虹の月 貝殻の雲

たいよう一花

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Ⅱ 幽閉

16. シルファ(2)

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レイが内庭に行くと、東屋あずまや瀟洒しょうしゃな丸いテーブルの上に、豪華な茶器と数々の焼き菓子が、所狭しと並べられていた。
れたての茶が芳醇な香りを漂わせ、レイの鼻腔を刺激する。途端に喉の渇きと空腹を感じ、レイはいそいそと椅子に座った。

人形は昨日、初めてレイのために茶を淹れたときに、彼が甘党であることを知った。そのため今日も、レイの好みに従い、淹れたての茶にミルクと砂糖をたっぷりしのばせてある。
人形が差し出したカップを手に取り、レイは舌を火傷しないように、ゆっくりと中身をすすった。
甘い茶が、豊かな香りと共に、渇いた喉をじんわりと下りてゆき、レイはホッと息をついた。
くつろいでいる場合ではない、と思いながらも、甘党のレイにとって、目前の菓子の誘惑は強すぎた。
何種類も並べられた菓子を一つ一つ頬張りながら、レイは傍で見守っている人形に声をかけた。

「うまいよ、これ。見た目もすごく凝ってるし、すごいな。君が焼いたのか? こんなにたくさん……」

人形は、はにかむような笑顔を見せた。

「はい。私は味見ができませんので、レシピ通りに作ったものです。お口に合い、安堵致しました。どうぞたくさん召し上がってください」

「そうか……君は食べられないのか。こんなにうまいのに、残念だね……」

レイにとって甘いものを食べられない生活など、拷問に近い。
目の前に並んだ菓子の祭典を、改めてレイはうっとりと見渡した。

「それにしても贅沢な眺めだよなあ……色んな種類のきれいなお菓子が、こんなにたくさんテーブルに並んでるのを、俺、はじめて見るよ」

人形がこれほど豊富に菓子を用意したのには、実は理由がある。
人形は、レイが甘党であることを知り、彼の喜ぶ顔が見たくて、あれもこれもと作り続け――その結果、作り過ぎてしまったのである。
それにレイは食が細く、料理にはほとんど手を付けない。人形は密かに、それを気に病んでいた。

――人は食べなくなったら、死んでしまう。

その思いが、人形の心を震撼させる。血肉を持たないゆえに「死」を知らないはずの、その心を。

人形が以前仕えた主の中に、何も食べなくなって痩せ衰え、やがて病気になって息を引き取った老婦人がいた。
レイをあのような、痛々しい姿にしたくなかった。――そして、死んで欲しくなかった。
甘い菓子ならきっと食べてくれるはず……その期待と、喜んで欲しいという願いが、人形を菓子作りへと駆り立てたのである。
その願いは見事に叶えられ、主は今、もぐもぐと口を動かしている。

一方、レイは久しぶりに、物を食べる喜びを感じていた。
そして人形の気遣いに礼を言おうとしたところ、まだ人形に名前を付けていないことを思い出した。
どう呼べばよいだろうかと思い巡らすうちに、ふとテーブルに飾られている青い花に目が吸い寄せられる。
小さなガラスの花瓶に入れられた、その可憐な青い花は、レイにとって馴染み深いものだった。

「あ……シルファだ。魔界でも咲くんだな。……いや、もしかして魔界が原産なのか……?」

レイの疑問の声に、シルファが言葉を返した。

「原産地については存じませんが、シルファは薬効があるため、この魔界に広く栽培されております。見た目も可愛らしいため、観賞用としても人気が高く、こちらの内庭においても昔から鉢植えで育てられております。」

「そうかあ……。この花はさ、俺の故郷の……人間界の、ソルクスってところなんだけど……休耕畑によく植えられてたんだ。春になると一斉に咲いて、そこら中、青い絨毯みたいになって、そりゃあきれいなんだけど……咲いている間に、畑の肥料として土に混ぜられてしまうんだ……。子供の頃は、それが悲しくてさ……」

レイはシルファを一輪手に取ると、鼻に寄せてその香りを楽しんだ。
そしてふと、呟く。

「……この花、君みたいだなあ……」

レイの何気ない一言に、人形は驚いて顔を上げ、食い入るように主を見つめた。
その予想外の反応に、レイは少々焦りながら言葉を継いだ。

「あっ……いや、悪い意味じゃなくてさ。ほら、この花の色、君の眼と同じ色だし、こんなに小さくて可憐で……精一杯咲きながら、人の役に立ってくれる。そういう健気な印象が、似てると思ってさ……ごめん、気を悪くしたか?」

