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番外編
心の穴⑤
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かすかな物音で目が覚めた。見ると、彼が昨夜の服を身にまとって、玄関に向かうところだった。
「待って……!」
慌てて飛び起きると、彼が振り向いた。
「起こしてしまいましたか……すみません」
穏やかで冷静な彼だった。彼はにっこりと微笑んだ。
「服、おかげさまで、乾きました。助かりました」
すごく自然にふるまうものだから、昨夜の出来事が本当に夢だったんじゃないかと思ってしまう。でも、出ていこうとする彼を止めようと飛び起きた俺は全裸で、またもや俺だけが居心地の悪い思いをしながら、結局慌ててズボンだけ履いて駆け寄った。
「ねえ、待って……! あのさ、連絡先、教えてくれないかな……」
彼の目は、静かなままだった。それで、やっぱり浮ついているのは俺だけなんだと思い知って、思わず口走ったことを後悔する。でも、もう今さら引けない。
「あの、さ……君のことを、もっと知りたいんだ。せめて、名前くらいは……」
ああ、俺、なんでこんなことをいってるんだろう。つい1週間前に恋人と別れて、昨夜まで毎日のようにやけ酒をして、勢いでセックスした初対面の男を、今度は口説いているみたいになって。ものすごい羞恥に逃げ出したくなったとき、彼が口を開いた。
「……もっと知る必要は、ありませんよ」
すごく穏やかで、俺を諭すような口調だった。
「昨夜は、お互いに、助けを必要としていた。ただ、それだけです」
昨夜、ベッドの中ではあんなに熱く乱れていたのに、まるで別人みたいに、彼はそういった。
「あ……確かに、昨夜は、そうだったかもしれない。でも……それがきっかけじゃ、だめかな?」
彼はまた、静かに微笑んだ。俺より若いのに、俺より脆そうなのに、俺を包み込むかのような、そんな笑みだった。
「あなたは、錯覚しているんですよ、拓斗さん。昨夜は、互いに足りないものを、補おうとしただけ。僕がそれを埋めたから、あなたは僕を、何か特別な人間だと勘違いしている。でも、それはまやかしなんです。そんな魔法は、すぐに解けます」
「そんなの、わからないだろ。少なくとも俺には、君は、その……ただの穴埋めとか身代わりとか、そういうのじゃなくて、もっと……それ以上なのかもしれないって、そう感じたんだ。それを、確かめることくらい、いいだろう?」
「だから、それが錯覚なんです。あなたもすぐ気づきますよ」
「でも、君だって……『先生』のことを忘れたいから、昨夜ついてきたんだろう?」
彼の顔が、一瞬こわばった。
「君は、その先生と別れたことが苦しくてたまらなかったんだろう? その彼を忘れたいから、ついてきたんじゃないの? 俺じゃあ、忘れさせてあげられないかな……」
勝手に先生のことを持ち出して、気分を悪くしただろうか。でも、彼が身構えたのも一瞬のことで、ややあってから、彼は不意に柔らかい表情でうつむいた。
「……あの人のことは、忘れられませんよ……。忘れる気も、ありません。あなたを身代わりにするつもりもない。誰も、あの人の身代わりになんて、なれません」
柔らかいのに、そこにとても強い意志を感じて、言葉が出なかった。彼はすぐに顔をあげて、またいつものように微笑んだ。
「僕、こう見えて、人を見る目があるんですよ。僕に声をかけたのがあなたでなければ、ついてはいかなかった。大丈夫です、あなたなら、またいつか、お似合いのお相手が見つかりますよ、拓斗さん」
そういうと、彼はまた背を向けて靴を履いた。
「あっ、ねえ、せめて、名前くらい聞かせてよ――」
カッコ悪く呼び止める俺に、彼はもう一度だけ振り向いて笑った。
「……もし本当に縁があれば、またどこかで会えますよ。そのとき、まだあなたの心が変わっていなかったら、声をかけてください」
とても丁寧に、しっかりと俺の目を見て、彼はそういった。そして小さく会釈をして、出ていった。
……すぐ解ける魔法、か。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。正直いって、俺にもまだわからない。彼は確かに、俺に魔法をかけた。この1週間、ずっと俺の心を占めていた彰久のことを、彼は一瞬で忘れさせた。そして今度は、彼自身が俺の心にとりついた。このまま会うこともなければ、きっとすぐに忘れるのだろう。昨夜はあんな出会い方をしてあんな夜を過ごしたから、俺も妙に浮ついているだけだ。彼のほうがきっとこういう関係には慣れていて、この魔法がすぐに解けることを知っているのかもしれない。
でも……。
彼が出ていったドアをしばらく呆然と見つめた後、俺は洗面所に向かった。
マグカップに2本、色違いの歯ブラシが並んでいる。
青いほうを取って、ごみ箱に捨てた。簡単に、捨てられた。
1週間ずっと苦しんで、それから今、また違う疼きで胸が苦しい。でも、なんだろう。昨日までと違って、こういう疼きなら、悪くないかもしれない。この、チクチクとしたささくれみたいな痛みをずっと胸に抱えながら、この魔法がいつ解けるのか、ただじっと待ってみるのも、ありなのかもしれない。
カーテンを開けると、昨夜の雨はやんで、冬の日差しが冷たい空気の間から暖かく差し込んでいた。
