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どの水が怖い
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霊を生業にしている専門家たちが集うオンラインチャットがある。その名も魍魎会。同業者からのみの紹介で参加することができるため、一般人は誰もいない。会員らはすべからく霊力を有しており、霊に対して干渉することが出来る。いわゆる”本物”だけが集まるこのチャットで、一つの問題が起こっていた。それは水面下で起こっているただならぬ事件への対処をどうするかという件である。問題が発覚してから五日目の今日も、専門家たちは全国津々浦々を巡って原因と対策を探し回っているが、これといった手がかりを掴めずにいた。
集団妄想という言葉がある。カルト症候群とも呼ばれるこの現象は、一つの思想が集団に蔓延し、極まった際に起こる異常行動のことを指す。まさしくそれと同じことが日本全国で起こっていた。これにはオカルトも含まれる。身近なところだと『こっくりさん』や『トイレの花子さん』といった民間伝承から『酒瓶カカシ』、『粉まき女』、『鏡駅』といった都市伝説、そして『呪いのメール』といった伝染ものがそうだ。これらも集団的に一つの思想が極まれば異常行動へと転じる可能性がわずかながらある。
今回問題となっている『水水さん』と呼ばれる怪異は、ある特定の水に『水水さん』が紛れ込んでいて、その水を一滴でも口にしてしまうと『水水さん』に精神を乗っ取られてしまうというものだ。厄介なのはこれが嘘にしろ本当にしろ、一つの思想として広まっていってしまうことだ。小さい薪を沢山焚べていけば、いずれ巨大な炎へと昇華していくように不安は伝播し、思想は蔓延り極まっていく。
もしこれが本当だとして、”憑依者”は今何人いるのだろうか。
奴らは憑依者本人になりすますらしい。魂に潜り込み、内側から操るだけで現状は何も問題を起こさないということは、機を待っているとしか考えられない。一定の人数に達した時、奴らは一斉に牙を剥けて襲いかかってくるかもしれない。
魍魎会の長であり、祓魔師の鷹紗《たかさ》も他会員同様、問題の調査にあたっていたが手がかりを掴めずにいた。SNSと掲示板を練り歩いた結果、見えてきたのは『水水さん』の噂は今、東京に集中していること。噂をすれば影ありという言葉通り、噂話が多いスポットには確かに”出る”のだ。
鷹紗は周囲を警戒しつつ、雨の降りしきる渋谷スクランブル交差点を渡り始めた。怪しい奴はいないか、変な音はしないか、邪悪な気配はないか。あらゆる感覚を研ぎ澄ませ、わずかな違和感も逃さないようにする。
すると。鷹紗を押しつぶして肉塊にせんとするかのような圧が上空から降り注いだ。それは液状化した氷としか形容できない感覚。凍てつくような粘着性を帯びた液体が鷹紗に覆いかぶさるような感覚。
とてつもない力だ。と、鷹紗は下唇を噛み締める。身体は持ち上がらず、頭を上げることも出来ない。思わず両膝に手を付いた。負けじとなんとか目だけを動かし、視線を空へと向けるが、降り注ぐ雨しか見えない。誰もいない。「なにこの人、こわいんですけど」などと一人のギャルが通り過ぎざまに言い放っていく。確かに傍から見れば、イカレ野郎にしか見えないだろう。急に勢いよく俯いたかと思えば、目線だけ空へと向けているのだから。それは鷹紗も重々承知している。だが当の本人は至って真面目だ。本気で苦しみ、あえぎ、抗っている。ふと気を抜けば、この降り注ぐ力は鷹紗を貫き、体内に満ちるだろう。それは霊的な存在からの介入を許すことに他ならない。必ず阻止せねばいけなかった。
世の理として力が強ければ強いほど、周囲に与える影響は大きい。それは霊も同じだ。幸か不幸か噂の通り精神干渉系だったおかげで、肉体に与える影響は無いようだ。言い換えれば、精神干渉系にも関わらず押し潰されそうになるというのは、その力が強大だということの証明でもあった。
