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Sciolto 〔自由に〕

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演奏会が終わった後、真尋たちは観客の間で大きな話題となっていたらしい。それを裏付けるように俺の元には演奏依頼が続々と舞い込んだ。

でも、と真尋はあの日を思い返す。あれから、もういくつかの演奏会をこなしたが、いまだにあの日のことを思い出すと静かな興奮が体を巡る。

あいつのテクニックや表現は観客を引き込み、存分に惹きつけた。それに引っ張られて真尋自身の演奏もよいものになっていった。そして、何よりも楽しかった。あんなにも舞台が楽しいと思ったのは生まれて初めてのことだった。降りたくないと、まだここに立っていたいと、そんな思いが演奏を更に加速させて、気づいたら世界には自分と、香坂しかいなかった。

舞台を降りた後、自分が何を口走ろうとしているのかも自覚せぬまま、とにかく何かを伝えねばと香坂の腕を強く掴んだ。しかし、興奮状態にある真尋とは裏腹に香坂は不満げに口を尖らせて言った。

「もっと練習しなきゃなー」

はっ、と息が止まった。反省点を次々に挙げる香坂の目はギラギラと鋭かった。ああ、こいつにとって今日の演奏はまだ通過点に過ぎないのだ。舞台の上で、こいつの演奏は完全に俺を食った。それなのにまだ満足しない。香坂に出会ったときの感覚はやはり、正しかったのだと確信した。こいつはバケモノだ。
 
香坂の演奏は舞台を重ねるごとに凄みを増した。これまで満足に鍵盤に触れられていなかったところから、毎日存分にピアノを弾く生活に変わったことによって、不十分だったテクニックが持ち前の表現力に追いついてきた。できることが広がって、ますますその香坂の音は威力を持って聞くものに襲い掛かった。やつの演奏はまさに「襲い掛かる」という形容が正しい。耳に届けば必ず聞かせる。意識の外で聞き流すことを許さない。そんな観客の反応を見るたびに真尋は満足感と焦燥感を同時に感じる。どうだ、俺が見出した才能だ。すごいだろう、という見せびらかしたいような満足感。しかし焦燥感の正体は未だ、わからぬままだ。香坂の演奏についていけないと焦っているわけではない。反対に自分の演奏もよくなってきているという自覚があった。真尋の演奏に欠けていたものに手が届きそうだという感覚もある。しかし、心のどこかで焦りが消えない。自分の感情が何に向かっているのかわからないなんて、初めてのことだ。

そんな折だった。
ヨーロッパはフランス。知り合いのバイオリニストから声がかかった。新気鋭の演奏家たちを集めて大規模なコンサートを開くのだが、マヒロも来てくれないか。ソロでもいいが、ぜひ話題のユニットで参加してくれればうれしい。そんな依頼だった。来た、と思った。ここが次へのステップアップのポイントになると確信があった。
何せ各国から有名な演奏家たちが集まるコンサートだ。これに参加するだけでも名前が売れるし、箔が付く。加えて自分たちがこの面子の中にあっても埋もれない自信はあった。
 
「香坂、お前パスポートは持ってるか?」

「は? パスポート? なんで?」

「演奏依頼だ。海外でのな」
 
いつも通り真尋の家にピアノを弾きにきていた香坂は、パスポートという単語にきょとんと眼を瞬かせた。

「…海外? まじで?」

「ああ。リッキー・マディソンって知ってるか?」

「知ってるも何も、超有名じゃん。イケメン演奏家で」

「…まあ、間違ってはいないが」

リッキー・マディソン。ヨーロッパをメインに活動する若手のヴァイオリニストだ。胡散臭く見えるほどの柔らかい人当たりと、甘く整った顔立ち、そして確かな実力を武器に業界でも地位を確立しつつある。ヴァイオリンの貴公子、などどいう二つ名でテレビで紹介されていたのはさすがに笑ったが。歳も近く、コンクールやコンサートで一緒になったことも多々あることから、リッキーと真尋は友人といって差し支えない程度の交流を持っている。

「そのリッキーから依頼がきた。若手ばかりを集めてコンサートを開くらしい。他の面子を聞いたが、世界的にも今話題の演奏家ばかりだった」

「それって…かなりやばくない?」

「今までにないくらいデカい依頼だな」

「うわーお。やばいじゃん」

「というわけで、お前パスポートは?」

「そんなものあると思う?」

「明日にでも作りに行け」

「はーい。あ、でも待って」

「あ?」

「オメガってパスポート作れるのかな」

返す言葉に迷って、真尋は軽く口の中を噛んだ。香坂の生い立ちに関する話題は、いつも真尋を動揺させる。トランクケースを買うのでさえ初めてだと騒いでいた姿をふと思い出す。時折、香坂がもらすオメガの不遇。それを聞くたびに真尋の胸は鈍く痛んだ。香坂はそれがさも当たり前であるかのように話す。だが、そんな“当たり前”を真尋はこれまで知らなかった。アルファである自分が優遇されてきた、その正反対にいる香坂。覚悟も無しに踏み込んではいけない領域であると感じる。でも同時に踏み込めないもどかしさが募る。単純な話、真尋は香坂に言いたいのだ。頼むから自分を卑下しないでくれ、お前はそんな存在ではないのだからと。内心で複雑な気持ちを抱える真尋に、香坂はあっけらかんと続けた。

「あ、あと俺明日からしばらく来れないから」

「は? なんでだよ」

「発情期。しばらくこもるから」

「…わかった」

ユニットを組んでから初めて、香坂が1週間来なくなった時。3日数えて、それでも姿を現さず、メッセージも返ってこない。どこかで倒れているのではないかと心配になって真尋が鬼電をかましてから、香坂は律儀に休みとその理由を予告してくるようになった。確かに発情期であるとわざわざ俺に言うのは変かもしれないが、かといって何も言わずに1週間も消えるなと怒る真尋に、香坂はなぜだか嬉しそうに笑って、余計に真尋の怒りに火を注いだ。そうして、真尋の心配の種は一つ減ったが、代わりにそれは消化しきれない感情を同時にもたらした。発情期終わりの香坂からは毎回違ったアルファのフェロモンが香る。これが真尋の癇に障るのだ。発情期明けに会う時は、真尋の機嫌が悪いのを香坂も察していて、普段より広く距離をとっている気がする。その理由を香坂がどう思っているかはわからない。それさえも真尋を刺激する。自分のものに手をつけられたようで、ひどく不快なのだ。

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