……やっぱり、12月っていうのは、そんなに寒くはないのかもしれない。
(完)
「待って……!」
慌てて飛び起きると、彼が振り向いた。
「起こしてしまいましたか……すみません」
穏やかで冷静な彼だった。彼はにっこりと微笑んだ。
「服、おかげさまで、乾きました。助かりました」
すごく自然にふるまうものだから、昨夜の出来事が本当に夢だったんじゃないかと思ってしまう。でも、出ていこうとする彼を止めようと飛び起きた俺は全裸で、またもや俺だけが居心地の悪い思いをしながら、結局慌ててズボンだけ履いて駆け寄った。
「ねえ、待って……! あのさ、連絡先、教えてくれないかな……」
彼の目は、静かなままだった。それで、やっぱり浮ついているのは俺だけなんだと思い知って、思わず口走ったことを後悔する。でも、もう今さら引けない。
「あの、さ……君のことを、もっと知りたいんだ。せめて、名前くらいは……」
ああ、俺、なんでこんなことをいってるんだろう。つい1週間前に恋人と別れて、昨夜まで毎日のようにやけ酒をして、勢いでセックスした初対面の男を、今度は口説いているみたいになって。ものすごい羞恥に逃げ出したくなったとき、彼が口を開いた。
「……もっと知る必要は、ありませんよ」
すごく穏やかで、俺を諭すような口調だった。
「昨夜は、お互いに、助けを必要としていた。ただ、それだけです」
昨夜、ベッドの中ではあんなに熱く乱れていたのに、まるで別人みたいに、彼はそういった。
「あ……確かに、昨夜は、そうだったかもしれない。でも……それがきっかけじゃ、だめかな?」
彼はまた、静かに微笑んだ。俺より若いのに、俺より脆そうなのに、俺を包み込むかのような、そんな笑みだった。
「あなたは、錯覚しているんですよ、拓斗さん。昨夜は、互いに足りないものを、補おうとしただけ。僕がそれを埋めたから、あなたは僕を、何か特別な人間だと勘違いしている。でも、それはまやかしなんです。そんな魔法は、すぐに解けます」
「そんなの、わからないだろ。少なくとも俺には、君は、その……ただの穴埋めとか身代わりとか、そういうのじゃなくて、もっと……それ以上なのかもしれないって、そう感じたんだ。それを、確かめることくらい、いいだろう?」
「だから、それが錯覚なんです。あなたもすぐ気づきますよ」
「でも、君だって……『先生』のことを忘れたいから、昨夜ついてきたんだろう?」
彼の顔が、一瞬こわばった。
「君は、その先生と別れたことが苦しくてたまらなかったんだろう? その彼を忘れたいから、ついてきたんじゃないの? 俺じゃあ、忘れさせてあげられないかな……」
勝手に先生のことを持ち出して、気分を悪くしただろうか。でも、彼が身構えたのも一瞬のことで、ややあってから、彼は不意に柔らかい表情でうつむいた。
「……あの人のことは、忘れられませんよ……。忘れる気も、ありません。あなたを身代わりにするつもりもない。誰も、あの人の身代わりになんて、なれません」
柔らかいのに、そこにとても強い意志を感じて、言葉が出なかった。彼はすぐに顔をあげて、またいつものように微笑んだ。
「僕、こう見えて、人を見る目があるんですよ。僕に声をかけたのがあなたでなければ、ついてはいかなかった。大丈夫です、あなたなら、またいつか、お似合いのお相手が見つかりますよ、拓斗さん」
そういうと、彼はまた背を向けて靴を履いた。
「あっ、ねえ、せめて、名前くらい聞かせてよ――」
カッコ悪く呼び止める俺に、彼はもう一度だけ振り向いて笑った。
「……もし本当に縁があれば、またどこかで会えますよ。そのとき、まだあなたの心が変わっていなかったら、声をかけてください」
とても丁寧に、しっかりと俺の目を見て、彼はそういった。そして小さく会釈をして、出ていった。
……すぐ解ける魔法、か。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。正直いって、俺にもまだわからない。彼は確かに、俺に魔法をかけた。この1週間、ずっと俺の心を占めていた彰久のことを、彼は一瞬で忘れさせた。そして今度は、彼自身が俺の心にとりついた。このまま会うこともなければ、きっとすぐに忘れるのだろう。昨夜はあんな出会い方をしてあんな夜を過ごしたから、俺も妙に浮ついているだけだ。彼のほうがきっとこういう関係には慣れていて、この魔法がすぐに解けることを知っているのかもしれない。
でも……。
彼が出ていったドアをしばらく呆然と見つめた後、俺は洗面所に向かった。
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青いほうを取って、ごみ箱に捨てた。簡単に、捨てられた。
1週間ずっと苦しんで、それから今、また違う疼きで胸が苦しい。でも、なんだろう。昨日までと違って、こういう疼きなら、悪くないかもしれない。この、チクチクとしたささくれみたいな痛みをずっと胸に抱えながら、この魔法がいつ解けるのか、ただじっと待ってみるのも、ありなのかもしれない。
カーテンを開けると、昨夜の雨はやんで、冬の日差しが冷たい空気の間から暖かく差し込んでいた。
……やっぱり、12月っていうのは、そんなに寒くはないのかもしれない。
(完)
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