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Sciolto 〔自由に〕
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リッキーは熱烈な歓迎を持って、真尋と香坂を迎えた。ホールに入ってすぐのロビー。いかにもヨーロッパらしい豪奢な作りの建物だ。日本とは異なる雰囲気に恐々と辺りを見回す香坂が可笑しい。
『ハーイ! 来てくれてほんとにありがとう!』
『こちらこそ、呼んでもらえて感謝している』
『やだな~マヒロ。固いよ! 僕と君との仲でしょ。日本で何かやるときはまたよろしくね』
『そういうやつだよお前は』
『で? そちらが噂の?』
借りてきた猫のようにおとなしくなっていた香坂が、話題が自分に向いたのがわかったのか戸惑うように肩を揺らした。英語はある程度ならわかると言っていたがリッキーの勢いに押されたか。以前から交流のある真尋でも時々ついていけなくなるリッキーのフランス訛りの英語だ。聞き取れなくても仕方がない。代わりに紹介しようか、と真尋に隠れるようにして立つ香坂に目を向けると、香坂は伺うように真尋をのぞき込んでいた。大きな目と視線が絡む。少し驚いて真尋が目を瞬かせると、香坂は首を軽く傾けて、一瞬何かを思案したようだった。
『あー……こんにちは、初めまして。ソウシ・コウサカです。ピアノを弾いています。今回は参加させてくれてありがとう』
『やあ! 初めまして! 会えて嬉しいよ』
まろい発音で自己紹介し終えて、真尋にちらっと視線をよこす。これでよかったのか、と問うような視線に頷いてみると、そこで初めて香坂は軽く表情を緩めた。うわ、と思った。口の中が急速に乾いていくのがわかる。うわ、なんだこれ。なんだ、こいつのこれは。思い返せば、これまで初めて会った人物には真尋から香坂を紹介することが多かった。香坂自身も積極的に自分から話そうとはしなかったからだ。だが、今、真尋は無意識に香坂自身に自己紹介を促した。昨夜の出来事が自分にこんなに影響をもたらしていたのだと、今初めて自覚した。どこかで香坂に対して対等ではなかった自分がいた。それが、今は共に並び立つパートナーであると心の底で感じて、頭で気が付かないうちに、心がそう判断した。そして何よりも、香坂がそれを感じ取っていたのだとしたら。今の視線、表情の変化。得体のしれない感情が膨れ上がってくるようで、呼吸が自然と浅くなった。
『マヒロ! 聞いてる?』
『……聞いてる』
気づけば二人が怪訝そうな顔で真尋を見ていた。何とか返事をする。会話は全く耳には届いていなかった。そんな真尋に肩をすくめてから、香坂はひらりと手を振った。
『じゃ、俺先に行くから』
『は?』
呆然と背を見送る真尋の腕をリッキーが軽く叩いた。
『どうしたのさ。心ここにあらずって感じだったけど』
『いや……なんでもない』
『ふうん?』
『香坂はどこに行ったんだ』
『やっぱり聞いてなかったんじゃないか』
呆れた顔でやれやれと首を振って、リッキーは真尋をホールの舞台裏へと誘った。
『マヒロと細かい打ち合わせするから、先にホールを見てきたらって言ったんだよ』
『あー、すまん』
『ね、あの子ってマヒロのお姫様なの?』
『どういう意味だ?』
『だって彼、オメガでしょう』
数瞬、反応が遅れた。
『……なんでそんなこと』
『僕、鼻がいいんだよね。フェロモンには敏感なの』
もう誤魔化しようがなかった。是とも否とも示さず、リッキーを静かに見返すと、彼は口調に反してひどく真面目な顔をしていた。
『パートナーなの?』
『番、という意味でなら違う』
『そう。……じゃあなぜ彼なの?』
