妄想女医・藍原香織の診察室

Piggy

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障害編

12話【off duty】新條 浩平 21歳:重症だ(新條編)

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 携帯電話の機種変更に時間がかかって、もうこんな夜になってしまった。駅に向かいながら、ふと、藍原先生のことを思い出す。
 先生は、すぐそこのM病院で働いてる。もう帰ったかな、まだ病院かな。こういう日は、待ち合わせとかして一緒に帰れたらうれしいのにな……。
 そんなことを思いながら歩いていると、突然すぐ横の路地から女の人がこけながら飛び出してきた。反射的にその体を支える。

「あっ、す、すみませ――」

 顔をあげたその人を見て、びっくりした。藍原先生だ!

「先生! びっくりした、今ちょうど先生のこと考えてたところだよ。どうしたの、一緒にかえろ――」

 舞い上がって声をかけてすぐに、先生の様子がおかしいことに気がついた。真っ赤な顔をして、半泣きになって、体がガクガクと震えている。

「……先生、大丈夫――」

 誰かに襲われて、逃げてきたんだろうか。それくらい、切羽詰まって混乱した顔をしてる。いったい、何があったんだ――そう思ったとき。

「香織ちゃん!」

 同じ路地から、男の人が飛び出してきた。反射的に顔をあげて、その人と目が合う。藍原先生よりちょっと歳上くらいの、甘いマスクの男だ。Tシャツにジャケットを羽織って、おしゃれなそのいでたちは、普通のサラリーマンではなさそうだけどチャラいわけでもなく、理知的な雰囲気すら漂わせてる。そんな男が、思いつめたような表情で先生の名前を呼んで――香織ちゃん、て。

 事態を飲み込めないうちに、先生が俺の服の裾を掴みながら半分後ろに隠れた。

「い、い、今の、彼氏ですッ! さよなら、先輩……っ」

 先生が、俺の服を引っ張ったまま駅の方向へと足早に歩き出す。

「え、え? 先生、どうしたの、ねえ……」

 ちらちらと立ち尽くしてる男の人のほうをうかがいながら、先生についていく。先生は何かを堪えるような怒ったような顔をしたまま、何もいわずにずんずんと歩いていく。

 ただ事じゃない雰囲気に、心臓がバクバクいう。
 何となく、察してしまった。さっきの先生の、紅潮した顔と火照った体、それに、半泣きの顔。……先生の体は、わかりやすい。あんなにパニクった表情をしていたのに、体からは……ほんのりと、甘い香りが立ち込めていて。

 先輩、っていってた。香織ちゃん、って呼ばれてて。
 胸がズキンと痛んだ。先生が何もいわないなら、俺は知らないふりをしてあげなきゃいけないのかもしれない。でも、先生の体は正直すぎて、俺は、知らないふりなんてとてもじゃないけどできない。

 結局ずっと黙ったままの先生を部屋まで送り届けて……そのまま、鈍感なふりをして自分の部屋に戻ろうかとも思ったけど、できなかった。

「……さっきの人……先生の、昔の彼氏?」

 なるべく追い詰めないように気をつけながら、優しく訊いてみた。先生の体がぴくんと反応して、声には出さないけど、返事をしてる。

「向こうから、連絡が来たの?」

 先生はふるふると首を振った。

「……偶然……学会で、会って……」

 学会。ってことは、相手は医者なのか? あんな優しそうな顔をしたおしゃれなイケメンドクターか。俺、完全に負けてんじゃん。……いや、まだそうと決まったわけじゃない。自虐的になるな、俺。

「ひょっとして、さ……昔、先生を傷つけた、彼氏……?」

 昔の彼とのことがトラウマになって、うまく恋愛ができない、みたいなことをいってたよな。さりげなく訊いたつもりだったけど、先生はぽろぽろと涙を流し始めた。

「あっ、ごめんっ、聞いちゃだめだった? ごめんね、イヤなことを思い出させちゃったかな……」

 やばい、俺、デリカシーなさすぎだ。先生を泣かせちまった。

「ち、違うの、新條くんは、謝らないで、あたしが悪いんだから」

 またズキンと胸が痛んだ。過去に先生をフッた男と再会して、古傷をえぐられただけなら、先生はこんなふうな言い方はしない。それに、体だって……あんなふうに、なりはしない。先生は……

「……まだ、好きなの? あの人のこと」

 訊いちゃダメだ、訊いていいことなんてひとつもない。頭ではわかってたけど、訊かずにはいられなかった。あの男の人は、まだ先生に未練がありそうだった。自分からフッたものの、久しぶりに再会した先生を見て、惜しくなったのかもしれない。先生は、そんな再会にうっかり流されただけなのか、それとも――

 答えないでほしかった。自分で訊いておきながら勝手だけど、答えを受け止める覚悟は、まだ俺にはない。でも。先生は、何もいわなかったけど、俺をじっと見つめて苦しそうにぽろぽろと涙をこぼすその姿は、もう見ていられないくらい痛々しくて……。
 苦しそうな先生を見て、俺も苦しくなった。そして同時に、よくわからない怒りみたいなものが込み上げる。

「……どうしてだよ、先生を、傷つけた男だろ?」
「わからない。自分でも、よくわからないの。昔は好きだった。でも、もう諦めて、そのときの気持ちも、ずっと忘れてて、なのに、今さら出てきて、何が何だか……っ」

 そうか。そうだよな。傷つけられたからって、そいつのことを嫌いになったわけじゃなかったんだな。だから先生も……あいつに、未練が……。

 ムカついてきた。なんだよ、これ。先生に、まともな恋愛できなくなるくらいのダメージ負わせといて、ふらっと現れてこんなに簡単に先生の心をかき乱して。確かにさ、先生が惚れるのもわかるくらいの、いい男だったよ。先生とも釣り合いそうな大人だし、悪い奴ではなさそうだったし、しかも医者だろ。……俺、どこを比べても、完全に負けてる。……でも、こいつにだけは、負けたくない。

「……先生はさ、俺にはもう、気持ち、なくなったの?」

 負けたくはないけど、一番大事なのは先生の気持ちだ。先生は真っ赤な顔をして首を横に振った。ちょっとだけ、ほっとする。俺は先生の隣ににじり寄った。

「俺さ、前もいったけど……先生の心も体も、全部受け入れる覚悟だから。先生がうっかり流されちゃっても、気持ちがふらついても、先生のほうから離れていかない限り、俺から離れることはないから。だからさ、そんなに泣かないで?」

 そっと先生の肩を抱き寄せる。小さい体がますます小さくなって、硬くなっていた。

 俺は、何があっても、先生が好きだ。

 その気持ちを再確認する。うつむく先生の顔を持ち上げて、そっと触れるだけのキスをした。先生はびくんと体を震わせて、唇を結んだ。そして、そっと、俺の体を押し戻した。

 付き合い始めてから、先生にキスを拒まれたのは、初めてだった。先生が俺には告げずに合コンに行ったときとか、小山内先輩に襲われて傷ついたときとかだって、自分自身のことは責めても、俺を拒みはしなかった。でも、今回は……。自分を責めて、そして、俺のことも、拒んだ。

「……ごめんね、先生。今日は、ゆっくり休んで」

 俺はのろのろと立ち上がると、先生を置いて部屋を出た。
 ……やばい。今回は、重症かもしれない。先生に拒否られて、こんなにダメージ食らうなんて。いろいろと、重症だ……。
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