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水霊図書館
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肺に水が侵入してくる。水中でもがき苦しむことがこれほどまでに辛いことだとは知らなかった。水面に浮上しようと思っても、両足をコンクリートで固められているため叶わない。まるで地獄へ向かうが如く、仄暗い深海へと彼の身体は吸い込まれていった。
永遠にも思えた数分後の死。新太は間違いなく死んだ。
「……あれ」
死んだはずだった。酸素の無い世界で人間がいかに無力かを思い知ったはずだった。それなのにどうして意識がある? 綺麗に呼吸をしている? なぜ固い床の感触がする? ……なぜ両足を自由に動かせる?
「身体を起こして」
「え?」
しかし呆然自失の彼には戸惑いの返事をするのが精一杯だった。すると固い床をかつかつかつと叩く音が近づいてくる。声の主だと思い、新太はぎゅっと瞼を瞑った。
「起きなさい」
新太は声にならない悲鳴を上げた。明らかに女性の声だった者の両手は線の細い感触がするにも関わらず、易々と新太の身体を仰向けにひっくり返してしまった。サウナ室のような温色の明かりが瞼を透かしてやってくる。青と黒に支配された海中とは思えない色。いったいここはどこなのか。新太は不安と期待が心で綯い交ぜになっていた。
「ほら、目を開けて」
新太は覚悟を決めて身体を起こし、目を開けた。
「こ、ここは……?」
そこにはこの世のものとは思えない光景が広がっていた。まるで水彩画のような場所だ。遥か彼方まで薄ぼやけた景色を透かすガラスの壁。天井は無く、頭上に広がる果てどない青空と雲。あちらこちらに辺りを暖かく照らすカンテラと、大小問わない水泡がふよふよと浮かび、木の棚には透明のカバーに包まれた本がぎっしりと詰まっていた。
新太は常軌を逸した光景の中に、見知った文化が息づいていることに気付く。
「図書館?」
「その通り」
たおやかな手が新太の前に差し出された。彼はそれをしっかりと掴み、ゆっくりと立ち上がった。
「おかえりなさい。こちらは水霊図書館。第六十四号館です」
彼女は艶やかな白髪をさらりと揺らした。
「まずはお手続きとなります」と言われて通されたのは、本の貸出受付カウンターだった。カウンターは横にずーっと伸びていて、一定間隔で仕切り板が設置されていた。わしわしと頭をかいている手や、両手を頭の後ろで組んで、ぼうっと空を見上げている男など、無数の顔や手や頭が仕切り板からヒョッコリと出たり入ったりしている。
図書館というより役所だなこれは。と、内心呟き、図書館利用者への情報誌であろう一枚のプリントに目を落とした。「こちらを読んでお待ちください」と言ったきり戻ってこない司書の葉月蓮から渡されたものだ。
プリントの上部には『ウキウキ! 浮月のオススメ本はコチラ!』と少女漫画に使われそうなフォントでデカデカと書かれている。題名の横には両手にマラカスを持って愉快に踊っている満月のイラストが添えられていた。
独特なセンスだ。しかしこのイラスト……。新太は口を尖らせた。嫌に思ったわけではない。何か困惑するとそうする癖が彼にはあった。
聞いたことの無い作品ばかりだったが、プリントの中身はいかにも図書館の情報誌っぽかった。何が何やら分からないが、ここは思っていたよりもまともな場所のようだと感じた。
「お待たせしました。……そのプリント、私が作ったんです。全部良い本なので、機会があれば読んでみてくださいね」
戻ってきた葉月が四角い水泡に挟んだ書類を机に広げながら言う。至るところで浮いている水泡含め、これらは便利道具のような扱いらしい。どのような仕組みなのか分からないが、それぞれの水泡に役割があるようだった。
新太はプリントの一部分を指差し、彼女を見た。
「この絵も?」
「そうです。上手でしょう」
「いやあ」
葉月の勝ち誇ったかのような笑みに対し、愛想笑いを浮かべて頭をかく。よどみなく言い切られてしまうと、なんとも反応しづらい。ちょっと変わった人なのかもしれないなと新太は思った。
「さて。手続きと参りましょう」