言葉にはされなかったが、きっとそれはこう続くのだろう。「彼はオメガなのに」と。瞬間、腹の底から怒りが沸き上がるのを感じた。香坂は確かにオメガだ。しかし、それになんの意味があるのか。あいつの音楽への愛は。執着は。こうして何も知らない他人に値踏みされるようなものではないはずだ。
『あいつが世界一のピアニストだからだ』
口から形を持った言葉に、自分でも驚いた。そうか、俺は香坂のことをそう思っていたのか。でも取り消そうとも思わなかったし、言い過ぎたとも思わなかった。リッキーはそんな真尋に目を見開いて、そして困ったように笑った。
『いや、ごめん。誤解されるような言い方だったのは謝るよ……僕は別にオメガだからといって彼を蔑んだりしない。誓ってもね』
『……すまん。俺が先走った』
『ううん。君がナーバスになる理由もわかるから』
発散されていた怒りがすっと引いていく。冷静になってみれば、リッキーの柔らかい口調にはオメガを、香坂を揶揄する響きはなかったと思えた。不当な八つ当たりだったと謝れば、リッキーは真尋をじろじろと眺めた。
『マヒロはソウシのことが大切なんだね』
『……あいつの音楽はとにかくすごい。俺の欠けていたものを補ってくれる存在なんだ』
『うん。マヒロがそこまで言う彼の演奏を楽しみにしてるよ。でも、僕が言ったのはそういう意味じゃないよ』
『どういうことだ?』
『んー、あえてはっきり言うけどね、オメガって音楽やっていく中ではやっぱり厳しい条件だと思うんだよ。コンクールなんかには出られないわけだし』
『……そうだな』
『コンサートだって、オメガの出演者を僕は今まで聞いたことがないよ。マヒロは?』
『……俺もないな』
『ね? でもマヒロは彼がいいんだ。ピアノをやってて、そこそこ以上に上手いアルファもベータもたくさんいる。でもあえて彼を選んだ。そんなの彼を愛してる以上にないじゃないか』
息が止まるようだった。とっさに言葉が返せない。何度か口を開けたり、閉じたりしてやっと言葉になったのは情けないセリフだった。
『大袈裟なんだよお前は』
『そ? まあ音楽のパートナーって意味で他意はないなら彼に番が出来ても問題ないんだよね?』
『は? それはどういう』
『いやー彼のフェロモンって僕の好みなんだよね。顔も可愛いし、おまけに音楽への理解もある。ワンナイト以上狙ってみるかなー』
『何言ってんだよ』
『僕、優しいよ? 顔もいいし、稼ぎもまあそこそこある。どう? ソウシの好みかな?』
『……んなこと知るかよ』
リッキーと香坂が番になる。脳裏に楽しげに笑い合う2人の映像が浮かんだ。途端に胸が引き絞られるように痛んだ。思わず「くそっ」と呟く。失って初めて気づいた、なんてベタな話。まさか自分にも当てはまるとは。いや、まだ失ってはいないのか。でもこのままだと遅かれ早かれ香坂は誰かの番になる。そんなこと許せない。そこにおさまるのは真尋がいい、だなんて。長く、息を吐いた。落ち着け、まだ間に合う。腹を決めて、俯き加減になっていた顔をあげると、にやにや笑うリッキーがいた。全部わかっていて、してやられたと気づく。
『はー……お前なぁ……いや、なんでわかった?』
『あんなに大切ですって態度にだされたらわかるよ! ずっとソウシから目を離さないようにしてたし』
『……言うなよ、誰にも』
『はいはい。でも早くしないと、ね』
『わかってる』
『マヒロに貸し1。さ、行こう。さっさと打ち合わせ終わらせてマヒロをお姫様の所に返さなきゃね』
態度を指摘されて、真尋は渋い顔になった。人の機微に敏感なリッキーだからわかったのだと思いたい。気付かされた己の気持ちは、まだ整理がつかない。好きだから、なんてそれだけで突き進むには番という関係は重すぎる。まずは真尋が自分の覚悟を確かめなければならない。ふ、と息を吐くと、耳にピアノの音が届いた。柔らかく、跳ねるような楽しげな音。聞くものを優しく誘うような。あぁ、好きだなと思った。