フッ――と凶悪な力が止んだ。今しがたまで鷹紗の背中にのしかかっていた圧が綺麗さっぱりと消えている。
「そんなバカな」
思わず口に出して驚きをあらわにした。個としての存在である以上、力の発信源はその者から発せられる。巨大なクーラーのようなものだ。このような強大な力をもつ手合は一度存在を感知してしまえば、その者に逃げられようとも離れていく冷気を追いかけていくだけでいい。そうすればいずれ発信源へと辿り着くことが出来る。後は除霊なり、成仏なりさせてしまえば良い。
だが今は気配を一切感じることが出来ない。まるでテレビの電源を切ったかのように、唐突に気配が消えてしまった。こんなことは今まで一度も聞いたことがない。考えられるのは個としての存在ではないという線だ。例えば、無数の小さな魂が一時的に結集し、強大な力を発しているパターン。もしくは神器級の宝具の力を開放し、頃合いを見てその力を収めたか。……なんにせよ、強い意思を持った存在の仕業であることは間違いない。
これはますます早急に対処しなければならないと心に決め、顔を持ち上げた途端のことだった。
「……」
周囲から視線を感じる。一つや二つじゃない。三六〇度、あらゆる方角から自分へと視線が向けられているのが分かる。霊力を帯びた視線。だから分かる。周囲にいる連中が全て霊能者あるいは、霊というありえない状況。思い至る答えは一つ。鷹紗に視線を投げている連中全員が『水水さん』に憑依されてしまったということ。溢れる霊気を生体に潜り込んで隠したにもかかわらず、あえて視線に力を込めるというのは、鷹紗への威嚇か。……それとも宣戦布告か。
あちこちから車のクラクションが鳴り散る。信号はすでに赤だった。だが鷹紗を囲む連中が立ち去っていく様子はない。口を一文字に結び、生気のない瞳をこちらに投げ続けている。会社員、警察官、学生、先ほどのギャル。『水水さん』に憑依されているであろう無差別の人間達が、クラクションと罵声に一切動じずにぼうっと立ち尽くしているのだ。
強大な力が再び空から降り注いだ。すぐさま身体が地べたに這いつくばらんとし始める。だが鷹紗は歯を食いしばり、内に秘める霊力をありったけ放出させることで力に抗った。なんとか身体を奮い起こし、周囲に意識を集中させた。どこかに元凶が潜んでいるはずだ。
異様な光景だった。新たに駆けつけた警察官も、怒り狂って車から降りてきたドライバーも、事態を録画しようとスマホカメラを向けていた野次馬達も、あっという間に瞳から生気を奪われ、口を一文字に結び、ぼうっと立ち尽くしていく。視線の先は鷹紗だ。時間を追うごとに鷹紗を囲む人数は増えていき、異様な世界が広がっていく。
前述した通り、この世には集団妄想という現象がある。多くのそれは人間の精神的な部分が原因となる。だが、鷹紗が置かれているこの状況のように、人ならざる者によって引き起こされる集団妄想事件というのも稀にあるのだ。人知を超えた力が加担したケースは当然混沌としていく。仮に首謀者がいて、逮捕したとしても事態は解決しない。人ならざる者が勝手に次の事件を起こしていく。説明が付かないから、事件性が無いものとして扱われて解決することが無い。更に厄介なのは、説明の付かない事柄に惹かれる人間が少なからずいることだ。それは新しい崇拝者――つまり首謀者を生み出すことに他ならない。根本を退治しない限り、怪奇事件は延々と続いていく。ウロボロスの輪のように。
「どこだ、どこにいる?」
憑依する系統の霊は生気を吸い取り、魂を喰らい、力を増長させていく。分裂した同一個体がそれぞれの拠り所で力を蓄え、いつか集結したとなれば、それは抗いようのない災厄になる。霊能力者が束になっても敵わないほどの暴虐な嵐が人間を襲うことになるだろう。
……だからここで屈するわけにはいかない。必ずここで元凶を見つけ出し、悪魔祓いの力を持ってして消滅させてやる。
