211 / 309
障害編
10話【off duty】神沢 隼人:「嫌いになって別れたわけじゃない」(藍原編)①
しおりを挟む
喫茶店を覗くと、窓際の席に神沢先輩が座っていた。
「……先輩! すみませんでした、こんなところまで来ていただいて」
先輩は顔を上げると、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた。
「香織ちゃん。大丈夫だよ、そっちこそ仕事はちゃんと終わったの? 急がせちゃったかな?」
先輩、相変わらず気遣ってくれて優しい。
「大丈夫です。あの、IDカード……」
「ははは、香織ちゃん、せっかちだなあ。ねえ、せっかくだから晩御飯食べて帰ろうよ。この辺、いい店ある?」
え、晩御飯? ……そんなつもりはなかったんだけど……。
「あの、いえ、晩御飯は、その……」
断る理由を探していると、先輩が困ったように笑った。
「せっかくここまで届けに来たんだからさ。ちょっとくらいは、おしゃべりさせてよ」
う……。それもそうだ。遠いところをわざわざ来てもらって、さっさと帰ってもらうのは申し訳ないかも……。
「あの……。じゃあ、本当に、ちょっとだけ……」
結局あたしは、先輩と一緒に近くのこじゃれたレストランに入った。
「……香織ちゃん、彼氏、できたんだね」
「……はい」
そう。やっとのことで、彼氏ができたんだから。もう、そっとしておいてほしい。
「そっか。……僕はまだ、香織ちゃん以上の人は見つけられてないよ」
「……」
また、胸がざわつき始める。そういうことをいって、あたしを混乱させないでほしい。あたしなんて、先輩以上の人どころか、あの一件で自分の尋常じゃないエロさに気づいて、男の人と二人きりになるのだって怖かったんだから。彼氏を見つけるどころじゃなかった。エロが暴走しないように、一生懸命自制して、そのせいで、変な妄想癖までついちゃって。……全部、あのときからだ。
「今の彼氏は、どんな人なの?」
「……優しいです。すごく優しくて、あったかくて、……あたしに、ペースを合わせてくれるような……」
いっていて、気づいてしまった。神沢先輩も、すごく優しくて、あったかくて、一緒にいると安心できるような、そんな人だった。……あたしは、新條くんに、先輩を重ねているのだろうか?
「……その人は、香織ちゃんを、満足させてくれてるの?」
「え……?」
よく意味がわからなくて、先輩の顔を見上げる。先輩は声を落としていった。
「ほら……香織ちゃん、積極的だったから」
かあっと全身が熱くなった。先輩が何をいってるのかはわかる。恥ずかしいのと同時に、怒りにも似た感情が沸き上がってきた。
「……先輩が! 先輩のせいで! あんなこといわれたから、あたしもう、怖くなっちゃって……っ、あれから、まともな恋愛なんてずっとできませんでしたっ!」
「え?」
先輩がきょとんとしてるのが、また無性に頭に来た。あたしがこんなに長い間悩んでいたというのに、当の先輩は、自分がいったことも忘れて……!
「先輩にあんなふうにいわれてっ、あたしもう、怖くて……い、今の彼とだって、怖くて、まだ……っ」
ああ、いわなくていいことまでいっちゃった。でも、先輩のあのときの一言がどれだけあたしにとって重かったのか、ちょっとはわかってほしい。
「……香織ちゃん、ごめん」
初めて、先輩が謝った。
「あのとき、僕は……驚いたけど、それは、うれしい驚きだったんだよ。好きな女の子とたくさんエッチできるなんて、男にとっては、最高なことだよ。僕は舞い上がってしまって……今だって、あのときの香織ちゃんの感触は忘れられない」
ドクンと心臓が跳ね上がる。先輩の手が、あたしの手に重なった。とても温かい。
「じゃあ……香織ちゃんの体を知っているのは、まだ、僕だけなんだね……?」
やだ、そんないい方しないで。恥ずかしくて、体中が火照って、また頭が回らなくなってくる。
「香織ちゃん。やっぱり僕たちは、やり直すべきだ。あのときのすれ違いがなければ、僕たち今でも、付き合ってたはずだよ。僕たち、心も体も相性はぴったりだった。今でも香織ちゃんがほかの男を受け入れられないのはさ、そういうことなんだよ。僕たち、今からでもあのときの続きを始められるよ。そう思わない? だって――」
先輩の手に力が入った。
「僕たち、嫌いになって別れたわけじゃない。そうでしょ?」
先輩の目はずっと穏やかに、あたしを見つめていた。あのときと同じ、包み込むような目。
嫌いになって別れたわけじゃない。
それはそうだ。むしろあたしは、先輩を好きな気持ちを一生懸命捨てようとして、諦めようとして必死だった。あのときの誤解がなかったら、あたしは今でも先輩のことが好きなままで、新條くんと付き合うことにもなってなかったのかな……?
