、うれしいですわ。でもどうかされたのですか?」

 微笑みながら言うお母様に、バジル様は苦笑を浮かべて……私を見て話す。形だけというのに、私に向けられる視線に苦しくなる。
 そんな私の苦しみなど気づかぬふうにバジル様は微笑む。

「ほんの数日の里帰りだというのに……わずか数時間で寂しくなってしまいまして。アルビナに会いたくてつい来てしまいました」
「……‼」

 あらまあ……と笑う両親兄姉。
 だが私は心の中で叫んだ。嘘よ! と。
 バジル様が私に会いたくてくるわけがない。けれど合点がてんがいく。私の名前の箇所を『エリシラ』に変換したなら……それこそがバジル様の本心なのだと理解できた。
 だって彼は私を見ているようで見ていない。その目は私の奥、私の隣に座る存在を見ている。

「まあ、アルビナお姉様ったら愛されてますのね!」

 そう言って、右隣の存在……エリシラは私の顔を見た。その目もまた私を見ているようで私の左隣の人物に向いている。
 そのことは当人たちを除けば、私にしかわからないに違いない。婚前からこうして食事をともにすることはあったから、きっと気づかなかっただけでこれまでも頻繁にあったのだろう。
 食欲などわくはずがない。楽しいと思えるはずもない。ここはもはや地獄だ。
 私は食事をとめてナプキンで口元を拭ってから、バジル様を見る。

「バジル様」
「ん? なんだ?」
「お仕事がお忙しい中、会いにきていただいてありがとうございます。昼食後、屋敷へお戻りになるのですか?」

 これは確認ではない。私の言葉の裏は『早く帰ってください』だ。バジル様にその意図が通じると思って、あえて私は聞いた。
 しかし彼は首を横に振ったのだ。

「いや、今日はキミと一緒にいたくて、仕事はすべて終わらせてきた。明日帰ることにするよ」
「……そう、ですか」

 嫌でもわかる。彼が何をしに来たのか。どうしようとしているのか。私の両隣に座る彼らが今夜、何をしようとしているのか。
 私はこの目で確かめることを決意した。


 みんなが寝静まった深夜。今宵こよいは新月で月明かりもない。暗闇の中、私はそっと部屋を出てエリシラの部屋へ向かった。
 さすがに夫婦で別室は怪しまれると思ったのか、バジル様は私と同じ部屋で寝ることを断らなかった。
 だが寝台にともに入らず、彼は据え置きのソファで寝ると言って、そこで早々に横になっていた。そして、深夜、私が寝ていると思った彼は部屋を抜け出してエリシラの部屋に向かう。
 あんな告白をされたとしても私は大人しく寝ていると、きっとそう思ったのだろう。どこまでも従順で、彼の邪魔をしないと考えていたのだろう。
 あまりにも馬鹿にしている。そこまでされて行動しないほど私は愚か者ではない。

「……」

 エリシラの部屋の前にたどり着く。
 本当にエリシラは私を裏切っているのだろうか? 私と仲がいいふりをして、実は陰であざけっていたのだろうか? ……実はバジル様の片想いなんてことはないだろうか?
 その瞬間まで私は期待した。いや、どうかそうであれと願った。だが。

「あ……バジル様……」
「エリシラ、声を抑えろ。外に聞こえるぞ」
「じゃあもう少し動きを抑え……あ! 激しくするなんてひどいですわ!」
「キミが可愛すぎるのが悪いんだ」

 私は二人の行為の音を耳にして、目の前が真っ暗になる。
 ギシギシときしむベッドの音。二人のなまめかしい会話。どれもこれも私の足元を崩すような地獄。
 いっそ部屋に飛び込んでやろうか。暴れて叫んで泣き喚いてやろうか。そうすればきっと家人がすぐに飛んでくるだろう。二人のあられもない姿を目撃することとなるだろう。
 そうすれば、きっと二人は破滅する。
 だが……私もまた、破滅する。夫を妹に寝取られた女という、屈辱くつじょく的なレッテルを貼られることになるのだ。
 だからバジル様は私が真実を知っても何もしないと踏んだのだろう。そうでなければ、私に教えてからもエリシラと関係を持つなんてありえない。
 思惑通りになるのは悔しいが、たしかにここで部屋に飛び込んでも満足な結果は得られない。それではだめだ。そんな陳腐ちんぷ復讐ふくしゅうでは二人を地獄に落とせない。
 いまだ室内で激しくぶつかり合う、ふたつの肉のかたまりに吐き気を覚え、その場をあとにしようときびすを返した瞬間。私は闇の中にたたずむ存在に悲鳴を上げかけた。

