上 下
5 / 24
Fervente 〔熱烈に〕

5

しおりを挟む
あのバーに行ったのは本当に偶然だった。
夏から秋に移り変わる夜。
行き詰まってふらふらと出歩いていたところに出くわしたその音楽は、まるで脳天をぶん殴られたような衝撃だったのだ。

こいつがいれば俺の演奏は変わるかもしれない。
欠けているパーツが見つかるかもしれない。
そいつのことなんて何も知らないくせに、そう思った。

自分が並の演奏家ではないことは、さすがに自覚している。国際コンクールで2位。確かな実績だ。それでも俺はずっと自分の音楽を探し続けていた。何かが欠けている。そう思えてならないのだ。コンクールの後に審査員と話した時に言われた言葉がずっと頭の中に居座っている。「君の演奏はまるで額縁に入っているように綺麗だ」と。お前は「額縁から出られない、型に嵌まった音楽だ」と言われているように聞こえた。
そんな中、香坂奏始に出会った。体の芯から揺さぶられるような音楽に、これだと思った。額縁から飛び出すのにはこいつが必要だと。



香坂を初めて家に呼んだ日。自分の相棒になる予定の男があまりに嬉しそうにピアノに触れるものだから、真尋は合鍵を渡すことにした。カードキーを怖怖と受け取った香坂は神妙な顔つきでこう宣った。

「お前、素性もしれないΩにこんなもの渡していいの?」

「じゃあ返してもらうか?」

まるで恐ろしいものかのように、カードキーを指先で摘まんでいる姿に、少し意地悪くそう聞けば、香坂はうっと言葉に詰まってそろそろとカードキーを庇うように自分の方に引き寄せた。真尋には何やら分からない葛藤と、ピアノが自由に弾けるということを天秤にかけた結果、ピアノを取ったらしい。
学校の音楽室にバー。古びたピアノで育った香坂は、真尋の家のグランドピアノにいたく感動していた。

「音が綺麗……」

「一応調律は定期的に入れてる」

「最高に耳が気持ちいい」

先程渡したカードキーはもうそこらに放り出されている。うっとりとした表情で鍵盤に指を滑らせている香坂を笑っていいものか、慰めるべきか少し迷ってしまった。αである自分が言うのもなんだが、世間的にΩの扱いは良いものではない。断片的な話から、というか自己申告の「ドブ育ち」から察するに、香坂が育ってきた環境も楽なものではなかったのだろう。しかし、だからこそ香坂の持つ才能は生半可な物ではない。今だってそうだ。さらりと弾き始めた曲は「アイ・ガット・リズム」。情感たっぷりにいかにも楽しそうに弾く香坂に唇が緩む。香坂の演奏には色どころか、まるで匂いや感触までついているように思えた。初めて演奏を聞いた日の直感は間違っていないと確信する。

「ちょっと目瞑れ」

「は? なんで?」

「いいから。聞こえたら答えろよ」

演奏を終えて余韻に浸る香坂に少し試してみる。適当に一音鳴らして「なんの音に聞こえた?」と聞くと正確な答えが返ってきた。和音にしても正解。日常的にピアノに触れられない環境でこれだけ弾けているのだ。音感が良いのは予想できていが、どれだけ音を増やしても正解を叩き出したのはさすがに想像以上だった。試しにピアノではなく、そこらをコツコツと叩いてみても迷うことなく正解が返ってくる。絶対音感は間違いない。しかも超高レベルの。

「お前、相当耳がいいんだな。生活音も音階に聞こえてる質か?」

「んー、まあそうかも。あんま意識してなかったなぁ」

「絶対音感持ってると日常生活が煩いって言うやつも多いんだけどな」

「……あー、いや。音はちゃんと聞こえてるかな、思い返してみれば。ただほんとに意識してなかったというか……違うか、ずっと音楽のこと考えてるからうるさいとも思わなかった、のかな?」

呆れればいいのか、感嘆すればいいのか分からない。こいつの音楽への執着とも呼ぶべきものは一体なんなんだ。鼻歌混じりに鍵盤を一つ一つ押しながら、香坂が横に立つ俺を振り仰ぐ。

「お前は?」

「え? あぁ、俺もお前ほどのものじゃないけど一応音感はあるつもりだ」

「いや、そうじゃなくて」

見下ろした香坂の目は真尋の顔を映している。こうして見ると、恐ろしいくらいに整った顔立ちをしているのだとふと思った。口紅を引いたかのような薄い唇に、通った鼻筋。白い頬。長いまつげに、猫のような二重の大きな目。表情を失くせば人間味のない精巧さだ。

「お前もずっと音楽のこと考えてるだろ?」

さも当たり前かのように言う香坂に思わずごくりとつばを飲んだ。こいつと組んだのは悪魔との契約だったのかもしれない。香坂は機嫌良さげにピアノに向き直って、また自由に音を奏でる。先程の威圧感は跡形もなく霧散した。
まるで人形が音楽を得て人間になったみたいだ。

「……音を食って生きてるのか、お前は」

「はは、なんだそれ。でもそうかも。ピアノ弾けないなら多分生きてらんないよ俺」

平然と笑う香坂に今度こそ俺は顔を顰めた。
香坂は真尋を傲慢だと言った。初対面のときに強引に誘ったことを指しているのだろう。音楽のためならなんでもやると非難する。そっくりそのまま言い返してやりたい。こいつこそ、音楽に関わることならどこまでもやる傲慢な演奏家だ。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