さっと椅子に腰掛け、きびきびと机から様々な物を取り出して並べる。仕事モードといったところか。とても真面目な女性なのは第一印象通りだった。
葉月はゼリー状のプリントを新太の前に置いた。どこの誰とも分からない十五名の名前が記されている。四隅には金の刺繍が入っていて、他の書類よりも重要なものだということが伺える。ゼリー状のものもこれだけで、他は水を薄っぺらく伸ばしたようなプリントしかない。
「貴方は今回で十六回目の生を閉じました。その大半が三十年以内に終えており、地獄行きが十回。これまで訪れた図書館は地霊界が二回、水霊界が四回です。
では恒例となりつつありますがご説明させていただきます。水霊界は真界の中で最も壮大で穏やか。流転の終着点として圧倒的な支持を得ております。治安が良く、他界よりも大きく繫栄したこの世界は、住み良い暮らしを提供します。茂村新太様にも永住の権利が――」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って!」
新太はさっそくパンクしていた。最初からよく分からない。十六回目だと? 既に過去十五回死んでいたと? 何をバカな。しかも十回も地獄行きときた。極悪人もいいところだ。……というかここはつまり。
「ここはあの世、なんですか?」
「地球界の概念で言うとそんなところです」
「地球"界"って……他にも世界があるみたいに聞こえるんですけど」
「もちろんあります。それも無数に。世界は今も広がり続けています。果てどなく、永遠に」
「そんなバカな……」
「地球の文明ではそう思われるのも当然です。新太様にも分かるよう説明させていただきますと、貴方の世界で称している『素粒子』というものは言わば魔法の源です。個々に特有の性質があり、周りの環境に多大なる影響を与えています。全宇宙に存在する元素の約九割が水素であり、太陽の約八割、人間の約六割は水素で構成されています。……ではそれは何故か? そういうものだからです。そこにその魔法が存在したから構成されただけに過ぎません。
いまや宇宙に浮かぶ惑星の数は一兆はくだらないのです。たった一兆のうちの一つに暮らしている地球人が、宇宙全体に存在する森羅万象の素粒子を発見出来ていると思いますか? 答えはいいえです。この世界はそういった素粒子の力で成り立っている。ただそれだけです。確かに”ある”ということだけご理解ください」
学の無い新太にはちんぷんかんだった。素粒子だのなんだのと言われたところで分かるはずもない。とりあえず確かに”ある”世界だということだけを認めることにした。
「確かに存在している世界というのは分かったよ。……それでこれから俺はどうなるの?」
本題を切り出す。目の前に差し出された重要そうな書類の中身もいい加減気になるところだ。
「まずはこちらにサインを。転入届みたいなものです。万一サインされない場合は、魂の保持を放棄したことになります」
「保持を放棄?」
「つまり死にます。今度こそ永遠に」
新太は一目散にサインした。
しばらく葉月の説明は続いた。この世界――真界こそが中枢であること。各界の図書館は本として記憶を保管する役割を持つこと。全宇宙の魂がこれらの図書館に集まり、今後の生き方を決めていること。真界にいる時こそ生身であり、この状態で命を落とすと本当の死が来ること。地球人など何らかの魂の器に入っていれば、器が壊れても魂は戻ってこれること。魂の器に入るためには、魂の穢れを浄化する必要があり、その過程で記憶が消え去ってしまうこと。地球人が想像する空想に国籍問わず共通点があるのは、それが空想ではなく真界で見聞きした記憶が魂にこびりついてるからだということ。……等、新太は様々な真実を聞いた。明朗な性格であった新太はうろたえることもなく、素直に全てを聞き入れた。
「なるほどね。じゃあ次は、魂の器に入ってもう一度生を全うするか、この世界に永住するかを決めるということね」
「その通りです」
「しばらくこの世界で暮らして、気が向いたら魂の器に入るみたいなことは出来ないの?」
「もちろん可能ですが、今は法律で禁じられております。これまで実に多くの問題が起こりまして。……しかし、法を整備しても守らない者が後を絶たず、現在も社会問題として日頃世間を騒がせているのです」