「んむ⁉」
「しー。アルビナ様、お静かに。僕ですよ」

 慌てて私の口を男性の大きな手がふさぐ。その声には覚えがあり、私は叫ばなかったが目を大きく見開いた。その視線の先、かすかな灯りのもとに浮かび上がる。
 どうして彼がここにいるの?
 私は呆然としながら小さくその名を呼んだ。

「ランディ……?」

 彼はうなずき、ニコリと笑みを向けたのだった。


 初夏とはいえ、夜はまだ肌寒い。部屋に戻った私は夜着の上に厚手のショールを羽織り、そして庭に出た。
 暗闇の中、庭に設置された小さなライトがうっすらと足元を照らす。その程度の明かりで見知らぬ場所を歩くのは困難だろう。だが、ここは私が生まれ育った侯爵家の庭だ、真っ暗でも歩ける。
 そうして庭の中心、屋敷からずいぶん離れた場所で、彼は座っていた。そこは昼間お茶会をした場所で、普段からテーブルと椅子が置かれている。
 私は近づき、無言で彼の正面に座った。

「こんばんは」
「……こんばんは」

 彼は普通に挨拶をしてきた。私はそれに返して、そっとその人物を窺った。
 エリシラの婚約者である、侯爵令息ランディ。
 闇夜のかすかな灯りが、その輝く金色の髪に反射する。十九歳の彼は幼さが消えてずいぶんとたくましくなった。もう大人の男性と大差ない。何も言わず、青い瞳でジッと私を見つめてくる。私も無言で見つめ返した。
 しばしの沈黙……先に口を開いたのはランディだった。

「アルビナ様はいつからご存じだったのですか?」

 前置きをすっ飛ばしての本題。だがそれでいい。夜は短い、無駄話をしている暇はないのだ。

「……ひと月前です」
「つまり結婚直前から?」
「いいえ、結婚直後に知りました」
「それはまた……」

 そこで言葉を切ったランディは、口元を押さえて苦々し気に眉根を寄せる。バジル様もよく眉根を寄せていたけれど、その下では濁った汚い瞳をしていた。ランディのそれは、バジル様とは異なる純粋な……怒りをまとった、強い光を宿している。
 直前も直後も大差ない、と言いたいところだけど大ありだ。直前であれ婚前に知っていたら、少なくとも結婚なんてしなかった。夫婦になる前の破談ならば、なんなりと道はあったと思う。

「ランディはいつから知っていたの?」

 お父様の親友の息子であるランディとは、幼いころからの知り合いだ。幼馴染、友人……そんな関係。エリシラとはとてもお似合いで、義弟になるのを楽しみにしていたのに。
 はたしてエリシラが、バジル様との関係にどこまで本気なのかわからないが、少なくとも結婚する気はないだろう。今日の彼女の態度から、心からランディを愛しているのがわかった。なのにどうして愛する人を傷つけるようなマネを⁉

「最初からですよ」

 叫びたいのをグッとこらえ、私は驚いてランディの顔を見た。

「最初から?」
「はい。二人が関係を持った日の……翌日でしたでしょうか? エリシラに会いに来たのですが、彼女の態度ですぐにわかりました」

 ただ、と彼は言葉を続ける。

「最初は相手が誰かわかりませんでしたけどね」

 相手はわからない。だが、エリシラが男を知ってしまったことはすぐにわかったと、ランディは言った。

「なんというか……そういうことを経験すると、女性はすごく変わるんですね。僕の友達にも、婚前にそういう行為をしているヤツが何人かいますが、男はそれほど変化はないというのに。どうして女性はあんなにも大人の顔になるんでしょうか。不思議なものです」

 そう言う彼は淡々としていて、平然としているように見える。けれど今の私にはわかる。彼がどれほど苦しみ葛藤したかを。私がそうだったから。
 私と違うのは、彼はまだ婚約の段階であるということ。いくらでもやり直しができるはず。
 私は疑問をそのまま口にする。

「どうして婚約解消しないの?」

 その問いを発した私を見て、そしてすぐに……彼は悲し気な笑みを浮かべた。

「愛しているんですよ」

 そう言って、彼は自嘲するような薄ら笑いを浮かべた。

「頭ではわかっているんです、異常だって。それでも僕は……エリシラを愛していて、彼女を手放す勇気が出ない」

 ひたいに手を当てて、ランディはうつむいた。
 ああ、彼は恋をしているのだ……彼は本当にエリシラを愛していて、だからこそ苦しんでいるのだ。姉である私ですら気づかなかったというのに、ランディはエリシラの変化にすぐに気づいた。
 それこそが、彼のエリシラへの思いの強さを物語っていると言えよう。

