妄想女医・藍原香織の診察室

Piggy

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恋愛編

8話【daily work】 新條 浩平:退院(藍原編)

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 はあ……。はあああ……。もう、ため息しか出ない。……仕事、行きたくないなあ。今日という今日こそ、どんな顔して岡林くんに会えばいいんだろう。あと2日。あとちょっとだったのに、こんなことになっちゃって。

 だらだらと家を出る。前、似たようなことがあったときは、たまたま新條くんと朝一緒になって、満員電車でいい具合に妄想しちゃって、気分も新たにノリノリで出勤できたのよね。でも今は、新條くんも入院中だし……。

 病院に着いて、白衣に着替える。どうしても病棟に足が向かなくて、つい新條くんの病室に向かう。確か、今日退院のはず。

「新條さーん。藍原です」

 顔をのぞかせると、新條くんはちょうど私服に着替えて荷物をまとめているところだった。

「あっ、藍原先生! 本当にお世話になりました」

 ペコペコと頭を下げてくれる。肺も膨らんで、ドレーンも抜けて、すっかり完治。

「そういえば、テスト、今週だっていってなかった?」
「あ、明日なんです。ギリギリ間に合いました」

 恥ずかしそうに頭を掻いてる。

「あの、先生に会ったら渡さなきゃと思ってたものが」

 新條くんがカバンの中から封筒を出した。

「借りてたお金です」
「あら、覚えてたの? こんなの、退院して落ち着いてからでいいのに」

 相変わらず真面目なんだから。

「あと、あの、もしかして……うちにあった梨、藍原先生が……?」
「梨? ああ、そうなのよ! そもそもあたし、実家から大量に届いた梨のおすそ分けをしに新條くんの部屋に行ったのよ。そしたら倒れてたから……すっかり忘れてたわ」
「あ、大橋が持ってきてくれたんで、いただきました。いろいろとホントすみません」

 あら、大橋くん、頼りないお調子者かと思ってたけど、意外と気が利くのね。よかったわ。

「今度改めてご挨拶に伺いますんで」
「いいのよ、そんなに改まらないで。とにかく、退院おめでとう。明日の試験、頑張ってね」

 ……会話が終わってしまった。病棟、行かなきゃ。

「……? 藍原先生?」

 あまり居座ってもおかしいわよね。覚悟を決めて、内科病棟に――

「あ、岡林先生」

 突然新條くんがあたしの後ろに視線を移す。え、岡林?
 振り向くと、すぐ後ろに岡林くんが立っていた!

「うひゃっ、な、なんで」

 思わず距離をとってしまう。ちょっと、どうしてここにいるのよ!? まだ心の準備ができてないのよ!
 岡林くんもあたしがいるとは思ってなかったみたいで、目をぱちくりさせてる。

「あ、いや俺も、今日退院らしいから様子を見に来ただけで……」

 だから、どうしてあなたがわざわざ様子を見に来るのよ!

「なんだか皆さんによくしてもらって、ホントありがとうございました」

 何も知らない新條くんは終始笑顔。結局あたしは、岡林くんとふたりで病棟に向かうことになった。
 うう、エレベータホールでふたりきりでいる間も、重苦しい沈黙が……。
 目の前に立つ、背の高い岡林くんの背中を見ていると、何だか昨夜のことを思い出して、妙な気分になってくる。はあ、一時の快楽に流されてあんないやらしいことしちゃって、何とか踏みとどまってお断りしたはずなのに、そのことを思い出してまた悶々とするなんて……あたし、どうかしてる。やっぱり淫乱なのかな。ああ、今岡林くんに振り返られでもしたら、もうきっと走って逃げるしかないわ。

 エレベータが開いた。誰も乗っていない。いやだな、岡林くんとふたりきり、密室になっちゃうじゃない。と思ったら、閉じかけたエレベータにもうひとり乗ってきてホッとする……はずが、ギョッとする。

「あら、おはよう、おふたりさん」

 入ってきたのは、西園寺先生だった。よりにもよって……。

「あら、どうしたの? いつも仲良く和気あいあいとしているおふたりが、まるで痴話喧嘩の翌日みたいな雰囲気」

 出たっ、西園寺先生の嗅覚。男女のことに関してだけはよく利くんだから。

「そ、そんなことありませんよ、ね、岡林くん?」
「……ええ、別に、何もありませんよ」

 慌てるあたしと不機嫌な岡林くんを見比べて、西園寺先生がにやりと笑った。

「なるほど。岡林、藍原先生を落とし損ねたわけだ」
「ぐふっ」

 岡林くんがむせた。それからすごい勢いで西園寺先生を睨む。

「だから! 何なんですか、あなたはいつもいつも! いい加減にしてくれませんか!」

 ああっ、とうとう岡林くんがキレたわ!

「どうしたの、藍原先生は隙だらけだっていってたじゃない。なのに落とせないなんて、遊び人の名が泣くわね」
「隙だらけなのと、本気にさせるのとは違いますよ!」
「ふふ、わざわざ内科では藍原先生ひとりに絞ったというのに、ご愁傷様ね」
「あのー……」
「まだ2日ありますっ、まだ終わってません!」
「何、あなた、昨日フラれて、あと2日で盛り返そうとしてるの? さすがのあなたでも無理でしょ」
「あのー、その話……」
「2日あればイケます、藍原先生だってまんざらじゃなかったんだから!」
「ふっ、1年目でICUナースを落としたからって、ちょっと藍原先生を舐めすぎたわね? この子の天然は伊達じゃないんだから」
「あのー、その話、あたしのいないところでしてもらえませんかね……?」

 ちょっと、さすがのあたしでも、色々と裏が見えてくるようなこないようなで、すごく気になるんですけど……。

 チーン。

 エレベータが4階に着いて、西園寺先生が先に下りた。

「あと2日経ってどうなってるか、楽しみにしてるわよ」

 手をひらひらと振って去っていく。岡林くんは、珍しく顔を真っ赤にして怒ってた。

「……ねえ、岡林くん」

 気になって、訊いてみる。

「あと2日で、あたしを落とす気なの?」
「……それ、俺に訊きます?」
「あ、えっと、ちょっと気になって……」
「そうですっていったら、落とされてくれるんですか?」
「え、いや、そういうわけじゃないけど……ほら、なんていうか、心の準備がいるっていうか……」
「落とされる心の準備ですか、それとも断る準備ですか」
「えっと、それは、その……か、考えてなかったわ」
「……何なんですか、それ」

 うわ、岡林くんが呆れた顔であたしを見てる……。バカかと思われたかしら……。
 ふいに、岡林くんの表情が緩んで、彼の腕があたしの頭を抱き寄せた。

「!? ちょ、ちょっと……!?」

 あたしが身構える前に、岡林くんがすぐに腕を離す。

「……俺、今、キスしたいのすっごい我慢しました。先生、次に隙見せたら、今度こそ抱くからね?」
「え……」
 あたしの反応を待たずに、岡林くんは病棟へと向かっていった。
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