新太は両腕を組んで唸った。どうやらこの世界も完璧というわけではないようだ。それが新太には魅力的に感じた。完璧なものほど味気ないものはない。
「じゃあ散歩くらいは出来る? 図書館の外を見てみたい」
「多少でしたら問題ないかと」
「……葉月さん、案内してくれたりしない?」
葉月はそっと口を閉じた。それ以外に変化したところは無く、真顔のまま微動だにしない。沈黙に耐えられなくなって新太は頭をかいて笑った。
「やっぱり駄目かな」
「あ、いえ。ちょっと安――……」
「え? 今、最後なんて言ったの?」
「なんでもありません。ご案内させていただきます」
図書館の外には、それはもう美しく幻想的な光景が広がっていた。果てどない青空の元、水を主体とした建造物に溢れた巨大都市はとびっきりのアミューズメントパークのように思えた。どこを散策しても楽しそうだ。
しばらく歩き、波止場のようなところに設けられた水のベンチを見つけたので、しばし休憩ということで腰掛ける。どこからか涼やかな潮風が吹いてきて、葉月の一つに結んだ後ろ髪をサラサラと揺らした。
「葉月さんはこの世界に永住して何年になるの? 俺と同じ二十代に見えるけど」
「それ、セクハラですよ」
「えぇー……」
「この世界にもセクハラという考えがあるのか。と思ってそうな顔ですね。もちろんあります。知的生命体というのはとにかく個の尊厳を高められずにはいられないものです。それは森羅万象共通で、この真界も例外ではありません」
「そっか」
「はい」
ふんすと澄ました顔をする葉月を尻目に、年を聞いただけでセクハラになるの? って意味だったんだけど……。と新太は内心呟いた。
「あの、俺と葉月さんってどこかで一度会ってません?」
「それもセクハラです」
「えぇー……」
それからも新太と葉月は他愛のないことを語らった。真界について質疑応答するような堅苦しいものではなく、気の置けない隣人のような感覚で、気ままに穏やかに本当にひたすら他愛のないことを。まるで想いを通わせあった者同士のように。新太は葉月と出会った時から、ある不思議な感情にとらわれていた。
「……どうしたの? 大丈夫?」
ふと違和感を覚え、新太は葉月の顔を覗き込んだ。かすかに苦しげな表情を浮かべているように見えた。
「いえ、何も問題はありません」
「嘘でしょ。しんどいならもう戻ろう」
「……」
すっくと立ち上がり、新太は図書館へ戻る道を進む。しかし後ろから葉月が付いて来ることはなかった。振り返ってみれば、相変わらず水のベンチに腰をかけてわずかに顔を俯かせている。新太は口を尖らせて葉月の元へ戻った。何も言わずに彼女の横に立ち、遠い水平線の向こうに視線を投げる。
「穢れの強い魂は、穢れの少ない魂に良くない影響を与えます。この世界では、魂の穢れ具合によって住む区画を割り当てられ、入って良いお店や公共施設なども制限されます」
新太はそれを聞き、とあることに気付いてしまった。
「ということは、もう葉月さんと会えないってこと?」
「そんなことはありません。貴方の穢れが高いというわけではないです。ここに住むことになったとして、第六十四号館に入れなくなるということもありません。こうして私の気分が悪くなってしまうのは、私の穢れが極めて少ないことが問題なのです」
新太は小さく笑った。
「そっか。じゃあ俺、もう一回地球で人間やってくるよ」
輪廻の間と呼ばれる円形の部屋の中心で、新太は仰向けになっていた。
「輪廻先は東京の築地。性別は男性。よろしいですか」
「うん。俺、寿司好きだから」
「そうでしたね。それでは目を閉じてください」
室内に閃光が走り、白に満ちる。と、新太が呟くように葉月へ語りかけた。
「あのさ。やっぱり俺達どこかで一度――」
落雷のような轟音が鳴り響いた。かと思いきや光が止み、室内から新太の姿が消えてなくなっていた。
「一度どころではありませんよ」
葉月は新太から教わったイラストの描かれたプリント――図書館の情報誌をぐしゃぐしゃになるまで強く抱きしめた。
永遠にも思えた数分後の死。新太は間違いなく死んだ。
「……あれ」
死んだはずだった。酸素の無い世界で人間がいかに無力かを思い知ったはずだった。それなのにどうして意識がある? 綺麗に呼吸をしている? なぜ固い床の感触がする? ……なぜ両足を自由に動かせる?