それには答えず、人形はどこか遠くを見つめるような瞳で、

「エイミア……様……」

と呟いた。

「えっ、何? エイミア様って、誰だ?」

ハッとして人形は夢想から覚めた。

「申し訳ございません」

「謝ることないよ。エイミア様って?」

「……昔、こちらでお世話申し上げた方です。……エイミア様も、私をシルファに似ていると……仰せになり、私をその花と同じ名前でお呼びになりました」

人形は束の間、物思いに沈んだ。
初めてレイと言葉を交わしたときから、彼にはどことなく、エイミアを彷彿とさせるところがあると、不思議に思っていた。
懐かしい、と人形は、過去に思いを馳せた。
エイミアとの日々は人形にとって特別な意味を持ち、498年分の記憶の中で、そこだけ強い輝きを放っていた。
そんな人形の思いは、繊細に揺れ動く感情の波となって、レイの心に漠然と打ち寄せていた。レイはためらいがちに、口を開いた。

「その……エイミア様って……もう亡くなっているのか?」

「……存じません。361年前、私がお仕えした最後の日、エイミア様はここをお出になり、以降二度とお会いすることはありませんでした」

「361年前……」

魔族は人間よりずっと長命で、300歳を超える者もいると聞くが、そう多くはない。

(もう、亡くなっていると考えたほうが自然か……)

なぜここに滞在していたのか、どんな人物だったのか、レイの頭に様々な疑問が浮かんだが、何となく人形に聞くのはためらわれた。それというのも、人形から感じる感情の波の中には、慕わしい気持ちと共に、悲しみが内包されていたからである。
レイは人形をじっと見つめると、静かな声で問いかけた。

「君は、そのエイミアって人を、好きだった?」

人形の顔に、困惑の色が浮かぶ。

「私は、主を好き嫌いで判別することはできません」

「……じゃあ、その人と一緒にいて、楽しかった?」

硬い表情を見せていた人形のおもてに、微笑みが広がる。

「はい。楽しゅうございました。……とても」

レイはホッとして、手の中の青い花に視線を落とした。

「じゃあ……どうかな、俺がその人と同じように、君をシルファと呼んでも構わないか?」

「私の許可など必要ございません。どうぞレイ様のお好きにお呼びください」

「う~ん……」

突然呻きながら頭をかきむしり、ため息をつくレイを見て、人形は自分が何か粗相そそうをしたのかと、慌てて謝った。すぐにレイが、激しく首を振る。

「ああ、違う違う、ごめん。あのさ、俺は庶民だから……誰かにかしずかれて、仕えてもらうことに慣れてないんだ。俺はさ、君が今まで仕えてきた『高貴な方』とは違う。人間界の、ただの何でも屋だ。主従なんて、ガラじゃない。君が迷惑じゃなければ、できれば俺は君と友達になりたいし、俺の好みよりは、君の好みを優先した名前で呼びたいんだ」

きっぱりとそう告げられ、人形の心に懐かしい感情が去来する。
嬉しくもあり、同時に苦しいような、切ないような、人形にとっては不思議としか言い様のない、その感覚。
高名な人形師にかりそめの命を吹き込まれ、心というものを教わったが、それが何なのか、はじめはまったく分からなかった。実際それがどんな働きをするのか身をもって知ったのは、エイミアに仕えた六年余りの間のことだった。

人形はこれまでにこの〈最果ての間〉で26人の主に仕えてきたが、エイミア以外に、人形の心を揺さぶる主は一人もいなかった。
しかし今、目の前に現れた新しい風変わりな主は、何のためらいもなく自分を対等に扱い、すとんと心の中に入ってくる。――長く沈黙を守り、堅固な蓋をかぶせた、この心の中に。

人形の戸惑いはやがて溶解し、一つの決意がそれに取って替わった。

――エイミア様に良く似た雰囲気を持つ、この主を、彼女に仕えたときのように、心を解放してお仕えしよう……。

「レイ様、どうか私をシルファとお呼びください。その名前には、私の幸せな時間のすべてが凝縮されています。レイ様にその名でお呼びいただけるのなら、大変嬉しゅうございます」

何かが吹っ切れたように晴れやかに笑う人形を見て、レイもつられて破顔した。

「そっか! んじゃ、決まりだな、シルファ!」

人形は、はにかんだ笑顔をレイに向け、朗らかに返事を返した。
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