『ハーイ! 来てくれてほんとにありがとう!』
『こちらこそ、呼んでもらえて感謝している』
『やだな~マヒロ。固いよ! 僕と君との仲でしょ。日本で何かやるときはまたよろしくね』
『そういうやつだよお前は』
『で? そちらが噂の?』
借りてきた猫のようにおとなしくなっていた香坂が、話題が自分に向いたのがわかったのか戸惑うように肩を揺らした。英語はある程度ならわかると言っていたがリッキーの勢いに押されたか。以前から交流のある真尋でも時々ついていけなくなるリッキーのフランス訛りの英語だ。聞き取れなくても仕方がない。代わりに紹介しようか、と真尋に隠れるようにして立つ香坂に目を向けると、香坂は伺うように真尋をのぞき込んでいた。大きな目と視線が絡む。少し驚いて真尋が目を瞬かせると、香坂は首を軽く傾けて、一瞬何かを思案したようだった。
『あー……こんにちは、初めまして。ソウシ・コウサカです。ピアノを弾いています。今回は参加させてくれてありがとう』
『やあ! 初めまして! 会えて嬉しいよ』
まろい発音で自己紹介し終えて、真尋にちらっと視線をよこす。これでよかったのか、と問うような視線に頷いてみると、そこで初めて香坂は軽く表情を緩めた。うわ、と思った。口の中が急速に乾いていくのがわかる。うわ、なんだこれ。なんだ、こいつのこれは。思い返せば、これまで初めて会った人物には真尋から香坂を紹介することが多かった。香坂自身も積極的に自分から話そうとはしなかったからだ。だが、今、真尋は無意識に香坂自身に自己紹介を促した。昨夜の出来事が自分にこんなに影響をもたらしていたのだと、今初めて自覚した。どこかで香坂に対して対等ではなかった自分がいた。それが、今は共に並び立つパートナーであると心の底で感じて、頭で気が付かないうちに、心がそう判断した。そして何よりも、香坂がそれを感じ取っていたのだとしたら。今の視線、表情の変化。得体のしれない感情が膨れ上がってくるようで、呼吸が自然と浅くなった。
『マヒロ! 聞いてる?』
『……聞いてる』
気づけば二人が怪訝そうな顔で真尋を見ていた。何とか返事をする。会話は全く耳には届いていなかった。そんな真尋に肩をすくめてから、香坂はひらりと手を振った。
『じゃ、俺先に行くから』
『は?』
呆然と背を見送る真尋の腕をリッキーが軽く叩いた。
『どうしたのさ。心ここにあらずって感じだったけど』
『いや……なんでもない』
『ふうん?』
『香坂はどこに行ったんだ』
『やっぱり聞いてなかったんじゃないか』
呆れた顔でやれやれと首を振って、リッキーは真尋をホールの舞台裏へと誘った。
『マヒロと細かい打ち合わせするから、先にホールを見てきたらって言ったんだよ』
『あー、すまん』
『ね、あの子ってマヒロのお姫様なの?』
『どういう意味だ?』
『だって彼、オメガでしょう』
数瞬、反応が遅れた。
『……なんでそんなこと』
『僕、鼻がいいんだよね。フェロモンには敏感なの』
もう誤魔化しようがなかった。是とも否とも示さず、リッキーを静かに見返すと、彼は口調に反してひどく真面目な顔をしていた。
『パートナーなの?』
『番、という意味でなら違う』
『そう。……じゃあなぜ彼なの?』
言葉にはされなかったが、きっとそれはこう続くのだろう。「彼はオメガなのに」と。瞬間、腹の底から怒りが沸き上がるのを感じた。香坂は確かにオメガだ。しかし、それになんの意味があるのか。あいつの音楽への愛は。執着は。こうして何も知らない他人に値踏みされるようなものではないはずだ。
