虹の月 貝殻の雲

たいよう一花

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Ⅰ 強奪

2. 魔王とレイ

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『踊るイルカ亭』に戻ってきたレイに気付くと、宿のおかみさんはいつものように、気のいい笑顔でレイを迎えた。

「おかえり、レイ! 疲れたろ、食事はしたのかい?」

妻の声を聞き、奥の厨房から宿屋の主人、ロワンが顔を出す。

「よう、レイ! 何を食うんだ? 何でも注文してくれ!」

『踊るイルカ亭』は、この主人の作る料理が評判で、愛想の良いおかみが切り盛りする宿は、いつも常連客で賑わっている。

レイは宿の食堂兼酒場でくつろいでいる顔なじみの客に挨拶した後、ロワンに「部屋で食べたいから」と言い、卵と野菜の具が中に詰まった『ロワン特製極上揚げパン』を四つ注文し、それを手に自分の部屋へと向かった。

階段を上がり部屋の鍵を開けて中に入ると、片隅に置かれた肘掛け椅子に、魔王が窮屈そうに座ってレイを待っていた。
術を使い、外から直接、部屋に入ったのだろう。魔王はレイに会いに来るとき、いつも人目に付かないよう行動している。

レイが扉を閉め鍵をかけた途端、魔王はフードをはねのけ、椅子から立ち上がった。
男らしく精悍な顔立ちと共に、柔らかくうねりを伴った金髪があらわになる。
魔王はいつも長い金髪を後ろでひとつに束ねているが、顔にかかった前髪だけは、あごの下あたりまで垂らされている。
年の頃は二十代後半辺りかと思わせるが、魔族は人間より遙かに長寿で、外見もゆっくりと年を取る為、見ただけでは、実際の年齢は分からない。

レイは揚げパンの包みと、もう片方の手に持っていた灯火を書き物机の上に置くと、魔王に向き合った。

狭い部屋の中で、体格の良い魔王が立ち上がると、彼の圧倒的な存在感に、レイは押し潰されるような心地がした。

――鼓動が早鐘を打ち、頬が紅潮する。

このところ魔王に会うといつも、こんな風に胸が躍り、顔が火照る。
そのたびにレイは心の中で、こうつぶやく。

(きっと特別だからだ。魔王は他の誰とも違う。魔族の王だもんな……特別な存在だ)

他の誰でも、魔王と会えばドギマギするに違いない……レイはそう思い込んで、自分の感情をありふれた事象として処理しようとした。

レイは揚げパンの入った包みを開けると、中身を取り出し、魔王に差し出した。

「下で揚げパン、もらってきたんだ。魔王の分もあるから、食べないか? ロワンの揚げパンは、ここらじゃ有名なんだぜ。……っと、葡萄酒もらってくるの、忘れた。取りに行ってくるよ」

扉に向かったレイの動きを、一瞬で近寄ってきた魔王が制止する。

「……行くな。ここにいろ」

息がかかるほどすぐ傍で囁かれ、レイは自分の耳が赤くなるのを感じ、焦って言葉を返した。

「でも、水しかないぜ? ありきたりの、普通の水……」

「構わん。おまえに会いに来たのだ。一分一秒も惜しい。……ここにいろ」

(まるで口説かれているみたいだな……)

レイはそんな風に思った自分が恥ずかしくなり、どっかりと寝台の端に腰を下ろすと、勢いむしゃむしゃと揚げパンを頬張り始めた。

「魔王も食えよ、ほら、滅茶苦茶うまいぞ」

「ああ……」

魔王はレイの手から揚げパンを受け取ると、再び椅子に座り、じっとレイを見つめながらパンをかじった。

二人の間に、沈黙が降りる。

外の通りからは酔っ払いの調子はずれの歌声が響き、階下の食堂からは人々が談笑する声が、ロワンの編み出すうまそうな料理の匂いと共に立ち昇ってくる。

魔王の視線を無視するよう努め、レイがパンを呑み込むように食べ終わると、それを待っていたかのように、魔王が椅子から立ち上がり、レイの隣に腰を下ろした。

「その左腕の怪我はどうしたのだ?」

「えっ?」

いきなり問われ、レイは戸惑った。

確かに左腕に、剣で切られた傷をこしらえていたが、化膿止めの薬を塗り、包帯の巻かれた腕は、袖の下に隠れて見えない筈だ。

「血の匂いがする」

魔王のその一言で、合点がてんがいった。魔族は血の匂いに敏感だ。

「何があった?」

短く問いかける魔王の声は静かだったが、声の調子には、明らかに苛立ちが含まれていた。その様子に、レイがわずかに眉をひそめる。

(何だ? ……機嫌が悪いな……)