鷹紗は目を閉じて全意識を集中させた。すると異質な霊気をかすかに察知した。距離があるからか弱々しくおぼろげだが、明らかに周囲のものとは別のナニカ。だが周囲の人間から発せられる霊気がノイズとなって、なかなか捕らえることが出来ない。鷹紗の額から玉のような汗が吹き出て、口元へと垂れていく。憑依しようとしてくる力に抗いながらの察知。少しでも気を抜いたら、糸が切れたように意識は断たれてしまうだろう。その異質な霊気はなぜか、かなり短い間隔で力を増したり、弱まったりしている。よくよく意識してみると、その強弱の律動はほぼ一定であることが分かった。その力が強まった瞬間を狙って、一層集中する。
「見えた!」
鷹紗はそう叫ぶやいなや駆け出した。目指すは高さ二三○メートルのビルにある屋上展望台。『水水さん』に憑依された者達が鷹紗の行動を阻止しようと掴みかかってくる。まだ身体に馴染んでいないのか、動きは緩慢だったことが幸いし、それらを何とかかわしてビルへと疾走する。その時、後方から銃声が鳴り響き、真横のショーウィンドウに穴が開いた。
「なんでもありかよ!」
鷹紗は体勢を低くしつつも、走る速度を緩めない。銃弾が飛んできた方には見向きもせず、真っ直ぐとビルへ猛進する。地面を何度も踏みしめ、前髪に居座る雨粒を振り払い、走る、走る、走る。
ビルに辿り着いた後も追手が止むことはなかった。既にエントランスにも『水水さん』の息がかかった者達が大勢待ち構えていて、一斉に鷹紗へと襲いかかる。鷹紗は懐に手を入れ、聖水の入った小瓶を撫でてから十字架を握った。が、すぐに離して階段を探した。相対している霊達程度であれば、力を行使して払うことは容易だ。だが強引に憑依した霊を払おうとすれば、取り憑いた側にも深刻な影響が出てしまう。具体的には、魂の一部が引きちぎられて精神障害を発症してしまうのだ。
階段を見つけた鷹紗はがむしゃらに空を目指して駆け上がった。追従してくる奴らも徐々に減り、屋上に辿り着く頃には誰一人として追いかけてくる者はいなくなっていた。
「おかあさん。いってらっしゃい。おかあさん。いってらっしゃい」
屋上展望台にはぼうっと立ち尽くして雨に打たれている人間達と、赤い傘の下で腰の曲がった老婆が脇に抱えた壺に手を入れては、眼下に広がる地上へと何かを撒くそぶりをしている。鷹紗はひと目見て都市伝説の『粉まき女』だと分かった。人知れず日本のどこかに出没して、謎の粉を撒いている女。鷹紗の頭の中で、『水水さん』と『粉まき女』が一つに繋がった。
要するに奴が持っている壺に入っているのが『水水さん』なのだろう。彼女のセリフから察するに、母親の遺灰かなにかか。ミクロ級の粒一つ一つに母親の魂が宿っていて、それが雨に混じって屋外の人間に降り注ぐ。今、どれだけの人間が『水水さん』に憑依されてしまったのだろう。問題が発覚するよりも随分前から、『水水さん』の噂はあった。それを思って鷹紗は背筋を冷たくさせる。事態は収拾が付かないほどに大きくなっているのかもしれない。
「どの水が怖い? どの水が怖い?」
赤い傘を差した女が鷹紗に気づいて近寄ってくる。壺の中を混ぜるように手を動かし、じわりじわりと近づいてくる。
「どの水が怖い? どの水が怖い?」
鷹紗がニマニマとするその顔に聖水をぶちまけたのと、女が一握りの灰を投げつけたのはほぼ同時だった。迫る灰を腕でかばいつつ、鷹紗は女の様子を伺った。顔を俯かせて静かに佇んでいる。聖水が効いている気配は無い。女自体はただの人間のようだった。これは実力行使しかないと鷹紗が女に駆け寄ろうとした瞬間。
「ヒャハハハハハ!」
人のものとは思えない叫声をあげて、女はスクランブル交差点を見下ろす手すりへと駆けていき――地上へ飛び降りた。
魍魎会のチャットは今も『水水さん』の噂で持ちきりだった。チャットの雰囲気は限りなく暗い。これまで会員に満ちていた使命感と焦燥は絶望へと塗り替えられ始めている。ただ会員らによる入念な調査により、一つ明らかになったことがある。それは『粉まき女』の存在である。まず『粉まき女』は個人ではなく、複数だということ。女だけではなく男もいるということ。その目撃情報が日に日に増えているということ。
魍魎会の長である鷹紗がオンラインになり、チャットを書き込んだ。
[どの水が怖い?]