キンモクセイは夏の記憶とともに

広崎之斗
BL
弟みたいで好きだった年下αに、外堀を埋められてしまい意を決して番になるまでの物語。 小山悠人は大学入学を機に上京し、それから実家には帰っていなかった。 田舎故にΩであることに対する風当たりに我慢できなかったからだ。 そして10年の月日が流れたある日、年下で幼なじみの六條純一が突然悠人の前に現われる。 純一はずっと好きだったと告白し、10年越しの想いを伝える。 しかし純一はαであり、立派に仕事もしていて、なにより見た目だって良い。 「俺になんてもったいない!」 素直になれない年下Ωと、執着系年下αを取り巻く人達との、ハッピーエンドまでの物語。 性描写のある話は【※】をつけていきます。

【完結】幼馴染から離れたい。

June
BL
隣に立つのは運命の番なんだ。 βの谷口優希にはαである幼馴染の伊賀崎朔がいる。だが、ある日の出来事をきっかけに、幼馴染以上に大切な存在だったのだと気づいてしまう。 番外編 伊賀崎朔視点もあります。 (12月:改正版)

夢見がちオメガ姫の理想のアルファ王子

葉薊【ハアザミ】
BL
四方木 聖(よもぎ ひじり)はちょっぴり夢見がちな乙女男子。 幼少の頃は父母のような理想の家庭を築くのが夢だったが、自分が理想のオメガから程遠いと知って断念する。 一方で、かつてはオメガだと信じて疑わなかった幼馴染の嘉瀬 冬治(かせ とうじ)は聖理想のアルファへと成長を遂げていた。 やがて冬治への恋心を自覚する聖だが、理想のオメガからは程遠い自分ではふさわしくないという思い込みに苛まれる。 ※ちょっぴりサブカプあり。全てアルファ×オメガです。

この噛み痕は、無効。

ことわ子
BL
執着強めのαで高校一年生の茜トキ×αアレルギーのβで高校三年生の品野千秋 α、β、Ωの三つの性が存在する現代で、品野千秋(しなのちあき)は一番人口が多いとされる平凡なβで、これまた平凡な高校三年生として暮らしていた。 いや、正しくは"平凡に暮らしたい"高校生として、自らを『αアレルギー』と自称するほど日々αを憎みながら生活していた。 千秋がαアレルギーになったのは幼少期のトラウマが原因だった。その時から千秋はαに対し強い拒否反応を示すようになり、わざわざαのいない高校へ進学するなど、徹底してαを避け続けた。 そんなある日、千秋は体育の授業中に熱中症で倒れてしまう。保健室で目を覚ますと、そこには親友の向田翔(むこうだかける)ともう一人、初めて見る下級生の男がいた。 その男と、トラウマの原因となった人物の顔が重なり千秋は混乱するが、男は千秋の混乱をよそに急に距離を詰めてくる。 「やっと見つけた」 男は誰もが見惚れる顔でそう言った。

家事代行サービスにdomの溺愛は必要ありません!

灯璃
BL
家事代行サービスで働く鏑木(かぶらぎ) 慧(けい)はある日、高級マンションの一室に仕事に向かった。だが、住人の男性は入る事すら拒否し、何故かなかなか中に入れてくれない。 何度かの押し問答の後、なんとか慧は中に入れてもらえる事になった。だが、男性からは冷たくオレの部屋には入るなと言われてしまう。 仕方ないと気にせず仕事をし、気が重いまま次の日も訪れると、昨日とは打って変わって男性、秋水(しゅうすい) 龍士郎(りゅうしろう)は慧の料理を褒めた。 思ったより悪い人ではないのかもと慧が思った時、彼がdom、支配する側の人間だという事に気づいてしまう。subである慧は彼と一定の距離を置こうとするがーー。 みたいな、ゆるいdom/subユニバース。ふんわり過ぎてdom/subユニバースにする必要あったのかとか疑問に思ってはいけない。 ※完結しました!ありがとうございました!

【完結】遍く、歪んだ花たちに。

古都まとい
BL
職場の部下 和泉周(いずみしゅう)は、はっきり言って根暗でオタクっぽい。目にかかる長い前髪に、覇気のない視線を隠す黒縁眼鏡。仕事ぶりは可もなく不可もなく。そう、凡人の中の凡人である。 和泉の直属の上司である村谷(むらや)はある日、ひょんなことから繁華街のホストクラブへと連れて行かれてしまう。そこで出会ったNo.1ホスト天音(あまね)には、どこか和泉の面影があって――。 「先輩、僕のこと何も知っちゃいないくせに」 No.1ホスト部下×堅物上司の現代BL。

Ωの不幸は蜜の味

grotta
BL
俺はΩだけどαとつがいになることが出来ない。うなじに火傷を負ってフェロモン受容機能が損なわれたから噛まれてもつがいになれないのだ――。 Ωの川西望はこれまで不幸な恋ばかりしてきた。 そんな自分でも良いと言ってくれた相手と結婚することになるも、直前で婚約は破棄される。 何もかも諦めかけた時、望に同居を持ちかけてきたのはマンションのオーナーである北条雪哉だった。 6千文字程度のショートショート。 思いついてダダっと書いたので設定ゆるいです。

両片思いのI LOVE YOU

大波小波
BL
 相沢 瑠衣(あいざわ るい)は、18歳のオメガ少年だ。  両親に家を追い出され、バイトを掛け持ちしながら毎日を何とか暮らしている。  そんなある日、大学生のアルファ青年・楠 寿士(くすのき ひさし)と出会う。  洋菓子店でミニスカサンタのコスプレで頑張っていた瑠衣から、売れ残りのクリスマスケーキを全部買ってくれた寿士。  お礼に彼のマンションまでケーキを運ぶ瑠衣だが、そのまま寿士と関係を持ってしまった。  富豪の御曹司である寿士は、一ヶ月100万円で愛人にならないか、と瑠衣に持ち掛ける。  少々性格に難ありの寿士なのだが、金銭に苦労している瑠衣は、ついつい応じてしまった……。

処理中です...