「相手がバジル様だと気づいたのはいつ?」
「それも結構すぐですよ。あの二人、気づかれていないと思っているんでしょうかね。かなりの頻度でアイコンタクトをとっていますよ」

 それはつまり……気づかなかった私が間抜けということか。なんだかそう言われているようで情けなくなる。だからちょっと恨み節を言うのも許してほしい。姉弟のような関係だったのだから、そこは教えてほしかった。

「教えてくれてもよかったのに」

 私がそう言うと、ランディは申し訳なさそうな顔をする。

「それは……たしかに。申し訳ありません。自分勝手な理由で黙っており、深くお詫びします」
「自分勝手?」
「僕は恐かったのです。エリシラが本気になって、バジルのところに行ってしまうんじゃないかと」

 ランディは言葉を続ける。

「けれど、バジルとあなたの結婚話は消えず着実に進んだ。このままお二人が結婚したなら、エリシラとバジルの関係は終わるのではないかと期待したのです。そうすれば、彼女は僕のもとへ戻ってくると」

 なるほど、たしかに自分勝手だ。だが私は彼を責められる? 本気の恋をしている彼をののしれる?
 できるわけがない。本気の恋をしたことがない私にそんな資格はない。だから悲しくても何も言えなかった。

「けれど今夜のことで何かが吹っ切れました」

 それまで悲し気な顔だったランディがどこか清々すがすがしい顔で、私を見て笑った。

「吹っ切れた?」
「はい。僕は……アルビナ様とバジルが結婚すれば、エリシラとバジルの関係は終わると目論もくろんでいました。だけど実際は先ほど見た通りです」

 関係はいまだ続いている。もしかしたら、ランディとエリシラが結婚しても続くのかもしれない。……その可能性は高いだろう。

「遊びとか本気とか関係ない。もう僕は耐えられないし、耐えたくない。我慢できない。今夜また二人が関係を持つならそのときは……と考えて様子を見に行ったんです。二人が室内で行為に及んでる声が聞こえた瞬間……僕は……」

 そこで一旦言葉を切る。
 ランディはうつむいて、何かをこらえるように肩を震わせ、ギリと歯を食いしばる音がハッキリと聞こえた。
 泣いているのだろうか。泣きたいのだろうか。
 いいえ違う、これは怒りだ。私と同じ純粋な怒り。ランディの中に怒りの炎が燃え上がっている。

「僕はもうエリシラを愛せない。愛どころかもはや嫌悪しかない。婚約解消します」

 彼はその燃える炎を瞳に宿らせ、まっすぐ私を見据えて言った。その決意に満ちた瞳を見て、私はどこかホッとする。

「そう、よかったわ……」

 彼が義弟にならないのは残念だけれど、それ以上に彼には幸せになってほしい。たとえエリシラが彼のことを愛していても。たとえエリシラが、バジル様とのことを本気でなかったとしても。
 もう私には、彼女の幸せを願う思いはこれっぽっちもなかった。
 きっとあの二人は一晩中抱き合っているに違いない。とはいえ誰かに見つかってはまずいだろうし、使用人たちが起きる前に……夜明け前には部屋に戻ってくるだろう。
 私もそれまでに部屋に戻っておかないと怪しまれる。一睡もできそうにないが、少しは横になっておかないと。

「それじゃあ……おやす――」
「待ってください」

 どこか安堵あんどした気持ちで立ち上がった私に、ランディは声をかけてきた。

「アルビナ様はどうするおつもりですか?」
「そ、れは……」

 ランディは、自分は婚約解消すると言った。

「私、は……」

 その問いに即答できないことを歯がゆく思う。
 目を伏せて、どう答えるべきか考えた。しかしなんの案も浮かばず困惑していたら、そっと手を握られた。驚いて顔を上げると、ランディも同じく立ち上がって私を見下ろす。

「もしよかったら、なのですが……」

 幼かった弟のような存在は、いつの間にかこんなに大きくなっていた。

「協力していただけませんか?」

 そう言って、ランディはギュッと握る力を強めた。
 それからしばらくして私は部屋に戻り、そっと寝台の上に横になる。慣れ親しんだ寝台にもかかわらず、案の定私は眠れなかった。
 結局、バジル様が部屋に戻ってきたのは日が昇ってからだった。どれだけの時間、肉欲におぼれていたのか……呆れたものである。よく誰にも見つからなかったものだ。
 私を起こさぬようにと注意し、静かに部屋に入ってくる。
 いっそ体を起こし、バジル様を詰問してやろうか。そう思ったのは一瞬。すぐに思いとどまって、私は寝たふりを続けた。
 だめ。今はまだだめだ、今は我慢のとき。愚か者を演じはしても、愚か者になってはいけない。絶対終わらせるから。
 そう決意を胸に、私は目を閉じるのだった。


     ◇ ◇ ◇


 幼いころ、僕――ランディのそばには二人の女の子がいた。
 同い年のエリシラと、みっつ上のアルビナ。
 エリシラは、幼いころからとても可愛らしい容姿をしていて、誰もが彼女を愛した。可愛い可愛いとチヤホヤされるのを、彼女は無邪気な笑顔で受け入れていた。
 アルビナ様は物静かで、落ち着いた雰囲気だった。そのせいなのか、それとも兄姉が優秀だったせいか、常にどこか一歩引いている感じがあった。人の言葉に敏感に反応しているようにも見えた。
 たしかに彼女は、姉のリーリア様や妹のエリシラに比べれば少し地味かもしれないが、僕に言わせれば大差ない。彼女もまた、とても美しい人だと思っていた。憧れに似たような何かを覚えていた。
 それがきっと僕の初恋だったのだろう。初恋は初恋のまま、いつの間にか終わりを告げ、僕はエリシラと恋に落ち、婚約した。
 とても大好きな、可愛いエリシラ。
 会いに行けば、いつも花が咲きほこるような笑顔で迎えてくれた。僕の話に興味深そうに耳を傾け、笑ってくれる。楽しい時間はいつもあっという間に過ぎていった。
 ――そして本当に、楽しい時間は終わる。
 最近エリシラは性に目覚め始め、何かとそういった行為に興味をもつようになった。それどころか、僕とそういったことをしたいとまで言い出したのだ。

『それはよくない、そういうことは結婚してからすべきだ』

 その言葉を聞いて、エリシラは不服そうにほほを膨らませる。可愛いその様子に折れそうになるが、そこはグッと心を鬼にして耐えた。
 それでも彼女は会うたびに言ってきた。僕はその都度要求をつっぱねる。エリシラはどうも自分の可愛さを自覚し始めているようだ。そしてその顔のおかげで、誰もが自分の要求を呑むと思っている節がある。
 せめて僕だけは強く対応しよう。そう思って彼女の誘いを断り続けた。結果、彼女は何も言わなくなった。納得したのだ、と僕は思っていた。
 ところがある日、エリシラが別人になっていることに気づいた。いや、エリシラはたしかにエリシラだ。彼女本人であることに疑いはない。
 ただ……彼女から漂う雰囲気が変わったのだ。どこか大人びた顔になり、なんとはなしに色香を感じた。明らかに昨日までの彼女とは違っている。
 その瞬間、僕は唐突に理解した。彼女は……エリシラは大人になったのだと。
 確証はなかった。僕が勝手にそうだと感じただけで、違うかもしれないから問い詰めることはできず、悶々もんもんとした日々が過ぎていく。
 この疑念に対して、答えが出るのにそう時間はかからなかった。やたらとエリシラとアイコンタクトをとっている男の存在に気づいたのだ。
 そしてエリシラの家に泊まった日のこと、ついにその夜が訪れた。

『バジル様……』
『エリシラ……』

 喉が渇いたのだが、何かのミスで部屋に水差しが用意されていなかった。僕は仕方ないと部屋の外へ出て、見知った侯爵邸内を歩いていたところで……その声が耳に入ったのだ。
 聞き間違いだろう。この屋敷には大勢の使用人がいる、男女の仲になる者も多いはず。自分の家でも、使用人同士で結婚した者は多い。
 だが聞こえるのは、どう考えても使用人たちが住む部屋からではなく客間。そして今夜その部屋にいるのは、自分と同じくこの屋敷に泊まることとなったバジル――アルビナ様の婚約者となった男だ。
 かすれて聞き取りにくかったが、聞き覚えのある女の声がバジルの名を呼んでいた。
 同じ名前の別人かもしれない、どうか聞き間違いであってほしい。そんな願望をもちながら、そっと部屋の前まで近づく。扉の向こうからの声がより聞き取りやすくなる。
 その瞬間、聞こえてきたのだ。

『エリシラ、愛している……』
『ああバジル様、私もよ。愛しているわ』

 足元がガラガラと音を立てて崩れていくのを感じた。
 扉は少し開いていて、その向こうの月明かりが差し込む部屋の奥に見えたのは、裸で絡み合う男女。それは、たしかにアルビナ様の婚約者であるバジルと、自分の婚約者のエリシラだった。
 これは夢なのかもしれない。いや、どうか夢であってほしいと願った。
 だが夢は覚めない。
 呆然と部屋に戻った僕は見た光景が忘れられず、一睡もできずに朝を迎えた。
 いっそ部屋に飛び込んでしまえばよかったが、そんなことをしたらすべてが終わるとどこかで理解していた。だから勇気を出せなかったのだ。


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