集団妄想という言葉がある。カルト症候群とも呼ばれるこの現象は、一つの思想が集団に蔓延し、極まった際に起こる異常行動のことを指す。まさしくそれと同じことが日本全国で起こっていた。これにはオカルトも含まれる。身近なところだと『こっくりさん』や『トイレの花子さん』といった民間伝承から『酒瓶カカシ』、『粉まき女』、『鏡駅』といった都市伝説、そして『呪いのメール』といった伝染ものがそうだ。これらも集団的に一つの思想が極まれば異常行動へと転じる可能性がわずかながらある。
今回問題となっている『水水さん』と呼ばれる怪異は、ある特定の水に『水水さん』が紛れ込んでいて、その水を一滴でも口にしてしまうと『水水さん』に精神を乗っ取られてしまうというものだ。厄介なのはこれが嘘にしろ本当にしろ、一つの思想として広まっていってしまうことだ。小さい薪を沢山焚べていけば、いずれ巨大な炎へと昇華していくように不安は伝播し、思想は蔓延り極まっていく。
もしこれが本当だとして、”憑依者”は今何人いるのだろうか。
奴らは憑依者本人になりすますらしい。魂に潜り込み、内側から操るだけで現状は何も問題を起こさないということは、機を待っているとしか考えられない。一定の人数に達した時、奴らは一斉に牙を剥けて襲いかかってくるかもしれない。
魍魎会の長であり、祓魔師の鷹紗《たかさ》も他会員同様、問題の調査にあたっていたが手がかりを掴めずにいた。SNSと掲示板を練り歩いた結果、見えてきたのは『水水さん』の噂は今、東京に集中していること。噂をすれば影ありという言葉通り、噂話が多いスポットには確かに”出る”のだ。
鷹紗は周囲を警戒しつつ、雨の降りしきる渋谷スクランブル交差点を渡り始めた。怪しい奴はいないか、変な音はしないか、邪悪な気配はないか。あらゆる感覚を研ぎ澄ませ、わずかな違和感も逃さないようにする。
すると。鷹紗を押しつぶして肉塊にせんとするかのような圧が上空から降り注いだ。それは液状化した氷としか形容できない感覚。凍てつくような粘着性を帯びた液体が鷹紗に覆いかぶさるような感覚。
とてつもない力だ。と、鷹紗は下唇を噛み締める。身体は持ち上がらず、頭を上げることも出来ない。思わず両膝に手を付いた。負けじとなんとか目だけを動かし、視線を空へと向けるが、降り注ぐ雨しか見えない。誰もいない。「なにこの人、こわいんですけど」などと一人のギャルが通り過ぎざまに言い放っていく。確かに傍から見れば、イカレ野郎にしか見えないだろう。急に勢いよく俯いたかと思えば、目線だけ空へと向けているのだから。それは鷹紗も重々承知している。だが当の本人は至って真面目だ。本気で苦しみ、あえぎ、抗っている。ふと気を抜けば、この降り注ぐ力は鷹紗を貫き、体内に満ちるだろう。それは霊的な存在からの介入を許すことに他ならない。必ず阻止せねばいけなかった。
世の理として力が強ければ強いほど、周囲に与える影響は大きい。それは霊も同じだ。幸か不幸か噂の通り精神干渉系だったおかげで、肉体に与える影響は無いようだ。言い換えれば、精神干渉系にも関わらず押し潰されそうになるというのは、その力が強大だということの証明でもあった。
フッ――と凶悪な力が止んだ。今しがたまで鷹紗の背中にのしかかっていた圧が綺麗さっぱりと消えている。
「そんなバカな」
思わず口に出して驚きをあらわにした。個としての存在である以上、力の発信源はその者から発せられる。巨大なクーラーのようなものだ。このような強大な力をもつ手合は一度存在を感知してしまえば、その者に逃げられようとも離れていく冷気を追いかけていくだけでいい。そうすればいずれ発信源へと辿り着くことが出来る。後は除霊なり、成仏なりさせてしまえば良い。