「身体を起こして」
「え?」
しかし呆然自失の彼には戸惑いの返事をするのが精一杯だった。すると固い床をかつかつかつと叩く音が近づいてくる。声の主だと思い、新太はぎゅっと瞼を瞑った。
「起きなさい」
新太は声にならない悲鳴を上げた。明らかに女性の声だった者の両手は線の細い感触がするにも関わらず、易々と新太の身体を仰向けにひっくり返してしまった。サウナ室のような温色の明かりが瞼を透かしてやってくる。青と黒に支配された海中とは思えない色。いったいここはどこなのか。新太は不安と期待が心で綯い交ぜになっていた。
「ほら、目を開けて」
新太は覚悟を決めて身体を起こし、目を開けた。
「こ、ここは……?」
そこにはこの世のものとは思えない光景が広がっていた。まるで水彩画のような場所だ。遥か彼方まで薄ぼやけた景色を透かすガラスの壁。天井は無く、頭上に広がる果てどない青空と雲。あちらこちらに辺りを暖かく照らすカンテラと、大小問わない水泡がふよふよと浮かび、木の棚には透明のカバーに包まれた本がぎっしりと詰まっていた。
新太は常軌を逸した光景の中に、見知った文化が息づいていることに気付く。
「図書館?」
「その通り」
たおやかな手が新太の前に差し出された。彼はそれをしっかりと掴み、ゆっくりと立ち上がった。
「おかえりなさい。こちらは水霊図書館。第六十四号館です」
彼女は艶やかな白髪をさらりと揺らした。
「まずはお手続きとなります」と言われて通されたのは、本の貸出受付カウンターだった。カウンターは横にずーっと伸びていて、一定間隔で仕切り板が設置されていた。わしわしと頭をかいている手や、両手を頭の後ろで組んで、ぼうっと空を見上げている男など、無数の顔や手や頭が仕切り板からヒョッコリと出たり入ったりしている。
図書館というより役所だなこれは。と、内心呟き、図書館利用者への情報誌であろう一枚のプリントに目を落とした。「こちらを読んでお待ちください」と言ったきり戻ってこない司書の葉月蓮から渡されたものだ。
プリントの上部には『ウキウキ! 浮月のオススメ本はコチラ!』と少女漫画に使われそうなフォントでデカデカと書かれている。題名の横には両手にマラカスを持って愉快に踊っている満月のイラストが添えられていた。
独特なセンスだ。しかしこのイラスト……。新太は口を尖らせた。嫌に思ったわけではない。何か困惑するとそうする癖が彼にはあった。
聞いたことの無い作品ばかりだったが、プリントの中身はいかにも図書館の情報誌っぽかった。何が何やら分からないが、ここは思っていたよりもまともな場所のようだと感じた。
「お待たせしました。……そのプリント、私が作ったんです。全部良い本なので、機会があれば読んでみてくださいね」
戻ってきた葉月が四角い水泡に挟んだ書類を机に広げながら言う。至るところで浮いている水泡含め、これらは便利道具のような扱いらしい。どのような仕組みなのか分からないが、それぞれの水泡に役割があるようだった。
新太はプリントの一部分を指差し、彼女を見た。
「この絵も?」
「そうです。上手でしょう」
「いやあ」
葉月の勝ち誇ったかのような笑みに対し、愛想笑いを浮かべて頭をかく。よどみなく言い切られてしまうと、なんとも反応しづらい。ちょっと変わった人なのかもしれないなと新太は思った。
「さて。手続きと参りましょう」
さっと椅子に腰掛け、きびきびと机から様々な物を取り出して並べる。仕事モードといったところか。とても真面目な女性なのは第一印象通りだった。
葉月はゼリー状のプリントを新太の前に置いた。どこの誰とも分からない十五名の名前が記されている。四隅には金の刺繍が入っていて、他の書類よりも重要なものだということが伺える。ゼリー状のものもこれだけで、他は水を薄っぺらく伸ばしたようなプリントしかない。
「貴方は今回で十六回目の生を閉じました。その大半が三十年以内に終えており、地獄行きが十回。これまで訪れた図書館は地霊界が二回、水霊界が四回です。
では恒例となりつつありますがご説明させていただきます。水霊界は真界の中で最も壮大で穏やか。流転の終着点として圧倒的な支持を得ております。治安が良く、他界よりも大きく繫栄したこの世界は、住み良い暮らしを提供します。茂村新太様にも永住の権利が――」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って!」
新太はさっそくパンクしていた。最初からよく分からない。十六回目だと? 既に過去十五回死んでいたと? 何をバカな。しかも十回も地獄行きときた。極悪人もいいところだ。……というかここはつまり。
「ここはあの世、なんですか?」
「地球界の概念で言うとそんなところです」
「地球"界"って……他にも世界があるみたいに聞こえるんですけど」
「もちろんあります。それも無数に。世界は今も広がり続けています。果てどなく、永遠に」
「そんなバカな……」
「地球の文明ではそう思われるのも当然です。新太様にも分かるよう説明させていただきますと、貴方の世界で称している『素粒子』というものは言わば魔法の源です。個々に特有の性質があり、周りの環境に多大なる影響を与えています。全宇宙に存在する元素の約九割が水素であり、太陽の約八割、人間の約六割は水素で構成されています。……ではそれは何故か? そういうものだからです。そこにその魔法が存在したから構成されただけに過ぎません。
いまや宇宙に浮かぶ惑星の数は一兆はくだらないのです。たった一兆のうちの一つに暮らしている地球人が、宇宙全体に存在する森羅万象の素粒子を発見出来ていると思いますか? 答えはいいえです。この世界はそういった素粒子の力で成り立っている。ただそれだけです。確かに”ある”ということだけご理解ください」
学の無い新太にはちんぷんかんだった。素粒子だのなんだのと言われたところで分かるはずもない。とりあえず確かに”ある”世界だということだけを認めることにした。
「確かに存在している世界というのは分かったよ。……それでこれから俺はどうなるの?」
本題を切り出す。目の前に差し出された重要そうな書類の中身もいい加減気になるところだ。
「まずはこちらにサインを。転入届みたいなものです。万一サインされない場合は、魂の保持を放棄したことになります」
「保持を放棄?」
「つまり死にます。今度こそ永遠に」
新太は一目散にサインした。
しばらく葉月の説明は続いた。この世界――真界こそが中枢であること。各界の図書館は本として記憶を保管する役割を持つこと。全宇宙の魂がこれらの図書館に集まり、今後の生き方を決めていること。真界にいる時こそ生身であり、この状態で命を落とすと本当の死が来ること。地球人など何らかの魂の器に入っていれば、器が壊れても魂は戻ってこれること。魂の器に入るためには、魂の穢れを浄化する必要があり、その過程で記憶が消え去ってしまうこと。地球人が想像する空想に国籍問わず共通点があるのは、それが空想ではなく真界で見聞きした記憶が魂にこびりついてるからだということ。……等、新太は様々な真実を聞いた。明朗な性格であった新太はうろたえることもなく、素直に全てを聞き入れた。
「なるほどね。じゃあ次は、魂の器に入ってもう一度生を全うするか、この世界に永住するかを決めるということね」
「その通りです」
「しばらくこの世界で暮らして、気が向いたら魂の器に入るみたいなことは出来ないの?」
「もちろん可能ですが、今は法律で禁じられております。これまで実に多くの問題が起こりまして。……しかし、法を整備しても守らない者が後を絶たず、現在も社会問題として日頃世間を騒がせているのです」
新太は両腕を組んで唸った。どうやらこの世界も完璧というわけではないようだ。それが新太には魅力的に感じた。完璧なものほど味気ないものはない。