『あいつが世界一のピアニストだからだ』
口から形を持った言葉に、自分でも驚いた。そうか、俺は香坂のことをそう思っていたのか。でも取り消そうとも思わなかったし、言い過ぎたとも思わなかった。リッキーはそんな真尋に目を見開いて、そして困ったように笑った。
『いや、ごめん。誤解されるような言い方だったのは謝るよ……僕は別にオメガだからといって彼を蔑んだりしない。誓ってもね』
『……すまん。俺が先走った』
『ううん。君がナーバスになる理由もわかるから』
発散されていた怒りがすっと引いていく。冷静になってみれば、リッキーの柔らかい口調にはオメガを、香坂を揶揄する響きはなかったと思えた。不当な八つ当たりだったと謝れば、リッキーは真尋をじろじろと眺めた。
『マヒロはソウシのことが大切なんだね』
『……あいつの音楽はとにかくすごい。俺の欠けていたものを補ってくれる存在なんだ』
『うん。マヒロがそこまで言う彼の演奏を楽しみにしてるよ。でも、僕が言ったのはそういう意味じゃないよ』
『どういうことだ?』
『んー、あえてはっきり言うけどね、オメガって音楽やっていく中ではやっぱり厳しい条件だと思うんだよ。コンクールなんかには出られないわけだし』
『……そうだな』
『コンサートだって、オメガの出演者を僕は今まで聞いたことがないよ。マヒロは?』
『……俺もないな』
『ね? でもマヒロは彼がいいんだ。ピアノをやってて、そこそこ以上に上手いアルファもベータもたくさんいる。でもあえて彼を選んだ。そんなの彼を愛してる以上にないじゃないか』
息が止まるようだった。とっさに言葉が返せない。何度か口を開けたり、閉じたりしてやっと言葉になったのは情けないセリフだった。
『大袈裟なんだよお前は』
『そ? まあ音楽のパートナーって意味で他意はないなら彼に番が出来ても問題ないんだよね?』
『は? それはどういう』
『いやー彼のフェロモンって僕の好みなんだよね。顔も可愛いし、おまけに音楽への理解もある。ワンナイト以上狙ってみるかなー』
『何言ってんだよ』
『僕、優しいよ? 顔もいいし、稼ぎもまあそこそこある。どう? ソウシの好みかな?』
『……んなこと知るかよ』
リッキーと香坂が番になる。脳裏に楽しげに笑い合う2人の映像が浮かんだ。途端に胸が引き絞られるように痛んだ。思わず「くそっ」と呟く。失って初めて気づいた、なんてベタな話。まさか自分にも当てはまるとは。いや、まだ失ってはいないのか。でもこのままだと遅かれ早かれ香坂は誰かの番になる。そんなこと許せない。そこにおさまるのは真尋がいい、だなんて。長く、息を吐いた。落ち着け、まだ間に合う。腹を決めて、俯き加減になっていた顔をあげると、にやにや笑うリッキーがいた。全部わかっていて、してやられたと気づく。
『はー……お前なぁ……いや、なんでわかった?』
『あんなに大切ですって態度にだされたらわかるよ! ずっとソウシから目を離さないようにしてたし』
『……言うなよ、誰にも』
『はいはい。でも早くしないと、ね』
『わかってる』
『マヒロに貸し1。さ、行こう。さっさと打ち合わせ終わらせてマヒロをお姫様の所に返さなきゃね』
態度を指摘されて、真尋は渋い顔になった。人の機微に敏感なリッキーだからわかったのだと思いたい。気付かされた己の気持ちは、まだ整理がつかない。好きだから、なんてそれだけで突き進むには番という関係は重すぎる。まずは真尋が自分の覚悟を確かめなければならない。ふ、と息を吐くと、耳にピアノの音が届いた。柔らかく、跳ねるような楽しげな音。聞くものを優しく誘うような。あぁ、好きだなと思った。
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