レイが口を開くのをためらっていると、魔王はなおも追及してきた。

「今回の仕事は……フェイドルとラルカ間の隊商の護衛だったな? 何事もなく無事に辿り着いたのではなかったのか?」

魔王は決まって、レイの前後の予定や現況を知った上で、丁度良い時機を選び、現れる。始めは見張られているようで何となく不快に思っていたレイだが、今ではすっかり慣れてしまい、むしろ便宜を効かせてくれるのをありがたく思っていた。……その反面、今回のようにしつこく詮索され、若干煩わしい気持ちになることもあったが。

(何だってこんなに知りたがるんだ? ……魔王こいつは……)

レイは諦めて肩をすくめると、重い口を開いた。

「別に……たいしたことはない。今回の仕事中に、俺がちょっとドジをしただけだ」

あまり話したくなかったので、暗に「これ以上追及しないでくれ」と匂わせたが、魔王には通用しなかった。「話せ」と命令口調で言われ、レイは仕方なく経緯を説明し始めた。

「……ラルカの街の手前に峡谷があって、その場所で盗賊団と小競り合いになったんだ。こっちには俺の他に二人も護衛がいたし、相手は統制の取れていない寄せ集めの一群だったから、難なく撃退して、荷も商人も無事に済んだんだが……」

魔王の射るような視線を受けて、レイは焦りを感じた。
――なぜこの男は、怒っているのだろう? そう思いながら、話を続ける。

「その……連中の中に、まだ月のものも来ていないような、小娘がいて……」

ごにょごにょと口ごもるレイに代わって、ため息と共に魔王が先を繋いだ。

「手心を加えたが為に、傷を受けたというわけか。……甘いな」

図星なだけに、グサッと刺さるものがあり、レイはムッとした表情で魔王を睨み付けた。

「悪いかよ! 仕事さえ完璧にこなせば、あとは俺の勝手だろ! 別に……あのを傷付けなくても……」

「おまえはこの仕事に向いてない。なぜ続けるのだ? おまえほど魔道に秀でる者なら、仕事は他にいくつもあるだろう。このような危険な稼業でなくとも、もっと安全な……」

「兄さんと同じことを言うんだな、魔王」

レイにはたった一人、年の離れた腹違いの兄がいる。
生まれて間もなく両親を亡くしたレイには、唯一とも感じる大切な肉親で、兄は仙界の出身だ。
つまりレイの父は仙界人で――そして母は、人間と魔族の混血だった。
見た目は人間にしか見えないレイだが、その魔力の高さはまぎれもなく、人間以外の血を濃く、その身に宿しているためである。

魔王はレイの兄、フリューイとの面識はない。しかしレイの話題によく登場するため、今では会ったことがないのが不思議なほど、その存在を身近に感じていた。弟を慈しみ、大切に育て上げた兄が、今のレイの稼業を快く思うはずがない。

レイは溜息をついて、口を開いた。

「兄さんには家に帰るたび、小言を言われるよ。もう耳にタコができてる」

「ありがたく受け取れ。おまえを案じてのことだ」

「……分かってるさ。でも俺、この仕事が好きなんだ。ひとつ所にじっとしているのは、どうも性に合わない。色んな所に行って、色んな景色を見て、色んな人に会いたいんだ」

突然、傍にいた魔王が、レイの左腕を服の上からひと撫でし、短い呪文を二つ唱えた。

身構える隙もなく、レイの左腕の傷は、治療の魔道術によって完全に塞がっていた。おまけに包帯ににじみ出ていた血の染みまで、消し去られている。

袖をまくりあげ、それらを目で確認したレイは、がっかりしたようにため息をついた。

「あ~あ………治してしまったのか」

魔王はいぶかにレイを見つめた。

「初歩の術だ。自分でも癒せたろうに、なぜ、しない?」

「魔道にばかり頼っていたら、自己治癒能力が低下するらしい。今の俺の体が、通常の治療で傷を治すまで、何日かかるか知りたかったんだ」

「それは悪かったな……。だが私が限界だった。おまえの……甘い血の匂いに……」

魔王はため息をつき、視線をらせた。

レイは魔王の言葉の不可解さよりも、元気のないその様子が気になった。 

「どうした……元気がないな、魔王。……また政敵とやらが、何かしでかしたのか?」
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