ちゃんと、冷静に、考えなきゃいけない。なのに、先輩が目の前にいると、冷静になれない。もっとちゃんと、新條くんのことと、先輩のことを、考えなきゃ。
考えなきゃ、考えなきゃ。
そればっかり考えて、結局何も考えられなくて、料理の味もわからないまま、食事が終わった。でも、ほっとした。あとはIDカードを受け取って帰るだけだ。そうすればもう、先輩と会うこともなくなる。
レストランを出て駅に向かう。
「……あの、先輩、IDカード……」
「ああ、そうだったね。ごめんごめん」
先輩は笑って、カバンの中からあたしのカードを取り出した。
「これ、どこに落ちてたと思う?」
差し出しながら、先輩がさりげなくいう。
「え?」
受け取ろうとカードに手を伸ばした瞬間、先輩の手があたしの手首を掴んだ。
「……僕たちがキスをした、あの場所だよ」
先輩があたしの体をぐいと引き寄せて、路地裏に押し込んだ。
「……先輩! すみませんでした、こんなところまで来ていただいて」
先輩は顔を上げると、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた。
「香織ちゃん。大丈夫だよ、そっちこそ仕事はちゃんと終わったの? 急がせちゃったかな?」
先輩、相変わらず気遣ってくれて優しい。
「大丈夫です。あの、IDカード……」
「ははは、香織ちゃん、せっかちだなあ。ねえ、せっかくだから晩御飯食べて帰ろうよ。この辺、いい店ある?」
え、晩御飯? ……そんなつもりはなかったんだけど……。
「あの、いえ、晩御飯は、その……」
断る理由を探していると、先輩が困ったように笑った。
「せっかくここまで届けに来たんだからさ。ちょっとくらいは、おしゃべりさせてよ」
う……。それもそうだ。遠いところをわざわざ来てもらって、さっさと帰ってもらうのは申し訳ないかも……。
「あの……。じゃあ、本当に、ちょっとだけ……」
結局あたしは、先輩と一緒に近くのこじゃれたレストランに入った。
「……香織ちゃん、彼氏、できたんだね」
「……はい」
そう。やっとのことで、彼氏ができたんだから。もう、そっとしておいてほしい。
「そっか。……僕はまだ、香織ちゃん以上の人は見つけられてないよ」
「……」
また、胸がざわつき始める。そういうことをいって、あたしを混乱させないでほしい。あたしなんて、先輩以上の人どころか、あの一件で自分の尋常じゃないエロさに気づいて、男の人と二人きりになるのだって怖かったんだから。彼氏を見つけるどころじゃなかった。エロが暴走しないように、一生懸命自制して、そのせいで、変な妄想癖までついちゃって。……全部、あのときからだ。
「今の彼氏は、どんな人なの?」
「……優しいです。すごく優しくて、あったかくて、……あたしに、ペースを合わせてくれるような……」
いっていて、気づいてしまった。神沢先輩も、すごく優しくて、あったかくて、一緒にいると安心できるような、そんな人だった。……あたしは、新條くんに、先輩を重ねているのだろうか?
「……その人は、香織ちゃんを、満足させてくれてるの?」
「え……?」
よく意味がわからなくて、先輩の顔を見上げる。先輩は声を落としていった。
「ほら……香織ちゃん、積極的だったから」
かあっと全身が熱くなった。先輩が何をいってるのかはわかる。恥ずかしいのと同時に、怒りにも似た感情が沸き上がってきた。
「……先輩が! 先輩のせいで! あんなこといわれたから、あたしもう、怖くなっちゃって……っ、あれから、まともな恋愛なんてずっとできませんでしたっ!」
「え?」
先輩がきょとんとしてるのが、また無性に頭に来た。あたしがこんなに長い間悩んでいたというのに、当の先輩は、自分がいったことも忘れて……!