「じゃあ散歩くらいは出来る? 図書館の外を見てみたい」
「多少でしたら問題ないかと」
「……葉月さん、案内してくれたりしない?」
葉月はそっと口を閉じた。それ以外に変化したところは無く、真顔のまま微動だにしない。沈黙に耐えられなくなって新太は頭をかいて笑った。
「やっぱり駄目かな」
「あ、いえ。ちょっと安――……」
「え? 今、最後なんて言ったの?」
「なんでもありません。ご案内させていただきます」
図書館の外には、それはもう美しく幻想的な光景が広がっていた。果てどない青空の元、水を主体とした建造物に溢れた巨大都市はとびっきりのアミューズメントパークのように思えた。どこを散策しても楽しそうだ。
しばらく歩き、波止場のようなところに設けられた水のベンチを見つけたので、しばし休憩ということで腰掛ける。どこからか涼やかな潮風が吹いてきて、葉月の一つに結んだ後ろ髪をサラサラと揺らした。
「葉月さんはこの世界に永住して何年になるの? 俺と同じ二十代に見えるけど」
「それ、セクハラですよ」
「えぇー……」
「この世界にもセクハラという考えがあるのか。と思ってそうな顔ですね。もちろんあります。知的生命体というのはとにかく個の尊厳を高められずにはいられないものです。それは森羅万象共通で、この真界も例外ではありません」
「そっか」
「はい」
ふんすと澄ました顔をする葉月を尻目に、年を聞いただけでセクハラになるの? って意味だったんだけど……。と新太は内心呟いた。
「あの、俺と葉月さんってどこかで一度会ってません?」
「それもセクハラです」
「えぇー……」
それからも新太と葉月は他愛のないことを語らった。真界について質疑応答するような堅苦しいものではなく、気の置けない隣人のような感覚で、気ままに穏やかに本当にひたすら他愛のないことを。まるで想いを通わせあった者同士のように。新太は葉月と出会った時から、ある不思議な感情にとらわれていた。
「……どうしたの? 大丈夫?」
ふと違和感を覚え、新太は葉月の顔を覗き込んだ。かすかに苦しげな表情を浮かべているように見えた。
「いえ、何も問題はありません」
「嘘でしょ。しんどいならもう戻ろう」
「……」
すっくと立ち上がり、新太は図書館へ戻る道を進む。しかし後ろから葉月が付いて来ることはなかった。振り返ってみれば、相変わらず水のベンチに腰をかけてわずかに顔を俯かせている。新太は口を尖らせて葉月の元へ戻った。何も言わずに彼女の横に立ち、遠い水平線の向こうに視線を投げる。
「穢れの強い魂は、穢れの少ない魂に良くない影響を与えます。この世界では、魂の穢れ具合によって住む区画を割り当てられ、入って良いお店や公共施設なども制限されます」
新太はそれを聞き、とあることに気付いてしまった。
「ということは、もう葉月さんと会えないってこと?」
「そんなことはありません。貴方の穢れが高いというわけではないです。ここに住むことになったとして、第六十四号館に入れなくなるということもありません。こうして私の気分が悪くなってしまうのは、私の穢れが極めて少ないことが問題なのです」
新太は小さく笑った。
「そっか。じゃあ俺、もう一回地球で人間やってくるよ」
輪廻の間と呼ばれる円形の部屋の中心で、新太は仰向けになっていた。
「輪廻先は東京の築地。性別は男性。よろしいですか」
「うん。俺、寿司好きだから」
「そうでしたね。それでは目を閉じてください」
室内に閃光が走り、白に満ちる。と、新太が呟くように葉月へ語りかけた。
「あのさ。やっぱり俺達どこかで一度――」
落雷のような轟音が鳴り響いた。かと思いきや光が止み、室内から新太の姿が消えてなくなっていた。
「一度どころではありませんよ」
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