だが今は気配を一切感じることが出来ない。まるでテレビの電源を切ったかのように、唐突に気配が消えてしまった。こんなことは今まで一度も聞いたことがない。考えられるのは個としての存在ではないという線だ。例えば、無数の小さな魂が一時的に結集し、強大な力を発しているパターン。もしくは神器級の宝具の力を開放し、頃合いを見てその力を収めたか。……なんにせよ、強い意思を持った存在の仕業であることは間違いない。
これはますます早急に対処しなければならないと心に決め、顔を持ち上げた途端のことだった。
「……」
周囲から視線を感じる。一つや二つじゃない。三六〇度、あらゆる方角から自分へと視線が向けられているのが分かる。霊力を帯びた視線。だから分かる。周囲にいる連中が全て霊能者あるいは、霊というありえない状況。思い至る答えは一つ。鷹紗に視線を投げている連中全員が『水水さん』に憑依されてしまったということ。溢れる霊気を生体に潜り込んで隠したにもかかわらず、あえて視線に力を込めるというのは、鷹紗への威嚇か。……それとも宣戦布告か。
あちこちから車のクラクションが鳴り散る。信号はすでに赤だった。だが鷹紗を囲む連中が立ち去っていく様子はない。口を一文字に結び、生気のない瞳をこちらに投げ続けている。会社員、警察官、学生、先ほどのギャル。『水水さん』に憑依されているであろう無差別の人間達が、クラクションと罵声に一切動じずにぼうっと立ち尽くしているのだ。
強大な力が再び空から降り注いだ。すぐさま身体が地べたに這いつくばらんとし始める。だが鷹紗は歯を食いしばり、内に秘める霊力をありったけ放出させることで力に抗った。なんとか身体を奮い起こし、周囲に意識を集中させた。どこかに元凶が潜んでいるはずだ。
異様な光景だった。新たに駆けつけた警察官も、怒り狂って車から降りてきたドライバーも、事態を録画しようとスマホカメラを向けていた野次馬達も、あっという間に瞳から生気を奪われ、口を一文字に結び、ぼうっと立ち尽くしていく。視線の先は鷹紗だ。時間を追うごとに鷹紗を囲む人数は増えていき、異様な世界が広がっていく。
前述した通り、この世には集団妄想という現象がある。多くのそれは人間の精神的な部分が原因となる。だが、鷹紗が置かれているこの状況のように、人ならざる者によって引き起こされる集団妄想事件というのも稀にあるのだ。人知を超えた力が加担したケースは当然混沌としていく。仮に首謀者がいて、逮捕したとしても事態は解決しない。人ならざる者が勝手に次の事件を起こしていく。説明が付かないから、事件性が無いものとして扱われて解決することが無い。更に厄介なのは、説明の付かない事柄に惹かれる人間が少なからずいることだ。それは新しい崇拝者――つまり首謀者を生み出すことに他ならない。根本を退治しない限り、怪奇事件は延々と続いていく。ウロボロスの輪のように。
「どこだ、どこにいる?」
憑依する系統の霊は生気を吸い取り、魂を喰らい、力を増長させていく。分裂した同一個体がそれぞれの拠り所で力を蓄え、いつか集結したとなれば、それは抗いようのない災厄になる。霊能力者が束になっても敵わないほどの暴虐な嵐が人間を襲うことになるだろう。
……だからここで屈するわけにはいかない。必ずここで元凶を見つけ出し、悪魔祓いの力を持ってして消滅させてやる。
鷹紗は目を閉じて全意識を集中させた。すると異質な霊気をかすかに察知した。距離があるからか弱々しくおぼろげだが、明らかに周囲のものとは別のナニカ。だが周囲の人間から発せられる霊気がノイズとなって、なかなか捕らえることが出来ない。鷹紗の額から玉のような汗が吹き出て、口元へと垂れていく。憑依しようとしてくる力に抗いながらの察知。少しでも気を抜いたら、糸が切れたように意識は断たれてしまうだろう。その異質な霊気はなぜか、かなり短い間隔で力を増したり、弱まったりしている。よくよく意識してみると、その強弱の律動はほぼ一定であることが分かった。その力が強まった瞬間を狙って、一層集中する。
「見えた!」
鷹紗はそう叫ぶやいなや駆け出した。目指すは高さ二三○メートルのビルにある屋上展望台。『水水さん』に憑依された者達が鷹紗の行動を阻止しようと掴みかかってくる。まだ身体に馴染んでいないのか、動きは緩慢だったことが幸いし、それらを何とかかわしてビルへと疾走する。その時、後方から銃声が鳴り響き、真横のショーウィンドウに穴が開いた。
「なんでもありかよ!」
鷹紗は体勢を低くしつつも、走る速度を緩めない。銃弾が飛んできた方には見向きもせず、真っ直ぐとビルへ猛進する。地面を何度も踏みしめ、前髪に居座る雨粒を振り払い、走る、走る、走る。
ビルに辿り着いた後も追手が止むことはなかった。既にエントランスにも『水水さん』の息がかかった者達が大勢待ち構えていて、一斉に鷹紗へと襲いかかる。鷹紗は懐に手を入れ、聖水の入った小瓶を撫でてから十字架を握った。が、すぐに離して階段を探した。相対している霊達程度であれば、力を行使して払うことは容易だ。だが強引に憑依した霊を払おうとすれば、取り憑いた側にも深刻な影響が出てしまう。具体的には、魂の一部が引きちぎられて精神障害を発症してしまうのだ。
階段を見つけた鷹紗はがむしゃらに空を目指して駆け上がった。追従してくる奴らも徐々に減り、屋上に辿り着く頃には誰一人として追いかけてくる者はいなくなっていた。
「おかあさん。いってらっしゃい。おかあさん。いってらっしゃい」
屋上展望台にはぼうっと立ち尽くして雨に打たれている人間達と、赤い傘の下で腰の曲がった老婆が脇に抱えた壺に手を入れては、眼下に広がる地上へと何かを撒くそぶりをしている。鷹紗はひと目見て都市伝説の『粉まき女』だと分かった。人知れず日本のどこかに出没して、謎の粉を撒いている女。鷹紗の頭の中で、『水水さん』と『粉まき女』が一つに繋がった。
要するに奴が持っている壺に入っているのが『水水さん』なのだろう。彼女のセリフから察するに、母親の遺灰かなにかか。ミクロ級の粒一つ一つに母親の魂が宿っていて、それが雨に混じって屋外の人間に降り注ぐ。今、どれだけの人間が『水水さん』に憑依されてしまったのだろう。問題が発覚するよりも随分前から、『水水さん』の噂はあった。それを思って鷹紗は背筋を冷たくさせる。事態は収拾が付かないほどに大きくなっているのかもしれない。
「どの水が怖い? どの水が怖い?」
赤い傘を差した女が鷹紗に気づいて近寄ってくる。壺の中を混ぜるように手を動かし、じわりじわりと近づいてくる。
「どの水が怖い? どの水が怖い?」
鷹紗がニマニマとするその顔に聖水をぶちまけたのと、女が一握りの灰を投げつけたのはほぼ同時だった。迫る灰を腕でかばいつつ、鷹紗は女の様子を伺った。顔を俯かせて静かに佇んでいる。聖水が効いている気配は無い。女自体はただの人間のようだった。これは実力行使しかないと鷹紗が女に駆け寄ろうとした瞬間。
「ヒャハハハハハ!」
人のものとは思えない叫声をあげて、女はスクランブル交差点を見下ろす手すりへと駆けていき――地上へ飛び降りた。
魍魎会のチャットは今も『水水さん』の噂で持ちきりだった。チャットの雰囲気は限りなく暗い。これまで会員に満ちていた使命感と焦燥は絶望へと塗り替えられ始めている。ただ会員らによる入念な調査により、一つ明らかになったことがある。それは『粉まき女』の存在である。まず『粉まき女』は個人ではなく、複数だということ。女だけではなく男もいるということ。その目撃情報が日に日に増えているということ。
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