「先輩にあんなふうにいわれてっ、あたしもう、怖くて……い、今の彼とだって、怖くて、まだ……っ」
ああ、いわなくていいことまでいっちゃった。でも、先輩のあのときの一言がどれだけあたしにとって重かったのか、ちょっとはわかってほしい。
「……香織ちゃん、ごめん」
初めて、先輩が謝った。
「あのとき、僕は……驚いたけど、それは、うれしい驚きだったんだよ。好きな女の子とたくさんエッチできるなんて、男にとっては、最高なことだよ。僕は舞い上がってしまって……今だって、あのときの香織ちゃんの感触は忘れられない」
ドクンと心臓が跳ね上がる。先輩の手が、あたしの手に重なった。とても温かい。
「じゃあ……香織ちゃんの体を知っているのは、まだ、僕だけなんだね……?」
やだ、そんないい方しないで。恥ずかしくて、体中が火照って、また頭が回らなくなってくる。
「香織ちゃん。やっぱり僕たちは、やり直すべきだ。あのときのすれ違いがなければ、僕たち今でも、付き合ってたはずだよ。僕たち、心も体も相性はぴったりだった。今でも香織ちゃんがほかの男を受け入れられないのはさ、そういうことなんだよ。僕たち、今からでもあのときの続きを始められるよ。そう思わない? だって――」
先輩の手に力が入った。
「僕たち、嫌いになって別れたわけじゃない。そうでしょ?」
先輩の目はずっと穏やかに、あたしを見つめていた。あのときと同じ、包み込むような目。
嫌いになって別れたわけじゃない。
それはそうだ。むしろあたしは、先輩を好きな気持ちを一生懸命捨てようとして、諦めようとして必死だった。あのときの誤解がなかったら、あたしは今でも先輩のことが好きなままで、新條くんと付き合うことにもなってなかったのかな……?
ちゃんと、冷静に、考えなきゃいけない。なのに、先輩が目の前にいると、冷静になれない。もっとちゃんと、新條くんのことと、先輩のことを、考えなきゃ。
考えなきゃ、考えなきゃ。
そればっかり考えて、結局何も考えられなくて、料理の味もわからないまま、食事が終わった。でも、ほっとした。あとはIDカードを受け取って帰るだけだ。そうすればもう、先輩と会うこともなくなる。
レストランを出て駅に向かう。
「……あの、先輩、IDカード……」
「ああ、そうだったね。ごめんごめん」
先輩は笑って、カバンの中からあたしのカードを取り出した。
「これ、どこに落ちてたと思う?」
差し出しながら、先輩がさりげなくいう。
「え?」
受け取ろうとカードに手を伸ばした瞬間、先輩の手があたしの手首を掴んだ。
「……僕たちがキスをした、あの場所だよ」
先輩があたしの体をぐいと引き寄せて、路地裏に押し込んだ。
0
お気に入りに追加
82
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
スケートリンクでバイトしてたら大惨事を目撃した件
フルーツパフェ
大衆娯楽
比較的気温の高い今年もようやく冬らしい気候になりました。
寒くなって本格的になるのがスケートリンク場。
プロもアマチュアも関係なしに氷上を滑る女の子達ですが、なぜかスカートを履いた女の子が多い?
そんな格好していたら転んだ時に大変・・・・・・ほら、言わんこっちゃない!
スケートリンクでアルバイトをする男性の些細な日常コメディです。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
就職面接の感ドコロ!?
フルーツパフェ
大衆娯楽
今や十年前とは真逆の、売り手市場の就職活動。
学生達は賃金と休暇を貪欲に追い求め、いつ送られてくるかわからない採用辞退メールに怯えながら、それでも優秀な人材を発掘しようとしていた。
その業務ストレスのせいだろうか。
ある面接官は、女子学生達のリクルートスーツに興奮する性癖を備え、仕事のストレスから面接の現場を愉しむことに決めたのだった。
令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました
フルーツパフェ
大衆娯楽
とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。
曰く、全校生徒はパンツを履くこと。
生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?
史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる